Archive for 11月, 2010

連載⑰: 『じねん 傘寿の祭り』  二、ふれんち・とーすと (4)

二、ふれんち・とーすと ④

物件があるビルは国際通りに面してはいない。面したビルの後方にドンと凹んだビルだった。だから、ビルの入口は、国際通りに直角に交差する路地に在る。若者や観光客向けの派手な四階建てのビルだった。平日とはいえ、そして昼食時だとはいえ、ビル内は人が疎らだった。それだけで判断はできない。夜や休日、観光シーズン、全てを観察しないことには・・・。ビルには、CDショップ、若者向けのファッション店、ジーンズ店、女性下着店、安物のアクセサリー店、化粧品店などがあったが、各フロアに空店舗が目立つ。                                                                                                                黒川が案内した「物件」は、四階の隅に在った。四階には特に空店舗が多く、半分くらいしか稼動していない。空店舗の中から、この物件を選択した理由が分からない。                                                                                                                                           黒川の取扱い商品、顧客の層、長時間話し込み店主と意気投合してじっくり吟味して買う…そういう商いのカタチに絶対合わない。この場所はそれらの要素からはむしろ敬遠される派手さ・喧騒・軽薄さに溢れている。                                                                                                                                                                   「どうして、この場所このビルこの区画なんですか?」                                                                                        「フフフン、見てみなさい。他は全部フロアの中央部だろう、四面がオープンだ。従って、高価な品を管理するのに大変だ。その点、これは後ろが壁、三角形だから通路に面しているのは一面。管理し易いじゃないか」                                                                                                             「物件」は売場通路に沿って斜めになった区画だ。ビル自体が、土地の関係で一面が斜めになっている。通路配置を考慮したレイアウトの結果、斜め構造の一面は各フロアとも同じ区画割に違いない。バックが躯体壁面、右側が三角形の鋭角の頂点、左がトイレへ通じる通路を仕切る壁面だった。バックの壁が約十八M、左の壁面が約六M。五十四㎡、約十七坪。広い。                                                                                                                                                   営業時間はどうなのか、商品管理も何もそもそも誰が店に常駐するのか? 黒川から聞いていた話では「百貨店の催事、沖縄各地の展示会に向けた営業、成約時の準備、全国の陶芸家・画家・版画家などの確保と品物の収集、その開梱作業、終了した後の品物の荷造り、その返送、金銭管理・集計と目が回るほど忙しいんだよ」だった。その忙しさが話半分いや四分の一であっても、ユウくんとの日常生活から判断しても、ニトロを離せない健康状態からしても、黒川は連日遅くまで店に居ることは出来まい。ならば、ギャラリー・ショップの常駐は誰がするのか?まさか俺が? それは聞いていないし、無理だ。商品知識も無い、ずっとここに居るわけでもない。                                                                                                                                                         「ここは、若者向けのファッション・ビルです。焼物陶芸や絵画版画のギャラリーとしてはどうでしょうか? それなりに金もある、陶芸品に興味がある、黒川さんを支援したい、そういう人が来ますかね? ぼくは、ここは違うと思いますよ。大阪で構えていたような場所がいいんじゃないですか?」                                                                                                                                                                 「そんなことはない。第一、家賃がタダなんだ。ぼくの構想から言えばこんないい条件は二度とないよ。それにすでに契約している。三日前契約は済ませたんだ。今日、手付金を払うんだ」

 黒川が勇んでビルの事務所へ向かうので、付いて行くしかない。黒川は何度か面識があるのか担当者と親しく挨拶を交わし、早々と手付金一〇万円を渡してしまった。重要事項説明も三日前に受けているのだ。                                                                                                                                                                      こういうことだった。家賃無料というのは売上の出来高制ということで、単に固定ではないという意味だった。もちろん、最低家賃は設定されている。裕一郎は、無期懲役というのは終身刑ではなく期間を定めない刑である、そんなことを思い浮かべていた。                                                                       

                                                                   

連載⑯: 『じねん 傘寿の祭り』  二、 ふれんち・とーすと (3)

二、ふれんち・とーすと ③

 黒川が「物件を案内しようか?」と乗り込んだ助手席で、右だ左だ真直ぐだと指示を出す。園へ来るとき走った道だ。                                                                                                                               「来るときに走った道ですね」                                                                                                                                          「分かるのかね、勘がいいねえ。さすがドライバーだ。この道はひろしがバスで通る道じゃないんだ。ひろしが使っている路線はまわり道をしやがる。うちから園に行くには、本来この道が正しい道なのだ。」                                                                                                                                                                                                                                                                 正しいとは黒川らしい言い分だが、まわり道の側にも言い分はあるだろう。公共機関や商店街、住居密集地を通れば、結果としてまわり道になるのだろう。今走っている道の両側には、それらしき気配は無かった。                                                                                                                                                                                        ユウくんのバス通園は、自宅最寄のバス停から園直近のバス停へという路線を選択している。それはこの道ではなくグルリと遠回りとなる路線だ。バスに乗っている時間は五〇分近くにもなるという。遠まわりにならない路線、つまり今走っている道、それは園側のバス停が園から一キロも離れた所にある。黒川は迷ったが、その一キロの道の危険を考え乗車時間五〇分近いまわり道になる路線を選択したという。バス停から園までの一キロの危険は、道が狭く、車とすれ違いう際の危険、特に雨の日の傘による危険と、同じく雨の日に車がハネ上げるドロ水だと言う。選択した路線のバス停は園の目の前だ。なるほど、選択は賢明だ。

 黒川の懸念を余所に、ユウくんはバス通園を楽しんでいた。交通機関に乗るのが大好きなのだ。裕一郎も昔、祖母が住む父親の実家へ向かう時に乗る、大阪梅田から近鉄上六までのタクシー乗車を楽しみにしていた。そこへ行ったところで、小遣い銭にありつける以外楽しいことが待っている訳ではない老人の住まいになど行きたがらない幼児を、父母はそのタクシー乗車を餌にして連れ出していた。孫を連れて行かないことには、親たちも間が持たなかったのだと今では理解できる。                                                                                                                                                    ともかくユウくんは長時間のバス通園を嫌がらなかった。ユウくんは苦にしないどころか、バスに乗っている時間が長ければ長いほど有り難いとさえ思っていたようだった。そのもっとも大きな理由に黒川が気付くのは、裕一郎が去る真夏になってからだ。                                                                                                                                                             ユウくんも男なのだ。人の行動決定理由には、自覚せざる様々な要因が介在している。学者でも、聖人でも、高名な作家でも、それは変わらない。自分自身にもそれはある。黒川さん、あなたはどうです?

 国際通りの裏手の駐車場に車を停めた。通りで沖縄そばとジューシー半ライスにゴーヤチャンプルの小盛りが付いたサービス・ランチを食べた。代金を払おうとすると、黒川が「朝夕は条件に入っているが、昼飯は当然自前だね。まぁワリカンにしておくか」と言う。そうなのか?と思ったが、意地で「今日はぼくが出しましょう。よろしく料です」と二人分千六百円出した。黒川は「そうかね。では遠慮なくいただいとくよ」と爪楊枝を銜えて悠然と先に出て行った。                                                                                                                                                           店を出た黒川が国際通りをスイスイ歩いて行く。                                                                                                                                                                                   「物件を探すんですよね?」背中に声掛けすると、歩を止めて振り向いて言う。                                                                                                                                    「任せなさい。黙ってついて来なさい。君が来る前に素晴らしい物件をすでに契約しているんだ」                                                                                                                           契約? 気になるが間もなく真相が分かると思って無言でいた。                                                       「裕一郎君、驚くなよ! 何と家賃はタダなんだよ、スゴイだろう」                                                          「タダ? 信じないとは言いませんが、他に条件があるでしょう何か。ほんとうにタダなんですか、有り得ないことです。」                                                                           「売上の一〇%ということだ。売上げが全くなきゃ、タダだろう? まあ、ついて来なさい。もうそこだよ」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

連載⑮: 『じねん 傘寿の祭り』  二、ふれんち・とーすと (2)

二、ふれんち・とーすと ②

翌朝、先に目が覚てめすぐに台所に下りた。冷蔵庫を漁ると、野菜室にネギ・キャベツ・レモンなどがある。ソーセージ・未開封のハムがあり、ドアに購入日シールを貼った玉子がある。昨夜黒川が「パン食だ」と言ったので、パンに合うものをと思い、スクランブル・エッグとソーセージ炒めとサラダを作ろうとキャベツを刻んでいると、ユウくんがやって来た。「朝にごはん作るの?」と訊く。ん?                                                                                                                                                                        裕一郎が作ったサラダには、スクランブル・エッグを変更して用意した薄焼き玉子を細く切って混ぜてある。オイルとレモンに塩・コショー、隠し味に味醂と醤油を半サジ加え作ったドレッシングを、黒川は絶賛してくれた。                                                                                                                                                                                                                                      三人で食べ始めて、キャベツを切っている姿を見ただけでユウくんが「朝ごはん作るの?」と訊いて来た理由が判った。「朝はパン食だ」と言うのは「パンだけだ」という意味だったのだ。普段はパンにジャムまたはバター、ときに「漬物」を挟んで喰うという。調理作業が、たとえ刻むだけでもあれば、それは「ごはん」を「作る」時なのだ。なるほど・・・。

近くのバス停まで一人で行けるユウくんを送り出すと、黒川が「北嶋君、ついてきなさい」と着替え始めた。                                                                                           ギャラリー候補物件を回るにも、百貨店や同業者を訪ねるにも、車が要る。黒川はバスを乗り継いでそれをしていた。北嶋君が来た以上は車確保だな、というわけでレンタカー屋に向かった。どんな車であろうが、この際安いものにこしたことはない。しかも、沖縄の狭い生活道路・・・、だから軽であるべきだ。しかも最新の割高のものは不要、旧型で充分。が、黒川は車のデザインに凝って、ああだこうだと言い始める。反論すると挙句に言った。                                                                                                                                                                                  「金を出すのは君じゃないんだ」                                                                                                                                                  「いえ誰が出そうが無駄なものは無駄なんです」                                                                                                                                           少々険悪な空気が流れたが、軽の旧式のものを月極めで契約して事なきを得た。早速、事前の話の通り候補物件を見て回るのかと思いきや、「ひろしにが通う園を案内しておく」と来た。車のデザインに拘っていたのはこれだったのか・・・。ユウくんが通う「ひかり園」へ向かった。                                                                                                                                                          園ではちょうど園自家製のパンを袋詰めしているところで、黒川は作業室で通所者といっしょに作業していた指導員を呼び出した。                                                                                                                                                                        「ぼくのビジネスの右腕となる大阪から来た北嶋君だ。雨の日だとか帰宅が急がれる場合には、ここへも車で走って来ることになる。まあ、よろしく」                                                                                                                                                           いや、やってもいいがユウくんの送迎など聞いてないぞ。                                                                                                                                                                                                            パンは、役所ロビーの常設店で販売したり、役所の職員が一定量買ってくれるという。指導員が、園を案内してくれた。指導員が苦笑を堪えているように見えた。真新しい行き届いた園で、ユウくんも生き生きと作業している。三十分で退散した。園の駐車場へ歩くと、作業が一段落したのか指導員が気を利かせ促してくれたのか、ユウくんが追ってきた。正午近い太陽が真上に輝いている。                                                                                                                             「これ、うちの車?」                                                                                                                                     「そうだよ。これからは、北嶋さんがときどき送ってくれるぞ。嬉しいねぇ~」                                                                                                               「ぼくは、バスがいいよ」                                                                                                                 意外な反応だった。黒川がキョトンとしている。                                                                                       ユウくんの言葉に、幼き者が時に発揮する遠慮がちな気遣いだけではない、別の意志が感じ取れた。ユウくんの口調がハッキリしていたからだ。                                                                                                                         だが、裕一郎はそれが何なのか掴めたわけではなかった。                                                                                                                                                                                

 

連載⑭: 『じねん 傘寿の祭り』  二、ふれんち・とーすと (1)

二、ふれんち・とーすと ①

 頬にまだ生クリームが付いているユウくんが、冷蔵庫からグレープ・フルーツ・ジュースを出そうとして言う。                                                                                                                                                                                                                                                   「あっ、まだ、もうひとつ別のケーキがあるヨ」                                                                                                                                        カンケイ会から、帰宅したユウくんの第一声だった。                                                                                                           近くの食堂、親子が頻繁に行っているらしい民芸店兼喫茶店兼レストランである黒川が言う「食堂」で、歓迎会は行なわれた。黒川に言わせれば「親しげに世話を焼いて来るんだよ。外で喰う時は行ってやらにゃあね」であるその「食堂」は、黒川家から徒歩三分だ。                                                                                                                                                                                                                                     「食堂」が最後に出してくれたケーキを頬張りながらユウくんが、黒川がトイレに立ったとき教えてくれていた。週に四~五度はここで夕食を摂ること。黒川の帰宅が遅い時は、閉店時刻まで独りでここで待つこともあること。そんな時は店のオバサンがケーキを出してくれること。だから、黒川の帰宅が遅い日も嫌ではないこと。園が休みの土曜・日曜に黒川が出かける場合には、五百円玉を持ってここへ昼ごはんを食べに来ること。黒川が言う「外で喰う時は行ってやらにゃあ」は実態と全く違うのだ。ここのオバサンは二人の生活をサポートしているのだ。                                                                                                                                                 今夜は、黒川が店のオバサンに「大阪から来た北嶋君だ。ぼくのギャラリー開設やビジネスの構想を手伝ってくれるんだ」「今夜は彼の歓迎会なんだ」と言うので、黒川と裕一郎には飲み物がサービスされ、ユウくんにはケーキが振舞われたのだった。                                                                                                                               カンケイ会では黒川が泡盛の水割りを三杯呑み、裕一郎もかなり呑んで、黒川の「構想」に花が咲いた。                                                                           ユウくんはそうした空気の余韻を肌で感じ黒川の機嫌を推し量ってか、ジュースを飲みながら冷蔵庫から箱を出した。                                                                                                                                                   「チチ、これも食べていい?」                                                                                                                                            「だめだよ、甘いものは一日一回だ」                                                                                                                                                          ユウくんが恨めしげにテーブルに置いた箱をじっと見ている。黒川が訊ねた。                                                                                                                                       「買ったのかね? 誰かからの貰い物かね?」                                                                                                                                          「買うたんですよ。ぼくからのお土産です」                                                                                                                      黒川が箱を手に取り、しげしげと見ている。                                                                                                                                                                            「ならいい。けどぼくは喰わん。これは、松山の名物じゃないか! 誰かとおんなじで、名称と中身が違うまがい物だ。それは、美味い美味くない以前の問題なんだよ。嫌いだねぼくは。明日、ひろしと君が喰えばいい」                                                                                                                      黒川は箱を冷蔵庫に戻し「ひろし、あした帰ってからだぞ」と言って、来客用和室に向かい、何やら仕事を始めた。

「チチはおベンキョウ」とユウくんが教えてくれる。                                                                                                      「毎日?」                                                                                                                                                                                        「うん、そうだよ。夜ぼくがおしっこに降りて来ても、まだしてる時もあるよ」                                                                                                                                                                           ユウくんが風呂に向かった。和室に行って黒川に訊いた。                                                                                                             「何のお勉強ですか?」                                                                                                                                    「いや、通信の原稿だよ」                                                                                                                                    見ると、人差指一本でポータブルの古いワープロを打っている。訊けば、五百名ほどある馴染客名簿から、沖縄内百強を主に計百五十人宛に、月一回の通信を出しているという。参考資料を広げ、写真を選び、原稿版下を作っている。ワープロで打ち出した記事を鋏で切って貼り付けて版下を作っているのだ。過去のものを見せてもらうと、見事な構成だった。A3サイズを折り畳み、A4サイズ両面四頁に仕上がったそれらは、表紙と最終頁がカラーの「自然通信」と名付けられた立派な通信だ。記事を書き、ワープロを打ち、記事を切り貼りして版下を構成し、たぶんカラー・コピーに走り折込までを一人でする。封書詰めをして出す。それを毎月一人でして来たのか。その労力に頭が下がる。                                                                                                             「黒川さんワープロ打てるんですね」                                                                                                                                           「美枝子の仕事だったが、仕方がない、ぼくがしてるよ指一本で・・・。あいつが居ないからといって止めれば人に笑われる。それは嫌だね」                                                                                                                             つい、「ワープロだけでも、ぼくがしましょうか?」と言いそうになったが、黒川の大切な仕事を奪うことになると理由付けして思い留まった。                                                                                                                                        「表紙と最後の頁はカラーですけど、カラー・コピー代も馬鹿になりませんね。一枚八十円でしょ。一五〇セット裏表で三〇〇枚、二万四千円」                                                                                                                 「印刷に出すより安いじゃないか。それにね裕一郎君、観察が雑だねぇ。裏はカラーじゃない。白黒だ!白黒は一枚一〇円だぞ。」                                                                                                                             過去の記事には「千利休と秀吉」「浜田庄司と沖縄」「比嘉真の叫び」「タロウにおける琉球の復権」「青磁・白磁の源流」などの標題があり、いずれ読もうと思わせるものだ。黒川の言い分が詰まっているのだろう。宛名書きも「客に失礼だよ」と手書きしているとのことだった。パソコンを扱えて写真も添付して一斉送信かプリントアウトすれば、労力は半減どころか二〇分の一だ。                                                                                                                                                                               「北嶋さーん、お風呂空いたよ」とユウくんの声が響いた。風呂に向かう前に「明日の朝食はぼくが作りましょうか?」と問うと、黒川は「それには及ばん、朝はパン食だ」と答えた。 

 

連載⑬: 『じねん 傘寿の祭り』  一、 チヂミ (9)

一、 チヂミ ⑨

裕一郎は、その後高志と当然仕事で何度も顔を合わせたが、亜希のことには触れていない。介入はまるで自身の家庭崩壊を辿るようなことでしかないと思ったし、何よりも、高志が亜希に心奪われた理由がよく解かったからだ。                                                                                                                               一週間後、亜希は仕掛りの現場を後輩へ丁寧に引継ぎ、一身上の事情によりと告げて退社して行った。余りの素早さに驚いたが、高志が自らスパッと身を処さない経過に先行きを確信したのか、高志とのしたくも無い駆け引き、妻とのドロ試合など「キャリア」にならないと考えたのか…。                                                                                                                               裕一郎は、その行動をアッパレと思った。もちろん裕一郎には何の連絡もなかった。                                                                                                                            元居たNGO団体に戻ったとか、沖縄に向かったとか噂されたが、亜希の交友関係は社内の誰も知らず、年が明けた頃にはもう亜希の話題は出なかった。                                                                                                                           

 黒川からの誘いを何度も受け沖縄へ行こうかと思い始めていた。拾ってもらいながら三年にも届かず去ることははばかられたが、三月末とうとうノザキの野崎氏に願い出た。それを伝え聞いた高志は一応慰留したが、それは形式的なものだった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              一女性社員の退社が、例え自身との私的な関係に由来しているとしても、それが裕一郎が職場を去る理由に重なると、高志が考えるのは奇妙ではある。裕一郎が、自分の撤退と亜希のことが関連しているだろうなと自覚するのも同様だ。                                                                                           何故だろう。その奇妙をむしろ当然だと思ってしまう六十近い男が二人、若い娘が遺して行ったある鮮やかさに支配されて向かい合っていた。                                                                                                                                      「秋に松下君が辞める前、逢うたんか? 何か言うてたか?」                                                                                                        「いや。現場帰りに呑んだけど何も言うてなかったぞ。なんで?」                                                                                                    「そうか。そんな気がしたんや」                                                                                                                                                                                      高志のデスクと社員のデスク群との間の壁面に、コルクボードがあって、様々な連絡事項が貼られている。資格試験の講習会、新入社員歓迎会・・・。隅に絵葉書がピン止めされている。松下さんより!と矢印を描いた紙が横に貼ってあった。                                                                                                                                         「見てもええかな?」                                                                                                                                                                                            「ああ・・・。辞めた直後、チーム宛に来たらしい。何ヶ月にもなるのに、連中が外し忘れとるんや。瀬戸内海の写真やな、消印は下関や。携帯電話の番号もアドレスも変わっていて繋がらないらしい」                                                                                                                                                                                       手に取って、絵写真の裏を見ると、宛名欄の下半分にチーム員四人のニックネームがあって、その一人一人への短い激励とアドバイスが書いてある。寝過しが貴方のホントの力量を半減させていると思う、現場に足を運べば今以上に人は動いてくれるはず、発注遅れは結果としてと言う以前に元々現場軽視なんです、連日事務所に遅くまで残っているのは決して誇るべきことではありません、などとあって、最後の行にこうあった。                                                                                                                                                            私? 『ひと夜秘め独り往く朝霧あさし身捨つるほどの恋路はありや』                                                                                                                                   高志が「そんな気がしたんや」と言った根拠は分かっていたが、答えようもない。                                                                                                            「松下さん、誰かと別れたんか?」                                                                                                                                                                    「心当たりないな・・・。社員のプライベートは知らん」                                                                                                                                                                                                            「パロディと言うか、これ本歌取りやな。本歌作者は笑うてるやろうけど、これは相手を責めるというのではなく、精一杯、自分と相手両方と言うか、関係全体を相対化しようと真面目に振り返っているよな」                                                                                                                                                                                                            「・・・・・・」                                                                                                                                                                        「高志。得難い人が辞めたな」                                                                                                                                                                     「・・・・・・・。黒川さんを手伝うって? 二度ほど彼から焼物を買うたことがある。大変やぞ、あのジジイ」                                                                                                                                                                         「ああ分かってる。まぁ短期間やし、沖縄には迷惑やろうが、癒し?リフレッシュ?」                                                                                                                                                                            「裕一郎、大阪に帰ったら、戻って来てもええんやぞ。場所は用意する」                                                                              声を出さず、片頬だけ崩して返した。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

高志の背中の向こうのモノクロ映像には、墨絵薄闇の海と寄せて返す仄白い波が見える。映画の場面転換法ワイプのようにそれを追い出すカラー画面には、澄んで輝く空の下、緑の島とコバルト・ブルーの海が広がって行く。                                                                                                          噂を聞いていたからか、亜希が沖縄に居るような気がしていた。                                                                                                                                                                                                                              

(一章 チヂミ 終)                                          

                                                                  

連載⑫: 『じねん 傘寿の祭り』  一. チヂミ (8)

一、 チヂミ ⑧                                                                                                                                                                                 

あれから二年と少し。今、亜希は若い男女社員四人を部下に持つチーム・リーダーとなっている。人が時として迷い込む不本意な些事に翻弄されることなどなく、きっと仕事にプライベートに二十代最後の充実した時間をテキパキと送っているだろうと思って来た。その後何度も仕事をしたが、呑むのはその時以来もう何度目だろう。その多くは現場関係の連中も居て二人ではなかったが・・・。現場でも呑む場でも「男前」を崩すことなど決してなかった亜希の迷路など思ってもみなかった。                                                                            最終電車前に合わせた閉店時間だ。最後まで騒いでいた文化祭打上げ組も帰った。レジに進もうとして、皿に数片残されたチヂミが目に入った。いつぞやは、亜希は残さず食べた。その夜より本場風で美味いチヂミだったが、チヂミ自身は残されたことに納得しているように見える。                                                                                                                                                                                                                                                                     亜希を送って駅へ向かうと、駅前の広場にラーメンの屋台が出ている。                                                                                         さっき黒川一家の送別会に最後にやって来た、教師だという若い夫婦が仲睦まじく木の長椅子に腰掛けてすすっていた。あの後、黒川節を延々と聞かされたのだろう。軽く会釈して過ぎた。                                                                                                                                                                                                       「キャリアの話ですけど、あれ、あの時は胸に沁みたんですよ、ほんとに・・・。けれど、最近の私、そんな感覚失ってるんです。仕事をこなしているだけみたいな、どうでもいいやみたいな」                                                                                                                                                             「・・・・・・」                                                                                                                           亜希、それはぼくのことだ、「こなしてるだけ」「どうでもいいや」。                                                                                                                                                      「最近の私」は「最近の北嶋さん」と聞こえて来るのだった。                                                                                                                                                                                                                    「北嶋さん。あの時のキャリアにひとつ大切な要素が抜けてません?」                                                                                                                     「ん? 何」                                                                                                                                                         「年齢! 残念ながら人間は歳を取るんです。これお互いですけど」                                                                                                                                                                                                            「・・・・・・残念ながらではなく、『幸いなことに』と開き直るしかないね」                                                                                                                                                                                                                               そうは返したが、階段を上りながら思った、その通りだと。人が早くに識っている事柄に歳を重ねてから気付くというのは、単に不誠実な半生の証しでしかない、と。それがどんなキャリアになると言うのだ・・・。                                                                                                     券売機で亜希の切符を買った。                                                                                                                                                                          

裕一郎は、改札口を越えるとき亜希が言った言葉を忘れられずに居る。                                                                                                                                                「北嶋さんにしといたらよかった。北嶋さん、独り身だし」                                                                                                                                                                                       松下亜希。酔った女の戯言であっても、罪なことを言うてくれるなよ。それに俺は独り身じゃない。帰れないだけだ。                                                                                                                                                        今夜三ヶ所で呑んだ亜希は、もう、ことの終りを宣言していたと思った。さっき、黒川一家の送別会でユウくんと言い合っていた「沖縄へ来てね」「行こうかな。泊めてくれる?」も案外本気かもしれない。                                                                                                                                                                                              駅から独り住まいの自宅マンションへの、もう閉まっていて街灯も消えている商店街を歩きながら認めていた。さっき亜希と呑み始めてすぐに二人の関係に気付いたのではなく、元々知っていたのだと。                                                                                                                                                                 年初めの現場で、亜希から菓子を貰ったことがあった。現場の職人らとおやつに食べた。友人の結婚式に行って来たとのことだった。                                                                                      翌日、別の場所で同じものを食べたのだ。高志と呑んで、「うちに来いや、呑み直そう。久しぶりやから玲子も喜ぶよ」と誘われ、深夜に訪ねた。起きていた玲子が「もう呑みすぎでしょう」と咎めたが、しばらく呑んだ後、亜希から貰ったものと同じ菓子が出て来たのだ。                                                        「さあさあもうお終いや。これ、高志が業界の一泊ゴルフ旅行で貰って来たんよ、案外美味しいよ。タルト言うんよ。甘いもの食べてお茶飲んで、二人とも明日も働かんと」                                                                                              裕一郎は納得した。その時きっと自分は、瞬時に、二つの場所で出た同じ菓子を結び付けないことにしたのだと。                                                                                                                                                                                                               「この和風ロール・ケーキのどこがタルトやねん?」と酔った頭で思っていた記憶はある。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

                                                       

歌遊泳: 小柳ゆき の歌唱

財津和夫作曲:『会いたい』の作者本人歌唱版( http://www.youtube.com/watch?v=ncb-EzTfoGs )を探し見つけた際、                                                                                                          『会いたい』小柳ゆき版に遭遇。 いい! ちょっといないタイプの女性歌手だ。                                                                                                                                                                            彼女の歌唱を数曲添付する(いずれ、著作権の関係で削除されるとは思うが・・・)。                                                                                                                                                           

                                                                                                                                                                                『君がいた夏』 http://www.youtube.com/watch?v=iIRQAffnuLk&feature=related                                                                                  『最後に記憶を消して』 http://www.youtube.com/watch?v=jSmHRLNpHNA&feature=related                                                                                                                                                                                                                                                                                                         『be alive ~そのままの君でいて~ feat.Soulja』                                                                      http://www.youtube.com/watch?v=u3odeqVpYFI&feature=more_related                                                                                        『愛情』 http://www.youtube.com/watch?v=PS97xL6vATM&feature=related                                                                                                       『恋のフーガ』 http://www.youtube.com/watch?v=ioQKR-JunLY&feature=more_related                                                                                              『 J 』 http://www.youtube.com/watch?v=1lSqoOq2w_o                                                                                                          『会いたい』 http://www.youtube.com/watch?v=qYas3WPEPfQ&feature=related                                                                                                                                                                               近況情報: http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1013201205 これ読むと、もがいているんや…、 応援したくなる。           

                                                                                                                                                                                                                               実は、08年から書き始め、7割書いて今修正しつつ当ブログ連載していて、来春エンディングへ至るはず(?)の『じねん傘寿の祭り』のヒロイン                                                                       松下亜希という女性は、この小柳ゆきさんとミムラさん(『サイドカーに犬』の主人公少女が成人した現在役)をイメージしているのだが、                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  最近NHK大河ドラマ『龍馬伝』の真木よう子(お龍)さんにハマって、彼女を加えイメージしている。                                                        勝手なもので、【小柳ゆき+ミムラ+真木よう子】÷3=松下亜希 という訳で、そこは駄作者の密かな喜び、ご褒美だ。                                                                             ちなみに、主人公「じねん」氏にはモデルが居り、                                                                                                                副主人公団塊世代の二人の男は、ぼくの周りの「友人四~五人とぼく自身」のミックスから二人を再構成したという次第。                                                                                                                                         版画家兼彫塑作家:比嘉真という人物は、30年前の争議空間での因縁以来交流のある沖縄人創作家で、まぁ知ってる人には分かる人がモデル。                                                                                                                                                                                                                                                                                                            という具合に、小説といっても、書きたいこと言いたいことを、知っている世界からしか構成できない素人による「時代記」でしかない。                                                                                                                                               決して自分史ではない。いわば「We史」としたいわけだ・・・。 まぁ、そんなところだ。                                                                                                                                                                                                                        

                                                                              

連載⑪: 『じねん 傘寿の祭り』  一、チヂミ (7)

一、チヂミ ⑦

「私、この仕事に向いてないみたい。キャリアもないし、思い違いや失敗ばっかり。北嶋さんにも迷惑かけてしまい申し訳ありません。仕事の成約に汲々として、成約したらしたで安心してしまい、押さえるべきいろんなことがしょっちゅう抜けてしまうんです」                                                                                                                    裕一郎は、下心ゆえに、いやそうでもなかったのだが、キザなセリフで応えたのだ。自身が運営していた会社ではそうは出来なかったことを埋め合わせるかのように・・・。                                                                                                                     「思い違いや失敗の数こそが、この仕事の蓄積、つまりキャリアです。もし、ぼくに、貴女より多く持っているものがあるとしたら、それは思い違いと失敗の数だけ。心配無用。松下さん、貴女は今日、確実にひとつのキャリアを積んだということです」                                                                                                                                亜希の瞳が潤んでいるように見えた。まあ、よくも真顔でこんな歯の浮くセリフを吐けたものだと、我ながらこそばゆい。                                                                                                  亜希が声を落として言う。                                                                                                                                        「前の仕事では人間関係で躓くし、情けないです」                                                                                                「躓きもしない人間関係なんぞ、人間関係じゃない。それはただの社交でしょ」                                                                            亜希が好物ですと注文したチヂミが皿に二片残っている。亜希はそれを二片とも食べ、声を元に戻して言った。                                                                                                 「・・・ハイ、もちろんそう思うことにしてます。」                                                                                               「今の会社はええでしょう。外から見ていても、ぼくが会社経営で出来なかったことを出来ているように感じる」                                                                                                                                    「先月、同じフロアの隣の会社で自殺者が出たんです。うちはみんな、遅くなって深夜に社に戻ることも多いんですが、思い詰めた表情の彼に廊下やエレベーターで皆がよく出会いました。隣は、屋外広告から販促チラシまで幅広い広告媒体を扱う会社ですが、ムチャクチャきついノルマがあって、朝礼でミスが重なったり成績不振だったりするたった一人の人を日替わりで、全員で次々に罵り責める声が聞こえて来たりするんです。死んだ人はしょっちゅうだったそうです。ある時なんか、女性幹部が『この無能野郎!お前の言い訳は小学生以下の自己責任回避症だ。明日から小学校へ行って学び直せ!』と怒鳴る大声が、廊下にまで響いていました。震えるほど恐かったです。トイレで泣いていた彼を、うちの男性社員が直後に目撃してます。間違いなく追い詰められた自殺です。数日後の朝礼で専務が言ったんです。これは殺人だ。仕事に、命を絶たなければならないほどのことなんてない、絶対にない。追い詰められる前に、家族・友人・恋人・同僚・ぼくら、どこへでもぶちまけてくれ。それに耳を傾けられないような会社や組織に存在価値はない、って。どうか、ぼくら経営陣を殺人者にしないでくれ、って。」                                                                                                  「ふ~ん、吉田高志節やねえ」                                                                                 「?。 いい会社に来たと思ってます。一~二年で前職に戻ろうと気軽に考えていた私の計画は、もちろん仕事を舐めてると言われて当然の構えですが、それよりもこの仕事が面白くなり始めていてヤバイです。友人が、前職に復帰してしかもそこにこの仕事を活かす道、というのが弁証法だと教えてくれました。」                                                                                                                                                                      「弁証法? 今でもそんな言葉を使うんや」                                                                                               

                                                

連載⑩: 『じねん 傘寿の祭り』  一、 チヂミ (6)

一、 チヂミ ⑥

 三年近く前、吉田高志の会社の下請ノザキに押し込んでもらって以来、亜希とは何度か組んで仕事をしたが、出会いから好感を抱いて来た。                                                                                                                         仕事のスピード感や打てば響くような閃き、二十代にしては落ち着いた雰囲気、それとは逆に現状への違和感を湛えて遥か先を見ているような不安を宿した眼差し。                                                                                                                      高志に「ノザキさんところに入った北嶋さんや」「偶然、学生時代の友人なんや」「顧問のようなもんや」「ヴェテランやから何でも相談したらええ」などと、今後仕事で関わりそうな一〇人近い若手中心の男女社員に紹介され、翌週の最初の案件が亜希が担当する現場だった。                                                                                                                        当時、亜希は入社二年目になったばかり、前職は南アジア関係のNGO団体の仕事だったという。二年で辞めたそうだ。団体が関係するショップ開設で現場に出入りしていて、施工業者の高志の会社と出会い誘われて面白そうだと思い入社したという。前職を辞めた理由は聞けていないが、前職に戻りたいらしいという噂を他の社員から聞いていた。

数ヵ月後、暑い夏のある日、亜希と組んだ二つ目の現場で印象に残る出来事があった。亜希もそろそろ現場慣れして来ていた時期だ。その日も午後からもう冷房も稼動している現場に来て、シューズを履いてジーンズ・Tシャツの上に会社支給の夏用ブルゾンを羽織り、図面を手にあれこれとチェックに動いていた。職人の一人が「松下さん、えらい男前になったな」と言っていた。工事は無事終り、最後の清掃をしていた。裕一郎と亜希は、まずまずの仕上がりに満足している大工の棟梁や床工事の責任者などノザキ関係の人員も交えて、発注社長の到着を待って発注側担当者と談笑していた。                                                                                 やって来た社長に別室に呼ばれた亜希がなかなか戻って来ない。嫌な予感がした。                                                                                                                                 数分後、亜希が沈んだ表情で出て来た。打合せや施工に不備があったのだろうか、別室で詰め寄られたようだ。やがて亜希はこちらへやって来て、泣き顔で言った。                                                                                                                            「北嶋さん、すみません。出直しになりますけどやって下さい。メインの床材の品番が違ってました。どこかで、品番末尾の七と一を誤記したようです。サンプル現物を添えず、印刷カタログのカラー・コピーを切抜いて添えてた上に、その七と一はコピーでは色目的にほとんど同じで誰も気付かなかったようです。ゴメンナサイ。」                                                                                                                                                     七には柄があり、一は無地だ。大いに違う。ダブル・チェックしておかないとこうなる。貼り替えは四十七㎡、安くはない。小さく短工期の現場ほど、この種の初歩的な失敗が起きやすいのだ。裕一郎にもこの種の失敗は山とある。今回、取り返しの付かない重大ミスではなかったのが不幸中の幸いだった。格安で貼り替えることとしたが、明後日には施主側手配の什器備品が搬入される。それの移動再設置には人手が要るので、緊急手配して明日中に完了しなければならない。裕一郎も早朝からの出動となるだろう。実費はそれなりに発生しても、ノザキと詰めた話をすれば、野崎氏は高志の会社との歴史と今後を考え丸く治めるに違いない。ミスはその範囲の軽傷だ。                                                                                                                 帰路、落ち込む亜希を励まそうと現場に近いターミナル駅のガード下に誘ったのだった。                                

 

連載⑨: 『じねん 傘寿の祭り』  一、 チヂミ (5)

一、チヂミ ⑤

「どんな理由で?」                                                                                            「もう使命は終った。ここから先は経営に明確な価値を見出す経営者の哲学を持っているか、さもなくば労働組合の自主経営らしい違う働き方を構想し実践する思想を持つか、いずれかだ。そうでないとそれはケッタクソの延長だ、そのいずれも持ち得ていない以上解散しようと。」                                                                               「う~ん、難しいなぁ。で、労働組合はどうしたの?」                                                                「高志は脱退して、独り他所へ行った。昔と同じように、散って闘う労働組合をいくつも作るんだと青いことを言ってたな。残った者七人で会社運営を続けたよ」                                                                                                                  「それが、三年前に潰れた北嶋社長の会社、株式会社ワイ・トラップということですね?」                                                                                                                                         「そういうことや。その会社を二〇年強続けたが、経営者がぼくではアカンよな」                                                                                                                             「その社名は吉田さんが居た頃からなの・・・? 社名の意味は?」                                                                                                                                                         「高志の命名や。最初に支援してくれた会社の名の一部をもらったと聞いたけど・・・、社名は変更していない、引き継いだよ。」                                                                                    「ふ~ん。で、専務吉田高志の紹介でうちの下請けのノザキへ・・・」                                                                                                     「そういうこと」                                                                                                                                       「あの人は、散っていくつも組合作ると言ってたプランを実際にしたの?」                                                                                                      「もちろん挑んだようやけど、一社目で一敗地にまみれ、あとは転々としたと聞いている。去るも地獄、残るも地獄と言うやろう。知ってるように、実際、派遣・請負・有期契約・パート、雇用の形が変えられ零細企業や下請けや非正規雇用の無権利状態のところにこそ組合は必要なんや。今はもっとそうや。」                                                                                                                                                                               「それを自己防衛から放置したのが日本の大手労働組合だとテレビで観ました。事態はその組合自身にも跳ね返って来ている、と」                                                                                                                              「そうやな・・・。やがて、高志は、昔の取引先でもあるおたくの社長に呼ばれ専務稼業や。ぼくはぼくで、素人経営の辛酸を舐めた挙句、全てパア」

二つのエピソードを聞き終わり、生ビールをまた注文してググイッと飲み、チヂミを一片食べ、亜希は改まったように真顔で言った。                                                                                                                                          「北嶋さん、ありがとう。吉田高志という男の、知らなかった話も聞けました。高卒で工場へ行ったなんて知りませんでした。卒業を非難されたことへの意地の返答なんですか?」                                                                                                                                                              「それは違うよ。意地でそんなことして何になる? 吉田に訊いたことがある。卒業を非難した人々の卒業をどう思うてると」                                                                                                                                 高志はどんな風に言ったのだったか。語り口調は思い出せないが、その趣旨は憶えている。                                                                                                   当時は今のように就職浪人や卒業後フリーターという状況ではなかった。その気さえあれば就職は出来たと思う。右肩上がり社会だった。卒業しないのも、卒業して高卒と詐称して工場へ行くのも、そういう70年代初頭の状況で可能な「贅沢な」選択のひとつだったんだ、と今の学生に言われたら、俺は「その通りや」と頷くよ。                                                                                                                                                  自分の卒業を非難した人の多くがやがて卒業し、学生当時の言葉と行動からも「卒業」して行ったことは事実だ。                                                                                                                   けれど、人々が、その卒業が生きて行く為に必要な条件の一つであるような現実を生きながら、なお「卒業」しない事柄を抱えて生きる限り、そして俺たちが、何事からも「卒業」しないような「愚かさ」からは「卒業」すべきだと自戒する限り、そこに軽重は無く、それぞれの数十年はいわば「等価」だ。例えば、お前と俺なら、どうであれそれぞれの理由で、仲間を離散させ仕事や職場を破綻させたのだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         「あ~ぁ、も~うぉ。団塊オヤジがカッコ付けて。で、あなた方はいつ卒業するの? そんな風な一見冷静で思想的で文学的に聞こえる対応を、女とのことや家族には出来てないじゃないの。身勝手、優柔不断、建前、外づら、コソ泥、関係もドロドロ。男相手には無理して、一種の偽善です。」                                                                                               「・・・・・・・」                                                                                                          「どうしようかな・・・。奥さんに逢おうかな? どう思う? 北嶋さんの意見は?」                                                                                                                                                                    「ぼくの意見と言うてもなぁ~・・・。もう結論出てるんでしょう?松下さんの中で・・・。それに、こうして男に言うのはちょっとどうかな、ぼくだって家族から斬られた身なんやし、参考意見なんか言えんよ。男やなくて女友達に聞いてもろたら?」                                                                                                                                        「女ねえ、居ませんよ話す相手。あの人と同世代のそれも男に聞きたいんです、あの世代の男は女々しいから・・・失礼・・・。女ならあの人の奥さんかな、話し合えそうに思う・・・。けど、こういう関係では無理だし」                                                                                                                       高志の妻玲子が「逢おう」と言って来ている。逢ってもいいが、逢えば自分なりの言い分を展開するだろう。妻を傷付けるのもどうなのか? だから、もう捨て置け!という気分。高志が成り行きを自分で決めたらいいんだ。私に振るのはいただけない。そんなことだった。                                                                                                                             「会社はどうするの? 難しいよな」                                                                                                                         「なんで私が辞めなきゃならないんですか?」                                                                                                                                            「いや、辞めるべきとは言うてない。居り辛いやろうと・・・」                                                                                       「だから、それはあの人も同じでしょ。私が辞めるってことを前提にするのって、北嶋さんらしくないよ。あ~ぁ、ガッカリだわ。こらっ! 団塊オヤジ!おいぼれ全共闘!」

亜希は酔っていた。専務の永く古い友人とはいえ、そして六十前とはいえ、仮独り身の男の俺に気を許すな! 俺は貴女の輝きを視て来たんですよ。貴女の得がたい個性に魅かれて来たんですよ。崩れないでくれ・・・、裕一郎はそう思って、声を掛けた。                                                                                                                                   「こういうことも、ひとつのキャリアかもしれんな」                                                                                                         「キャリア?」                                                                                                                                             「いや、違うけどそんな面もあるかも、と。人生のキャリアと思えたらな、と」                                                                                                                    「何がキャリアなもんですか。仕事みたいに行きませんもん。」                                                                                                     「それはそうやけど、だから、思えたらな、や」                                                                      「母親の轍は踏むまいと思って来たんです。今、進退窮まっている自分が情けなくて、それが悔しくて・・・」                                                                                                                                  「・・・・・・」                                                                                                         「憶えていますよ、北嶋さんが失敗の数がキャリアだって言ってくれたの・・・。」                                                                                      「ぼくも憶えている。思い出しても恥ずかしい。」 

                                                                                                                                                     

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