Archive for 6月, 2016

「アジール 空堀」  紙芝居おじさん 鈴木常勝さん実演

 昨夜(6月23日・木)、「アジール空堀」集い『街頭紙芝居の奥は深いぞ』 紙芝居実演と、お話「紙芝居の底力とその哀史」。鈴木常勝さん。参加24名。紙芝居おじさん

子どもたちに夢を与え・想像力を育てもした紙芝居。かの時代に国・軍と一体化して進められた戦争への総動員は、命令・強制・戦闘参加要請でありながら、直接的には家族の絆・郷土への情愛の美談として登場する。敵や悪者の強調も姿を潜め善人ばかりの登場で充たされている。台詞と語りを全て入れ替えれば、一篇の「お涙頂戴」の「家族もの」「郷愁もの」として十分通用する出来栄えだ。 国に・国の意志に取り込むに当たって、紙芝居もまた家族や郷土や友情を拝借する道を歩む。それは明治の唱歌・童謡の道と同じだ。 「戦争はいつも美談仕立て」でやって来る。

童謡「われは海の子」は、一番は「煙たなびく苫屋こそ 我がなつかしき住家なれ」二番は「千里寄せくる海の気を 吸いてわらべとなりにけり」と終るが、四・五・六番では国策芬々と進み、七番では 「いで大船を乗出して 我は拾わん海の富。いで軍艦に乗組みて 我は護らん海の国」となる。苫で葺かれた家に生まれ、海の気を吸い育ったわらべ=「海の子」は、「海の国」の「軍の子」に成長する訳だ。 別れの切情を語り、卒業式などで唄われる日本版「蛍の光」(旧友との変わらぬ友情を謳い上げる内容のスコットランド民謡。スコットランドが独立すれば、これこそが国歌だと言われている)は、「開けてぞ今朝は 別れ行く♪」と神妙に唄われたものだ。が、この曲の三番四番を知れば、1881年(明治14年)日本版作詞者たちの意志がハッキリ見えて苦しい。
『筑紫のきわみ 陸の奥 海山遠く隔つとも   その真心は 隔てなく ひとえに尽くせ 国のため』
『千島の奥も 沖縄も  八洲のうちの まもりなり  いたらん国に いさおしく  つとめよわが兄(せ) つつがなく』
憲法を変えたい人々の集まりで、しばしば「家族」が強調され、家族と郷土への情愛を国家へと収斂したい言説が飛び交っている。身近には、小説『永遠のゼロ』は紛れもない「反戦・反軍の小説だ」と言って下がらない友が居る。「家族という病」とも言いたくはなる。 紙芝居師=鈴木常勝氏が実演してくれた『さるむこ』『チョコレートと兵隊』は、 家・家族・家業・男・娘などのKEYワードから視えて来るぼくらの「生きるかたち」「暮らすかたち」「リスク回避行動と差別意識」の深層を抉って興味深い。鈴木常勝さん 『さるむこ』: 一人で畑仕事で忙しい百姓の父は、ある日親切な「さる」に手伝ってもらった。つい「お前さんのような働き者がうちの3人の娘の誰かの婿で来てくれりゃ有難いがのう」と言ってしまう。「さる」は「ムラ」の者ではなく、「ソト」の者だ。 が、言葉を真に受けた「さる」はそれから足繁く父の一家へ通い手伝い、姉2人の断られたものの、3人の中の一番の器量よしの末娘の婿になると申し出る。末娘は断らず受ける。 経済的安定を望んだのか、父孝行なのか、「ソト」者の報復を過剰に意識したのか・・・。 が、婚姻直後「さる」は過重労働・偽装事故で怪死する。その死をニタリと見送る末娘。何ともシュール(?)でクール(?)な結末で紙芝居は終わる。ああこわぁ~! 『チョコレートと兵隊』 お父さんはよく働き優しくて頼りになるいいいお父さん。兄と妹の模範の父だ。 その父さんが、召集でお国のために中国戦線に行きました。やがて、戦地の父さんから手紙が来る。死と背中合わせの戦地でも、忙しい中「チョコレートの包紙」をせっせと集めて送ってくれるのだ。その包紙の内側に点数が刻印されていて100点でチョコレート一枚と交換してもらえる。父さんは5点・10点・20点と戦友からも貰って千数百点にして送って来た。添書きに「何も送れるものが無いので、これを送ります。製造会社に届けてチョコレートと交換して下さい。」兄妹は大喜び。 直後、役所から通知が来る。父さんは、戦地で果てた。 紙芝居師:鈴木常勝氏は言う。「センチメンタリズム基調のファミリズム漂う、チョコレートの包紙を集めている以外の時間の、中年にはキツイ軍務の・戦闘の・殺し合いの リアリズムは、どこかに隠され、気丈な妻は今後も銃後の母を演じ兄妹は強く生きていく覚悟を語る。菓子メーカーは「お父さんの所属部隊を知りたい」慰問の品を送るから・・・と言う。戦争は善人と美談の総動員に溢れている」と。 お話と街頭紙芝居実演を終えて、二つのことを想っていた。
① 過日(6月5日・日)「アジール空堀」の集いで、金時鐘さんが夫婦別姓への改憲派の言動に触れられ『改憲論者が、夫婦別姓に反対し家族のをことさら強調することの意味を考えたい。』と語らえたこと。
② 本日が、『蛍の光』が「八洲のうちの まもりなり」と言うその沖縄の組織的戦闘が終結したとされる1945年6月23日に因んだ「沖縄慰霊の日」であること。 鈴木さんの、さすがプロの話芸と説得力に脱帽!

「アジール空堀」 11月13日予告FB 道浦母都子さん講演

われらがわれに還りゆくとき

 

◆調べより疲れ重たく戻る真夜

   怒りのごとく生理はじまる   道浦母都子

 一九六八年十月二十一日。ベトナム戦争反対を訴える国際反戦デーのこの日、東京・新宿駅は角材を持ち、ヘルメットをかぶって押し寄せた学生で、混乱を極めていた。
 学生側の大義名分は、ベトナム爆撃に使われる燃料を積んだ貨物車の輸送阻止。投石や放火をする者もいて、交通機能はまひした。全学連(全日本学生自治会総連合)の一角を占めていた中核派のシンパで、早稲田大文学部の学生だった歌人・道浦母都子(みちうらもとこ)(68)もその渦中にいた。
 御茶ノ水駅から総武線に乗り、リーダーの指示で、代々木駅付近で止まった電車から線路に飛び降りる。そこから新宿駅に突入したが、待ち受ける機動隊のクモの巣に次々とからめ捕られ、捕まってゆく。道浦は西口へと逃げ、塀を乗り越えて脱出した。
 世に言う新宿騒乱事件。警視庁は関わった学生らに刑法の騒乱罪を適用することを決め、拘束した学生たちを勾留した。その数、七百人余。
 「私、たぶん捕まる」。十二月初め、大阪の実家に帰った道浦は、母親にこう告げると、東京にとんぼ返りした。翌朝六時ごろ、部屋に公安の刑事がやってきた。五人ほどが部屋に踏み込み、室内を捜索する。下着までぶちまけても、何も出てこない。黙ったままの道浦に一人が逮捕状を示し、「来てもらうしか仕方ないね」と言った。
 近くの警察署を経て、女子房のある板橋署に移された。名前を呼ばれても返事をしない。本人であることすら認めない完全黙秘。代わりに「板橋二十号」の名がついた。
 取り調べは過酷だった。刑事が入れ代わり立ち代わりやってきては、朝から晩までののしる。かと思えば、次の日はやさしくする。「丸椅子をけとばされてこけたり、『いいおっぱいしてるな』と言って胸をもまれたりしたこともありました」。心の中で一から十まで指を折り、何も耳に入らないようにした。「しゃべったら一生後悔する」。固くそう信じていた。
 二十日間の勾留の終盤、調べから戻ると、生理が始まった。「こうして頑張っている時に、女性であることをむざむざと知らされる。恨みました」。あいにく当番の看守は男性だった。入浴時に別の独房の年配女性に相談すると、代わりに伝えてくれた。
 年末になり、釈放された。実家に帰ると、母は「お嫁に行けない」と騒いだ。父に頬を張られたが「あなたこそ間違っている」と思った。
 いたたまれず、ひとり東京に戻った。近所の電柱の張り紙で、町工場の職を見つけ、油まみれで働きながら仲間たちの支援にあたった。
 学生組織の全共闘(全学共闘会議)が占拠していた東京大安田講堂が「落城」した六九年一月十九日、道浦も現場に向かうが、近づけない。下宿に帰ると、敗北感とともに歌が込み上げてきた。炎あげ
 <炎あげ地に舞い落ちる赤旗にわが青春の落日を見る
 ほどなくして胆のうの病気で入院。母に連れられて実家に戻った。大学は休学(後にリポートを出して卒業)し、保育所で働いた。歌誌『未来』を主宰する近藤芳美(一九一三~二〇〇六年)の知遇を得て、本格的に歌づくりを始めるのもこのころだ。
 大学教員の男性に見初められ、結婚。松江や広島で暮らしながら歌を作り、激動の時代をひとり見つめ直した。
 七五年に『未来』の仲間と合同歌集『翔』を出し、八〇年には単独で歌集『無援の抒情(じょじょう)』をまとめた。この間、道浦が正しいと信じていた運動は閉塞(へいそく)していった。多くの学生は何もなかったかのように卒業し、就職した。一方で内ゲバが繰り返され、ついには十四人もの仲間を殺害し、長野・あさま山荘に立てこもった連合赤軍事件に至った。
 <明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし>
  <死ぬなかれ撲(う)つことなかれただ叫ぶ今かの群れに遠く生きつつ>
 悲惨さを増す光景を遠くで見つめながら、自らの感情をたどってゆく。道浦はそうして歌を作るほかなかった。歌集では、学生時代を振り返る作品を「われらがわれに還(かえ)りゆくとき」と題している。
 「結局、人間はひとりなんです。だけど、あるとき『われら』の幻想を抱いた。つかの間の幻想でした。全共闘って何か、わからない。一生わからないと思います」
 二度の結婚、離婚を経て歌人、作家として活躍する道浦は今、かたくなだった当時の自分を「『ねばならない』とか『すべし』に取りつかれていた」と振り返る。「『ほどほど』とか、『適当』も人生には必要なんですよ」。もし時をさかのぼれるなら、そう声をかけてやりたい。「でもイノシシですから。直りませんね」 (敬称略)

橋本 康介
橋本 康介 『今だれしも俯(うつむ)くひとりひとりなれ  われらがわれに変わりゆく秋』(道浦母都子)                         
2010年6月、拙ブログより:日本語には、英語の「We」に当る「語」がない。「我々」「我ら」は訳せば「We」だろうが、「We」という独立した関係性そのものではないように思う。 「We shall over come」 「We are the world」的な「ぼくら」の歌はほとんど無い(海外は不知)。                                
モノマネよろしく揶揄を込めて演じられたりする、ぼくらの時代の若者の「我々は~」という語り口調は、「我ら」欠乏を嗅ぎ取った若者の直感が、それを埋め合わせようと言わせたものだったように思うが、それが、イデオロギーによる過剰な「我々」だった不幸(?)を認めない訳には行かない。                                                 「We」が成立する条件は、その社会の共同の目標や公的受難の歴史性だ。昨日今日「頭で考えた」だけの促成「我ら」にはその条件が不充分ではなかったか。同時にその「我ら」は、「我」の「何処へも転嫁できない」己ひとりの「自己責任」を霧散させ「回収」してくれる、都合のいい装置でさえあったと認めたい。同世代の歌人:道浦母都子さんの初期の歌集『無縁の抒情』に、自己免責装置にしてイデオロギー過剰な「我ら」との自戒的訣別を詠んだ 『今だれしも俯(うつむ)くひとりひとりなれわれらがわれに変わりゆく秋』 がある。 章の標題は 『われらがわれに還りゆくとき』であった。

熊沢 誠
熊沢 誠 ああ、いい短歌を、いい文章を読ませていただいた。ありがとう。

橋本 康介
橋本 康介 恐縮です。そう言っていただけたなら、調子に乗って文章の続きを・・・。
もうひとつの側面として、仕事・労働の歌が無い。大衆歌謡が普及した社会の初期にはあった協働社会は姿を変え、労働現場や地域社会での「共助」は解体して行く。その反映だろうか、抵抗・祭典・共同創作・労働(直接表現は白々しいが)での「我ら」を匂わせてくれる歌もほとんどない。                               どうやら、個人は二人称とは強い絆で結ばれてはいるが、その先は飛躍して「国家」(さすがに歌には直接は登場しないが)に直結し、その間にあるのは「企業」や「食扶ちを稼ぐ労働」「意識せざる個利(個人ではない)主義」であって、Sociaty・Community・社会ではない。「友」や「仲間」との共同体験・共通苦難が、辛うじて「我ら」への道筋だが、それも労働現場では、「労働組合」が「まとも」である場合以外は、企業が用意した「我と乖離した」「我ら」が大手を振って来た。共同体・協働性・共助を支えるものとしての、「我と我」ではないひとつの「We」なる別もの、その欠落。それは、その社会の正直な表現だと言って差支えないのではないか。であればこそ、『我らなき我と切れゆくとき』をあえて意識していたい。

つぶやき駄エッセイ: ヘイトスピーチは「言論」ではない!

「ヘイトスピーチ」は「表現の自由」の範囲内か?

川崎市で6月5日に計画されていたヘイトスピーチ(差別扇動)のデモについて、福田紀彦市長は5月30日付で、デモの起点となる公園の使用を不許可にした。
一方、神奈川県警と神奈川県公安委員会は5日、道路使用を許可した。
当日、カウンター・デモがヘイト・デモを圧倒し中止に追い込んだのだが、これを「警察と一体になってヘイトスピーチデモを実力行使で中止に追い込むのは、いくらなんでもやり過ぎだ。やり過ぎだ」と論難している投稿があった。そうなのか?!
http://blog.goo.ne.jp/ra…/e/9d1cf3181fb5163dc5df5fda5365fb93道路使用許可

「表現の自由」を論拠に様々に語られるが、「言論の自由」と言うとき、その自由の限界範囲内に「ヘイトスピーチ」は想定されていない、というのがワシの考えだ。
「表現の自由」などの基本的人権は、唯一他の人権によってのみ規制される。ヘイトスピーチは「他の人権」の否定によって発せられるからして、基本的人権を成立させる要件を充たしていない。
それは「表現の自由」の外に在る。

ほろ酔い交遊録: 労働組合・・・見果てぬ夢

奇妙な呑み会。

フェイスブックの遣り取りでやや盛り上がり、一度寄って呑みまっか? となって、73歳・68歳・65歳が顔を合わせた。
時代と場所が微妙に半ば重なり・半ば近隣で、関与世界も近からず遠からずで、久し振りにお会いするには程よい。
三者三様に、考え・立場・行動に違いはあるが、根本はたぶん大きくは違わない。互いに、やんわり「違い」を述べて、「違わない」部分に乾杯して、日本一高いビル下の雑踏の中、三方向に別れた。
ワシには、普段聞けないいい逸話、目からウロコの貴重な話題、今から一緒に殴りに行こうか?なネタ、が面白かったでぇ~。
感謝!御礼!呑み会

要 宏輝 「過去との遭遇」のような会合でしたが、最も新しい記憶になりました。私が最年長でしたが、生きていれたからこその出会い、感慨深い時間でした。。

橋本 康介
橋本 康介 貴兄の「現役ぶり」に頭が下がります。その昔「学者以上の知見を具えた専従」と言われた伝説のミスター「総評・金属」。そのままの変わらぬ姿に感服。また、いつか声かけて下さい。ありがとうございました。

新居 晴幸
新居 晴幸 娘さんの闘いに興味を持ちました。

橋本 康介
橋本 康介 そうそう・・・。

橋本 康介

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熊沢 誠
熊沢 誠 飲まないが参加したかったね。

新居 晴幸
新居 晴幸 熊沢 誠 先生の話題も

橋本 康介
橋本 康介 「労働組合」の限界と可能性を考えた者の日々に、「熊沢誠」が居ましたよね。

「アジール空堀」  2016年6月5日 『詩人:金時鐘に出会う午後』

会場「ビストロ ギャロ」古民家は、築95年だ。つまり「戦災」に遭っていない。空堀の一角は空襲を免れたのだ。戦前と繋がる時空、都市部の裏路地のその空間で聞く1945年・・・。
アメリカはもう日本に反撃はもちろん国家維持の余力もないと・降伏前夜だと、そう知りながら、壮大な実験=市街地への原爆投下を強行した、二度までも。オバマはヒロシマ演説で「空から死が降ってきて、世界は変わった」と誰が投下したかという主語を欠いた言葉を発し、原爆をまるで自然現象のように表現して、ことの重大性・原爆被害への当事者性をひた隠しにした。
一方、日本と日本人はどうか? 原爆という事態を前に一挙に被害者へと横滑り、自国の戦死者300万人強、アジア各地の死者2000万人強、加えて膨大な負傷者・罹災者への責任を忘却した、自国の指導層を民自らの責任で指弾することも(うちの国もそれに近いが)・・・。
オバマ演説は多くのことを教えてくれる。金時鐘講演会

『・・・詩は好もうと好むまいと現実認識における革命なのです。・・・見過ごされ、打ち過ごされてることに目がいき、馴れ合っていることが気になってならない人。私にはそのような人が詩人なのですが、その詩人が満遍なく点在している国、路地の長屋や、村里や、学校や職場に、それとなく点在している国こそ、私には一番美しい国です。』
(06年12月、朝日新聞。安倍の「美しい国」発言に抗して)6月5日集合写真

*今日6月5日という日は、67年前1949年済州島を脱出した金時鐘青年が
兵庫県須磨の海岸にたどり着いた日だそうです。

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