Archive for the ‘ぼやき つぶやき 駄エッセイ  ’ Category

駄エッセイ 中西和久『をぐり考』

3月21日(木)
中西和久ひとり芝居『をぐり考』を観て来た。
う~む、と余韻を味わっている。
【説経節は説教を垂れない】
講談にも近いのだろうか、メッセージ性ある芸能「説経節」を初めて目と耳にした。「隔離」「排除」「差別」「蘇生」というテエマも「説教」臭なく響いて来る。蘇生したが見苦しい餓鬼阿弥姿(人形)のゾンビ状の小栗。土車で引かれるその姿を観て「事態」の底の重量に思い至るというお粗末ジジイでした。
もうひとつのテエマ:照手・小栗の「恋遂げ」を、途中二人の間の「密度」をことさらに語らないのも、観劇後の余韻の中で「照手の胸懐」が浮かび上がるという具合。流行りの今風悲劇レンアイ物のように饒舌に語ったのでは、白けるよな。
もう一度観たい、観て刻みたい。
「説経節」が伝えようとしたこと、受け止めた聴衆と「照手の胸懐」との間を往還しただろう想波・・・。庶民の高い水準の味わいの根拠地を知りたい、我も持ちたい。
2015年7月、単身赴任中だった東京から帰阪して同じく茨木で観た中西さんの「ピアノのはなし」は、抑制された芝居創りで、お説教反戦モノから隔たっていたと思う。
ワシは今、あの時に近い感慨の中に居る。



つぶやき 「妹の弔意」

【妹の弔意】
先々代・先代のネコたちが眠っている某所に、1月7日早朝亡くなった姉キキは埋葬されている。喪主(?)の妹ココを連れて参った。
その夜、ネコの写真で有名な岩合光昭さんのNHK番組『世界ネコ歩き』を観ていると、ココが画面のネコたちをじっと眺めている。やがて画面に亡くなったキキと同色同柄の茶トラが映ると、コタツの上に移動し陣取って画面に近づき動かずに凝視している。
しばらくして、その猫が移動してカメラに向かって来てアップになり、動作・雰囲気・顔の違いから明らかに別猫だと解かったのか、無言でコタツから降りて隣室へ去った。
その後ろ姿が醸し出す雰囲気は人のようだった。
人の いのち・死・記憶・・・様々なことを想った。

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つぶやき 『キキ:姉妹ネコのうちの姉 逝く』

【私事】
-年始の明暗事象-

年末から、世帯主殿は某ケーキ店クリスマスセール補助・某店「フレンチおせち」助手・某ケーキ店家事などで大阪~名古屋行き来して奮闘(?)し、ヨボヨボの居残り爺は独り歳末を超えてケーキ店へ合流、そこで温泉招待という望外のご褒美(?)にあずかり気を良くして、1月4日帰阪。

が、その不似合いな好事が災いしたのか1月6日(日)、前日も当日も元気にしていたキキ(姉妹猫の姉の方)が、夕刻寝ていたのだが、グッタリ頭を寝床の隅に押し付け始め様子がおかしい。夜になって胃の中のもの全部と言えるほど激しく嘔吐し、見る見る気力体力失せて行く。とうとう寝床から水飲み場に向かうにも、後ろ足がヨレヨレ状態で歩行困難どころか立つことならない。水が飲みたいのだろうと、器を差し出してやるのだが、水も飲めない。
あわてて掛かり付けのペット医院に電話するも正月休院or日曜休み。数カ所電話したがみなアウト! ネットで「北摂夜間緊急動物病院」(千里)というのを見つけ電話した。第一声「まだ息してますか?」との冷静なのだろう問いが、当方には何やら「宣告」のように聞こえる。
近所に住む息子の車を借りあわてて駆けつけ21:45に到着した。
各種検査の結果、異常は見られないという。ただ、腎臓機能がほとんど停止、リンゲル他の点滴は続けたが尿が出せない。その間も衰弱が進み、またたく間に「虫の息」状態となり、「何らかの毒素を摂取したようですね」。グァ~ン! 急性腎臓疾患・低カルシウム血症だそうで、今夜を乗り切るにも血液透析が必要で、それには20万かかるという。明日、掛かり付け院へ戻し、再度点滴するに針を固定して残し、一旦ご自宅へ戻られますか?(これは、宣告だ)。それにしても、ここまででもえらい金かかった。ワシの年金月額の半分以上や、明日からモヤシと切り干し大根や。
深夜2時帰宅し、先日購入したばかりの暖かいベッドに横たわったキキは、弱い息を続けていたが苦しんでいる風じゃなく(これがせめてもの救いだ)、午前3時過ぎ、世帯主とワシに抱きかかえられ声を掛けられながら、安らかに眠るように息を引き取った。
すすり上げている世帯主の傍らでワシは小林旭の『オロロン慕情』を黙唱していた。
『こんどは永い命をもら~い(オロロンバイ♪ オロロンバイ♪)、生まれておいで~よ』
(作詞作曲:遠藤実、歌唱:小林旭。『オロロン慕情』)

姉妹(キキ・ココ)では比較的元気で俊敏で活動的だった姉キキが、こんなに簡単にあっけなく逝ってしまうのかぁ~。キキ 享年1年8か月。ワシらが飼ったネコ史で、実に最短の生涯だった。合掌!

画像上:1月1日名古屋本山で某ケーキ店を営む長女一家+昨春茨城県へ移住し年末から来阪していて帰路ワシを名古屋まで送り届けた三男一家と店前で。
1月3日岐阜県関市「モネの池」にて孫(娘の子)と。神明温泉「湯元すぎ嶋」。
画像下:{キキの生涯}2017年、津山からやって来た頃。「かごの屋」に居た姉妹そっくりのぬいぐるみ。1歳で見せてくれた大ジャンプ。風呂場の高い窓枠から出入りするキキ。仲良しの妹ココと。大阪北部地震の際。北摂夜間緊急動物病院のカルテ。

つぶやき 「自由自治元年」

1980年NHK大河ドラマ 『獅子の時代』「自由自治元年」・・・。
「自由自治元年」の旗をなびかせ野山を街を駆ける、在り得べき無数の菅原文太たちのラストシーン。
NHK大河ドラマにも「もうひとつの明治」構想を問うたのがあったんや。と思ったら脚本:山田太一、主演:菅原文太・加藤剛やった。
この150年を1945年を折り目にして、パッタンと折れば、75年前は1870年=明治3年。

その75年は殖産興業・富国強兵・(不)名誉白人のアジア侵略の歴史。
75年後は2020年。その75年は、敗戦からの国体護持・擬制民主主義・親米ファシズム国家への負の道程。
「日本を取り戻す」と叫ぶ人びとよ、取り戻す、いや打ち立てるべきは「自由自治元年」!

駄エッセイ:『年をとる・・・。それは己が青春を 歳月のなかで組織することだ』

つぶやき:素人の 俳句?短歌?

波部壽一 『遠き日の汗と涙や甲子園』。「甲子園」は季語ではないと思います。「汗」は夏の季語です。
橋本 康介 汗と涙・・・? ワシはちと違う感慨から、全く私的な某年某月の無謀の夏を・・・。
波部壽一 橋本さんの句を受けて、作った作品ですから、少し無理があります。実は、私はあまり野球が好きではありません。
橋本 康介 ググると「甲子園は季語だ」という説もありますが、インフレでしょうね。
波部壽一 「歳時記」も何種類か出ているので、季語にしているものもあるのだと思います。私の手元の歳時記(三種類)には、季語として、載っていません。春の高校野球の大会もありますから、「甲子園」で夏の季語は無理があるように思います。
波部壽一 「汗」はどのような歳時記にも、夏の季語として載っているはずです。しかし、季語にとらわれないで、俳句は作っても良いと思います。私の知人で「無季の句」を作っている人もいます。

橋本 康介 そうですね。ともあれ、好きではない甲子園騒ぎに、某夏の稚拙で驕慢な出来事を反芻する老ではあります。いずれにせよ、汗と涙の甲子園というステレオタイプの青春賛歌という流れだと読まれるのは、一重に作者の責任。反省します。

波部壽一 私は俳句を始めて三年になります。俳句教室に通っています。「汗と涙」などという、手垢にまみれた表現を使うと、まず、教室で先生の「選句」には入らないでしよう。
橋本 康介 甲子園とあれば、即青春の汗と涙と発想する陳腐さから離陸したい、という皮肉を込めたつもり。



つぶやき:同居人と甲子園

つぶやき:八人の孫へ

(八人の孫たちへ)2018年8月15日

73年前の今日、1945年8月15日、日本は主要都市への空爆・沖縄地上戦・ヒロシマ長崎への原爆投下を経て、ようやっとポツダム宣言を受諾し、アジア太平洋戦争の敗戦を認めたのです。
この戦争でワシの父母世代(君たちの曽祖父母)の親戚の何人かが命を落としましたが、日本中の家庭がほとんど肉親を戦地や空襲などで失っています。ワシの父母は幸運にも生き残りました(だからワシという命があり、君たちの生があるのです)。
ワシの父(1998年に85歳で亡くなりました)は中国戦線に召集されたのですが、幼い頃、父から戦争の話を何度も聞きました。
「戦争したらイカン」と繰り返し言いましたが、こっちが幼いこともあり戦争の具体的な内容や戦闘の詳細は聞けませんでした。当時の子どもはよく「人を殺した?」と軍隊経験者に聞いていましたが、ワシは秘密に触るようで怖くてよう聞けませんでした。
ワシの幼少期には、働き先とて確保できない「傷痍軍人」(傷を負って帰還した兵士)が軍歌などを演奏して、街往く人から幾許かの支援金を頂戴する姿が街頭に溢れていました。
戦争や戦後混乱期のドキュメント番組がありますが、よ~く見て下さいね。
東北大震災・福島原発事故・最近の西日本豪雨被害などのニュースにある、家や家財が無くなってしまうこと以上に被災者の身近な人の死は取り返しがつきません。そして、戦争はその何千倍・何万倍の身近な人の死とそれにまつわる悲嘆に溢れています。
しかも、原発事故が人間が作り出したものであるように、戦争では他国の人の命を日本の軍隊などが奪うことになるのです。戦争は、日本では軍民合わせて310万人の命を奪いましたが、中国・朝鮮・ヴェトナム・フィリピン・インド・インドネシア・オーストラリア他アジアで、何と2,000万人以上の命を奪ったのです。
毎日新聞社「数字は証言する~データで観る太平洋戦争」
http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/
前段で言った「召集」された人々というのは、必然的に他国の人の命を奪う仕事に従事していたと言えます。戦争に参加させられれば、否応なくそうなるのです。

ワシの父、君たちの父(母)の祖父、君たちの曽祖父が晩年「どうしても中国へ行きたい。連れて行ってくれんか」と言い出し、ワシは君たちの父たち3人も連れて、中国の友人の案内で上海・杭州・近隣の農村・西安などを回りました。行く先々で父(曽祖父)は農村や街工場の小父さん小母さんに「すみませんでした」「ごめんなさい」とただただ謝り続けたのです。中国の人に「それは国と国の話ですから、どうか頭を上げて下さい。」と言ってもらい何度も号泣していました。号泣するしかない事実が父の中に戦後ずっと棲んでいたのです。
実際の戦争で、父(曽祖父)が何をしたのか詳しく聞いたことはありませんが、軍隊の一員であった彼が、軍の行動の一端を担っていたことは紛れもない事実です。彼の胸に去来した風景を想えば、戦争に翻弄された普通の市民の苦しい戦争と戦後だったのだと思います。
今生きている者は、戦争と無関係に命があるのではなく、こうした戦争で死ぬことのなかった者たちの直系なんです。
どうか、自分たちの命・他国の人の命が軽々しく扱われる全ての事柄に対して、それがなぜ起こるのか?そうならないためには何をすればよいのかを考える学生~大人になって下さい。
ワシは、戦争前・戦中・戦後に人々が「なぜ、そうしてしまったのか?」と、今なら言える事柄と似たことを、自分の人生で関与した取組み(学生期・労働組合運動時代・労組自主経営会社社長時代・K大校友連絡会・「アジール空堀」世話人)のいずれの場面でもして来たと思う。戦争に対して「何故?」「どうして?」と問いかけている同じことを、人に対して・人の集まりに対して・意見を言えなかった無口な仲間に対して、繰り返してしまった。

戦争に抗うことは、戦争推進者(これが一番イカンのやけど。奴らは懲りもせず繰り返している)の悪行/非道・心ならずも協力してしまった人々の無自覚と弱さ・日常的な関係でも非日常の重大事項でも似た言動を取ってしまう自分自身、識者が言う「明らかな蛮行」だけを教科書的に糾弾するくせに小学生でも解かる「礼節」や「人の道」を踏み外して平気な自称「左翼」たち、その全てを対象に考えることを含んでいなければアカンと60歳を超えてから痛切に思うようになりました。そして、それはなかなか出来ていません。

先般、君たちの母や父にワシの4/5人生の43頁のオモシロ可笑しい「画像資料と逸話の冊子」を渡しましたが、どうか大きくなったら読んで下さいね。
遺すモノが何もないからそれが遺品です。

1947年生まれ、70歳、妻1人、子4人、孫8人。 橋本 康介

つぶやき:オウム犯大量死刑

死刑制度には反対だ。
*冤罪の可能性がある限り(現にいくつかの実例を見ている)反対だ。極刑は取り返しがつかない制度だ。
*そもそも主権者たるワシらが「国家」に裁きの権能を与えることの必要必然は解かるが、「殺す」権能を与えているとは思わない。「殺す」それは別領域の事柄だ。

*「罰」の終了が「罪」の内容・意味・深度に向き合う当事者と世の義務を奪いはしないか、つまり「罪」と「罰」は違うという視点。
*他国を見れば、厳罰が重大犯罪の減少を結果しているのでない。
*被害者の心情は、必ずしも「極刑」によってのみ満たされるものではない。それこそ「復讐するは我にあり」だと思う。(神が言ったという。「人間に復讐の権能を与えてはいない。それは我の領域だ。」と)

今回の多数名同時処刑に震えて、明治以降、複数同時極刑の例を見てみた。
△「秩父困民党蜂起」(1884年):(1885年、田代栄助・井上伝蔵ら7名に死刑判決。井上は北海道に逃走の果て死亡)、
△いわゆる「大逆事件」(1910年):(1911年、幸徳秋水・宮下太吉・大石誠之助・菅野スガら12名処刑)、
△「2・26事件」(1936年):(1937年、首魁とされる野中大尉・香田大尉・磯部主計・北一輝・西田税らを含め計32名処刑)
△【別格】「極東軍事裁判」(1946年)(1948年、東條英樹、板垣征四郎、広田弘毅、松井石根、木村兵太郎、土肥原賢二、武藤章に死刑判決。A級戦犯7名は、1948年12月23日 当時の皇太子=現明仁天皇の誕生日に処刑された。)(一方、翌クリスマスの日、岸信介・笹川良一・児玉誉士夫らA級戦犯容疑者19名が釈放された)
などがある。

複数名同時極刑に込めた支配者たちの、その後の支配方針への断固たる意志表明か? 例えば岸放免は親米政権への布石だ、とか・・・。
現政権は、オウム麻原等7名への同日処刑にいかなる「意志」を示したのだろうか?
オウム犯罪という、何人も容認できない非道への「処罰」という場を得て、歯向かう者への戦後各政権には無かった断固たる構えを示したのか? が、「罪」と「罰」の混線が気になる。
自らが撒いたサリンを片付けた駅員を死亡させた医師林郁夫には、その供述が地下鉄サリン事件の全容解明への突破口を開いたので「自首」に等しいと、検察が死刑求刑ではなく無期懲役を求刑した。他方で、各実行犯の関与の度合い・犯意と被害の質と量・行為と結果を巡って混線があると識者は言う。ワシには解からん。

いずれにせよ、刑執行を明日に控えた晩に、法務大臣による万歳三唱の音頭取りはないだろう!

 

極刑の
朝は国ぢゅう
土砂塗れ

つぶやき:東京オフィスからの撤退&移住した三男一家訪問

【6月4日】

6月8日9日10日の金土日は東京へ行く。
2016年末から一年強の半休業、昨年~今日まで東京撤退の上、完全休業。
腰脚の不具合は改善しないばかりか、時に激しくもある。
雇い主と話し、事務所二階に残している布団・衣類・食器等生活用品を片付けることになった。腰脚事情から女房が手伝いに同行する。
茨木へ送ることもないモノは、ゴミとして若いメンバーに後日処理してもらう。
雇い主は「体調が戻れば、また協力して下さい」と嬉しいことを言ってはくれるが、今回の東京行は宿泊を伴うものとしては最後かもしれない(?)。
奇妙なものだ、6月10日14:00から、安倍政権の退陣を要求する 国会前大行動がある。
北関東に移転した三男夫妻(+孫娘三人)を、10日に訪ねようかと話していたが、国会前へ行きたい気分も抑え難い。う~む、最後のまとまった時間の東京をどうしようか?
時間的には両方は無理としても、どちらか一つは果たしたい。

 

6月11日 【私事 東京オフィス引退】
8日9日10日と、東京オフィスからの完全撤退(仕事柄=商業施設設計施工ゆえ徹夜を含み力仕事もありで、ちょっと無理)の片付け・荷造り・衣類食器などの処分・ゴミ処理・荷発送の「最後の仕事」で東京へ。
たまたまオフィス近隣はちょうど荏原神社の祭りで山車が出て大賑わい。ワシの引退を惜しんどるでと言うと、HELPで来ていた女房は「うるさいのが東京から逃げて行くのを街が祝ってるで」と減らず口。
まぁ、HELPのお陰で9日午後には仕事は終わり、今春茨木市から茨城県T市へ転居した三男一家(教員、茨城県で大学と院卒、妻の実家茨城+孫娘3人)を訪ねることができ、泊まった。これがあるから女房のリキの入れ方が尋常ではなかったんやな。
ワシも気を揉んでいた訳ではないが、元気な一家にホッっ。孫娘3人も新しい環境を受け容れ、早速ミニ・バスケットなどの得意領域にハッスルしているらしい。翌10日は、利根川を挟んで20分の千葉県A市に暮らす兄(ワシの実兄)を訪ね久し振りに会い、遅れて国会前へ・・・。
地下鉄乗り換えで二人でウロウロしていると女房が「映画『東京物語』のジジババみたいやね」と呟く。
念願の三男一家訪問と国会前行動、どちらか一方は実現したいと思っていたが、運よく両方果たすことが出来た。
腰脚不具合時に荷造りと雨中の国会前、充分骨身に堪え、アベ世を想い知らされた気分。このままでは終われないとは爺の独り言。

2006年からの某社(破産した自主経営会社の取引先が呼んでくれた)東京へ単身赴任(文字通り当初2年ひとり事務所)

2016年からの腰脚不具合で現場減少。

2017・18の東京現場回避・ほぼ大阪の状態、今回の完全撤退(若いメンバーに委任)、

dav

「さらば東京」ってな気分ではありますが(中原中也 詩集『在りし日の歌』「さらば東京! おおわが青春!」一九三七年)、ワシは爺だ。
本日は、新潟知事選の敗北もあって、すこぶる腰が痛いです。

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