Archive for 11月, 2016

「アジール 空堀」 11月13日『道浦母都子&趙博 ふたり会』

11月13日(日) 『道浦母都子&趙博 ふたり会』

道浦母都子さん、趙博さん、今野和代さん(司会及び幕題字揮毫)。

ありがとうございました。

都はるみ歌唱、道浦母都子作詞になる『邪宗門』『枯木灘 残照』を、作詞者の横で歌い上げる趙博さん。

まるで弟を見守る姉のように、目を閉じてパギの歌唱に聴き入る道浦母都子さん。映画的に言うなら「う~ん、いい画(え)だ!」。

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「どうしても選べと言われ選ぶなら、どの歌ですか?」との会場からの問いに、即座に挙げられたのが

ひとのよろこびわがよろこびとするこころ郁子(むべ)の花咲く頃に戻り来 
だった。

次いで聴衆へのサービス精神だろうか本音だろうか、その質問以前に会場からの質疑感想に出ていた二首を挙げられた道浦さん。

その一つ、父にまつわる歌というのは、

釈放されて帰りしわれの頬を打つ父よあなたこそ起たねばならぬ
振るわるる楯より深くわれを打つ父の怒りのこぶしに耐える
打たれたるわれより深く傷つきて父がどこかに出かけて行きぬ

のいずれかだろうか? 聞き逃したが、

おまえたちにわかるものかという時代父よ知りたきその青春を

ではないかと想像する。

というのは、会の前段の父上一家と朝鮮との関係を語られたお話で、

朝鮮に居た父上一家が、敗戦直後南へ逃げる際、混乱と暗闇の中、朝鮮人の男性に匿われ道案内を得て生き延びる。その男性は、「以前北海道の炭鉱で働き、帰る際に日本人が心を籠めて送別会をしてくれた。今度は私が返す番だ」と語る。帰国した一家に1947年、母都子さんは生まれた。この男性が居なければ、わたくしはこの世に存在できていないのです、と述懐された。

幼い日から、父にこの朝鮮脱出記を繰り返し聞かされて来た道浦さんだった。

会場の「父に打たれた側の道浦さんの、父への想いを聞かせて欲しい」への返答が「父よ知りたきその青春を」のこの歌だろうとワシは想う。

もう一つは、ワシがこの短歌に触れて以来、臓に居座っていて身から出て行かない

明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし だ。

80年代当時、幾人かの人が「決戦主義だ」「敗北主義だ」「情緒的に過ぎる」と論難していた。そうだろうか? これは、風雨に晒され雪に打たれても、ボロボロの旗となっても立ちつくしていようという、云わば「立ち方」を問う永遠の覚悟だ。

できてはいないが、そうでありたいとワシは想いたい。痩せた旗ではなく、肥満・腰痛・現場仕事撤退のワシ。学生期「極左」付和雷同期・そこからの脱走期・労組期・争議から破産法下20年の労組自主管理経営期、その破綻から東京単身赴任半ば日雇いの今。 客観的には団塊ジジイの敗走遠吠え以上のものではない。

ワシらは、すでに父であり、多くは孫までいる。会場は53歳が最年少というジジババ世代だったが、であらばこそ、きわめて今日的な短歌ではないだろうか?会場からの「戦後、左翼の数々の敗北史でも、もっとも拭いがたい悲惨を刻んでしまった、60年代末から70年代初頭」という全くその通りの指摘に、ワシらはそれぞれの方法論で答えて行くしかない、旗となるまで・・・。

 

趙博が言いかけたのは、

今だれしも俯(うつむ)くひとりひとりなれ  われらがわれに変わりゆく秋 だった。

聞き取れなかったが、趙博は「そうやって辿り着いた『われ』からこそ、今『われら』の復権を目指そうぞ。『われら』と『われ』との往還に居たい」と言った(ように思う)。

趙博がきわめて遠慮がちに語った「芸人・歌い手としての自分、運動実践家としての自分、舞台役者・劇作家としての自分、在日知識人・社会科学者としての自分・・・、その云わば『二兎を追う』身の苦悩は、ある意味痛々しい。

けれどパギ、二兎も三兎も追え。これまで通り「河原乞食」の矜持を余すところなく示せ。そこにウサギではない虎を射止める、独自の、どこにもない立ち方が必ず現れる。と非当事者のジジイは気楽に言ってしまいよる(失礼!)。

苦悩するパギに、ここで一句差し上げる。甲南大学退任(2006年)を間近にされていた熊沢先生の2001年の年賀状に沿えらた句で、作者の気概に圧倒されたんです。パギも好きな加藤楸邨の句だ。熊沢先生が、その後、大著『働きすぎに斃れて──過労死・過労自殺の語る労働史』(2010年、岩波書店)をものされたことはワシらが知るところです。

チンドン屋 枯野といへど 足をどる

追記:『道浦母都子&趙博ふたり会』報告FB投稿に、熊沢先生から一昨日、「熊沢誠:ああ参加したかった!」とコメントいただいたことお伝えします。

 

通信録: 「喪われた時を求めて」-消えた八王子の記憶-

〇〇  〇〇 様

拝啓、すっかり冬めいて参りました。お元気でしょうか?

過日(10月7日)は突然の訪問にも拘わらず、ご親切に老体の話をお聞き下り、押入れから遠い日のアルバムを引き出し1970年当時のお写真を探し出し下さり、誠にありがとうございました。お話した内容の要約を再掲させていただきます。

 

46年前1970年9月~12月、私は、現在は一戸建てであるお宅様の地に在ったアパートに居住しておりました。同年末に東京都足立区竹ノ塚に移転し、翌71年2月、大学時代から付き合っていた女性(現女房、彼女は70年春から、やはり学生生活に破綻してか山陰地方の実家へ戻っていた)と結婚するのですが、そこからの記憶も八王子以前の記憶も確かで、切れることなく繋がっています。また、結婚当時、八王子のことは会話に出ていましたし、私の記憶にキッチリありました。その後45年間、自分の中で八王子記憶が崩れ去っていることを自覚する機会もなく、夢にも思わぬことでした。

今回、東京赴任が終わるに際して、八王子を訪ねようと思い立ったのですが住所が分かりませんでした。八王子に居た3か月の間、故(*1)あって友人知人の一切の訪問もなく、親を含め通信の類は手紙・電話とも仕事先(水道橋)を使っておりました。八王子には云わば寝に帰るだけにような具合でした。住民票も戸籍謄本付票にも期限切れで1970年の住所へ辿れず住所が分からずでしたが、当時国民年金だったのではと思い立った女房が古い国民年金手帳をやっと見つけ出し、そこに記載されていた住所=八王子市西寺方町11××を特定したのです。しかも、付近まで行って11××、11××があるのに11××、11××が無く、近隣で訊ねても解からいのです。思い余って八王子市役所恩方事務所を訪ね、住所地を確認し日暮れ頃再訪し貴方様にお会い出来て、話をお聞きいただいのでした。ありがとうございます。

(*1)

前年、仲間と一緒にある「もめごと」に関与し、私は仲間を信頼もし好いてもいたのですが、さらに「もめごと」を継続するには、仲間の構成の仕方や物事の進め方などに疑義があり、かと言って「もめごと」の相手方に与する気はさらさら無く、ここは身を隠すようにヒッソリとしていようというのが、私の「選択」でした。学生期から勤務していた大阪の会社の東京事務所開設の伴い70年夏に上京するのですが、社長のお知り合いの紹介で八王子へ来ました。アパートの下見に同行した社長が、「水道橋から遠いけど、ここでええのか?」と何度も言ってくれたのですが、八王子にまで案内してくれた社長にも紹介してくれたお知り合いにも悪いなと思う若気と、前述しました「選択」とが合わさって、私は遠い八王子を承知したのです。仲間には、八王子の住所を告げず、水道橋の事務所を伝え、時にはその事務所へ仲間が訪ねて来ていました。私の復帰を暗に求め、幾許かの行動費を求めては帰って行きました。が、居住地をしつこく問うことはありませんでした。そんな次第で、八王子には誰一人訪ねては来ていないのでした。

今回、八王子へ行ってみよう、と思い立ってからも、建物の外観・部屋の間取り・バス停までの道中が全く思い出せずにいました。

JRも京王も八王子駅周辺には記憶を呼び起こす画像は何ひとつ無く、バスの車中の窓からの風景にも何も思い当たりません。バス停から見える街並にも記憶が戻りません。46年という歳月が小路を舗道に、雑木林を公演園や保育所に変えているのか、全く記憶を呼び覚ます風景が無いのです。

風呂の位置が思い出せず、そこから部屋全体が思い出せないのかなと思っておりましたが、その理由は今回の訪問で解かりました。

風呂は、外風呂=庭の外呂小屋だったんですね。

%e5%85%ab%e7%8e%8b%e5%ad%90いただいた写真の右端に写っている小屋から、外に風呂があったことだけは思い出せましたが、風呂小屋内部は思い描けません。外部の鉄製階段やその支柱は確かにその踏板を登った記憶にダブリますが、実感や引いたアングルからの画像が浮かばないのです。

私が西寺方町11××に居たのは、1970年の初秋から年末までなのですが、私の記憶では階下に居られたのは、お家主さんではなく、若いご夫婦でした。

ご一家がこのアパートを住居としてご購入され一階を改装して住まわれ、二階を人に貸していたというお話ですが、ひょっとしたら、転居して来られたのは1971年以降ではないでしょうか? 写真の隅にも「FUJICOLOR 8 72」とあり、撮影日は72年8月のようです。

で、お訊ねします。

①アパートご購入ご移転の年月はいつでしょうか?

②1971年以降だとすれば、1970年秋から年末の時期に所有されていた方はお判りでしょうか? 辿れるようでしたら、お教え下さい。

外観や間取りが解かる資料をいただきたいのです。そこから「消えた記憶」の復旧に辿り着きたいのです。

まるで、ジグソーパズルの消えた2~3片、パソコンの行方不明のドキュメントのようです。パソコンなら場合によってはそれを復元できるのに、私の「消えた記憶」は今のところ復元できません。

私的な、下らない案件にお手を取らせますが何卒ご協力ください。1947年に生まれ今日までに居住した総て(計21か所)の場所に記憶があるのに、1970年9月~同年12月までの、八王子の時期だけがスッポリと一切の記憶が消えているのです。

前述しました、建物の外観・間取り・バス停への道中に留まらず、例えば休みの日に布団を干して近隣を散策しただろう風景・買い物もしただろう近隣の店・浸かった風呂の内部・洗濯物を干した光景・食器洗いした流し・・・何も像を結ばないのです。

こんな事があるのだろうか?と不安なのです。

これらの経過から、いずれかの時点で「記憶が消えた」としか思えないのです。もっと古い記憶・その他のそれなりに込み入った記憶は各々鮮明にあるのに、八王子記憶だけが・・・というのは納得できないのですが、人の記憶というものがこのように前後関係なくある部分から崩れるのかも知れません。

アルツハイマー症の初期症状ではないのかとの懸念もあります。10数年前に、脳内出血をしましたが、その際に記憶のワン・ブロックが崩れたのか?とさえ思うのです。

いずれにせよ、記憶の復旧又は記憶が消えるメカニズムの納得へと進まないことには、大げさに言えば我が人生が繋がらないのです。苦しんでいます。

どうか上記①②についてお願いいたします。

なお、先日のご親切に対する心ばかりの御礼を別便にてお送りしました。

どうかご笑納下さいませ。

年内に、再訪できればと思いますので、よろしければご自宅のお電話orスマホのナンバーお教え下さい。

当方は 090-3712-5346 です。

〒567-0891 大阪府茨木市水尾3丁目3-39    橋本 康介

 

 

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