Archive for 11月, 2012

日曜日 テレビ漬け。 橋下・石原 茶番劇、そして森光子さんの「放浪記」

久し振りに予定の無い日曜、TV三昧とばかりにアレコレ観ていた。

ひとつは、橋下・石原の合流茶番劇のニュースの繰り返しだ。                                                                              「合流には政策の一致が前提」と力んで語っていた「維新の会」代表:大阪市長:橋下らは、「暴走老人」と自称する元首都知事:石原のにわか作りの党が解党して「維新の会」に合流するというカタチの合流を決め、「維新の会」の代表に何とその「暴走老人」が座るというデタラメ裏技戦法を演じて見せ、                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             予想通り「2030年代に原発全廃を」を「原発安全基準などルール構築」に変える「調整(?)」をして見せた。                                                                                                          安倍が自民党総裁選に立候補する直前には、彼に「是非、うちのトップに座って欲しい」と言っていたのだが・・・。                                                                                                  (早速、今日安倍は維新の会を「良きライバル」と持ち上げている。合わせて三分の二をと願っているのだ)                                                                                                                   そもそも彼らの擬組織が「党」などと自称したり、民主主義を語ること自体が一種の詐術なのだ。                                                                                                                                                                                                                                                                 ボスとボスの手打ちで合流のカタチを決めたり、代表を決めたり、・・・。この作法・手続の中に既に彼らの政治思想の核心が見えている。                                                                                       こうした独断性・個人プレーに「維新の会」内部から異論が出ないのなら、「私党」だと言わざるを得ない。「党」の体を為していないし、「党員」に自覚も自尊も民主主義も無い。あるのは維新ブームと石原・橋本人気にくっ付いて「議席」を確保したい邪心だけなのだ。                                                                                                                                                                                      このドタバタ劇に有権者はどんな審判を下すのだろう・・・?                                                                        まさか、このインチキを見抜けないほど有権者は無思慮だとは思えないのだが、しかし・・・。

                                                                                                           もうひとつは、森光子さん追悼特別番組だった。こっちは味わい深く、                                                                                                                                    米倉斉加年・黒柳徹子・池内淳子(ご生前の録画)・石川さゆり・篠山紀信・赤木春恵など親交のあった人々の言葉には重みがあった。                                                                                       吉永小百合さんがナレーターを務めた「放浪記」公演2000回、『芸術座』建替記念のNHK2005年の特集番組の再放送は、                                                                                                                                                   森光子さんの幼児期からを辿り「昭和を生き貫いた女役者」の圧倒的な一生を、昭和という時代を重ねて描き秀逸だった。                                                                                                                                   嵐寛寿郎の従妹だった森さんは、1920年、京都木屋町の料理旅館の女性と学生だった男性との間に生まれたという。13歳で親と死別。                                                                                                        戦争中は、戦地慰問団の一員として中国戦線を回った。その道中の列車の中で四つ年少の赤木春恵と出会い、以来二人の友情は続く。                                                                                      赤木の「金八先生スペシャル版」での長~い「校長の反戦講話」セリフ(10分)は実体験を土台にした実に見事なものだった。                                                                                               赤木は森さんを「心友」と言っており、二人は慰問団の歌唱を正座して聴く若い兵士の表情を忘れることなど出来ないと言っている。                                                                                                  森さんは南方の慰問先=セレベス島で空襲に遭い九死に一生を得る。                                                                                                                     戦後大阪のお笑い舞台と創生期テレビに、58年菊田一夫に見出され東京へ、61年菊田一夫脚本『放浪記』林芙美子役で初主演、41歳だった。                                                                                        以来『放浪記』芙美子を演じ続け、2009年5月、東京帝劇の千秋楽で2017回公演となった。                                                                       森さんが遺した言葉が印象的だ。                                                                                                           『役者はちょっと不幸な方が、いい芝居ができるのよ』                                                                                                                『戦争をする政府は、そうしなければならない理由があったんだと、必ず言うけれど、もしそうだとしても、                                                                                                                                                                  それはしてはならないんです。戦争を知っている私たちが、そのことをもっと大きな声で言う責任がある』                                                                                                                                              この言葉には、「芙美子の戦争協力に対して舞台:菊田『放浪記』が沈黙することへの、複雑な想いが滲んでいるとぼくには思えてならない。                                                                                                                                                                                                                   林芙美子は、新聞社の従軍特派員や陸軍報道班員として中国やインドネシアの前線に行き、大日本帝国の戦士たちの勇壮な「物語」を、                                                                いくつも書き「太鼓叩いて、笛吹いて」戦争を後押ししたそうだが、ぼくは詳しく知らない。                                                                      http://toku.blog2.fc2.com/blog-entry-77.html                                                                                                                                                           http://www.shisokan.jp/hansei-joseigaku/onna-senso-sekinin/                                                                        http://klis.tsukuba.ac.jp/assets/files/s0711569-2011010610420116500A.pdf#search=’%E6%9E%97%E8%8A%99%E7%BE%8E%E5%AD%90%E3%81%A8%E6%88%A6%E4%BA%89′                                                                                  戦後は、一転して戦争未亡人や復員兵ら、戦争に翻弄されたふつうの人々を描く作品を次々に発表した。                                                                     戦中の国民を鼓舞する作品への非難もさることながら、その変わり身は小ざかしい処世だと多方面から論評された。                                                                                                                                                                                                                      森さんは役作りに当って、自身の「慰問団」体験を動員したと思うが、彼女の二度の婚姻を含めた戦中戦後の実人生の                                                                                                                                                          「ちょっと(どころではない)不幸」は、芙美子への非難をも容れた上で芙美子になり切るに相応しものだったのだと想う。                                                                                                                                                                                                           いつか『徹子の部屋』で、森さんより約一回り強若い1933年生まれの徹子さんとペギー葉山さんが「勤労動員、学童疎開」世代の責任に触れて                                                                                        「語り部」になるべきだと「世代」の「伝える義務」を力説されていたのだが、世代の責任を語る人が、一人又一人と去って行く。                                                                             公的体験を伝えるということの自覚が、言い換えるとどうしても伝えたいことが、わが世代にはあるだろうか?                                                                                                                                                            いや、その前に、わが世代の公的体験とは何なのか?                                                                                                  80年以降、それぞれの場で、今日橋下旋風がまかり通るような世の、そもそもの生成過程を見過ごして来たというのが、                                                                                                                                                                                                                          お前達世代の「公的記憶」の核心ではないのか?と問われれば、ぼくは否定できはしない。                                                                                      (例えば、ぼくならぼくは、後に87年「国鉄分割民営化」、87年「全民労連」~89年「連合」へ、同年「総評」解散・・・に至る文脈の一環として、                                                                                                                          つまり雇用形態・労働秩序・働く人権の根本改変への大きな一歩として「労働者派遣法」《1986年施行》を捉えていただろうか?)                                                                                     

今日も「行政の仕事をどしどし民間に解放して行ってるのです。要は競争です。競争の無いところに改革はない」とうそぶく橋下が画面に居た。                                                                                               「公」の任務を外注下請化し競争に晒しての費用カットを断行し、自治体労働者の自発性の解体、無条件服従化・人減らし・下請化による                                                                                                                                 労働環境とサービスの質の低下を進める者が「解放」と言い、「改革」と言う。 言葉は怖い・・・自立支援・規制緩和・おもいやり、、、、                                                                      某週刊誌の佐野真一のレポートは切り口も方法論も大問題だし、中止し謝罪すべきだが、                                         彼の公的記憶ならぬ、金的記憶=サラ金の零細企業向け高利の別会社の弁護活動で「連戦連勝」ということの中身=で培った                                                                                                                                   世界観・人生観・価値観の根っ子を知りたいところだ。                                                                             「維新の会」は今、その価値観を「どうしても伝えたい」と行動しているのだろうから・・・

だが、ぼくらにも「どうしても伝えたい」ことはあるんだぜ!                                                                                   

 

つぶやき:ヨーロッパには民衆蜂起の記憶があるが、日本には・・・と言うけれど

何の何の、パリ・コミューンのころの日本では・・・

パリ・コミューン1871年は明治4年だが、明治3年という年に、引っ掛かるような感覚の記憶があった。                                                                                    故・脇田憲一さんが最期まで語っておられた、ご郷里=小藩:宇和島藩の一揆、それが明治3年だったと思い出した。                                                                                                                                 脇田さんには、ぼくが関与した勤務先の組合潰し偽装破産と職場バリケード占拠闘争・その中での自主管理運営、それへのご助言、                                                                                                                              駄小説執筆に際しての実際のご体験の述懐、資料提供や逸話のご紹介・・・、多くの場面でお世話になった。                                                                                 (脇田憲一著作の書評: http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re37.html#37-2 )                                                                                                   

脇田さんは、1870年(明治3年)4月~の宇和島藩の「野村騒動」「三間騒動」など一連の維新後の全藩的一揆は、                                                                     打毀しから「庄屋征伐」と呼ばれる蜂起に至る、自由民権運動とも連動する世直し運動であり                                                                                     「これは宇和島コミューンである」と言い続けておられ、                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       「宇和島コミューン」に、現代左翼の混迷を解くヒントや再生の可能性を見定めておられた。

明治初期にはまだ産業社会は始まったばかり、農民は85%前後(ちなみに江戸末期の武士比率は約7%)だった。                                                                                                            工場労働者ではないし、プロレタリアという括りには無理があるが、八割を超える農民が封建国家の財政と一割以下の武士の「食」を支える生産者層であったことは間違いない。何が「ジャパン」だ!                                                                                                       宇和島藩の世直し運動は、貧農小作だけでなく富農・庄屋層・元武士・新政府県官吏や調停に奔走した初期自由民権派インテリまでを糾合する陣形で闘われ、一時新政府県令に要求項目を呑ませ休戦協定を結び、自治が始まる手前まで行ったという。やがて、廃藩置県で全国に配置された新知事の協定破棄の騙まし討ちと武力を伴う強権的指揮に敗北を余儀なくされる。

脇田さんは言っていた。宇和島コミューンは、現代で言う、生産労働現場・消費や居住の生活現場・生活困窮者の自立・地方自治や地域課題への市民運動などを、守備範囲に抱えていたぞ。今日、例えば労働運動は、何故「非正規雇用者の問題を我が事とできないのか」、勤務先の事情に縛られてか電力産業からの真綿の支配が強大なのか、大企業労組は何故「反原発を打ち出せないのか?」と問うておられた。                                                                      http://blog.goo.ne.jp/hama8823/e/68d203c92ddcdeb5635d6f255abb17c5                                                                                                                                                                                       脇田さんは、職場の利害から出られない(出ようとしない)労働運動、自身の働き方や労働の影響結果(例えば公害・農薬漬け・騒音・道路公害など)を質せない(質さない)住民運動、自らもまた生産者であることを忘れ、時に消費者エゴに終始しがちな複眼を失った生協とその組合員・・・・、                                                                                                                        これら互いが互いを問い合う(気付きあう)緊張関係を内に抱えもって融合する思想と行動が、自治・自営・共助のコミューン思想だと語られ、                                                                                                                                          地域のコミュニティ・ユニオンなどといっしょになって「トータル・ユニオン」を提唱され結成された。                                                                                               脇田さんは、故郷宇和島の明治初期の一揆に在った叛乱と自治・コミューン思想に現代への教訓を求め続け、最後の十数年                                                                                                                                                                               ライフ・ワーク「宇和島コミューン評伝」の調査・執筆に没頭され、その完結に至ることなく2010年11月他界された。ご無念だったと思う。合掌!                                                                                                      

明治維新に対して「自由民権一揆」という歴史的位置・・・。ならば今、あの「維新」に対して、どんな位置取りを作り始めるのか・・・ぼくらは。

明治初期の民衆運動、明治に入ってからの一揆・世直し運動(http://www004.upp.so-net.ne.jp/pre_toke/religion/nenpyo/chronological_table.htm)の多くが旧・武士階級:不満士族の反新政府行動に誘発されたという見解に、強い異論を語られたのだがその時の言い回しを憶えている。                                                                                                                            『そういう見解は、パリ・コミューンは、対独講和反対や反独ナショナリズムや                                                                                       パリ恋しの愛国思想によって成り立っていたと言うのと同じです。                                                                                                                           市民の側の主体性を見たくない者の偏見に満ちた言い分です。                                                                     中国革命のヘソは満州族「清」王朝に対する漢民族の反「清」民族主義だとか、                                                                             60年安保闘争は戦勝国アメリカ憎しの反米ナショナリズムによってあんなに盛り上がったとだけ繰り返す、                                                                                                                       叛乱する民の心を知らない者の発想です。確かに、叛乱の時期というのは、主体の側で制御し通せるなら                                                                                                                                                                                                                                                                  ナショナリズムが叛乱にとって援軍でもある、と相場が決まっていたのも事実やね。けれど、それらは一要素であって核心ではない』                                                                                                                                                                                                                              民族主義やナショナリズムとは切れていただろう、農民層の反政府蜂起の例として、「秩父困民党」の闘争を想い出す。

【追記】                                                                                                           1884年(明治17年)、                                                                                            11月1日~11月9日、自由民権運動影響下の                                                                             秩父困民党による農民層の対明治政府武装蜂起(いわゆる「秩父事件」)。                                                                                                    この事件を知った高校生期、「秩父コンミュン党」とダジャレってた。                                                                                                          http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id320687/                                                                                                               http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E5%9B%B0%E6%B0%91%E5%85%9A%E7%BE%A4%E5%83%8F-%E4%BA%95%E5%87%BA-%E5%AD%AB%E5%85%AD/dp/4404032420                                                                                                http://www.youtube.com/watch?v=RRx8EBp6eMk                                                                                                                                                                            http://books.google.co.jp/books/about/%E5%BE%8B%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%A9_%E4%BB%81%E4%BF%A0%E8%80%85.html?id=G5gyAQAAIAAJ&redir_esc=y                                                                                                                 http://books.google.co.jp/books?id=rKrTAAAAMAAJ&hl=ja&source=gbs_book_similarbooks                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        

歌遊泳: 市民シャンソン講座から 1871年5月パリ・ロワール通のバリケードへ

尖閣・竹島とシャンソンそしてパリコミューン

市民シャンソン講座の発表会に親しい知人が出ると聞き、市のホールへ出かけた。それがキッカケとなって、                                                                                       YouTube などでシャンソンを聴くこと多いこの頃。                                                                                                      シャンソンは、ごく私的な愛の物語を唄う時も、『その輝き・蹉跌・再生は、「時代」が抱えることになるだろう                                                                                            社会的「失意・栄光・憤怒・希望」(公的記憶=パブリック・メモリー)と共振しているんだよ』とつぶやいている。                                                                                                                                    その上で、『それは何処にも誰にも譲れない、私だけの、個的な尊厳に関わる事柄なのさ』とささやいてもいる。                                                                                                                                                                    シャンソン。それは、道理と憲法に反する職員条例を強行して恥じない精神になど、決して宿らない種類の文化なのだ。

『さくらんぼの実る頃』パリ・コミューン1871年)の、『美しき五月のパリ』はその約100年後:1968年パリ五月の、その渦中に生まれた。                                                                                                                                                                                                                                      『サン・トワ・マミー』『雪が降る』『ろくでなし』で有名なサルヴァトール・アダモはシチリア生まれのベルギー籍で、自作の歌を多言語で唄っている。                                                                                                                              『時は過ぎてゆく』の作・歌唱のジョルジュ・ムスタキはギリシャ系ユダヤ人である両親の亡命先エジプトで生まれ、17歳でパリへ来て、                                                                                          そして、永い歳月を経て、「在仏地中海人」と自称するアイデンティティに辿り着いた。                                                                                            これらの歌は国境や民族を越えたい者共通の財産なのだ。                                                                                                                                                                            『さくらんぼの実る頃』 イヴ・モンタン                                                                                                               http://www.youtube.com/watch?v=ncs4WlWfIZo                                                                                             『美しき五月のパリ』 加藤登紀子                                                                                                                http://www.youtube.com/watch?v=m-9vdTyuUj0                                                                                                                          『ろくでなし』(原題は「不良少年」) サルヴァトール・アダモ                                                                                                                           http://www.youtube.com/watch?v=BM_2igjbxjc&feature=related                                                                                             『時は過ぎてゆく』 金子由香利                                                                                                  http://www.youtube.com/watch?v=coiXF-PqgGQ                                                                                                                                                                                                                                           

                                                                                                                                            尖閣や竹島が浮かぶ海に、「在*東アジア海人」と自称する者の歌が境界を越えて唄われ響く世紀が、                                                                                                 どんなに遠くとも必ず来るのだと、シャンソンを聴く時くらいは想っていたい。

 

【追記】                                                                                                                                『さくらんぼの実る頃』はジブリ映画『紅の豚』で知った加藤登紀子さんの歌唱を含めて、それぞれに味がある。                                                                その中でぼくナナ・ムスクーリさんが唄っている版が大好きなのだが、その理由はこうだ。                                                                                                                                    イントロからラストまで流れるギリシャ風・エーゲ海風アレンジ旋律の伴奏と、彼女の澄み切ってピュアな声質によって、                                                                                                                      パリ・コミューンの精神が蒼い地中海と全ヨーロッパの空を貫いて鮮やかに響き渡っているような気分にさせてくれ、この曲と歌詞が捧げられたという、パリ・コミューンの渦中に散った若い看護助士ルイーズの物語を思い起こすからだ。 http://www.youtube.com/watch?v=jycvRlQI_hw                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         ナナ・ムスクーリ                                                                                                             

パリ・コミューン:1871年3月18日~同年5月28日、市民の蜂起によりパリに実現した自主管理政府。                                                                                 「普仏戦争」(1870、7~1871、2)とは、やがてドイツを統一するプロイセンとフランスの戦争だ。                                                                                    開戦直後たちまち敗色濃厚となったフランスはナポレオン3世自身が捕虜となり退位、                                               9月4日臨時国防政府を設け第三共和制の成立を宣言し戦争続行。                                                                          が、ビスマルクによって完成された統一ドイツの圧倒的軍事力の前に形勢変わらず、                                                 70年末~71年明けにかけてパリはプロイセン軍によって完全包囲された。市内は飢餓状態的食糧不足に陥る。                                                                                                  71年1月28日、国防政府はプロイセンに対して正式に降伏する。                                                                       2月、ティエールを首班とする、降伏後の和平交渉を担う臨時政府が誕生、ボルドーに国民議会を召集した。                                                                                                                  フランス有数の鉱物資源宝庫=アルザス・ロレーヌ地方の割譲などの交渉経過に、多大な犠牲を払ってパリを防衛したパリ市民は降伏を認めず、                                                                      3月18日市内各所で蜂起した。市庁舎を占拠し、18日夜にはパリ市民による自治政府:パリ・コミューンが誕生する。                                                                                        パリ市民による選挙が行なわれ、1871年3月28日パリ市庁舎のバルコニーからパリ・コミューンの成立が高らかに宣言された。                                                                ヴェルサイユに本拠を移し構えるティエール政権は5月に入るとドイツの支援を得て、                                                         中旬には、コミューン内の内紛情報も得て、パリ総攻撃へ向け最終準備に入った。                                                                                         パリ市民は総出で各主要道路にバリケードを築き「来たるべき日」に備えた。                                                         5月中旬サクランボの季節、籠いっぱいの実を抱えてロワール通りの                                                                          バリケードにやって来た二十歳の看護助士ルイーズ。                                                                              彼女は言った。「わたしにも、できることがあるはず・・・」。                                                                                                 数日後、コミューン軍最前線の「野戦病院」に彼女は居た。                                                                                              5月21日、国民議会派軍がパリ市内入城。市内各地で壮絶な戦闘が始まった。                                                                                          コミューン軍は善戦したが、5月28日のペール・ラシェ-ズ墓地の戦闘を最後に力尽きる。                                                                                            多くのパリ市民とコミューン関係者が虐殺され(通説:3万人)、セーヌ川の水が赤く染まったと伝えられている。                                                                                  逮捕者4万人、内処刑多数(300~10,000、諸説あるが四桁だとされている)。                                                                                                     1871年3月18日から5月28日まで、歴史上初の労働者・市民による自主管理政府=自由社会主義パリ・コミューン72日間の短くも濃い命、                                                                                                                その死とともに逝ったルイーズ。彼女は、パリ・コミューンの記憶とともに、『さくらんぼの実る頃』の歌の中に、伝説となって今も生きている。                                                                                                   コミューン評議会内部の対立と混乱は、コミューンを維持する方法論(多数派=人民独裁論派VS少数派=多様勢力との連立論派)を巡る                                                                             現在も続く古くてお馴染みの「未完の論争」だが、それはさて置き今は、間違いなく現代社会へ受け継がれた財産と言うべき、                                                                                  コミューンの混乱の中から発せられた政策の数々に、パリの人々が血で贖って得た「近代の智恵」をこそ見たい。                                                                                                                                                                                                       コミューン、それは選挙権・被選挙権・言論/結社の自由等の剥奪の上に、**主義を標榜する「塔」によって上から築かれた政府ではない。                                                                                                                                                                                                                          パリ・コミューンの遺産=「婦人参政権」「無償義務教育」「児童夜間労働禁止」「政教分離」「主要公職公選制」など                                                                                                                                                                                                                                                                         

BobbejaanSchoepen(ぼくには読めません)というベルギー籍の歌手、2008年83歳での収録歌唱。味わい深い。こういうジイサンになりたい!                                                                              http://www.youtube.com/watch?v=B8VQnDxY8Yw&feature=BFa&list=PL0C216C92913B3BC1                                                                                                                                                                                             

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