Archive for 3月, 2014

ムラと、ある名誉毀損

金時鐘

金時鐘さんの詩と著作の読者/2014年3月5日

いま、ある人の名誉が著しく毀損されている。ある人とは、詩人:金時鐘さんである。

高名な詩人=北川透氏が、金時鐘さんの思想・経歴・立場について、誤認に基づいた内容を自説として公言している。

金時鐘さんの、渡日以来の永い事実経過(金時鐘さんの詩作・エッセイなどの著作・そして思想領域での営みや運動領域での明らか

な立場)を少しでも読めば・知れば(そして、それは誰にもすぐに)解るはずの実像を、不用意にか故意にかは知らないが、誤認し

公の場で発言し、次いでその内容を思潮社が文字にしたのだ。

第3回鮎川信夫賞贈呈式での北川氏のスピーチと、それの『現代詩手帖』(2012年8月号)への掲載だ。この賞には、詩集部門と

詩論集部門があり、金時鐘研究の第一人者でもある細見和之氏の『ディアスポラを生きる詩人 金時鐘』が詩論集部門の最終選考に

残ったが、受賞は、詩集部門では藤井貞和氏の『春楡の木』が、詩論集部門では野村喜和夫氏の『移動と律動と眩暈と』と『萩原

朔太郎』の二著作だった。

(注:ディアスポラとは離散を意味するギリシャ語で、パレスチナ以外の地にすむユダヤ人またはその社会に使われたが、転じて、

原住地を離れ異郷に定住する者などにも使われる。)

北川透氏が細見和之氏の著作への講評の中で、金時鐘さんに触れた部分だ。北川氏にしてみれば、「ああ、そうでしたか」

「どっちでもいいじゃないですか」程度だとしても、金時鐘さんが「思想」と「立場」を賭けて、それこそ「生」の核心に置き、

永い歳月を通して格闘して来た内容に関わる事柄であれば、話は別だ。いい例が思い浮かばないが、脱原発・反原発に時間と労力

を費やし活動して来た者が、「君は反原発を唱えているが、一方で電力会社の原発推進政策の後押しをしているし、して来たじゃ

ないか!」と全く事実に反する(いや全く逆の)非難を受けたような種類の事柄だ。あるいは、労働組合運動の再生・再建に腐心

し、零細企業労働者・下請企業労働者・非正規雇用労働者・コミュニティ・ユニオンの可能性などに言及し活動もする学者が、

「君は基幹産業労働組合礼賛に基づく論陣を張って来たじゃないか」「労働者派遣法を推進したじゃないか」と、全く事実と違う

(全く逆の)論難を受けるようなことだ。一番大切にして来た事柄を、真逆の理解に基づいて非難されるとは・・・、それは放置

できない。何故なら己が生きることの根幹に据えて来たことに触れるからだ、と金時鐘さんは言うだろう。

こういうことだ。北川透氏は、細見和之氏『ディアスポラを生きる詩人 金時鐘』への講評で「金時鐘という詩人をあまりに美化し

すぎて、批判的な問題を突き出すような書き方がなされていない」と述べている。細見和之氏には異論があろうし、美化というの

は全く当たらないと思う。が、ここはいわば「美化と思ったから美化と言った」という類の主観の世界かもしれない。

問題は、北川透氏の金時鐘さんについての言い分だ。(思潮社、『現代詩手帖』2012年8月号)

『金時鐘さんはついこの前まで、北朝鮮を評価していました。』

『細見さんが取り上げている「新潟」という詩集は、社会主義リアリズムの典型を書いた、と本人が言っている詩集です』

『金時鐘さんは』『影響力のある知識人ですね。その場合の思想の責任。これは北朝鮮で抑圧されている人びとに対する責任、

という問題まで含むわけです。』『一人の在日の、非常に困難な思想の歩みを強いられた詩人が、そこで過ちを犯す、矛盾した

ことを書く、十分に説得力のない発言をするということは、ある意味では当然のことです。』

何だ?これは・・・。たぶん、金時鐘さんの詩を読んでいないな、評論・エッセイを読んでいないな、金時鐘さんの思想・経歴・

立ち位置を知らないな、と直感した。何故なら、読んだ上でなお、高名な詩人がこのような理解に至るはずがないと思うからだ。

よく知らず吐いた言葉なら、抗議を受けた時点で調べればいいのだ。そして訂正すればいいのだ。上記の北川透氏の誤読に対して、

細見和之氏が発した反論『私の金時鐘論の余白に』という文章から転記する。

『1955年刊行の第一詩集「地平線」までは、金時鐘さんのなかにまだ朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)への期待ないし「評価」が

あったかもしれない。しかし、それ以降は、とりわけ在日朝鮮人総連合会(総連)からの組織批判にさらされるなかで、北朝鮮

の政治体制にたいしても明確に批判の態度を貫いてきた、というのが私の理解である。でなければ、どうして「帰国事業」に

孤立無援の状態で反対を貫き、日本において宿命の緯度を超えようとする「新潟」のテクストを書き上げる必要があったのか。

さすがに北川さんも半世紀以上も以前のことを「ついこの間」とは言わないだろう。』『いったい誰が「新潟」を読んで「社会

主義リアリズムの典型」に分類しようとするだろうか。少なくとも通念的に理解された「社会主義リアリズムの典型」への徹底

したアンチテーゼと受け止めるべきであって、これは金時鐘さんの表現を理解するうえで基本中の基本だと思う。』全く同感だ。

金時鐘さんの、済州島四・三事件との関係、渡日約65年の経歴を紐解き、詩を読み、エッセイに目を通して浮かび上って来るのは、

社会主義に抱いた原初の私的綱領と、社会主義決定論・官僚的組織運営・金日成神格化との間に横たわる違和・相違、表現や

詩作にいたるまで食い違う流儀と作法、つまるところそれら総体との格闘の姿だった。1970年総連を離れる。だから、時に登場

する北共和国への祈りのような「こうあって欲しい」との言葉は『評価』などではなく、云わば逆説であって無念の再刻印で

あるのだ。詩人なら、その逆説に気付かずにおれようか。その「祈り」の一方で激しい存亡を賭けた論陣を張って来たのだから・・・。

金時鐘さんの已むに已まれぬ真情からの抗議の書簡に対して、北川透氏も思潮社も現在のところ答えていないという(3月3日現在)。

北川透氏と細見和之氏とのその後の遣り取りは、ぼくは知らない。想うのだが、この、北川透氏と出版社の振舞は、「原子力ムラ」

と言われる「ムラ」に似ていないか? 自分たちの世界で評価したり反評価するのは勝手だが、それが外部に晒されることなく、

「ムラ」内部で自己完結する構造の中で繰り返され、「ムラ」以外の者の言い分や資料、ましてや批判評価された者本人の声を

も無視し、調べもせず、だから訂正・謝罪もせず、遣り過ごそうとする。

しかも、問題は、本来そうした苦境と無力に在る者が、ようやく紡ぎだす言葉であるに違いない「詩」、それを扱うはずの詩人と

その出版社によって行われている毀損だということだ。あなたにとって、貴社にとって、「詩」とは一体何なのか?とさえ

問いたい事態だ。北川透氏の言に対して、他の選考委員から異論がないらしいこと、思潮社がそのまま文字化したというその事実。

そこに詩壇という「ムラ」を視るのはぼくだけだろうか?

この高名な詩人と出版社が、訂正と謝罪をまっとうに行うことを願う者です。そうならないなら、金時鐘さんの読者としての

立場から、当然広く社会に事実経緯を示し、「ムラ」の実態を明らかにすべく行動するつもりだ。

「ムラ」に在って、当事者からの切実な抗議に耳を傾けることなく、流れと「ムラ」の空気に同調し『一人の在日の』詩人の苦闘

の足跡を軽んじ詩壇に安住し続けるなら、その姿こそ「凡庸な悪」の類型に在るとは言えないか?

以上、諸兄のご批判ご意見を待つところです。

参考【金時鐘の仕事】

詩集:『新潟』(1970年、構造社) 『猪飼野詩集』(78年、東京新聞出版局)『光州詩片』(83年、福武書店)

『化石の夏』(98年、海風社)『失くした季節』(2010年、藤原書店)

エッセイ集:『さらされるものとさらすものと』(75年、明治図書出版)『クレメンタインの歌』(80年、文和書房)

『「在日」のはざまで』(86年、立風書房。2001年、平凡社ライブラリー)

『草むらの時』(97年、海風社)『わが生と詩』(2004年、岩波書店)

名誉毀損について。ウィキペディアにはこうある。『日本の民法上、名誉毀損は不法行為となり得る。日本の民法は、

不法行為(民法709条)の一類型として、名誉毀損を予定した規定がある(民法710条、723条参照)。

不法行為としての名誉毀損は、人が、品性、徳行、名声、信用その他の人格的価値について社会から受ける

客観的評価(社会的評価)を低下させる行為をいう。

名誉感情(自己の人格的価値について各人が有している主観的な評価)を害されただけでは、名誉毀損とはならない。

例えば、ある表現について本人が憤っているとの事情のみでは、名誉毀損とはならない。ただし、名誉感情を害するような

行為が人格権の侵害に該当する行為であるとして、不法行為が成立する場合はあり得る。』

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