Archive for 3月, 2010

交遊通信録: 『地中海人』 『境界をまたぐ越境人』、 と労働運動。

帰阪
 
二つの集まりに参加する目的もあって、仕事の区切りを調整して帰阪した。
そのひとつは、学生期の古い知人=某労働組合役員T氏の新たなスタートの激励会。
もうひとつは翌日の、民族差別を煽り、不況下の若者の憤懣を排外主義へと誘導する
「ネオ・ナチ」的団体の「逆草の根」運動への、抗議・反撃の京都:円山野音での集会だ。
両方の集まりで某大時代の古い友人達と会った。
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 「激励会」は企画当初に、気のおけない仲間による居酒屋での集まりと聞いていたのだが、
T氏の立場・役職・運動の質と幅広さ・人柄などから、そうはならず多人数の会であった。
公務員の労働運動に在って、T氏は民間・下請・少数者の労働運動との相互乗り入れ、
労働運動の外側の様々な運動(部落・在日・沖縄・人権・平和)への取組を通じて、
大阪の自治体労働運動が相対的左派であり続け、運動領域の相対的広がりへと歩む
その牽引車であったと参加者からの賛辞が続いた。
某大からいわゆる「労働戦線」へ進んだ者はかなりいるが、T氏の組織内外での
「セイジ」や「清濁併飲」もあろう、いわば「原則と応用」に腐心した活動を想うとき、
「労働運動をした」と言える数少ない人物だと思う。
歴史に名を残す「名委員長」だろう。こころから「ご苦労様」と申し上げたい。
(ぼくはと言うと、目的意識的に「戦線」へ行ったのではなく、民間零細での、思いつきとヤケクソの劇場(激情)型争議をしたに過ぎない)
T氏は「**委員会」の労働者側**や、労働における人権をサポートするNPO団体など、
新たな場で活動を続けるという。だから激励会だと主催者が言った。なるほど。
68年、当時としてはめずらしい学生服姿のT氏と長時間話した記憶がある。
その記憶から、会の参加者発言の激励言辞までの彼の数十年の時間、
そこに流れるある「一貫性」に敬意を表します。
某大学***の突**長 M氏によれば、
「高校時代剣道していた T はムチャ強かった。逃げない下がらない。
 ワシは最も信頼していたんや!」、だそうだ。
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円山公園の集会の方は、900名(主催者発表)の参加で、
円山公園から、日曜日で賑わう 四条河原町、解散地点:京都市役所に向かう。
「多民族の共生社会を」
「高校無償化から朝鮮学校を排除するな」
「在特会らの朝鮮学校への襲撃を許さないぞ」
「ネオ・ナチ団体による市民への攻撃を許さないぞ」
「排外主義は戦争への地ならしだ」
などプラカード掲げシュプレヒコールを続け、デモした。
要所交差点には、コスプレ軍服を着た「在特会」の若者が
「日本人の誇りを棄てるな」とか「恥を知れ!」と叫んでいる。
不況・失業・社会的不安・・・そこに「排外主義」「愛国主義」が周到に分け入る。
倒錯した怒りが少数者・異邦人に向かう・・・・、繰り返されてきた構図だ。
何が「誇り」であり、何が「恥」なのかを「知る機会を奪われた」若者の言動が悲しい。
 
デモの後「K大校友連絡会」のメンバーは「精進料理」(実に美味かった)の店に向かった。
(下京区寺町四条下ル中之町570。 『彌光庵(みこうあん)075-361-2200。http://www.mikoan.com/index.html
(店主は89年に浄土真宗の得度<僧侶になる儀式> を得た女性僧侶、工藤美彌子さん)
 
酒が入ると、その日はめずらしく
プロレタリア独裁・搾取・疎外・強制力・暴力装置・・・・一部、20世紀の死語(ぼく的には?)も登場。
何とも学生っぽい議論に花が咲いたのだが、
目指すべき社会について
①出版・放送・言論・表現の自由。自由な選挙による議会制度(単独政党制の排除)。
②市場経済と「市場の失敗」に対応する公共部門と、公的規制。
③権力から自立した、労働運動・市民運動の保障。
④社会保障・社会福祉・セイフティネット。
(熊沢誠、1993社会新報ブックレットから剽窃)
を言いかけたところ、すぐさま
『まさに今日我々が対峙してきた団体の「表現の自由」も例外なく承認するのか?』
『あのような自称「市民運動(?)」を強制排除しないのか?』
『旧体制へ戻ろうとする労働運動が登場するだろうがどうする?』
と返された。弱いところを突かれて困った。
 
学生期・労働運動・争議・職場バリケード占拠・自主経営・・・その都度「負け続けて」来た。
そして「負け続けることをやめ」ようとは思わない。
けれど、その日々からぼくなりに掴んだ①~④は、ぼくなりの仮到達だ。
『品川宿君はいつまでも「夢見る夢子ちゃん」やなぁ~。人々の善意を前提にするのは勝手だが、
  悪意やその暴力を考慮していない「論」には、説得力おまへんヨ!』 う~ん・・・。
周りに、意外なほど「原理主義」(?)が生きていることに驚いた。
それぞれの時間に育まれた思想が、もし
その道中の「体験」や「現実の政治」や「運動」に晒されておらず、
つまり、「現在」と「これまで」の自身とは無縁に、過去の「教条」として持ち出されているのなら、
聞く必要もない。
だが、決してそうではないようだ。みな「ひと通り」見聞きし身に刻まれたことあった上で言っているのだ。
 20世紀の社会主義国が、ほぼ例外なく「一党独裁」「自由選挙による議会の不在」
「労働運動や市民運動の不承認(あっても完全統制下での)」によって運営されて来たのは事実だ。
そのミニチュア構図も、それぞれの「左翼体験」(?)で痛く知ってもいよう。
次の機会にヒントを貰おう。
粛清と収容所、暴力と強制移住、人間と人の創意の圧殺・・・なぜそうなるのか?を、
その問いを回避しては成るはずのない、何と命名しようがいいのだが「在り得べき」人の社会を、その構想を・・・。
たぶん、いま関わる行動や考え自体の中にも、自身の日々の「労働」「生活」その運営思想の中にも、
それは含まれていなければならないと思うからだ。
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 「激励会」のT氏のスタートも、ぼくらのフリー・ジジイの冷や水も、
ジョルジュ・ムスタキの『地中海人』や 金時鐘の『境界をまたぐ越境人』と
手を繋ごう・組もうとする想いを共有する限り、そして、運動内の在るべきカタチを模索する限り、
全く別のことをしているのではない・・・、そうでありたい。                                                              もちろんT氏は労働運動とその関連で、ぼくらは仕事や生活の合間にと大いに違うのだが・・・・・
(Photoは、左:コスプレ軍服の青年。 右:解散地点の若干の混乱)

交遊通信録&歌遊泳: ジョルジュ・ムスタキ、『地中海人』、パリ五月・・・

Sさん。

いい歌を送っていただいき、ありがとう。http://www.youtube.com/watch?v=coiXF-PqgGQ 。                                                       金子由香利:『時は過ぎてゆく』の作者ジョルジュ・ムスタキ・・・。 ウロ記憶を確かめようとウィキペディアを見ました。                                                                                             「なるほど」の満載でした。                                                                             いい歌は簡単に生まれはしない、と改めて思いました。その奥に裏に向こうに、時代があり人がいる、想いがあり思想がある、愛があり、                          そして闘いがある。

【ウィキペディアより転載】

1934年、ケルキラ島出身のギリシャ系ユダヤ人の両親がエジプトに亡命中に生まれた。フランス系の学校に通っていたが、民族など様々なトラブルがあり、自らを「Méditerranéen-地中海人」と見做すようになる(ヨーロッパ各国、アフリカ、アラブの文化が混在した無国籍ないし多国籍の意)。17歳の時にエジプトからフランス・パリに出る。1968年に当初ピア・コロンボのために作り、69年に自身も吹き込み大ヒットした『Le Métèque』(邦題「異国の人」- 直訳すると差別的な意味としての「よそ者」もしくは「ガイジン」といっていいだろう。)前年68年のパリ五月の余熱の中で、フランス社会でタブーともいえた「Juif -ユダヤ人」という単語をロマンチックに謳い上げ、自由を求める時代の気風によって、ムスタキは初めて歌手として広く認知されたといえる。

1969年に発表した『Le Temps De Vivre』(邦題「生きる時代」-同名映画の主題歌)では 「聞いてごらん、五月の壁の上で言葉が震えている。いつかすべてが変わると確信を与えてくれる。Tout est possible,Tout est permis -すべてが可能で、すべてが許される」 と五月革命時の有名な落書きのスローガンを曲にして歌った。                                 

1972年の『En Méditerranée』(邦題「地中海にて」あるいは「内海にて」)では、70年代に入っても(「政治の季節は終わった」とされていも)、独裁政治に抗するスペイン、ギリシャの民主化運動に捧げて 「アクロポリスでは空は喪に服し、スペインでは自由は口にされないが、地中海には秋を怖れぬ美しい夏が残っている」 と歌い、まだ発売される前の1971年にフランコ独裁下のスペイン・バルセロナ公演で発表する。                                                                     

ムスタキは常に社会変革の運動に心をよせ、五月革命の最中に、そして90年代に入っても度々、自身の曲に、ストライキを闘う(女性)労働者たちに捧げて 「闘う者に名はつけられない。しかし人はそれをRévolution permanente-永続革命と呼ぶ」 と歌った 『Sans La Nommer』(邦題「名も告げずに」)がある。           

また、ムスタキは2007年フランス大統領選挙において、フランス社会党のセゴーヌ・ロワイヤル候補支持を表明、5月1日の「ロワイヤル支援集会」に参加した。 *********************************************************************************************************************************************

のちに『壮大なゼロ』と揶揄される68年「パリ五月」。                                                                                                 それは、美しき五月のパリ(作者:不詳パリ市民、訳・歌:加藤登紀子)の歌とともに、あの時代の若者の心に 刻まれている、か? http://www.youtube.com/watchv=m9vdTyuUj0                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            1.赤い血を流し 泥にまみれながら
  この五月のパリに 人は生きてゆく
  ※オ ル ジョリ モァ ドゥ メ ア パリ
   オ ル ジョリ モァ ドゥ メ ア パリ
2.風よ吹いておくれ もっと激しく吹け
  青空の彼方へ 我等を連れゆけ
  ※繰り返し
3.年老いた過去は いま醜く脅え
  自由の叫びの中で 何かが始まる
  ※繰り返し
4.ほこりをかぶった 古い銃を取り
  パリの街は今 再び生まれる
  ※繰り返し
5.歌え 自由の歌を 届け 空の彼方へ
  この五月のパリに 人は生きてゆく
  ※2回繰り返し
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  *映像『フランスパリ五月革命-1968』 http://www.youtube.com/watch?v=4MRFUQ8lxIg&feature=player_embedded  

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歌遊泳&交遊録: 友あり 遠方より歌届く

古い友人が「ほら、これちょっとええでしょ?」と
お気に入りの歌を送ってきた。
なるほど・・・・と聞き入っている。
『貴方を捉えたに違いない、珠玉のベスト三曲。納得して聞いています。 ありがとう。 』 と返した。
送られて来た歌は、云わば
ある非転向(イデオロギーのことではなく、もっと大きな意味で・・・。構え・価値観・人柄などのその奥の根本の精神)
を謳い上げている。
例えば吉田拓郎。
同世代同業の誰彼が、「お上」が喜ぶ映画の主題歌を歌い「天皇」が授与する文化勲章を貰うことがあっても、
きっと、彼は貰わないだろうと想像できる。
送り主はと言うと、ぼくが知る限り
ささやかに生き、子を産み育て、働き、貧困を好む訳ではないが裕福は肌に合わず、
挽回可能な難題と、生活維持可能な範囲の収入を甘受して生き、
事に臨んでは、生来のビビリ症ゆえドキドキしながらも、気が付けば周囲が驚く「舞台」に立ってしまふ・・・そんな人だ。
これらの歌が、この人に棲んでいることに何の違和感もない。
歌の好みは人生の一部だ。
 
 
吉田拓郎 『ファイト』 作詞・作曲:中島みゆき)
 
加藤登紀子 『時には昔の話を』 (作詞・作曲:加藤登紀子)
 
金子由香利 『時は過ぎてゆく』
(作曲:ジョルジュ・ムスタキ、訳詩:古賀力)
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たそがれ映画談義: 「週刊新潮」的 ジュリア探しの愚

ジュリア探しの愚  ージュリアはいるー
 
先日NHK・BSで、久しぶりに 映画:『ジュリア』を観た。
原作:リリアン・へルマン、 監督:フレッド・ジンネマン、
出演:ジェーン・フォンダ、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ジェイソン・ロバーズ。
77年アメリカ映画だ。
goo 映画紹介より 】
アメリカ演劇界の女流劇作家として知られるリリアン・ヘルマンが
74年に出した回顧録(「ジュリア」パシフィカ刊)の映画化で、
ヘルマンに絶大な影響を与えた女性ジュリア=アメリカからウィーンに渡り反ナチ地下活動の果てに虐殺される=との
美しい友情とハードボイルド作家ダシェル・ハメットとの愛が描かれる。
ダシル・ハメットを演じたジェイソン・ロバーズ。渋いねえ、ええねえ!
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リリアン・ヘルマンは、マッカーシー旋風吹き荒れる1952年、非米活動調査委員会に召喚される。
同委員会は、ヘルマンと長期にわたって恋人関係にあったダシール・ハメットが
米国共産党員であることを掴んでいた。ヘルマンは、共産党加入者の友人の名前を尋ねられ、
これに対してあらかじめ準備してあった声明を読み上げることによって応えた。
彼女の発言は下記の通り。
たとえ自分を守るためであったとしても、長年の友人を売り渡すのは、
わたしにとっては、冷酷で、下品で、不名誉なことであると言わざるを得ない。
わたしは、政治には興味がないし、いかなる政治的勢力の中にも自分の居場所を見出したことはないが、
それでもわたしは、今の風潮に迎合して、良心を打ち捨てることを潔しとしない。
その結果、ヘルマンは、長期にわたってハリウッドの映画産業界のブラックリストに掲載されることとなった。 【ウィキペディアより】
 
リリアン・へルマンの言葉を年賀状に引用させてもらったことがある。
ブッシュ・ラムズフェルド・チェイニーら「ならず者」どもが始めたイラク戦争と、
安倍の「美しい国」言説に、彼女が生きていたら語っただろう言葉を進呈した。
 『愛国主義とは、ならず者どもが最後に訴える手段のことである』
 
ところで、 ジュリアは誰か?該当者はいないぞ、と騒ぎになったことがあるそうだ。
リリアンの友人に、該当するプロフィールの反ナチの活動家はいない、と。
近似の女性はいるがその人は生きている、しかもリリアンの友人ではない、と。
それがどうした??
ジュリアはいる。リリアン・ヘルマンが生きて来た道程そのものが、親友ジュリアへの返答なのだ!
それが解らないのか?悪意と邪推と嫉妬心満載の「週刊新潮」的ジュリア探しのお歴々よ!
ジュリアはリリアンの分身だ。ジュリアという「人物」 (又は「ヴァイオリン弾き」←http://www.yasumaroh.com/?p=3291) は、
必ず実在する。 断言する。
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リリアン・ヘルマン:1984年没。(「子供の時間」「噂の二人」「逃亡地帯」)
フレッド・ジンネマン:1997年没。(「真昼の決闘」「地上より永遠に」「尼僧物語」「日曜日には鼠を殺せ」「ジャッカルの日」)
ジェイソン・ロバーズ:2000年没。(「テキサスの五人の仲間」「砂漠の流れ者」「トラ・トラ・トラ!」「大統領の陰謀」)
合掌。

つぶやき: 大道芸

リ・ダイアリー(09年11月)

東京駅東方500M、京橋のオフィス施工現場から、
現場の某小傷の補修剤を求め、有楽町ハンズへ歩く。
その帰路、有楽町駅まで来て、ガード下で白人大道芸に遭遇。
糸あやつり人形のバイオリン弾きが聞き覚えある曲を奏でている。                        ハンガリー舞曲第五番だ。
バイオリン弾き人形の年齢と並ぶか越えるかしているはずの
かつて青年だった男の奮闘、哀愁漂う表情と見事な所作に魅せられた・・・。
その大道芸には、彼の時間に相応しい味と香りがありそうだ。

人は、こうした少し年長の分身が居てこそ、
生きて行けるような気がする。
自身が操ってきた仮想相棒の 設定年齢を
たぶんぼくも越えたはずだが・・・。
う~ん、あ~ぁ、うん、・・・。

 『異境にて苦き月日の大道芸 相棒人形の齢を越えおり』

つぶやき: 労働の原圏

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この業界(内装施工業)に永く居る。
74年にこの業界に入り労組結成、  3年後に勤務会社が組合潰し目的の偽装破産をし、
自分たち(労組)で会社を立ち上げ同業を継続して20年、
98年にその社を破産させてしまい、
 フリーターの果てに行くところもなく同業社に拾われ・・・てな具合で、
出入りはあるものの業界在籍期間は合算30年強になる。
 
考えてみると、その期間の大部分はいわゆるホワイトカラー・デスクワーク中心の
管理者・企画者・営業畑そして経営だった。
現場に出かけてその「裏方」の作業工程を見ることはあっても、
それを身をもってつぶさに知り体験することは、ほとんどなかったように思う。
今回(06年~)の東京単身赴任は、一からの支店開設(現在は3名)・人が居ないなどの条件下、
あれもこれもしなければならず、ほぼ初めて「裏方」を常時体験している。
具体的には、施工開始前の搬入経路の養生・現場全面養生・墨出し作業・
日々のゴミ片付け・資材什器の搬入・施工終了時の大量の廃材の搬出と積込……
それらを、永く見て知りながら自身が行なう事はほとんどなかったのだ。
 
だが、これが「奇妙な心地よさ」でもあるから不思議だ。
ここを知らないまま、自主経営時代の多くの施工例(中には名の通った店もあるのだ)を、
我が実績のように考え自惚れていたのだ。
だから、今回(06年~)の体験はぼくにとっては、実に良かったし、
リタイアを間近にした時間に、こうした経験を得たことは貴重なのだ。そう考えることにしている。
労働が細分化され、働く者が労働の先の全体像が見えない(想い描くことさえ不可能な)
構造の中では、人々が共働概念を持つこともまた困難な現代社会・・・・そこが恨めしい。
 
以前、大手金融機関に働く知人がある時「我々虚業は・・・」と自嘲気味に語ったのだが、
ぼくは、そこにある誠実を感じたものだ。
現代社会は人間の労働を、人から遠いところへと持って来たのだなあ・・・とは思う。
だが実は、「現場性」や「全体性」というものは、働く者が本来乞い願っている要素かも知れない。
であるなら、労働の細分部門性・専門性・個別性を不断にシャッフルして、その乞い願う要素へと
仮解放する手立てを「労使」が試行しないことには、労働を人に取り戻す道は遠い。
効率や品質維持に影響が出ない範囲の現場体験を工夫してよいのではないか?企業にそんな余裕はないだろうが・・・
製造過程や施工過程、運搬や在庫管理の「現場」に一時関わる・・・それだけでもずいぶん違うのではないか?
いや無理か・・・? グローバリズムは「労働の原圏」のより一層の解体過程でもあるのだ。
熊沢誠先生にこの辺りの「論」があったように思うのがだが思い出せない。
 
もちろん、ぼくは、元々不足する体力的にも年齢的にも、「しんどい」のである。
出来ればご容赦願いたいと、その渦中では考えてしまっている。
現場ラストの擬似達成感に騙され(?)、「内装乞食」を続けている。
(「河原乞食」とはよく言ったものだ。一度味わえばやめられないのが「乞食」だそうです)

たそがれ映画談義&歌遊泳: 『おとうと』 『弟よ』

小百合さん主演の『おとうと』を観た。山田洋次さんの作品だ。
『寅次郎 忘れな草』 『家族』の頃伝わってきたモノ(と言うよりぼくが
自分流に脚色して腑に落としたモノ)が、
山田さん本来の個性、山田さん元々の女性観に還って行き、辿り着いた処を観た・・・
そんな感じがした。
これは、同意・不同意あるいは いい・悪いの話ではない。
感受性の違いというか、ハッキリ言えば育ちの違いのようなモノかもしれない。
例えば、蒼井優演ずる小百合さんの娘が、結婚相手との違和感に打ちのめされ、
実家に帰ってくるのだが、夫が
「免許証くらい花嫁資産としてあらかじめ保持しておくべきだ。教習所費は出せない」とか、
「歯の治療費など婚前経費だから結婚後夫が出すべきいわれは無い」とか言うのだ。
キレて当然だ。
けれども、そんな男の「特性」を婚前に見抜けないのか?と言いそうになった。
いや、見抜けぬ場合もあろう。
見抜けなかった己の自己責任(?)論が希薄なのだと言っては失礼か?(我が身に照らせば出来てはしないのだが)
我らが蒼井優=あの百万円苦虫女にそんなセリフを語らせないで下さい、山田さん・・・。
考えてみると、山田さんはインテリの「大衆」への暖かい心情を何度も語ったが、
「大衆」自身の自己責任(?)に対して品悪く「噛み付いた」ことなどない。
そこが、ぼくの言う「育ち」の良さなのかもしれない。
大見得を切って山田批判をする気は無いし、『幸せの黄色いハンカチ』を何度観ても
号泣するぼくは、ないものねだりをしているのだと、もちろん承知している。
「おとうと」で思い出したのが、
内藤やす子『弟よ』だ。
 
 
内藤やす子:
 
75年に『弟よ』でデビュー。翌76年の『想い出ぼろぼろ』が大ヒットし、この年の新人賞を総なめにする。
翌年の大麻不法所持で一時芸能活動を停止した後、84年にリリースした『六本木ララバイ』がヒットし、
86年の「あんた」は映画「極道の妻たち」のテーマ曲としてカラオケの定番となる。
89年の「NHK紅白歌合戦」に初出場。ディナーショーなどを中心に歌手活動を続けていたが、
06年5月28日、脳内出血で倒れて緊急入院。
同年7月6日に退院してからは復帰に向けて自宅療養中であるが、
2010年現在もまだ歌手活動再開の目処は立っていない。【ウィキペディアより】
 
不運を背負っているが、どっこい生きている・・・そんな空気が漂っていた。
同時代の女性歌手(小柳ルミ子、天地真理、麻丘めぐみ、岩崎ひろみ、山口百恵、森昌子ら)
の中に在って、彼女は異色で何か「本気度」「のようなもの」を感じさせてくれた。
『弟よ』は、そんな姉の弟への切情を見事に表現し得た歌唱だったと思う。
 
 
『弟よ』(75年)
http://www.youtube.com/watch?v=rGEluzr4D4s&feature=related                                                                                                                                  www.youtube.com/watch?v=m1RUplY1PbQ&feature=related     
 『思い出ボロボロ』(76年)
 『こころ乱して運命かえて』(83年)
 『六本木ララバイ』(84年)
 『アザミ嬢のララバイ』(カバー)

つぶやき: 新宿現場足捻挫。 ふと母を想う

現在進行形の現場は新宿ど真ん中。
工事は進み、終盤に差し掛かっている。ホッとしたその矢先、
徹夜ボケか、右足首を軽捻挫。床に零れた塗料に脚を取られたのだ。
怪我をするのは、えてしてこうした気が緩んだ時なのだ。
あ~ぁ、又やってしまった。
幸い、4~5日で治まりそうな軽度な捻挫だと思う。
足首を捻挫するのも、脚があるからのことだ・・・・・・と思うことにしたい。
脚を引きずり、始発電車へ急いだ。
 
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 昨秋満90歳を迎えた母は、現在某市の「特養」に入居している。
体力的には年齢相応なのだが、なかなか頭脳明晰(?)で衰えを感じさせない。
昨秋新型インフル騒ぎで遅れた卒寿の祝会を、今秋することになっている。
 
父母は、92年から私の家に同居していたのだが、
98年に私は20年維持した会社を破産させてしまう。
母は、夫(私の父)の死去、孫も成長し昼間独りの孤独と不自由、
息子家族の、家屋からの法的立退き・・・などを前にして、
同年某市のケア・ハウスへの入居を選択する。
入居直後の母の歌。
『枯れ庭に  白き水仙匂いたち  独りの冬を誇らしげなる』
ハウスでの時間を独りで生きる、その覚悟を水仙に託して詠ったと思えるこの歌は
詩人:清水啓三氏から絶賛された。
本人は「ワテは水仙の凛々しさを詠ったまでやけど・・・」とアッケラカン。
幸い近くに住む私の弟夫妻が寄り添い、
兄夫妻・私の女房、各孫たち・・・が、頻繁にハウスを訪れ、
ハウスでの母は、本音か強がりかは微妙だが、「ちょうどええ感じや」と
家族との程よい距離を楽しむように、元気に振る舞い、歌会を立ち上げ、そして暮らした。
 
体力の衰えと、いくつかの病もあり、先年ケア・ハウスと同系列の「特養」に入居する。
2008年夏、母は「閉塞性動脈硬化症」←http://www.gik.gr.jp/~skj/aso/aso.php3
の発見が大幅に(一昼夜)遅れたことから、左脚膝部より先が壊死状態となり、切断に至った。
現在、片脚を失った失意と不自由を克服して、命の最後を「生き抜いて」いる。
 
 
 
【08年夏。足切断の母を見舞ひて九首. 品川宿康麿】

病床に身を起こし居り膝撫でて
 「これ可愛いねん」と 母のつぶやく

包帯に丸く小さくくるまれし
  膝切断部 「ぬいぐるみ」のごと
 
膝先を可愛いと言ふ母 遠き日の
 恋人形探す 三歳の童女
  
 【注】
 乳児期を乳母の許で育った母は、
 ゆえあって、三歳で実家に戻った。
 生母になつかず、実家に馴染まず、
 いっしょにやって来て大切にしていた人形を抱いて、
 乳母恋しと毎日泣いたといふ。
 その人形が、ある日を境に突然姿を消す。
 その日の記憶は鮮明で、母の歌集に
 「みれん断ち実母に返すが此の稚児の 幸せならんと諦めし乳母」 
 「やすらかな寝息たしかめ帰りしとう 若かりし乳母とわれとの別れ」
 「乳母里より付き人のごと添いて来し 田舎人形夜ごと抱きしよ」
 「いつの間にか姿消したる縞木綿の 人形恋いて泣きし幼日」  とある。
   (私は、角田光代:著『八日目の蝉』を読んだ際、会ったことのないこの乳母とその母性を強く思い浮かべた。)
 
 誰が何を想って棄てたのか?と問うている。
 三歳児の記憶としては、あまりにも重く酷な記憶だ。
 以来、互いにとって「不幸な母子関係」が永く続くこととなって行く。
 
切断部抱く母の背に戦禍見る
 子のなきがらに すがる母親
  
無いはずの足先疼くと母訴う
 「わて諦めても脳憶えとる」
  
無き足が疼くは人の想いに似たり
 断ち切り渡る 我が師の海峡 
   
母子違和の連鎖絶たむと育て来し
 四人の男児(おのこ)初老となれり
  
ミスや過誤言い募らざる老の意に
 我が半生の 驕慢を知る 
  
生家にも嫁家にもつひに容れられぬ
 若き日知る足 独り先立つ
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