たそがれ映画談議:『万引き家族』ー是枝の家族考

【「万引き家族」-是枝の家族考】

生きることの共同性・社会性

地域社会・労働社会の疲弊・解体がもたらす各々の場での共同性の衰弱・喪失に、それに抗するにしても、より強固に国家社会の単位としての在り様を打ち固めるにしても、そのシンボル旗を求めて家族という「絆」(?)に過剰なそして恣意的な期待を寄せ「復権」を叫ぶ危うさには辟易して来た。

「日本を取り戻す」という文脈に近いところから「家族を取り戻」されては堪らないし、逆に市民的抵抗の拠点や国家主義・軍国政策への反撃基地として「家族」を謳い上げる論にも嫌悪感があった。

家族(血縁・親子・血と共に居た時間による制圧域)という形態には、人権・人格・創意を容認せず逆にそれらを制圧する重い任務が宿っている。自我・自立・社会性を閉じ込める容器ではないのか?

一方、にも拘らず「家族」に具わる正負の等身大の価値について語れば、「家族」派か?と疑われるのだが、疑われずに「家族」の正負・明暗を明日に向けて語るのは難しい。

 

「家族」という共同幻想への是枝の視座

さて、是枝裕和の「万引き家族」だ。

ぼくは、是枝作品を全て観ている訳ではないので「是枝の『家族』」はこうだ!などと語れはしない。観た作品は「幻の光」(1995年)「歩いても 歩いても」(2008年)「空気人形」(2009年)「そして父になる」(2013年)「海街diary」(2015年)「海よりもまだ深く」(2016年)「万引き家族」(2018年)以上だ。いくつか見逃している。「ワンダフルライフ」(1999年)「誰も知らない」(2004年)は近々観る予定にしている。観た作品は「家族」というもの・「家族」ということ、への問いという点でほぼ一貫してる。

「万引き家族」。ストーリーは割愛するので未見の人は観て欲しい。これまでの作品の中間まとめのような位置に在るのだろうか?「家族」の正体を探しあぐねる人間というか「家族」研究の院生のような作風は、戦後社会・21世紀日本・独居高齢者・年金生活者・常に失業の淵に在るパート労働・日雇労働・貧困・性風俗店・非就学児童・DV夫・不倫・幼児虐待・育児放棄・離婚後の前夫の家族・など現代社会の断面を散りばめ、初枝(樹木希林)と治(リリー・フランキー)以外は全員他人という設定から、この家族の「金」(希林バアさんの年金)と「万引き」(頻繁に繰り返すが仕事もしている)という「秘密の共有」以外の、かつ「血と共に居た時間ではない」「絆」の正体を探っている。是枝はメイキング・フィルムで「これまでの作品のいろんな要素をアレもコレもぶち込んだ」と言っているが、見方によってはごった煮かもしれないが、故あることと想う。

治が信代(安藤サクラ、『百円の恋』は最高でした)をパートナーにした理由・パチンコ屋駐車場に放置された祥太君を「棄てられたものを拾った」(信代の言)理由・バアさん初枝(樹木希林)が離婚しその後再婚した前夫の孫亜季(松岡茉優)を同居させている理由・幼児虐待下に居たユリちゃんを住まわす理由、それらは「金」でも万引きという「秘密の共有」でも「血と時間」でもない別のものだ。その別のものが、取り敢えず辿り着いた是枝流「(疑似)家族」という「共同幻想」を成立させる条件だと言っているようだ。

それは、他者を受け容れること・他者への優しさや労り・他者への強制の回避・{他者}受け容れの練達とでも要約される困難な関係のことか。この家族は不思議に内部で諍いを起さない、大声を張り上げ罵倒しない、暴力を振るわない、それらは「万引き」という「秘密の共有」という「縛り」だけに起因するのではないと、是枝は言っているようだ。

 

マザー・シップについて

ふと気付いたのが、治(リリー・フランキー)に棲む母性のことだ。

何度も引用しているので気が引けるが、再度「太宰・吉本の出会いの会話」(雑誌「東京人」2008年11月号)を引く。

【太宰のマザー・シップ】

故吉本隆明(2012年没 享年88歳)は戦後間もなくの学生時代、学生芝居で太宰の戯曲『春の枯葉』を上演しようとなり、仲間たちを代表して三鷹の太宰宅を訪ねたそうだ。

太宰は不在だったが、幸い太宰家のお手伝いさんから。聞き出し、近くの屋台で呑んでいた彼を探す出す。

当時の人気作家と無名の貧乏学生=のちの詩人・思想家の出会いだ。

吉本の独白。

『「おまえ、男の本質はなんだか知ってるか?」

「いや、わかりません」と答えると、

「それは、マザー・シップってことだよ」って。

母性性や女性性ということだと思うのですが、男の本質に母性。不意をつかれた。』

再び三度この逸話を持ち出したのにはもう一つ理由がある。子を産んでいない信代(安藤サクラ)のユリちゃんへの接し方やラストの涙のシーンだ。信代の涙に照らし出される想いこそは、産む産まない・暮らした時間の長短を超えたマザーシップの発露であり、是枝「家族」への一本の筋だ。『八日目の蝉』(角田光代)の主人公に出会った時に似た感情に襲われた。

(是枝はメイキング・フィルムで、あのシーンは本番直前に変更追加の台本を渡し、驚きと混乱の中、安藤が役者の肉感で出せるものを見たいと思い「すごいものに立ち会えた」と語っている。安藤はマザー・シップの片鱗を刻印したのだ。『百円の恋』の際にも思ったが、いやースゴイ役者だなぁ)

 

シップの語源

またまた、複数回目の引用をさせてもらう。日大アメフト部傷害事件に触発されスポーツマン・シップの「シップ」、上記太宰が言うマザー・シップの「シップ」って何?と思い調べてみた。フレンド・シップ、リーダー・シップ、パートナー・シップ、スポーツマン・シップなどと使われている。

『「切る」「割る」を表すヨーロッパ祖語では舟を作る作業・工程=木を切り・割り・くり抜く、文字通りカタチ無き状態から「作り出す」ことに、舟=shipの語源があるそうだ。 「名詞+シップ」は、その名詞が表す状態になるため、そういう状態を維持するのに必要な構え・在り方・技量・精神・知性・気概 等を表す。』だそうだ。

ただそこに在るだけの名詞が指し示す単なる物ではなく、その名詞を意味ある存在にして行く工程を経て、物と人との関係性に照らし出されて再登場する「生き物」としての名詞。

舟の語源と名詞+シップの語源が、カタチの無い状態から「作り出す」という意味の共通語源からの言葉だと知った。

 

信代に具わっているマザー・シップ、治が無意識に発揮するマザー・シップ・・・。彼ら二人を含む「万引き家族」の全員を受け止め受容れる初枝(樹木希林)が真のマザーかも知れない。英語マザー・シップとは「母船」でもある。

シップとは何かを考えていて、リリー・フランキーが千石イエス氏に似ていると気付いた。

千石の教団運営は、「おっちゃん」と慕われた千石の反集権・反強制・反統制に貫かれていたと聞いた。そう言えば、教団の名は偶然「イエスの方」だった。あれれシップだ。

治の「万引き」という無意識の強制・統制が、祥太君の「舟」からの離脱決意を招くのだが「万引き家族」も「家族」という共同幻想の呪縛から自由ではなかった。

けれども、是枝が探しあぐねる家族シップのその核心が、血・金・時間・共犯関係の秘密の共有、などでは決してないことだけは確かだが、家族の構成員が構成員シップを打ち立てないと「家族」は維持できはしないのだと思う。

大小の共同体や社会的単位=企業団体・運動組織・党・他に疑似「家族」を求めてしまうぼくらの在り様は、「家族」のエセ「意味と価値」を振り撒くか、逆にそれから遠ざかるばかりだ。

 

このテエマに終わりはない

映画作りに関わったこともないし、最近は観る本数も激減した。だから、この映画に対して作品への評は語れない。是枝が言おうとしたことをおぼろに掴み、ぼくの日頃の問題意識と交差する部分を切り取って語るだけだ。

だが、役者に目を見張り、子役の見応えに舌を巻き、「世相の散りばめ」だと言われるその短いシークエンスに吸い込まれた。

性風俗店で働く亜季(松岡茉優)は、親には海外に留学中であるはずなのだが、如何なるゆえか店に通い続けるたぶん場を喪って閉じこもって生きているらしい客のひとり、無言の青年(池松壮亮) を抱きしめるシーンがある。是枝が見事なのか役者が上手いのか、こちらが単純なのか? 多くの人同様、身につまされてしまった。他にも池脇千鶴・柄本明・高良健吾など気になる役者が登場していて、その面でも見応えがあった。

『万引き家族』は終れない映画だろう。時代に付着する世相も含め是枝さんは作り続けるしかないテエマですな。

メイキング・フィルムで出演者は口々に語っていた。「この映画作り、是枝組こそが「家族」だった」と。共通の目的を持った短期の単位集団にひと時可能かもしれない「家族」が、実は困難な現代社会にぼくらが生きていることだけは確かだ。是枝が再び「アレもコレもぶち込んだ」「家族」を扱えば、ぼくは付き合い観に行くと思う。

その「家族」探しの彷徨を超えてなどいないのだから。

つぶやき:東京オフィスからの撤退&移住した三男一家訪問

【6月4日】

6月8日9日10日の金土日は東京へ行く。
2016年末から一年強の半休業、昨年~今日まで東京撤退の上、完全休業。
腰脚の不具合は改善しないばかりか、時に激しくもある。
雇い主と話し、事務所二階に残している布団・衣類・食器等生活用品を片付けることになった。腰脚事情から女房が手伝いに同行する。
茨木へ送ることもないモノは、ゴミとして若いメンバーに後日処理してもらう。
雇い主は「体調が戻れば、また協力して下さい」と嬉しいことを言ってはくれるが、今回の東京行は宿泊を伴うものとしては最後かもしれない(?)。
奇妙なものだ、6月10日14:00から、安倍政権の退陣を要求する 国会前大行動がある。
北関東に移転した三男夫妻(+孫娘三人)を、10日に訪ねようかと話していたが、国会前へ行きたい気分も抑え難い。う~む、最後のまとまった時間の東京をどうしようか?
時間的には両方は無理としても、どちらか一つは果たしたい。

 

6月11日 【私事 東京オフィス引退】
8日9日10日と、東京オフィスからの完全撤退(仕事柄=商業施設設計施工ゆえ徹夜を含み力仕事もありで、ちょっと無理)の片付け・荷造り・衣類食器などの処分・ゴミ処理・荷発送の「最後の仕事」で東京へ。
たまたまオフィス近隣はちょうど荏原神社の祭りで山車が出て大賑わい。ワシの引退を惜しんどるでと言うと、HELPで来ていた女房は「うるさいのが東京から逃げて行くのを街が祝ってるで」と減らず口。
まぁ、HELPのお陰で9日午後には仕事は終わり、今春茨木市から茨城県T市へ転居した三男一家(教員、茨城県で大学と院卒、妻の実家茨城+孫娘3人)を訪ねることができ、泊まった。これがあるから女房のリキの入れ方が尋常ではなかったんやな。
ワシも気を揉んでいた訳ではないが、元気な一家にホッっ。孫娘3人も新しい環境を受け容れ、早速ミニ・バスケットなどの得意領域にハッスルしているらしい。翌10日は、利根川を挟んで20分の千葉県A市に暮らす兄(ワシの実兄)を訪ね久し振りに会い、遅れて国会前へ・・・。
地下鉄乗り換えで二人でウロウロしていると女房が「映画『東京物語』のジジババみたいやね」と呟く。
念願の三男一家訪問と国会前行動、どちらか一方は実現したいと思っていたが、運よく両方果たすことが出来た。
腰脚不具合時に荷造りと雨中の国会前、充分骨身に堪え、アベ世を想い知らされた気分。このままでは終われないとは爺の独り言。

2006年からの某社(破産した自主経営会社の取引先が呼んでくれた)東京へ単身赴任(文字通り当初2年ひとり事務所)

2016年からの腰脚不具合で現場減少。

2017・18の東京現場回避・ほぼ大阪の状態、今回の完全撤退(若いメンバーに委任)、

dav

「さらば東京」ってな気分ではありますが(中原中也 詩集『在りし日の歌』「さらば東京! おおわが青春!」一九三七年)、ワシは爺だ。
本日は、新潟知事選の敗北もあって、すこぶる腰が痛いです。

つぶやき:日大アメフト部傷害事件に  軍隊を・現政権病理を・官僚機構を 見る

日大アメフト部傷害事件に
軍隊を・現政権病理を・官僚機構を 見る

http://biz-journal.jp/2018/05/post_23436.html
加害青年が会見で言った次の言葉こそが今回の事件の救いだし、この20歳を「ふむうむ」と思わせた。もちろん称賛ではない、辛うじての救いだと言いたい。

『少し考えれば、自分がやったことが間違っているというのを前もって判断できたと思うので、そういう部分で自分の意思というのを強く持つことが今後、重要だと思いました。』
『自分の意思に反するようなことはフットボールにかかわらずですけども、全てにおいてするべきじゃないなと思います。』

イラク/スーダン派遣実態の隠蔽・裁量労働制強行の為の偽装資料・森友文書改竄国有財産違法処理ゴミ偽装・加計学園への私的厚遇とその経過の隠蔽偽装・・・、などに汲々とする茶坊主議員よ・官僚どもよ、
この加害青年の肉声をよ~く聴け!

この加害青年は会見で謝罪を繰り返し、監督・コーチ・チームの文化・風土と心情を吐露したが、自衛隊員はパワハラ体質・命が危険に晒される局面で、この現象的心理的「苦境」から抜け出すには、たとえ「無辜の市民」が死ぬとしても上官・隊長の指示する「突撃」しかない、と行動するだろう。
ワシならそうしてしまうかも・・・と想う。
だから、憲法遵守義務を負う公務員たる自衛隊員が、憲法9条=『国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』を骨の髄まで体得していなければ、海外で他国の無辜の市民を撃つに違いない、と強く思った。
国家の戦闘力として個々の隊員の思考として、「9条」精神がよほど根付いていないことには、自衛隊は必ず他国の民を撃つだろう。

たそがれ映画談議【原一男作品「ニッポン国VS泉南石綿村】

 

上映期限残り二日、やっと観てきました。
チラシ裏面に永田浩三さんのコメントがあった。「泉南アスベスト国賠償裁判に関わる、圧倒的な人間ドラマ。政府を相手に闘うとはどういうことかが初めてわかる。アスベスト被害と朝鮮半島とのつながりも目から鱗だった。原監督は、やっぱり原監督なのだった。」と・・・、同感だ。
最後に語られる柚岡氏の未達成感・未消化感は、たとえ最高裁判決の欠落=被災時期と被災場所ゆえの一部排除がなく、全原告の救済が充たされていたとしても、埋まりはしない種類のものだったと思う。「違和感」に近い感情……。

その「ふたつの要素」。

ひとつは、議会制や現司法を柱に在る法治主義と、究極テロルに至る理路との狭間に在る、大げさに言えば「抗いのふるさと」=「言葉とおこなひとを分ちがたき」「テロリストのかなしき心」への郷愁と回帰という原点。

もつひとつは、殖産興業・富国強兵の明治の国家社会モデルから植民地・昭和軍国・戦後「国体護持と偽装民主主義」体制・高度経済成長期・オイルショックからバブル崩壊・福島・安保法制に至る現代日本の社会モデルとは違う、オルタナティブなモデルが在り得たか否かという本源的には左右いずれもが示せていないテエマだ。「もうひとつの明治」から、思想的に歴史的に本気で構想する、その視角のことだ。

ワシはそこに至る柚岡氏の云わば永遠の「違和感」を共有するものでありたい。成長神話や効率・利便性が産み落とす個々の不具合や悲惨は、実は遡っての保障・謝罪と制度や法の変更で事後対処(それも高ハードルの国家的妨害・不作為によって稀にしか行われない)しただけで、成長神話や効率・利便性追求という価値観そのものは疑われることなく生き続けているのだ。原発しかり(原発は効率・利便からもアウトだが)。
第一陣高裁判決(だったか)は、「産業は時に健康被害等をもたらすが、技術発展・成長という目的の前では已むを得ない」というようなことを述べていた。

その論拠に根本的なノンを提示しない限り、向こうの言い分の方が強固なのかもしれない。原一男監督もまた、柚岡氏の永遠の「違和感」の前で戸惑いを隠さない。
それは、どんな法学者や理論家でも立ち尽くす、先に述べた「ふたつの要素」が持つ意味への謙虚だろう。その「ふたつの要素」など超えているんだと嘯(うそぶ)く自称左翼・左翼政党・労働組合・運動団体がもしあるなら、それは自戒欠如かつ傲慢と言うものだ。
映画を観る限り、この運動この訴訟が、政党・労働組合・運動団体に倚ってはいないことも原一男のメッセージだと観た。
原一男にとっても、「ふたつの要素」の圧力は「違和感」であり「撃つ」用意を持って戸惑う事柄であるに違いない。

「党ならざる者たちによる、叛乱と自治」という、友がある時期以降強く語る精神的スローガンが、頭の中を駆け巡っている。
表現者などを追ったこれまでと違い、集団というか個人ではないものを追った今回作品。
ワシにはその意味と価値を語る実践も想域もない。利潤を求めた悪戦に明け暮れた、零細企業のワンマン親父であったのは事実だ。石綿で食った時間を振り返り沈黙する道理なき自責強迫から解放されるのは、その事実の相対化を成し遂げることと同義だ。その先にオルタナティブな近代が見えるかもしれない。

ぼやき:【日大アメフト部事件が示すもの】

【日大アメフト部事件が示すもの】2018年5月19日

事態が明らかになった時点で、アメフト協会が毅然として処分すべきだろう!
廃部が当然だが、最低でも一定期間対外試合禁止・二部への降格・監督コーチの辞任などなど
できないアメフト協会はアウト!
行き過ぎた危険プレイなどではなく傷害事件だ。

そもそもの発案趣旨・初期対応・イカサマ謝罪・・・何と現政権に似ていることか!
が、日大アメフトだけではない最近の大企業・官庁の不祥事と言うより「悪意に満ちた」事件の数々は、何かの「崩壊」を想わせる。
無いのに在る振りをし続けて来た、戦後社会を各方面・各領域でカヴァーしていたはずのものが、決定的に「無い」のだということを示している。
それは「公」「公理」「公共」とそれを支える精神「自然法」「産業道徳」「コモンセンス」といった「言わずもがな」項目の数々だ。日本国憲法の10条以下には、その精神を語っている。
神戸製鋼の耐久性データの偽装、タカタの欠陥エアバック、日産・三菱の無資格製品検査、アマゾンン値引販売額の業者補填強制、電通の女性新人社員100時間超違法残業、東洋ゴム免震ゴム性能改竄、原発事故の内容/汚染状況/安全対策/廃炉手順/他に関する夥しいウソ情報、他・・・
一方、官公庁はどうか? イラク/スーダン派遣実態の隠蔽・裁量労働制強行の為の偽装資料・森友文書改竄国有財産違法処理ゴミ偽装・加計学園への私的厚遇とその経過の隠蔽偽装・・・、権力者の夫人の振舞いを「一私人」だと言いながら公務員を秘書として配し「公務」扱いするの愚を、政権内部で誰として組織的異論を吐かない・咎めないという異常。
いま日大アメフト部が、もうここにまで「崩壊」が及んでいることを示している。
ほんの数十年前まで、自民党政権の重鎮にさえあった「恥じる心」「人道」「コモンセンス」「知性への畏敬の念」・・・日本社会はそれらの息が絶える断末魔に在る。
間もなく修復・恢復不可能な「崩壊」領域に達する。そうさせてたまるか!

たそがれ映画談議:原一男『全身小説家』-2

5月8日の拙投稿『全身小説家』の続きです。

作品に登場する女性たちの井上光晴評も、「嘘つきみっちゃん」像も、「私こそが一番*されていた」という自負も、誰にでも似たような巧言を吐いていたんでしょという疑念も、ワシはある人物を思い出して、井上の天性のサービス精神・トレーナー根性の表れだと思えた。

エディ・タウンゼントというボクシング・トレーナーを憶えているか?
藤猛・カシアス内藤・海老原博幸・柴田国明・ガッツ石松・村田英治郎・赤井英和・友利正・井岡弘樹など世界チャンピオンや国内有名選手を手掛けた、伝説の名トレーナーだ。
鉄拳と竹刀に代表される日本的スポーツ指導に異を唱え、最初に来たリキジムで身を挺して根性論否定の指導法を認めさせた。日本のボクシングジムでは当たり前だった指導用の竹刀をジム内で見つけた時、「アレ捨ててよ。アレあったら僕教えないよ! 牛や馬みたいに叩かなくてもいいの! 言いたいこと言えば分かるんだよ!?」と発言したという。
誰よりも早くタオルを投げ入れるトレーナーと言われたのは、誰よりも諦めが早いからではなく「誰よりも選手の将来を諦めなったからだ」と言われている。「ハートのラブ」で選手を育成した。
ボクシング界を変えたとも言われる存在だ。
彼が育てた名だたる有名選手に「エディに最も愛されたボクサーは誰か?」と問えば、全員が揃って「もちろん僕こそが最も愛されたボクサーだ!」と答えるという。
皆にそう言わせるのは容易なことではないだろう。エディの言葉と行動が「誰よりも俺を理解し・俺の分身であり・俺の不遇/失意の時も俺に寄り添ってくれた」と相手に想わせる濃さと誠実に満ちていた証左だろう。

【エディの略歴】
弁護士であるアイルランド系アメリカ人の父と、山口県出身の日本人の母との間に、ハワイで生まれる。3歳の頃に母は病死してしまう。11歳からボクシングを始め、12勝無敗のハードパンチャーとして活躍。1932年にハワイのアマチュア・フェザー級チャンピオンになったが、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃の前日に初めて敗北を喫した。戦争開始にともないジムが閉鎖されたこともあり、現役を引退し指導者に転身する。
1962年、力道山に招請されて来日。力道山が「日本からヘビー級のボクサーを」と創設したリキジムでトレーナーを務めるが、63年に力道山が暴漢に刺されて急死してしまい、その後は田辺ジム・船橋ジム・米倉ジム・金子ジムなど各ジムから招聘を受け、選手の育成指導を行い結果を出した。
ある時、ハワイ時代から旧知の仲だった日系三世のポール・タケシ・藤井(リングネーム:藤猛)が偶然訪れ、1967年に世界チャンピオンへと導いたことで注目される存在となる。以降、6人の世界チャンピオンと赤井英和、カシアス内藤らの名ボクサーを育てる。
【エディが遺した名言】
「勝った時は会長がリングで抱くの。負けたときは僕が抱くの。」
「試合に負けた時、本当の友達が分かります」

原一男『映画監督 浦山桐郎の肖像』『全身小説家』のもうひとつのテエマは「母」だ。
浦山は自分を産んで直後に他界した生母への尽きない「思慕」と、継母(生母の妹)への疑似「恋情」とその精神的根拠地を、作品と女性主人公像を通して繰り返し語ったように思う。
『全身小説家』では井上光晴の幼児期・少年期の虚経歴=生地・父の失踪蒸発・母の出奔・朝鮮人美少女との悲恋譚などから、実は離婚して他で再婚していた「母」への愛憎が、ワシは最も気になっている。
その井上への女性たちの反応から、選手に「僕こそが最も愛されたボクサーだ」と言わせた名トレーナー:エディ・タウンゼントを思い出したのだが、偶然か必然かエディは3歳で実母を亡くしている。
浦山-井上-エディ-原映画・・・を勝手に結びつけるのは、映画ファンの特権か・・・。
原+小林佐智子の上記ふたつの作品は、浦山桐郎にとって井上光晴にとって、「僕こそが最も愛されたボクサーだ」と言わせられ得るような浦山愛・井上愛に満ちた名トレーナー振りだったのではないか?
対象への迫り方の、作り手側がある痛手を負うほどの覚悟を感じる比類なき密度は、個人を追うノンフィクションのひとつの姿を示してくれた。

明日5月10日、遅くなったが、いよいよ『ニッポン国vs泉南石綿村』を観に行く。
楽しみだ!今回は群像が対象だ。

アジール空堀:『<憲法の空白>を撃つ』

あらら、「アジール空堀」のページにフライヤー公開したら、即3名様お申込みありました。
では、晴れて受付開始です。よろしく。6月24日(日)です。異色異才の初コラボ!

画像に含まれている可能性があるもの:3人、、仲岡 しゅんさん、三浦 俊一さんなど

つぶやき:キキ・ココ誕生日

我が家の猫姉妹は、昨年七月 生後三月でやってきた。だから、昨年四月末か五月初め生まれのはずだ。ということは。この連休中に満一歳を迎えていたことになる。キキ・ココ、失礼したな。
遅れたが、満一歳おめでとう。
それにしても大きくなったな!

駄エッセイ:スポーツマン・シップ と シップ=舟

【地に堕ちた日大アメフト部障害事件に想う
ースポーツマン・シップ と シップ=舟 ー 】

ラフプレイ?  明らかに傷害だ!

スポーツマン・シップ・・・。 シップ・・・・。
舟=ship(ふね、ボート)は 古英語[scip]&オランダ語[schiff]からの変化だそうです。
もとは、「切る」「割る」を表すヨーロッパ語の語源[skei-]からの変化であるゲルマン祖語の「木をくり抜く」=[skipan]から来ているらしい。
舟を作る作業・工程=木を切り・割り・くり抜く、文字通りカタチ無き状態から「作り出す」ことに、舟=shipの語源があるそうだ。

太宰治はある処(注:下記コメント)で「マザー・シップ」という言葉を使っていたが、これは明らかに母船・補給船ではなく「母性」「母である精神」を意味していた。
で、フレンド・シップ、リーダー・シップ、パートナー・シップ、スポーツマン・シップなどと使われているシップの由来を調べてみた。
『「名詞+シップ」は、その名詞が表す状態になるため、そういう状態を維持するのに必要な構え・在り方・技量・精神・知性・気概 等を表す。』だそうだ。
ただそこに在る名詞が指し示す単なる物ではなく、その名詞を意味ある存在にして行く工程を経て、物と人との関係性に照らし出されて再登場する「生き物」としての名詞。
舟の語源と***シップの語源が、カタチの無い状態から「作り出す」という意味の共通語源からの言葉だと知り、何か込み上げるものがある。
ふと、憲法の二つの条文を思い出していた。「不断の努力」「自由獲得の努力の成果」「過去幾多の試練に堪へ」「信託されたものである」

【日本国憲法 第十二条】
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
【日本国憲法 第九十七条】
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

元始シップは、自然物と「作り出す」人間の努力の全体に命を吹き込み、その名詞をより高次の存在に押し上げた。
憲法97条が言う「信託主」=自然法・天賦の意味・良識・公理=は、「日本国憲法シップ」をこそ期待している。
日大アメフト部の地に堕ちた擬スポーツマンシップから、つくづく思うのは国会議員シップ・立憲院シップ・公僕シップ・公文書管理シップなどだ。
現政権が行なってるのは、日大アメフト部の比でない「ルール無視」「反立憲」「隠蔽・改竄・焼却」のオンパレード、歴代保守政権もビックリの、シップ無視蔑視の無法ぶりだ。シップの由来や歴史を経た知性など眼中にない。
奴らに「シップ」を説いても無駄だが・・・。

たそがれ映画談議:原一男作品『全身小説家』

先日、原一男作品『全身小説家』を観た。
観たいと思いながら見逃していた作品だ。
作家:井上光晴の実経歴の虚実と創作の真実を巡る、癌発見から死に至るまでを追ったドキュメントだが、同時に井上光晴の虚構の経歴を晒すことになる。

旅順という出生地の虚偽、父親の放浪のためにお金がなく中学に行けなかったというのも実は不合格だった、父親は放浪どころか家にちゃんといた。
帰省した折、少年の日の年上の憧れの朝鮮人少女が朝鮮人女性の遊郭に居たのに遭遇した、と言うのも虚構だと明かされる。
井上光晴は、1926年(大正15年)5月15日に福岡県の久留米市に生まれた。幼少期に両親が離婚。炭鉱で働いていた父親と共に長崎県の埼戸町で暮らし、祖母が母親代わりを務めていたようだ。高等小学校を中退後、独学でいくつかの検定試験に合格。戦後すぐに共産党に入党し、すぐに共産党内部に嫌気がさし、その批判を共産党系の雑誌「新日本文学」に「書かれざる一章」として発表する。党指導部から批判され、除名処分となり文学の道へと進む。
1977年、自らの創作活動とは別に、小説家を育てるための養成講座「文学伝習所」を佐世保で開講する。この講座は日本各地に広がりを見せ、北海道、山形、群馬、新潟、長野などへと広がった。
人気作家、三谷晴美との不倫関係を続けるが、彼女はその関係を絶つために自ら俗世間を離れ、ついには出家。瀬戸内寂聴と改名した彼女は、その後、井上と生涯、友人としての関係を続けることになる。
この映画には、伝習所の生徒たちが数多く登場し、インタビューに答えているが、その女性登場者が井上との特別な関係を隠すことなく披瀝する。その表情はことごとくどこか自慢げで「私が一番*されたのよ」なのだ。
「嘘つきみっちゃん」(埴谷が言ったのだったか)の虚実の経歴と、作ることに賭ける作家の「真実」の構造が堪らなく面白かった。映画で誰かが言っていた「人は皆、経歴詐称を生きている」と。

ワシの友人が半端な(素人出版数冊、未刊行数編の)自称モノ書きなのだが、構想力の貧弱からか実体験を土台にしてしか書けずに居る。別の友人が社会科学世界の「論文」をこれ又自称研究者として何本か各種機関誌や同人研究誌に発表している。
この二人の「論争」(?)の場に居合わせたことがある。
「こいつは嘘ばっかり書いている。自分史を事実より劇的にあるいは何故か敢えてみっともなく加工して書いてるんや!いずれにせよ嘘なんや」
「学者気取りは止めてくれ。あんたこそ、学問世界の水準に届かぬを知っているから、仲間内の誌に投稿してるんやんけ!」
共に実構造の一面を言い当ててはいるが、文学賞や学会の賞を取って「専門家」と認知されない限り世間的には「素人」なのだ。しかし、その中での悪戦が毎回身を削る格闘に在る限り、応酬は不毛とばかりは言えまい。
ワシはこの自称モノ書きを永年近くで見て来たが、「事実より劇的に」は感じたことはないが、「敢えてみっともなく加工」は何度か読まされた。その「敢えて」が「嘘」を構成する動機であっても、そこから作者が語りたい「真実」が見えたこともあった。
井上の虚実経歴も「嘘」なのではなく、提示する「真実」に必要不可欠な要素かもしれない。
父母にまつわる歴史・朝鮮人少女にまつわる悲恋(?)物語から、ワシは井上の不動の視角や譲れない根拠地を観た気がした。

ところで、原一男だ。過日観た『映画監督 浦山桐郎の肖像』では浦山の「(浦山を産んですぐ他界した)生母への思慕」「継母(生母の妹)への疑似恋情」が色濃く全編を貫いていた。
『全身小説家』でも、井上の母を巡る事情が「嘘つきみっちゃん」を作り出す原点=ある欠落への憧憬または負債として刻印されているように思えた。
原一男の虚実の経歴を観る想いだ。知りたくもある。
この人のドキュメントは、徹底した対象への移入同化又は我への力づくの吸引力があるなぁ~。

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