Archive for 1月, 2012

異論: 教育の舟は誰が編む

公立小学校選択制・教師相対評価・教育目標知事決定 で教育の舟は編めない

-三浦しをん『舟を編む』を読んでハシズムを想う-

大阪方面の知事いや元知事・現市長が、次期衆院選に向け候補者を大規模に立てると新聞記事にあった。弱点を補うべく都市部・地方でくまなく集票するため、新興ひらかな政党や某宗教政党や某知事と連携して一説では候補者300人以上を擁立するという。                                                                                             官僚批判を、公務員一般バッシングにスリ代え、選挙民から喝采を浴び、ムダ・非効率・利権だ・時代遅れだと、「公」の事業と要員を攻撃して、つまりは「社会民主主義的・的」要素が多少なりともある施策を葬って、競争と選別を軸とする「選民」による「効率」の行政を打ち立て、統制と新自由主義的競争のハシズム「社会」を作るのだそうだ。                                                                                           公務員の給与や労働条件を、民間並みにすると言っては、あたかも「公務員が給与面でも労働条件面でも不当に恵まれている」との誤情報を刷り込まれ、「不当に買い叩かれ、不当に労働条件を下げられ、不当に雇用形態を改悪され」続けている選挙民に支持されたのだ。                                                                                                                                                                     民は、己に被さる「不当」な、労働・雇用・生活を巡るこの10年の実質低下への異論と抗議を、「公務員叩き」へと誘導する「独善的指導者」に同意したかに見える。

しかし、                                                                                                                新市長は、選挙結果を「民意」だと大声で叫んでいるが、誰も個々のイシューについてフリーハンドの委任などしてはいない。官僚批判・ムダ排除・利権排除は当然だが、例えば教員への五段階相対評価と最下級評価(5%)連続二年で解雇などの強権統治はどうだ?                                                                                                                                         どないもならん教師は確かにいるだろう。けれども、評価者(校長や保護者や生徒が想定されている)は、あらかじめ設定された5%を作り出さねばならない。不当だ。しかも教員という勤労者の生殺与奪の権能を、はたして保護者という学校教育現場に不案内この上なく、かつ俗情に塗れた者に委ねてよしとするのか? 私は反対だ。                                                                                                         この「保護者」なる存在のいかがわしさを語る論者に、新市長は「民主主義の否定だ」「民主主義を語りながら、選挙民すなわち市民をバカにしている」とご都合主義民主主義言辞で答えていた。教員によらず「公」的業務・職種に就く者の、カッコつきであれ公共性・中立性・不偏不党性の確保や、質や意欲の確保は、まどろっこしく非効率に見えて可能な限り権力の恣意性や、民の熱狂と俗情に影響されないシステムによってのみその可能性を構想できると思う。それでも可能性であって、もちろん不備満載だ。非効率は、効率が持つ危険性や独断や専横に比べれば、人間社会の歴史に晒された知恵だと私は思っている。この効率万能・まどろっこしさなき制度とは、つまるところ某国の独裁政治制度に行き着く外ないのではないか? 自称『左翼』こそ、今一度「プロレタリア独裁」「正しい党による一党制度」「選挙の否定」「政権から自立した労働運動や市民運動」の意味を噛み締めねばならない。                                                                                                                                                                                  教育目標は知事が決める・・・?。曰く「選挙という民意に晒されない教育委員会など、ノンリスクで無責任。決定権能は選挙の洗礼を受ける者の手にあるべきだ」果たしてそうか?少年の頃、アメリカ西部劇のヒーロー:保安官が選挙によって信任される構図をみて「これはヤバイ」と直感的に思ったものだが、治安を担う者が選挙に晒されて在ることの非中立を思って『OK牧場の決闘』などを相対化して観ることが出来た。選挙という流動的な事態によって「教育目標」や教員の「処遇」が数年でコロコロ変わることの何処が民主的なのか私には理解できない。                                                                                                                                          知事に権能を・・・はヤバイが、選挙・民意と本気で言うなら(戦後の民主的諸改革によって公選制だった教育委員は、1956年首長による任命制に変えられたのだが) 教育委員そのものを公選制に戻すと主張しなさいよ。それなら分かる。複数委員の合議は一人の首長の独断のような一方的な言い分の支配とはなるまい。                                                                                                             ◎     公務員は「不当に恵まれている」のか?   そもそも人口当たりの公務員の数はどうなのか?(公務員が担う分野に差はあるが)人口千人当たりの公務員数の統計(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5190.html) を観れば欧米に比して日本は韓国などとともに著しく少ないことが明らかだ(約80人対約40人)。この30年、保育・清掃・介護・道路・公園管理・学校給食などを民間委託し続けいわゆる先進国の約半分という状況だ。この上「ムダだ」「効率」云々で給与カット・人員削減と来れば、質の低下・人員の離反・意欲の低下・そして「非効率」の先の「行政機能麻痺」と、残った公務員への超人的労務過多が待っている。                                                                                                             このことには言いたいことがある。「民営化」の野放しが招いた事態は、「非効率是正(?)」への賛辞ではなく、残った人員への更なる「虚像の高給与叩き」と「非効率批判」であったという事実だ。民営化は誰が支えているか? 効率とコスト圧縮目的は、当然ながら請けた民間企業の「無権利労働」「低賃金」「材料変更」「過重労働」によって支えられ、かつその民間企業のパート・派遣によって支えられている。民営化のツケは、民間下請け業者の野放し無権利と公務員自身に跳ね返っている。これ以上の民営化を阻止し、民営化には厳しい条件を義務付けることが肝要だ。                                                                                           ◎     小中学校選択制については、選択制を採用した自治体で「元々あった格差を固定拡大した」「元々在る地域偏見は拡大している」「少数の勝組校(人気集中校)と、不人気校を作っただけ」「地域で子供を育てるという地域の教育力(ただでさえ風前の灯火だが)が解体風化する」などと再検討されている。そもそも、なぜそれほど公立校間「競争」を推し進めなければならないのか? 教育が困難なのは、学校だけではない。家庭・地域社会・労働現場・他、いずれも社会の縮図に違いない。とりわけ小中公教育が攻撃されるのは、教育への不満・不安に「これこれが悪いのだ。そこを正せばいいのだ」と「悪者」を作り出し、単純明快な論調で「選挙民」の支持を得る。その支持を持続するためには、不断に「悪者」を作り出し続けねばならない。日教組・評価最下級の教師・非選択校区制・・・次々と悪者を作り出し、声高に喧伝する。競争と言うなら、世界規模学力テストで何年間か首位・高順位を続けるフィンランドの義務教育は、学校選択制だろうか?(当方、高成績至上主義者ではありませんが) 調べてみたいが、公権力の非介入、教科の工夫(社会と理科と算数の同時進行授業とか)、学校への大幅な裁量権付与、教師による教科書選定などなどは記憶している。公立小中校の選択制・競争が学力の一点に於いて成果(?)があるにせよ(ないと思うが)、その競争は学校内競争を生み、ますます物言わぬ教師を作り、教員間競争を生み、「競争に勝ち抜く」少数の子と、圧倒的多数のよき意味での競い合いさえ忌避する子を生むだろう。いいことは何も無い。勝組に留まることだけを家訓にしている新自由主義社会を是認し推し進めたい親子だけが「これはいい」と叫ぶのだろう。学校そのものが、学校間競争に汲々とし、ランクアップを最大課題とするような風土下で、「他者を労わる心」「共働の意味」「選別よりも助け合い」「競争よりも共走」といった民主主義の基本を、子供たちは、どこで学ぶのだろう。学校はそれらの総否定=選択制・選別・競争=の只中にいるのだから。

ハシズム派の人々に、『舟を編む』から一文をお贈りして、今日はここまでにします。                                                             『言葉とは、言葉を扱う辞書とは、個人と権力、内的自由と公的支配の狭間という、常に危うい場所に存在するんですね』                                                                                                                                                                 『言葉は、言葉を生み出す心は、権威や権力とはまったく無縁な、自由なものです。自由な航海をするすべてのひとのために編まれた舟』                                                                                                                                     ところが、『舟を編む』を読んで人に勧めたりしている若者がハシズム支持だったりするから話はややこしい。職探しに汲々としている若者が、「変えてくれそう」「実行力ありそう」「楽して恵まれてる奴(公務員もそうなんだ)の不当な利権を剥してくれそう」とそのハシズム攻撃的言辞に期待したりしている。ハシズム現象の何たるかを掴む「理解力」「読解力」を持つこと、その「人間力」を育むことこそ、教育本来の仕事だ。その回路は競争になどない。そんな意味では、本書は格好の書物だ。                                                                                   

教育の舟は誰が編むのか? 現状がそもそも、教科書検定制度や職員会議からの意思決定機能剥奪、日の丸・君が代の強制、他、文科省+どこかが編んでいる。その強化変更の舟を、選挙に晒されるような、私的な存在に編ませてはならない。

読書: 三浦しをん著 『舟を編む』 -元始 教育は「私」に在った-

三浦しをん著: 『舟を編む』(2011年光文社、¥1575)

辞書編纂という地味で壮大な作業に取組む人々の悲喜を、三枚目の構えで描いて一気に読ませる。この作者のものは『まほろ駅前多田便利軒』しか読んでいないので作者については語るものを持たない。                                                          が、言葉との格闘、言葉の自律・自立、言葉の「公共性」、社会・国・権力・政党・宗派を超えた「公」的普遍性・・・という重いテーマが、文体とストーリー、会話とエピソードのある種の軽妙な技法によってかえって浮かび上がって秀逸。                                                                                                                         実は、七〇歳を前にした実兄から「読んだら?」と薦めのメールがあって、『まほろ』の好印象もあって読んだ。

 【本の帯より】                                                                                                                                           玄武書房に勤める馬締光也。営業部では変人として持て余されていたが、人とは違う視点で言葉を捉える馬締は、辞書編集部に迎えられる。新しい辞書『大渡海』を編む仲間として。                                                                               定年間近のベテラン編集者、日本語研究に人生を捧げる老学者、徐々に辞書に愛情を持ち始めるチャラ男、そして出会った運命の女性。                                                                                                       個性的な面々の中で、馬締は辞書の世界に没頭する。言葉という絆を得て、彼らの人生が優しく編み上げられていく・・・・。しかし、問題が山積みの辞書編集部。果たして『大渡海』は完成するのか・・・・。 

企画から出版まで十数年という歳月と人材を投入し、出版社の気概とステータスを賭け、権力に阿(おもね)ることなく、流行り・俗情・熱狂・強権押し付け に迎合・屈することなく、言葉の持つ「公」を維持し追及する人々。『舟を編む』とは、文中に登場する言葉 『辞書は、言葉の海を渡る舟だ』 『海を渡るにふさわしい舟を編む』 からの命名だが、そのこと自体「なるほど」だ。                                                                                                                                                                                                                                          言葉の大海原へ、支配勢力・時の権力の水先案内、宗派・党派の教条や意向、などを求めず、舟の乗り手たる「民」を信頼しても過剰に影響されることなく舟を編む。その作業には、どのような資質が求められるのだろうか。                                                                                                                                                               文中にこうある。持てる時間のすべてを注ぎ、自身の生涯をかけて大槻文彦が完成させた、日本の近代的辞書の嚆矢(こうし)とされる『言海』から料理人という言葉を引く場面。                                                                                                          『料理人:料理ヲ業トスル者。厨人。                                                                                                                       この「業(わざ)」は、務めや仕事といった意味だろうが、それ以上の奥行きも感じられる。「天命」に近いかもしれない。料理をせずにはいられない衝動に駆られてしまうひと。料理を作って大勢の腹と心を満たすよう、運命づけられ、えらばれたひと。』                                                                                                                                                                                     『職業にまつわる「やむにやまれぬなにか」を、「業」という言葉で説明するとは、さすが大槻文彦だ。馬締は感じ入るのだった』                                                                                                                                     

思い出す。かつて、金時鐘について鶴見俊輔がこう評した。『感情そのものが批評であるような地点に立つ詩業』。なるほど「業」だ。確かに、ぼくが師と仰ぐ幾人かの方の営みは正に「業」である。それは、「やむにやまれぬなにか」を「大勢の」頭と心と感覚と体に伝えようと、それこそ生涯をかけて取組んでおられる「業」なのだ。それは又、お上に庇護され、あるいはお上の代弁者となり、お上の厚遇(財や機会)を得る、などとは無縁のものだ。そして又特定の宗派・党派・営利団体との距離は「業」の生命線でさえあえる。                                                                                                                        「業」はこうして、「私」に立って営まれながら、最も「公」に近い位置へと本人と我らを導く舟だ。辞書編集者の資質とは、このような辞書「業」を身に刻むことが出来る者に備わるもののはずだ。ラスト近く、老日本語学者と馬締が語り合う。                                                                                                                     『「オックスフォード英語大辞典」や「康熙(こうき)字典」を例に挙げるまでもなく、海外では自国語の辞書を、国王の勅許で設立された大学や、ときの権力者が主導して編纂することが多いです。つまり、編纂に公のお金が投入される』                                                                                                        『翻って日本では、公的機関が主導して編んだ国語辞書は、皆無です』                                                                                                            『大槻文彦の「言海」。これすらも、ついに政府から公金は支給されず、大槻が生涯をかけて私的に編纂し、私費で刊行されました。』                                                                                                                                                          『これでよかったのだと思います』                                                                                            『言葉とは、言葉を扱う辞書とは、個人と権力、内的自由と公的支配の狭間という、常に危うい場所に存在するんですね』                                                                                                                                                                 『言葉は、言葉を生み出す心は、権威や権力とはまったく無縁な、自由なものです。自由な航海をするすべてのひとのために編まれた舟』

かつて、友人(清百合子さん)が『私塾の歴史』という大著を出した。『元始、教育は「私」に在った』を、記紀時代にまで遡り、奈良時代・平安~江戸寺子屋・明治自由民権へと、「教育」の脈々たる「私」の系譜を辿って解き明かした。公的機関とか公共サービスという言葉に冠されている公はおおむね、「権力の」とか「政府の」とか「地方自治体の」と訳し得る公だが、権力や国家を含む「私的な」存在を越えた「公」は何処にあるのだろう・・・。                                                                                                                                                                 実は「私」に立脚し、私費での刊行もいとわない「私」の営みこそ、もっとも真の「公」への可能性を持っている。その「公」こそ鴎外・漱石・啄木の明治以来、人々が探し求め、「天皇」だったり、「軍国政府」だったり、「大和魂」「武士道」「特定宗教」だったりしながら日本人が掴みあぐねているものだ。漱石はこう言っている。                                                                                                                                                                                                                   『東郷大将が大和魂を有(も)つて居る。肴屋(さかなや)の銀さんも大和魂を有って居る。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を持つて居る』                                                                                                                                             『大和魂はそれ天狗の類(たぐひ)か』(『吾輩は猫である』)

ヨーロッパの「公」、権力・国家といった移り行く私的な存在を越えた「公」は、やはりキリスト教の「神」なのだろうか。少なくとも、ぼくはたかだか百数十年の国民国家形成後のつまり明治以降この国に公であると宣して舞い降りたものども(マッカーサー以降の危うい「民主主義」を含め)、「公」たり得ないと思う。それは、多くの「業」によって今後育まれるはずだ。ぼくに「業」と呼べるものは無いが、師(ブログ:プロフィールの「勝手に師事・兄事」欄に記載)の「業」を案内文献・水先案内として、「公」を求めて歩きたい。そして「公僭称」には断固として抗いたい。

『舟を編む』一冊からハシズムと呼ばれる潮流の旗振役市長(元知事)の主張を思い浮かべている。公立小中学校選択制・教育基本条例・教員相対評価と二年連続下位者の解雇・教育委員会の改組・教育目標設定の権能を知事へ・公務員の人件費カットと人員削減・福祉と教育への競争と選別原理の持ち込み・・・・などを思い浮かべている。【次頁『舟を編む』からハシズムを想う】                                                                                                                              ぼくに本著を薦めた実兄、三浦しをんさん、本ページ中に紹介した清女史、そしてハジズム頭目、偶然全員早稲田卒。                                                                                                                                                           早稲田卒者には異論もあろうが、早稲田卒者の書き手・創り手を列挙すれば、不思議と『私塾の歴史』の論旨に通底する精神を維持している人たちに充ちている。(列挙しようと思ったが、無意味なので中止)                                                                                                        早稲田卒の歌人の歌を・・・。                                                                                 『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや』 寺山修司

 

 

通信: 汝は人を生きよ、吾は猫を生く(当家猫)

1980年ころからだから、もう30年以上ネコを飼っている。今、大阪の実家に居るのは確か四代目のネコで二匹の姉妹だ。各代のネコは、それぞれ病死や老衰大往生で逝ったが、猫生を全うした。十九年間生きた長寿のネコもいた。                                                                                                                                                                                                                 妻は子供の頃から犬を飼ってきたそうで、最初「子沢山の我が家、この忙しい中、猫の世話なんかようせんよ。あんたしいや」と反対気味だった。                                                                                             幼いころから家にネコが居て、「世話」などほとんど何も要らないことを知っているぼくは「ええよ」と答え、ネコ好きの友人から子ネコを貰い受け、我が家のネコとの生活が始まった。                                                                                                                                         蓋を開けば、ぼくよりも妻の方がネコ好きとなり、30年後の今では、ネコ世界でもたぶん有名(?)だろう「猫派」の堂々たる主要サポーターだ。                                                              

 

【猫生訓七ヵ条】(大切なことはネコに教えてもらった。)                                                                               あたいの猫生、いつでも晴れ                                                                                                  http://www.youtube.com/watch?v=1U43icOLJD4

 彼ら人間は飼主ではなく、共同生活者・仲間だ。彼の妻・子供を含め、共同生活者間に序列などない。縦にではなく横に繋がっているんだニャン。                                                                                                                    我々のことを身勝手・我が侭などと言う人間も居るが、あんたの思惑通りには動かないだけで、何か迷惑をかけました? そして、あんたらの個人性に介入したことなどあります?!                                                                                                                      出来れば仲良くしたいけど(仲良くしているが)、いつ独りになっても生きて行く覚悟を放棄したことなどニャイ。                                                                                              犬君には悪いが、こち虎、主(あるじ)やお国や教祖や党理論に照らしてその指示を待って生きているのではない。「犬は三日の恩を三年憶えているけど、猫は三年の恩を三日で忘れる」と人間は言うが、そうではない。別れの切情を表して人様の負担にならないよう配慮しているに過ぎない。浅いのぉ、人間! そんなに、恩を忘れていないことの可視的確証が欲しいのか?                                                                                                                                                                                  時と場面によっては、甘えるけど、媚びない。仲間内では、競わない・争わない・誇らない・蔑まないのだニャン。                                                                                          頼りにしてはいるが、委ねはしない。物理的期待と精神的依存は全く違うのだニャン。                                                                 自分にとって大切なことは、最後に自分で決めるのだニャン。決定権は吾に在り。                                                                                                                          追:某市長(元知事)は大嫌いだ!

たそがれ映画談義: 浦山桐郎 初期三部作

浦山桐郎初期三部作、山田洋次新作のことなど

年末のブログ、2011年に逝った人を挙げた記事の、脚本家石堂淑朗という名と共にあった映画:「『非行少女』って何でしょう?」と若い人から質問がありましたので、お答えしておきます。                                                                                                                         【『非行少女』:あらすじ→goo映画 http://movie.goo.ne.jp/movies/p21010/story.html 】

彼女によれば、ネット検索しても『非行少女ヨーコ』なる作品にヒットして、監督名と共に入力しても、「画像なし」「ソフトなし」「中古品¥28,000」(ソフトが廃版なんでしょうね)だそうで、「これは成人指定映画?」「よほどのお宝エロ・シーンがあるのですか?」となる。ちなみにぼくはそのビデオを持っているので、お望みならお貸し出来ますが・・・。互いの住所確認などお厭でしょうね。                                                                                                                                                            日活に浦山桐郎という監督が居りました。この人は1930年生まれ、敗戦時に15歳ということになる。1985年に55歳で早逝しています。同世代の映画監督としては、大島渚、山田洋次、篠田正浩、熊井啓、吉田喜重などがいる。50年代~60年代初頭の日活映画を注意深く観ていると「助監督:浦山桐郎」というクレジットに出合う。確か『幕末太陽傳』(監督:川島雄三)や『豚と軍艦』(監督:今村昌平)もそうだった。監督第一作が62年『キューポラのある街』で第二作が63年『非行少女』、第三作が69年『私が棄てた女』。これを、ぼくは「初期浦山三部作」と命名して一文を書いたことがある。浦山は観客動員が見込めない映画ばかり企画しては日活を困らせた問題児で、ゆえに寡作家であった。その後75年・76年に東宝で『青春の門』二作、83年断末魔の日活で『暗室』、85年東映で『夢千代日記』。生涯に全部で9作だった。が、初期三部作以降の作品は、三部作を越えられなかった。                           

ぼくが、『キューポラ』『非行少女』『棄てた女』が三部作だというのは、60年代の「おんな」の悪戦を、主人公に寄り添って描き、同時に自らの「戦後第一期青年性」とその限界を等身大に描いた誠実がそこにあり、間違いなく「時代」を切り取ってみせたと思えたからだ。浦山は、主人公ジュン(キューポラ)、若枝(非行少女)、ミツ(棄てた女)を、60年代を生きる少女~おんなとして、時と境遇の違いを越え、同じものの変容態として提示し、もって「時代」の正体を逆照射して見せたのだ。それは、そのまま自身=男の正体を晒すことでもあった。

『三丁目の夕日・異論』( http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re57.html#57-3 )で書いたが、東京タワーを背に蠢く三丁目の人々が、アッカラカンと置き去りにして行くものども・ことどもにこそ「時代」を視ていた浦山が選んだ主人公三人は、貧困と無知に正面から立向かおうとするジュンであり、そうは出来なかった若枝(注:まわり道をして遅れて挑むラストです)であり、60年安保学生に棄てられる集団就職のミツである。三丁目の六子(堀北真希)のような虚構の「いい子ちゃん」などではない。彼女らは、浦山が捉えた「時代」と「おんな」を、従って「男」を三作を通してようやくおぼろげに示したのだった。                                                                                                                        質問者でも知っていよう『キューポラ』のジュン(吉永小百合)が、貧困・進学無理家庭の、いわばその層内の精神的エリートだとすれば、『非行少女』の若枝(和泉雅子)はノンエリートであり、『棄てた女』のミツ(小林トシエ)とは、彼女らの無垢な努力に共感を覚えながら、「所得倍増」「高度経済成長」に走った元左翼青年のモーレツ勤労者に再び棄てられる存在なのだ。                                                                                      それはそのまま、時代が「選び取り」「選び棄てた」もの全てだと語っていた。                                                                 「お前が棄てたもの」は何なのか?と。                                                                                                                              ところで、良い映画とは確実に「時代」を写してもいるのだが、浦山桐郎と同世代の作家とは、思春期に戦争を体験し、戦後の混乱期と復興期に大学に学んでいる。その奥深い記憶の光景は、戦争・焼跡・闇市から復興・所得倍増・モーレツとバブルに走る狂想曲であるに違いない。彼らが描く世界には、その光景と「今」とが写し取られていた。

山田洋次が「男はつらいよ」のヒットを背景に、盆・正月に「寅さん」を撮ることを交換条件にして、数年に一本自主企画実施を松竹に飲ませ、世に出した作品群は実に時代を写し取っていた。『家族』『故郷』など「民子三部作」、『幸福の黄色いハンカチ』『ダウンタウン・ヒーローズ』『学校』『息子』『母べえ』などがそれだ。そして、寅さんこそ、実に時代を描いていた。                                                                              話は変奏するが、『寅次郎忘れな草』のリリーさん、ええねぇ~! 時代のインチキ提案とは和解すまいとアナーキーに生きる者の「孤独」「不安」「自立」は、地位・家・財との現実的距離感も確立したい模索の中に在った。全48作中、寅さんとぼくが最も惚れた「おんな」なんですねぇ。浅丘ルリ子が100年に一度出会った役として演じていた。リリーさんは難しいことは言わないが、困難な生であり、見事な世紀末の「おんな」振りの可能性を示していた。その先に確実に「時代」が立ちはだかっていた。願わくば、リリーさんは一回こっきりの登場にして欲しかった(スミマセン、ミーハー願望です)。                                                                                                        実際には、その後『寅次郎相合い傘』『ハイビスカスの花』『紅の花』と三作に登場                                                                                                                                                                                                                     最近の日本映画には、何が写し取られているのだろうか・・・?と不安だ。                                                                                                           山田さんが、『東京物語』(小津安二郎)をベースに、いわばその21世紀版らしい、『東京家族』を撮り始めるという。今秋公開か?                                                                                      出演は、菅原文太、妻夫木聡、蒼井優、市原悦子、室井滋、夏川結衣とぼくの好みの役者ばかりだという。楽しみだ。                                                                             

不器用だった浦山桐郎を久し振りに思い出させてくれた通信でした。                                                                  『非行少女』の印象深いシーンも思い出した。                                                                                                          寒い寒い夜、更正施設に入寮している若枝を浜田光夫が訪ねるのだが、廊下の洗面台前の窓越しの会話のシーン。今井正『また逢う日まで』の岡田英二と久我美子の窓ガラス越しのキス・シーンは映画史に残る名場面と言われているが、この和泉・浜田のシーンもなかなか・・・。                                                                                                                                          若枝の旅立ちのラスト・シーン。駅(確か金沢駅)の待合室の場面では、カメラが360度グルリと回りながら二人を撮るという禁じ手で、小説でいえばナレーション・地の文が足許フラフラ、定まらないみたいな論難があったのを記憶している。実際、その浮遊感に驚いた。批判の言い分は織り込み済みだったと浦山は語っている。

さて、後年「あの時代」として次のような括りになることだけは「大阪府民(?)」として避けたいものだ。                                                      『市民や・労働団体・市民運動・政党が官僚に認めさせ培って来た、高コストの施策を、官僚支配打破を謳い文句に、根こそぎ効率主義で斬って棄てようとする知事が選挙の圧倒的勝利を得て大阪に登場。                                                                      大阪府民は、威勢よく歯切れのいい知事を、レーガン・サッチャー・小泉のようにいやそれ以上に支持し喝采を送った。                                                                                     教育と福祉の場に競争と選別を持ち込み、競争に「勝てる子」を作らんとしている。初期に言った「子どもの笑顔が政治の中心」との言は「競争に勝って微笑む子ども」のことだったのだ。一握りの勝者と多くの敗者・・・儲ける自由・勝ち抜く自由・選別する自由・・・、そのことを子どもに排他的競争を通じて「教育」するのか?!!                                                                                                                                                                                     やがて、大阪を震源地とするハシゲ現象は全国を覆い、それがファシズムか否かの論争に明け暮れる知識人・政党を尻目に、21世紀型「ハシズム」として国民運動になった。就労先を探し歩き疲れ果てた「府民」は、己より弱いもの、虐げられし者、障害者、少数者、マイノリティ、在日外国人、女性・・・を排除すれば「俺の雇用は確保出来るのだ!」と、さらに一層「ハシズム」の運動員となって奔走し始めた。                                   2012年とは大阪発のそういう「時代」の始まりであった。』                                                           

そうさせてはならない!

 

 

 

Search