Archive for 6月, 2012

読書: 『「一九〇五年」の彼ら』  -②民主党政権とAKB総選挙

『「一九〇五年」の彼ら -「現代」の発端を生きた十二人の文学者- 』 (関川夏央著、NHK出版、¥780)

何の為の「公」なのかを巡って、ぼくが得たヒントもある。                                                                                                                                             1911年(明治44年)9月、平塚らいてふ・長沼智恵子らによって「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。」に始まる創刊の辞を掲げた『青鞜』が発行される。冒頭に与謝野晶子の詩が掲載されたそうだ。「一人称にてのみ物書かばや。われは女(おなご)ぞ」とあるのだそうだ。

なるほど、「一人称にてのみ物言わばや。われは民ぞ」だ。個々の「私」、その実現・確立・確保・保障の為にこそ「公」は在る。政治や総選挙から遠い、若者・中年男らがAKB総選挙(?)に一喜一憂し、日本武道館に詰めかけた一万人や、居酒屋やレンタルビデオ店のモニターTV前では、開票速報に投票者たちの歓声と溜息が交差している有り様だという。この狂想曲の仕掛人は、かつて「天皇在位20周年祝典」のセレモニーを演出したりしていた。「日出づる国の」と「祝典賛歌」を奉じていた。「祝典賛歌」と「AKB総選挙」が深いところで繋がり共犯関係にあることの証左であろう。                                                                        大新聞社発行の月刊誌にコメントを寄せる学者は、この総選挙狂想曲光景を肯定的に捉え分析した挙句、仕掛人の思惑に便乗する各種メディアと投票者の「あてがい扶持」文化の「危うさ」への警鐘ひとつ語りはしない。

消費の大部分が「誘導された欲望」に支配され、渋谷の街は「誘導されたファッション」に包まれた若者で今夜も溢れ、大新聞やエセ公カルチュアは奴らの企画演出の狂想曲に易々と乗ることで、本来責務の放棄を忘れらるのだ。                                                                                                    100年を費やしてなお、この国には「公」が無い。それは、「私」そのものがないからなのだ。                                                                                                                                                       政権にしてからが「公」が無いから、原発再稼動に走り、普天間-辺野古を言い続け、公約違反の消費税強行を実質大連立で乗り切ろうとしている。民・自・公とは、議会の8割、つまりは大政翼賛会なのだ。                                                                                              「公」の無いところには、擬制の「エセ公」が「公」を僭称して登場するぞ。国家神道・武士道・大和魂などではなく、それを活用したとしてもメインは「新しく」「カッコよく」「人々に支持され」て登場するだろう。そうハシズムはその一例だろう。                                                                                                  1905年からの約100年の曲がり角に政権を手にした民主党は、その意味も、その使命も、何も分かっていない。民主党の「私」さえすでに氷解し去った。                                                                                                 新聞紙上に民主党政権へのブラック・ユーモアが出ていた。政権の無策・「羅針盤喪失航行」を述べて「民主党は要らない」ではなく「自民党は要らない」と説く。曰く「自民党の仕事は、全て民主党が行なっているから」と締め括る。                                                                                                                   社会民主主義的「的」政権や、ヨーロッパ左派政権を構想して期待した人々も、いよいよ民主党を見限る時期に来ていよう。                                                                                                                                                                                                                                                                                               「私」の確立による「公」の展開・・・、下手に政権にある限りその構想への妨害でしかない。この国のなけなしの「抵抗勢力」「総結集を想定できる潜在力まで溶解せられては、再建の支障だ。それよりは、                                                                                    対立軸が明確であり、相対的「左派」の異議申し立てが常に一定の社会的波及力をもって存在する・・・、今ならまだその復刻へと舵を切れる。民主党政権への一切の幻想を棄てることが、「私」の確立であり、従って「公」への道なのだと、一年かけて想い至った次第である。

 

 

読書: 『「一九〇五年」の彼ら』   -①日露戦から100年強

『「一九〇五年」の彼ら -「現代」の発端を生きた十二人の文学者- 』 (関川夏央著、NHK出版、¥780)

読書とほぼ無縁の学生期を過ごした身ゆえ、その後の労働や生活、社会的闘いや個人的表現願望・・・などで否応なく出遭わざるを得ない、先達のあれこれの考え(思想)や書物が、一般の人にとっては遠い学生時代に読み込んだものだったりする。こっちは後追いで斜め読みなどして半端なことだ。

そんなぼくでも、漱石・啄木・晶子・光太郎は多少知っていて、明治期文人の格闘の意味を歳を重ねるに従って考えるようになっていた。                                                                          格闘=西欧を追いつつその模倣ではない独自のものを求めた精神の彷徨、日本独自(それ以上に己独自の)の立脚地点を求めながらも、国際的には「脱亜入欧」ではなく、内的な拠り所は大和魂・武士道・国家神道・天皇・軍国でもない「別のもの」を探しあぐねた格闘。その格闘を考えることが今日的に有意義だろうことは、その格闘が西欧対日本という座標軸と、近代的自我対国民国家あるいは「公」対「公僭称体」という座標軸の複合重層の連立方程に在り、明治近代国家完成から100年強を経てなお堂々巡りを繰り返しており、我と我が身がそこに棲む「公」なき我と社会だからに違いない。                                                                                                                   60年代以前の若者が、マルクス・レーニン主義を「公」と見定めそこへ傾斜したのは理のあるところだった。しかし、誤解を恐れながら言うが、それは本メモ末尾でぼくが言う「私」の確保の為の「公」ではなく、公による「私」の統治論でしかなかったのではないか? 冷戦終了・東西ドイツ統一、ますます「公」が見えない中、後年「オウム」教団に医師などのインテリ層が大量に帰依したことも、元々は「公」の希求だったと言われている。人は誠実であればこそ、混迷に在ってオウム的で ある場合がある。                                                                                                                                 

以前、関川夏央著・谷口ジロー画になる劇画『「坊ちゃん」の時代』全五巻を読んで、劇画で明治のダイジェスト摘み食いみたいで反則技っぽくもあったが、なんのなんの、その構成力と説得力・臨場感は見事で魅せられたものだった。そこからいくつかの読書に及んだ。劇画恐るべし、いや昔国語や社会の教師たちはその先への魅力を、この劇画のように伝えるべきだったのに・・・、などと考えたものだ。青年期明治には、人間の青年と同じようにその後100年の全ての要素が、瑞々しく毒々しく背伸びであったり矛盾の「外化」であったりして、いっぱい詰まっている。劇画はそれを見事に描いていた。  http://www.yasumaroh.com/?p=1738                                                                                   最近同著者の『「一九〇五年」の彼ら』を読んだ。1905年、日露戦の戦勝に沸き立つ世論と新聞、この国威発揚の時間に明治は国民国家としてのピークを迎えていた、との明治観・国民国家観・その後の軍国への道筋観・・・、読むべしと直感して購入した。                                                                      青年明治が、壮年へと向かう。アジア・西欧との関係、国内の諸案件、近代国家としての軋みと軍事国家への傾斜、1910年「大逆事件」・韓国併合・・・。内外の社会状況は近代的個人に有無を言わせず迫って来る。                                                                                ここで取上げられた十二人は、それぞれ自己アイデンティティをどう確立したか。                                                                           関川は、十二人を「現代」の発端を生きた人々として、1905年という国民国家のピークから現代へと連続する社会の中の個人という文脈と、この100年と今以降の先を貫いて在るはずの「国民国家と近代的自我との相克」という文脈から、「公」へのヒントを探ろうとしている。                                                                                                ぼくにとっては初耳エピソード(平塚らいてふ・森田草平の事件と、漱石・三四郎・里見美禰子)なども多数あり、十二人の模索はスリリングである。                                                                                   関川による十二人の取上げ方の紹介は、それこそ孫孫引きなのでここでは遠慮するが、ぼくの場合何人かについて「ああ、これを読んでみるか」と思わせてもくれた。それぞれの読者にそう思わせてくれるだろう本だ。                                                                                   それにしても、読むべき時期を何も読まずに過ぎ来たったものよなあ。

 

 

つぶやき: (元)生活保護受給者から 怒りの通信

元:生活保護受給者(知人)から怒りの通信

肝炎発病(証拠は無いが、注射針使い回し等による「公」的伝染の可能性大)によって労働ママならず、治療・通院・入院に明け暮れ、焦燥と失意の20代を過ごし、数年間の生活保護受給によってようやく「生」を「現実」へと繋いでいた経験のある知人から、怒りのメールが届いた。                                                                   

自民党「生活保護に関するプロジェクトチーム」(某女性議員ら)が、某芸能人の母親の生活保護受給への疑義を声高に叫んでいる。不正受給撲滅・不適切支給根絶・親族の扶養の奨励を訴えるキッカケにしたいと言うが、不正と呼べるかどうかは曖昧で、自民党の方針「生活保護給付水準の10%カット」「食費・衣服費の現物支給化」「支給期間の有期化」などの社会保障の抑制政策への地ならしの動きと見える。                                                                         そもそも親族の扶養(成人した子の親に対する扶養)は「その者の社会的地位に相応しい生活を成り立たせた上で、余裕があれば援助する義務」であり、その程度は「話し合い合意」をもととする、となっている。                                                                                                                     制度上の「許容範囲」を知らぬ振りして発せられる、「受給憎し」が先行する感情論は、「吊るし上げ」「見せしめ」としての役割を担って登場している。                                                                                             それはあたかも、あっちもこっちも不正受給であるかのような、「扶養」「援助」しない受給者の親族は「不心得者」であり、常套句「非国民」と言いたいに違いない、強迫言説だ。

このご時世、税や社会保険の支払にさえ窮する勤労者は、職を失う可能性に日々晒され、ローン(でなければ都市部なら高額家賃)や、医療費・教育費等々に追われ、生活保護受給者が近親に居たとしても、「扶養」「援助」し難い状況に違いない。この知人の場合、兄弟などに所定の用紙に「援助無理」の一筆を書いてもらい、それを依頼するそのこと自体が「言いようの無い負目・屈辱感・無力感」として作用し、それこそカラダと心にこの上なく悪いことだったと振り返っている。                                                  また酷暑を越える為のクーラーを「贅沢品」と指摘されたり、再入院に備えたほんの僅かの預金を「財産ゆえ減額の対象」と、こころない岡っ引役人に言われたりと地獄の日々だったという。

知人は、幸いにして闘病10数年の後、インターフェロン治療が奇跡的に効き、ほぼ完治し社会復帰した。                                                                                                          知人は言う。生活保護受給に絡みつく厭な思い出は千も万もあるけれど、生活保護制度には感謝している。「公」務の何たるかを承知している、「まっとう」な「公務員」にも出会えた。制度とその公務員のお陰で、自分の「生」と現実社会との関係を断ち切られる寸前で、皮一枚繋がって来たのだ。制度を活かすも殺すも、運用する人間の智恵・感性・心根だとつくづく思うなぁ・・・、と。                                                                                       

知人は、やがて生活保護受給を終了し、知的障害者・重度身体障害者の支援施設の職員となり、25年以上になる。                                                                                                                                                             某女性議員が某芸能人に返納せよと言ったとか言ってないとか、だそうだが、知人の場合、「公」から受けた「自立準備期間の生活資金」を、そうやって「公」(的取組み)へ返している。いや、受給期間からすれば、十二分に返した。某芸能人が返すべきは、当初扶養援助がママならぬほど、どれほどの不安定収入だったか、そして生活保護がいかに「生存」の最後の砦だったか、などの制度の意味「公」論を説いて社会に返すことだ。                                                                               その上で、40万のローンを支払い、母親はそのマンションに住み・・・というのは彼のその後も続く高収入からして、いささかクエスチョンではある。制度を広く論議するサンプルを提供するをもって、応えたとぼくは理解しよう。                                                                              

某女性議員よ!                                                                                                                         貴女は、某芸人の母親の件にこれほど大声で居丈高に叫ぶが、では聞く。                                                                                                                      貴女は、厚労省の覚えも目出度き、北九州方式(数値目標をノルマとして決め、保護件数を抑える)が、2006年4月~5月の二ヶ月間に、申請に際し、申請書を交付せず、受付自体を拒絶し、3名もの餓死者を出した事件に対し、今回の「口撃」の100分の一、いや万分の一でも、やがて「自民党・生活保護に関するプロジェクトチーム」の主要メンバ-となる「知性」(?)の一片を動員して発言したのか?                                                                                                            マンションを売却し、40万のローン負担が無くなれば、某芸能人は母親を扶養出来ただろうが、それは制度と個別の事情を精査した上で発言したい。けれども、40万に目が行き、時間と労力を使う者が、一方で餓死者を作る(間接的殺人だ)という反福祉構造には何ら反応しない・・・、これは、どうしても理解納得できない。                                                                                                                                                                                                                  

生活保護受給者は、スウェーデン:4,5%、 フランス:5,7% イギリス:9,27%、 ドイツ:9,7%、 アメリカ:13,05%、そして日本:1,57%だそうだが、であるなら、日本は極めて低い水準ということになる。日本が、生活保護野放し天国かのような悪宣伝は誰がしているのだ?                                                                                                             また、いわゆる「不正受給」は、総額年間129億円(これ自体大変な数字だが)で、しかも支給総額の0,4%である。                                                                                                      不正受給・不適切給付を野放しにせよと言いたいのではない。騒ぎ立てる「問題点」「疑義」と、餓死という間接殺人を前に、「公」は何処(いづこ)にありや、「民」は何を為すべしや? と自問しているのだ。制度には、必ず不備や瑕疵があり、不正があったり不具合がある。それは、糾され是正されねばならない。だが、その「不正」と、制度の目的・趣旨を根底から否定する「不正義」とは全く違うのだと強く言いたい。

ニート攻撃があった(今も言葉を変えてある)。不安定雇用形態を推し進める側の意図ある悪宣伝だった。                                                                                                                           公務員バッシングが続いている。人口当たりの公務員数は日本は極めて少ないことが明らかだ。効率万能・数値化のハシズムは、「公」務を、公務員を、解体しようとしている。公務員が「公」を行なえない。( http://www.yasumaroh.com/?p=14034 )                                                                                                          いま、某芸能人バッシングから、生活保護受給バッシングへ、保護費削減へ、あらゆるセイフティネットの解体・放棄へと進み始めている。その全体構造を忘れないでいたい。*********************************************************************************************************************************************************                                  

 小説『舟を編む』(http://www.yasumaroh.com/?p=14019 )、映画『オレンジと太陽』(http://www.yasumaroh.com/?p=14566 )、この度の「生活保護バッシング」・・・。「公」とは? と思い続けている。                                                                                                                     国家ではない。国家意志や宗教や政党ではない。特定の思想でも、特定の団体でもない、真正の「公」。                                                                                                                                                                                                                                        殖産興業・富国強兵のスローガンの下、国家形成を急いだ明治国家が国民国家の完成をみたのは、1905年「日露戦争」勝利(露の極東支配を阻止したい英・米の意向の産物だそうだが)による国威発揚のピーク期であり、残念ながら「戦勝」を土台にした『極東ロシアの一部を分捕るまで下がるな』とポーツマス講和に反対した市民・新聞などの軍国・皇国ナショナリズムとワンセットだった。                                                                            明治の知性は、武士道・大和魂・軍国日本・天皇などに依りかかることなく、「公」を追い求めた。「私」・・・、排他的でなく、競争ではなく、物理的私利ではない「私」の追及が、つまるところ「公」への入口だと見定めたと思う。「公」論議はともかく、近代的自我と国家との相克、社会的「公正」実現を希求するゆえの政治思想、戦争・侵略・欧米スタンダードへの抗い 等々・・・、100年前に明治人が立向かい、その後100年「現代人」が迷走た課題は、現在もそのままそこに在るのではないか?                                                                                              今、2012年(1905年から、100年と少し)、100年を経た我等が「公」が見えぬ「ていたらく」ゆえ、明治国民国家が歩んだように(もちろんカタチと位相を異にして)「公」ではないものによってことが進みかけている。ヤバイ!                                                                                                                                                                       大飯再稼動、沖縄普天間-辺野古、ハシズム、大連立・・・                                                                                   殖産興業・富国強兵・日清日露戦・大逆事件・日韓併合・大正デモクラシー・軍閥・国際連盟脱退・二二六・対中戦争・太平洋戦争・沖縄地上戦・原爆・敗戦・沖縄処分・焼跡闇市・朝鮮特需・60年安保・所得倍増・高度経済成長・東京オリムピック・一億総中流・モーレツ・60年代末叛乱・沖縄県再発足・国鉄民営化・総評社会党解体・バブル期・バブル崩壊・規制緩和・雇用形態崩壊・年金瓦解寸前・阪神大震災・オウム事件・セイフティネット再編・少子高齢化・東北大震災・原発事故・・・・明治国民国家の100年は終わったのだ。民主党政権はその曲がり角に登場したはずなのだが・・・

先日、関川夏央著:『「一九〇五年」の彼ら-「現代」の発端を生きた十二人の文学者-』(NHK出版:\780)を読んだ。十二人の、悪戦苦闘の意味を少しは知りたい。「公」へのヒントをもらえるだろうか。                                                   帯にはこうある 「私たち現代人の『原形』がここにある」。                                                           十二人の氏名は、右画像クリックで判読出来ます。

 

Search