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たそがれ映画談議: チャン・イーモウの日本未公開作品、2011年『金陵十三釵』(1937年日本軍占領下南京)

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【3月18日(土)14:00~『金陵十三釵』(きんりょうじゅうさんさ)上映会 】

張芸謀(チャン・イーモウ)監督の、日本未公開作品『金陵十三釵』(きんりょうじゅうさんさ)の上映会が、同作品上映北摂実行委員会の主催で茨木市福祉文化会館で行われた。

2011年の、中国の年間興行成績第1位の大ヒットということはともかく、1937年日本軍占領下南京が舞台と聞き、チャン・イーモウがこのヘビイな課題をどう描くのかに興味があり参加した。

先月、上映会に先立ってチャン・イーモウ監督のことを少し書いた。

ワシが知っているのは『紅いコーリャン(紅高梁)』(1987)『菊豆(チュイトウ)』(1990)『活きる』(1994)『あの子を探して』(1999)『初恋のきた道』(1999)『至福のとき』(2000)『単騎、千里を走る』(2005)『妻への家路』(2014)だが、日本でヒットした『初恋のきた道』や、高倉健さんが主演した『単騎、千里を走る』は多くの人が観たと思う。

『活きる』『初恋のきた道』『妻への家路』などの社会背景には大躍進時代の、やはり受難だったと言える「民」の在り様や、文化大革命期の下放青年や夫婦のその光と影が見え隠れ(いや、それが主題だ)して心に響いた。

『初恋のきた道』の恋物語から、右派というレッテル貼りに翻弄される青年(主人公の夫)という骨を除いては、観客泣かせのストーリーはストーカー少女の物語となってしまう。そうなら、抜群の映像美も主人公の心理を切り取る工夫されたカメラ・アイも、ちょっと嫌味な乙女心が際立つあざとい手口だとも言えそうだ。物語の社会的背景は重要で肝だが、イーモウが撮りたいのは、激動し移りゆく政治や社会の皮相の下に在って、弱く・強く・したたかに・哀しく・歓びにも活きる「民」の底力と悲哀の歴史性と基層性だ。

今回の上映会には、南京というヘビイな課題にも基本は揺るがないだろチャン・イーモウの作家魂に期待している。

 

 

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【あらすじ】

『舞台は日中戦争下、1937年12月日本軍占領下、南京事件の一部を構成する廃墟と化した市街地の出来事。。南京へ侵攻中の日本軍の暴力を避け教会の建物の中へ逃げ込んだ中国人女子学生ならびに娼婦らを米国人納棺師ジョン(クリスチャン・ベール)が聖職者になり切って匿い救う。日本軍士官は女学生たちを保護する約束をするが、同時に彼女等がパーティーで賛美歌を合唱するよう要求する。それだけで済むはずはないと思われる女子学生たちを助けるために、一緒に避難していた12人の娼婦と1人の少年侍者が女子学生に扮装し身代わりとして日本軍の南京陥落祝賀パーティーに赴く。その隙にジョンは修理された教会のトラックと密かに入手した通行証で女子学生たちを共に南京から救出する。』

作品は期待に違わぬチャン・イーモウの複眼性や俯瞰性に溢れ、「南京」を扱いながら、凡百の「お説教映画」「反日プロカパガンダ」「自国の愛国主義鼓舞」を超える普遍を求めていた。いろいろ書きたいが長くなるので、機会を得てどこかに書きましょう。

ここでは、上映後に解説者の大阪府立大教授:永田善嗣さんから聞いた原作と映画シナリオの違いが、なるほどそここそがチャン・イーモウだ!と思えたので、少し述べる。

①主人公は行き掛り上神父を引受けることになるアメリカ人葬儀屋だが、原作は本物の神父。

②娼婦たちが身代わりとなり、女子学生はニセ神父運転で南京脱出行へ・・・そのトラックの後ろ姿で映画は終わるが、原作では本物神父は娼婦たちを送る場面で日本軍に撃たれ命を落とすらしい(殉教?)。

ワシは、ここに他も含めた作品群に通底する、チャン・イーモウらしさを感じた。

聖と俗=神父とニセ神父、女子学生と娼婦。 暴力受難や悲嘆と「民」の底力=ニセ神父の決断、娼婦たちの「人の為に」という気概。

他にも、戦争に疲れ果て南京の惨状に心を痛めてたところで、何が出来るわけでもない無力感に在るインテリ将校(渡部篤郎)や、日本軍に協力する生業を確保して生きながら危ない橋を渡ってトラック修理の工具部品を調達する女子学生の一父親、などが戦争の重層性を伝える。

けれども、チャン・イーモウのそうした複眼や希いの可能性さえ、圧倒的な暴力でもって踏み潰し殺し尽くした事態こそが南京大虐殺だという事実が、政治的に作られた映画より重く響くから映画はスゴイ。

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