Archive for 5月, 2018

つぶやき:結婚記念日?

昨夜、家のぬし殿に「旨いもん食べよか」と言われ、当夜が47回目の結婚記念日だと思い出した。
昨年、近所に出来た和食店はなかなか美味くて我が家では高評価。気付かぬ振りして脚を引きずり付いて行った。ぬし殿は女史会などでワシよりは頻繁に来ているのか、何やら「カオ」風だ。
誕生日やら結婚記念日をアンケートに答えていたのか、店は先刻当夜の理由を承知で、最後に祝辞をあしらったデザート皿が出てきて驚き。出来レースでも嬉しくないはずはない。

ところで、47年ぶりに言わせて欲しいことがある。
ワシらは1971年に、大阪北部の衛星都市の市民会館で式を挙げたのだが、たまたまその年の2月11日は仏滅で、安い公共式場はその日しか空いておらず2月11日となった。
当時のバカタレ学生左翼が「奴は、よりによって、2月11日 建国記念の日に結婚したそうだ」「羽織袴で式をしたそうだ」「日本回帰の転向か?」その他 吐かれた得体の知れない異論を直接間接に聞かされた。何が転向や?
もちろん無宗教でだが、服装はワシらの趣味で羽織袴・通称「角隠し(?)」で行なった。バングラデシュ男女のルンギー・サリー、半島男女のパジチョゴリ・チマチョゴリ、ヴェトナム男女のアオザイのように、この島国で生まれ育ったワシは和装に違和感は無い。放っておいてくれ。
後年、子どもが「2月11日が建国記念の日というのは神話やと、先生が言うてた」と言うので「そう神話や、ホンマは全国がオトウ・オカアの結婚記念日を祝うてくれとるんや」と言って笑った。誰が建国記念の日を祝うか!
人の言動へのステレオタイプの理解・表面的に「正しい」とされる教条から半歩も出ない硬直・・・・自称左翼・二元論者・決めつけ癖の諸君がどんな結婚(非結婚)・結婚式(式忌避)やどんな47年を過ごされたのか、はたまた「建国記念の日」や「国旗国歌法」や各種軍事法制・国家主義的強制にどう向き合われたのか、無翼のワシは寡聞にして知らない。

47年経ったので言わせてもらう。バカタレ左翼ガキ!

アジール空堀:2018年1月『ちんどん道を生きる』

舟木徹男氏発

【Asyl空堀 1月】

今日は「アジール空堀」で、ちんどん通信社の林幸治郎氏のライブを観に行く。アコーデオンと太鼓の伴奏に合わせた歌が哀調を帯びていて、いい催しであった。「阪神の震災後の神戸に呼ばれて街を練り歩いたとき、鉦や太鼓の音が邪気を払うものだということが民衆の無意識の記憶にのこっていて、それが震災の災厄冷めやらぬ神戸に自分が呼ばれた理由なのだとわかった」という意味のことをおっしゃっていたのが印象的だった。金属音が魔除けの意味を持つというのは、柳田国男の「山の人生」にもあったな、とかいろいろ思い出した。

 

 

ぼやき:玄関の冷凍庫

2018年1月23日

あるご家庭の玄関入ってすぐの廊下には、業務用冷凍庫がデーンと座って居られる。
この冷凍庫は常時満杯で、底の方に「昭和」の日付の商品が眠っているのではないか?と思われるほどだが、まだ下層部を拝見したことは無い。大阪常住となってかなりになるので、一度疑問に思う点を問うてみた。
「アホぬかせ! 動いてないように見えて海流のように常時入れ替わっておるぞ。欲しいもん言うてみい。何でもあるぞ。非常時用食材庫も兼ねとるんじゃ!」と返って来た。海流?ワシはその深海を訊いとるんじゃが・・・。
まぁ、事実、麺類・パン・冷凍保存可能な肉・魚・野菜・加工食品など豊富で、実は確かに、数日放置されても困ることはなく重宝しとる。突然の友人来訪にも対応できる。
深海を探りたいが、腰・脚の具合であいにく深海探索はまだ出来ていないが、きっと昭和の日付を発見することになると思う(笑)。
ワシの記憶では、子はみな成人し独立 孫もおられる。現在老夫婦二人+猫二匹暮らしだが、こんなデカイ冷凍庫が要るんだろうか? いや、直接はとても言えない。
ゴミ屋敷(小屋)予備軍間違いなし!

 

アジール空堀:2018年1月19日用フライヤー

アジール空堀:2017年忘年会

昨夜(12/19)は呑み過ぎた。
「アジール空堀」忘年感謝会。
時間あれば朝までみんなの話を聞きたかった・・・。
(シャーデー師のマジック最高でした!)
アジールの心
『党ならざる者たちによる叛乱 と 自治』
『群れない 媚びない 競わない』

つぶやき:女房の母親。

体調の関係で、ここ半年前後、家に居ること多いワシに与えられた任務は、四人の子どもたちやワシらの写真の整理だ。永年の未整理の写真は無秩序にでっかいダンボール箱に投げ入れられており、まず ①誰のものか②いつの時代のものかで、大枠で小箱に仕訳して、やがて箱ごとに詳細分類することにはなっているが、そこからは各自にやってもらおう。
厖大な枚数が詰まっている「ゴミ写真箱」は、第一段階の大枠での仕訳というのが終わっていない。近所に住む息子からは「写真整理が終われば命が終わるんとちゃうか?」と嗤われている。
その整理の最中、興味ある写真に遭遇した。
1994年、73歳で肺がんで他界した妻の母の若かりし日の写真だ。
満州に居た、歌劇団に居た、命からがら引き上げて来た・・・などと、妻から断片的に聞かされては来たが、この数枚の写真に「釘付け」となった。
「バアさん、オモロイ話がいっぱいあるだろうに、聞かせて欲しかったなぁ~」と義母の生涯を想った。

1920年大阪に生まれ育った妻の母は、某歌劇団に居たらしい。
1930年代末(だと思う)に劇団の一員として満州に渡ったと聞いた。
真偽のほどは分からないが、満鉄かその関連企業に勤めていた妻の父が熱を上げ求愛した(ことになっている)らしい。能天気な娘(妻)は、母親がこんなに早く逝くとは思っていなかったからだろうか、母親の生涯をほとんど知らないのだ。この写真を見ただけでオモロイのに・・・、もったいない! 意外にも妻の兄(米子市在住)がよく聞いているかも・・・。
1944年に男児を得(病死)、1945年に第二子(妻の兄)を得、幼い子を抱え夫(妻の父)と共に帰国し夫の故郷島根県広瀬~鳥取県米子市に住んだ。1949年女児(妻)を得た。
多人数兄弟の末っ子にして商業高校卒亜エリートたる、青雲の志(?)を秘めた青年。やはり多人数姉妹だった駆け出しの歌劇団員……。それぞれの事情で独りで生きてゆくべく、満州へ向かった多くの昭和の青年男女大衆の典型でもあろう、妻の父母の自分史は昭和前半史の渦の中に埋もれている。
云わば、膨大な昭和難民・棄民の一人でもあった。

「濁流だ濁流だと叫び 流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ 」
(斉藤史 『魚歌』1930年昭和15年)

画像は、歌劇団時代の彼女だが、右上の写真など最近のワシの娘(44歳)が似てきたように思う。左下の写真は、ラインダンスの左端が彼女だろう。写真中央は、初孫(ワシの娘)を抱くバアさんです。1976年55歳だと思う。
おい、能天気娘、己が母の生涯くらい把握しとけよ(笑)!
芸人の魂が貴君に宿っているのなら、30年以上前の某争議(破産法下 職場バリケード占拠5年~占拠中に始めた労組自主経営20年)に中止要請めいた言を発しなかったのは、バアさん譲りの「河原乞食」魂かなと思うことにしておく。

 

たそがれ映画談議:クロサワとミフネ

11月9日(木)、BS朝日の「ザ・ドキュメンタリー」
『黒澤明☓三船敏郎!! 未公開音声が語る2人の真実』を観ました。

65年『赤ひげ』が黒澤・三船のコンビ最後の作品だった。
黒澤は68年『トラ・トラ・トラ!』でハリウッド方式と衝突し事実上解任され、69年初めてのカラー映画『どですかでん』で復権を期すが、興業成績奮わず作品への評価も厳しいものだった。「世界の」クロサワが自傷事件(報道では28ヶ所自傷の自殺未遂)を起こしたのは71年だった。「もう終わりかな?」と誰もが思ったが、黒澤は再起する。ソ連での映画作りだ。
当時世間は、黒澤・三船不仲説を振り撒いていたが、三船は自社スタジオも持つ自身の三船プロの責任者として多数の社員を抱える経営者、映画・TVをこなし八面六臂の孤軍奮闘。黒澤がソ連で制作した『デルス・ウザーラ』(75年)にも出たいと願いながら実際その時間もない状態だったと番組は語る。75年ソ連極北東の撮影現場に黒澤を訪ねる三船の姿があった。
黒澤その後の、80年『影武者』85年『乱』90年『夢』の評価・好嫌は様々だ。

97年12月の三船の葬儀に、体調不調で列席出来なかった黒澤が送った直筆弔辞は、息子黒澤久雄によって代読された。翌98年、追うように黒澤は逝く。
二人の信頼と信義は濃く深い。

 

アジール空堀: 『道浦母都子&趙博 ふたり会』

11月13日(日) 『道浦母都子&趙博 ふたり会』
道浦母都子さん、趙博さん、今野和代さん(司会及び幕題字揮毫)。
ありがとうございました。

都はるみ歌唱、道浦母都子作詞になる『邪宗門』『枯木灘 残照』を、作詞者の横で歌い上げる趙博さん。
まるで弟を見守る姉のように、目を閉じてパギの歌唱に聴き入る道浦母都子さん。映画的に言うなら「う~ん、いい画(え)だ!」。

「どうしても選べと言われ選ぶなら、どの歌ですか?」との会場からの問いに、即座に挙げられたのが
「ひとのよろこびわがよろこびとするこころ郁子(むべ)の花咲く頃に戻り来」
だった。
次いで聴衆へのサービス精神だろうか本音だろうか、その質問以前に会場からの質疑感想に出ていた二首を挙げられた道浦さん。

その一つ、父にまつわる歌というのは、
「釈放されて帰りしわれの頬を打つ父よあなたこそ起たねばならぬ」
「振るわるる楯より深くわれを打つ父の怒りのこぶしに耐える」
「打たれたるわれより深く傷つきて父がどこかに出かけて行きぬ」
のいずれかだろうか? 聞き逃したが、
「おまえたちにわかるものかという時代父よ知りたきその青春を」
ではないかと想像する。
というのは、会の前段の父上一家と朝鮮との関係を語られたお話で、朝鮮に居た父上一家が、敗戦直後南へ逃げる際、混乱と暗闇の中、朝鮮人の男性に匿われ道案内を得て生き延びる。その男性は、「以前北海道の炭鉱で働き、帰る際に日本人が心を籠めて送別会をしてくれた。今度は私が返す番だ」と語る。帰国した一家に1947年、母都子さんは生まれた。この男性が居なければ、わたくしはこの世に存在できていないのです、と述懐された。幼い日から、父にこの朝鮮脱出記を繰り返し聞かされて来た道浦さんだった。会場の「打たれた側の道浦さんの、父への想いを聞かせて欲しい」への返答が「父よ知りたきその青春を」のこの歌だろうとワシは想う。

もう一つは、ワシがこの短歌に触れて以来、臓に居座っていて身から出て行かない
「明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし」 だ。
80年代当時、幾人かの人が「決戦主義だ」「敗北主義だ」「情緒的に過ぎる」と論難していた。そうだろうか? これは、風雨に晒され雪に打たれても、ボロボロの旗となっても立ちつくしていようという、云わば「立ち方」を問う永遠の覚悟だ。
できてはいないが、そうでありたいとワシは想いたい。痩せた旗ではなく、肥満・腰痛・現場仕事撤退のワシ。学生期「極左」付和雷同期・そこからの脱走期・労組期・争議から破産法下20年の労組自主管理経営期、その破綻から東京単身赴任半ば日雇いの今。 客観的には団塊ジジイの敗走遠吠え以上のものではない。
ワシらは、すでに父であり、多くは孫までいる。会場は53歳が最年少というジジババ世代だったが、であらばこそ、きわめて今日的な短歌ではないだろうか?会場からの「戦後、左翼の数々の敗北史でも、もっとも拭いがたい悲惨を刻んでしまった、60年代末から70年代初頭」という全くその通りの指摘に、ワシらはそれぞれの方法論で答えて行くしかない、旗となるまで・・・。

趙博が言いかけたのは、
「今だれしも俯(うつむ)くひとりひとりなれ  われらがわれに変わりゆく秋」 だった。
聞き取れなかったが、趙博は「そうやってようやく辿り着いた『われ』からこそ、今『われら』の復権を目指そうぞ。『われら』と『われ』との往還に居たい」と言った(ように思う)。
趙博がきわめて遠慮がちに語った「芸人・歌い手としての自分、運動実践家としての自分、舞台役者・劇作家としての自分、在日知識人・社会科学者としての自分・・・、その云わば『二兎を追う』身の苦悩は、ある意味痛々しい。

けれどパギ、二兎も三兎も追え。これまで通り「河原乞食」の矜持を余すところなく示せ。そこにウサギではない虎を射止める、独自の、どこにもない立ち方が必ず現れる。と非当事者のジジイは気楽に言うてしまいよる(失礼!)。

たそがれ映画談議:『愛を綴る女』

23日(月)から月一度の東京詣に来ている。
今日(25日)業務が半端な時間に終わったので、品川への帰宅途中にある映画館へ。ヒューマントラスト シネマ有楽町。
作品『愛を綴る女』。望外の収穫だった。
監督:ニコール・ガルシア(女性) 主演:マリオン・コティヤール。
作品の出来映えを評価する力はないが、ワシには響いたのだ。
原作とは時代など変えてあるそうだが、フランスがヴェトナムやアルジェリアに介入していた1950年代半ば。
南仏プロヴァンスに家族と共に住むひとりの女性の、女・家・親・結婚・男・夫・愛・自由・死 を巡る根っこの不安と自立を、数奇なストーリーで描いてみせた。50年代という戦後間もない時代空間、戦後ではあってもなお他国に武力介入していたフランス。登場男性に戦前にスペイン市民戦争から越境して来た者、ヴェトナム帰還兵などが配置されているのも頷ける。家庭や社会の建前戦後社会なのに深いところで前時代封建、という屈折に敏感な主人公の、存在の「ねじれ」や「違和」と 彼女が想い描く「愛」との非和解的相克は「病」として表出されるしかない。主人公は、彼女にとっての「愛」を求めて彷徨する。
隣国のかつての内戦、戦後の植民地、それらが人々の生の在処にかかわりをもって重低音で聞こえて来る。内戦から生と死を超え脱出した者の「愛」の在り方に涙した。 『君に、生きて欲しくて…』

ワシらの戦後日本は、近隣国への過去の植民地支配に、隣国の内戦の地獄からの脱出者の身近なはずの生と死に、どのような音を聴いているだろう。それを聴くことは、「愛」のカタチや密度と無関係だろうか?
愛は徹底して個人的なのであり、そして逃れようもなく社会的なのだ!

コール・ガルシア(女性) 主演:マリオン・コティヤール。
作品の出来映えを評価する力はないが、ワシには響いたのだ。
原作とは時代など変えてあるそうだが、フランスがヴェトナムやアルジェリアに介入していた1950年代半ば。
南仏プロヴァンスに家族と共に住むひとりの女性の、女・家・親・結婚・男・夫・愛・自由・死 を巡る根っこの不安と自立を、数奇なストーリーで描いてみせた。50年代という戦後間もない時代空間、戦後ではあってもなお他国に武力介入していたフランス。登場男性に戦前にスペイン市民戦争から越境して来た者、ヴェトナム帰還兵などが配置されているのも頷ける。家庭や社会の建前戦後社会なのに深いところで前時代封建、という屈折に敏感な主人公の、存在の「ねじれ」や「違和」と 彼女が想い描く「愛」との非和解的相克は「病」として表出されるしかない。主人公は、彼女にとっての「愛」を求めて彷徨する。
隣国のかつての内戦、戦後の植民地、それらが人々の生の在処にかかわりをもって重低音で聞こえて来る。内戦から生と死を超え脱出した者の「愛」の在り方に涙した。 『君に、生きて欲しくて…』

ワシらの戦後日本は、近隣国への過去の植民地支配に、隣国の内戦の地獄からの脱出者の身近なはずの生と死に、どのような音を聴いているだろう。それを聴くことは、「愛」のカタチや密度と無関係だろうか?
愛は徹底して個人的なのであり、そして逃れようもなく社会的なのだ!

つぶやき:ココ・キキ 康介古希こき下ろす。

先輩が「70歳を過ぎての誕生日は、生前葬のようなもので、[刻一刻減って行く残された時間]を刻む砂時計だ」と言う。
別の先輩が「人は、生まれた時から死までに [残されている時間] を生きているのだよ」「コウちゃん『私を離さないで』読んだ?」と解かったようなことを言う。

10数年前、ワシが勝手に「師」とお呼びしている熊沢誠先生が、大学退官を控え年賀状に加藤楸邨の句を添えられました。
「チンドン屋 枯野といへど 足をどる」
数年後ドキュメント大著を著わされ、その後も各領域で御活躍され今なお発信や行動を続けておられます。あの句は並々ならぬ決意だったのだと思い至るのです。
孫の成長だけが希望という周りの爺を嗤えません。それに近い心境へと誘惑されては、孫に「失望」と「絶望」を遺して何が「希望」だ!?と、我に還る日々でありたい。
ワシは70歳の誕生日に、「軍国保守二大政党制」or「自公希大連立」かという作られた擬制選択を見せつけられ苛立ちながら、気の利いた「希望」のセリフ一つ吐けませんが、くたばりたくはありません。

みなさま、文句垂れ爺にメッセージありがとうございました。

 

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