つぶやき:女房の母親。

体調の関係で、ここ半年前後、家に居ること多いワシに与えられた任務は、四人の子どもたちやワシらの写真の整理だ。永年の未整理の写真は無秩序にでっかいダンボール箱に投げ入れられており、まず ①誰のものか②いつの時代のものかで、大枠で小箱に仕訳して、やがて箱ごとに詳細分類することにはなっているが、そこからは各自にやってもらおう。
厖大な枚数が詰まっている「ゴミ写真箱」は、第一段階の大枠での仕訳というのが終わっていない。近所に住む息子からは「写真整理が終われば命が終わるんとちゃうか?」と嗤われている。
その整理の最中、興味ある写真に遭遇した。
1994年、73歳で肺がんで他界した妻の母の若かりし日の写真だ。
満州に居た、歌劇団に居た、命からがら引き上げて来た・・・などと、妻から断片的に聞かされては来たが、この数枚の写真に「釘付け」となった。
「バアさん、オモロイ話がいっぱいあるだろうに、聞かせて欲しかったなぁ~」と義母の生涯を想った。

1920年大阪に生まれ育った妻の母は、某歌劇団に居たらしい。
1930年代末(だと思う)に劇団の一員として満州に渡ったと聞いた。
真偽のほどは分からないが、満鉄かその関連企業に勤めていた妻の父が熱を上げ求愛した(ことになっている)らしい。能天気な娘(妻)は、母親がこんなに早く逝くとは思っていなかったからだろうか、母親の生涯をほとんど知らないのだ。この写真を見ただけでオモロイのに・・・、もったいない! 意外にも妻の兄(米子市在住)がよく聞いているかも・・・。
1944年に男児を得(病死)、1945年に第二子(妻の兄)を得、幼い子を抱え夫(妻の父)と共に帰国し夫の故郷島根県広瀬~鳥取県米子市に住んだ。1949年女児(妻)を得た。
多人数兄弟の末っ子にして商業高校卒亜エリートたる、青雲の志(?)を秘めた青年。やはり多人数姉妹だった駆け出しの歌劇団員……。それぞれの事情で独りで生きてゆくべく、満州へ向かった多くの昭和の青年男女大衆の典型でもあろう、妻の父母の自分史は昭和前半史の渦の中に埋もれている。
云わば、膨大な昭和難民・棄民の一人でもあった。

「濁流だ濁流だと叫び 流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ 」
(斉藤史 『魚歌』1930年昭和15年)

画像は、歌劇団時代の彼女だが、右上の写真など最近のワシの娘(44歳)が似てきたように思う。左下の写真は、ラインダンスの左端が彼女だろう。写真中央は、初孫(ワシの娘)を抱くバアさんです。1976年55歳だと思う。
おい、能天気娘、己が母の生涯くらい把握しとけよ(笑)!
芸人の魂が貴君に宿っているのなら、30年以上前の某争議(破産法下 職場バリケード占拠5年~占拠中に始めた労組自主経営20年)に中止要請めいた言を発しなかったのは、バアさん譲りの「河原乞食」魂かなと思うことにしておく。

 

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