アジール空堀: 『道浦母都子&趙博 ふたり会』

11月13日(日) 『道浦母都子&趙博 ふたり会』
道浦母都子さん、趙博さん、今野和代さん(司会及び幕題字揮毫)。
ありがとうございました。

都はるみ歌唱、道浦母都子作詞になる『邪宗門』『枯木灘 残照』を、作詞者の横で歌い上げる趙博さん。
まるで弟を見守る姉のように、目を閉じてパギの歌唱に聴き入る道浦母都子さん。映画的に言うなら「う~ん、いい画(え)だ!」。

「どうしても選べと言われ選ぶなら、どの歌ですか?」との会場からの問いに、即座に挙げられたのが
「ひとのよろこびわがよろこびとするこころ郁子(むべ)の花咲く頃に戻り来」
だった。
次いで聴衆へのサービス精神だろうか本音だろうか、その質問以前に会場からの質疑感想に出ていた二首を挙げられた道浦さん。

その一つ、父にまつわる歌というのは、
「釈放されて帰りしわれの頬を打つ父よあなたこそ起たねばならぬ」
「振るわるる楯より深くわれを打つ父の怒りのこぶしに耐える」
「打たれたるわれより深く傷つきて父がどこかに出かけて行きぬ」
のいずれかだろうか? 聞き逃したが、
「おまえたちにわかるものかという時代父よ知りたきその青春を」
ではないかと想像する。
というのは、会の前段の父上一家と朝鮮との関係を語られたお話で、朝鮮に居た父上一家が、敗戦直後南へ逃げる際、混乱と暗闇の中、朝鮮人の男性に匿われ道案内を得て生き延びる。その男性は、「以前北海道の炭鉱で働き、帰る際に日本人が心を籠めて送別会をしてくれた。今度は私が返す番だ」と語る。帰国した一家に1947年、母都子さんは生まれた。この男性が居なければ、わたくしはこの世に存在できていないのです、と述懐された。幼い日から、父にこの朝鮮脱出記を繰り返し聞かされて来た道浦さんだった。会場の「打たれた側の道浦さんの、父への想いを聞かせて欲しい」への返答が「父よ知りたきその青春を」のこの歌だろうとワシは想う。

もう一つは、ワシがこの短歌に触れて以来、臓に居座っていて身から出て行かない
「明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし」 だ。
80年代当時、幾人かの人が「決戦主義だ」「敗北主義だ」「情緒的に過ぎる」と論難していた。そうだろうか? これは、風雨に晒され雪に打たれても、ボロボロの旗となっても立ちつくしていようという、云わば「立ち方」を問う永遠の覚悟だ。
できてはいないが、そうでありたいとワシは想いたい。痩せた旗ではなく、肥満・腰痛・現場仕事撤退のワシ。学生期「極左」付和雷同期・そこからの脱走期・労組期・争議から破産法下20年の労組自主管理経営期、その破綻から東京単身赴任半ば日雇いの今。 客観的には団塊ジジイの敗走遠吠え以上のものではない。
ワシらは、すでに父であり、多くは孫までいる。会場は53歳が最年少というジジババ世代だったが、であらばこそ、きわめて今日的な短歌ではないだろうか?会場からの「戦後、左翼の数々の敗北史でも、もっとも拭いがたい悲惨を刻んでしまった、60年代末から70年代初頭」という全くその通りの指摘に、ワシらはそれぞれの方法論で答えて行くしかない、旗となるまで・・・。

趙博が言いかけたのは、
「今だれしも俯(うつむ)くひとりひとりなれ  われらがわれに変わりゆく秋」 だった。
聞き取れなかったが、趙博は「そうやってようやく辿り着いた『われ』からこそ、今『われら』の復権を目指そうぞ。『われら』と『われ』との往還に居たい」と言った(ように思う)。
趙博がきわめて遠慮がちに語った「芸人・歌い手としての自分、運動実践家としての自分、舞台役者・劇作家としての自分、在日知識人・社会科学者としての自分・・・、その云わば『二兎を追う』身の苦悩は、ある意味痛々しい。

けれどパギ、二兎も三兎も追え。これまで通り「河原乞食」の矜持を余すところなく示せ。そこにウサギではない虎を射止める、独自の、どこにもない立ち方が必ず現れる。と非当事者のジジイは気楽に言うてしまいよる(失礼!)。

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