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連載 63: 『じねん 傘寿の祭り』  六、 ゴーヤ弁当 (9)

六、 ゴーヤ弁当⑨

 下から「さあ行くわよ」と声があって、降りて行くと亜希たちは購入して来た容器に、売り物の弁当のような体裁で盛り付け食卓に並べていた。                                                                                  ん?「行くわよ」って・・・。                                                                                                                                                                                 メインのゴーヤチャンプルに、副はアーサーの天ぷらやランチョン・ミートとジャガイモの炒め物・玉子もの・沖縄っぽいニンジン中心のサラダなどが盛り付けられていた。魚汁も作られているのには感心した。保温容器に入れて持って行くつもりだろう。紙カップなんぞ用意しているのか。                                                                                       「行くわよって、どこへ?」                                                                                                                           「ユウくんに聞いてない? ユウくんが海に行きたいと言うので行くことになって・・・。黒川さんも連れて行ってやってくれって大賛成なんです」                                                                                「君たち朝から水着も買うて来たんか?」                                                                                                                       ヒロちゃんが返答役に代わった。                                                                                                             「まさか・・・。夕べ泊る予定だった玉城のホテルの前にいい浜があって、朝から泳ぐつもりだったんよ。北嶋さん水着持ってる?」                                                                                                「いや、永い間泳いでないよ」                                                                                                                 「沖縄に来てるのに泳いでない? もうぉ、信じられんわ。アカンねぇ~オジサンは。泳ごうよ。途中で買いなさい。」                                                                                                                      これが、若さなんだろうか・・・。亜希とヒロは、昨夜の深酒などケロリと飛ばし、元気いっぱい起きて朝から買出しに行き調理したのだ。こっちは二日酔いではないが、さすがに酒が抜けない。けれど、勧められたおにぎりと熱い魚汁を食すと何故か全身がスッキリするから不思議だ。                                                                       亜希は昨夜の会話を確実に憶えているだろうが、バツの悪そうな表情をするでもなく、むしろ喉に引っ掛かっていた魚の小骨が取れたようにサバサバしている。

亜希たちが泳ぐつもりだった玉城の海岸へ、軽自動車に五人乗りの交通違反状態で向かった。助手席にユウくん、後部座席には亜希とヒロちゃんの間に黒川が身を細めて笑顔で座っている。                                                                                                             途中、幹線からは少し離れた斜め前方にユウくんが通う園の建物が見えて来ると、ユウくんが「あれが、ひかり園だよ」と二人に指差して告げている。ユウくんによれば、園ではボランティアの兄さん姉さんが来て指導看視役を多く確保できるときに限り、公営プールの「浅い方のプール」で泳げるそうだ。今年はまだ泳いではいない。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     日曜日の浜には真夏の観光シーズンのような賑わいはなく、東京の学生らしき少人数のグループと地元のファミリーが少しで、沖縄の陽射しと混み合っていない浜は絶妙のバカンスだと思えた。

裕一郎は、出た腹と白い肌を気にしても始まるまいと諦め、ユウくんの手を引いて脱衣場を出た。海辺では、亜希とヒロちゃんがもう泳いでいる。学生たちのグループと談笑している。黒川は「医者に止められている」と泳ぐ気配などまるで無く、頭からタオルを被り、砂浜のパラソルの中で微笑んでいる。裕一郎は、自分は八十歳を前にした黒川の側に居るのが相応しいのだと強く感じた。ユウくんが居なければそうしただろう。                                                                                                                                       遠浅の入江浜は、浪も弱くプールのように均一の深さでユウくんの足が届き、自称クロールの披露には最適だった。7~8Mほどを、息継ぎ出来ずバタバタと進み、ップワァーと立ち上がる。足が届く深さは絶対条件だ。それを何度か繰り返し、30M程を泳ぐというかともかく泳ぎ切る。「見て。チチ、観て!」と離れたチチに大きな声で訴えている。黒川は手を振って応えていた。                                                                                                                      それを数回反復して疲れたユウくんを連れて黒川が居るパラソルに戻ると、目の前で学生たちのビーチ・バレーが始まった。亜希とヒロちゃんも加わっている。驚いたことにその技量は学生と変わらない。                                                                    高校時代に柔道部に少し居ただけなので、ただでさえ球技には全く自信がない。まして年齢からして加わろうとも思わない。嫌な予感に怯えていると五分もすると亜希から声が掛かった。                                                                                                          「北嶋さ~ん、入りません?」   

                                                                             

連載 62: 『じねん 傘寿の祭り』  六、 ゴーヤ弁当 (8)

六、 ゴーヤ弁当⑧ 

重い何かを抱えて歩いていた。青い空、広がる田園風景、心地よい風、中規模の川・・・、その土手を歩いていた。前後を共に歩く人たちは仲間のようだ。みんな口笛を吹いたり鼻歌を歌ったりして、野を渡って来る風を受けて朗らかだ。歩いている一団の中ほどに女性が居た。いつか、黒川が観ていた深夜放送の映画『ここに泉あり』(1956年製作)の一場面だと分かった。すると、一団はあの自主運営交響楽団に違いない。だから、女性は岸恵子なのだが、顔は判然としなかった。一団の後ろを、疫病神のような不審人物が付かず離れず歩いていた。映画と違っていて気になる。                                                                                                                                                           やがて、裕一郎は自分が抱えている重いものがコントラバスだと気付いた。重くて、一団の歩みについて行けなくなり、通りかかった駅でモクモクと煙を吐いて走る蒸気の汽車に飛び乗ってしまう。乗った汽車には、闇物資の運び屋や復員兵士がギューギュー詰めになって乗っていて身動きままならない。映画の時代背景と合わないので奇妙だぞと思っていると、そのドサクサにコントラバスを誰かに奪われてしまう。泣きそうになっていると、席を老女に譲ってこちらにやって来た文士風の男が「おい学生! 次の駅で降りようぜ。美味い屋台があるんだ、ご馳走してやろう」と言う。どういうわけなのか、さっき一団の後ろを歩いていた男だった。空腹だったこともあり、誘われるまま彼の後に従った。                                                                                                                                                                                                                                                                                降りた駅は、写真で見た記憶がある東京郊外の戦後風景の中に立つ木造の駅舎だった。駅裏の屋台で焼き鳥と酒をよばれた。腰掛椅子には奪われた筈のコントラバスが立てかけてある。文士風の男が「大切なものなんだろう? 俺が取り返して来てやったぞ。これで、仲間のところへ戻れるんだ、感謝しろよ。」とうそぶく。変だと思ったが、すぐに、雑誌で読んだ戦後期のあるシーンが再現されているのだと気付いて、目が覚めた。学生だった思想家吉本隆明と流行作家太宰治の生涯一度の出会いのシーンだ。                                                                                                                                                                                                                 裕一郎は、重いコントラバスのつもりなのだろう、枕を抱えていた。                                                                                                                                            時代と場所が混在していて、観た映画と読んだ雑誌記事がミックスされた奇妙な夢だった。

読んだ雑誌記事というのは『東京人』という雑誌に出ていたもので、太宰との生涯一度の出遭いを語る吉本へのインタヴュー記事だった。                                                                                                                                               吉本隆明は戦後間もなくの学生時代、学生芝居で太宰の戯曲『春の枯葉』を上演しようとなり、仲間を代表して三鷹の太宰宅を訪ねる。                                                                                                                                                                                      太宰は不在だったが、幸い太宰家のお手伝いさんから聞き出し、近くの屋台で呑んでいた彼を探し出す。当時の人気作家と無名の貧乏学生、のちの詩人・思想家の出会いだ。そこでの会話だ。                                                                                                        『「おまえ、男の本質はなんだか知ってるか?」と問われ、「いや、わかりません」と答えると、「それは、マザー・シップってことだよ」って。母性性や女性性ということだと思うのですが、男の本質に母性。不意をつかれた。』                                                                                                         出したいだけなんでしょ、受容れるような感覚、相互性、打ち出す、マザー・シップ・・・、いろんなセリフや単語、観た映画や写真、戦後期の三鷹駅近くの屋台、想像の吉本と太宰の出遭いのシーン、昨夜の亜希とヒロちゃんの発言などが交錯したまま、それらが一つになって押し寄せて来る。                                                                                                                                                                裕一郎は、しばらく仮眠状態で起きていたが、やがて再び眠りに落ちた。                                                                                                   

耳元のユウくんの大きな声に起こされた。                                                                                                                    「北嶋さん、ゴーヤ弁当だよ」とユウくんが身体を揺する。                                                                                                                          もう十時を過ぎていた。爆睡したのだ。ユウくんのリクエストで、亜希たちが近くに材料を買出しに行き、今作っているという。ユウくんは、昨日の弁当がよほど気に入ったらしく、連日の同メニュウを求めたようだ。                                                                                                                                                  自分にも記憶がある。気に入ったメニュウを飽きもせず集中的に食べる時期があるものだ。                                                                                                         身体を起こし、着替えながらユウくんに気になっていた件を訊ねた。裕一郎の直感だ。                                                                                                 「シンジ君が、ユキちゃんに何かしたんやろ」                                                                                                                       「うん、ユキちゃんとぼくの手を叩いた」                                                                                                                     内容を掴むのに手間取ったが、ほぼ聞き出せた。昼食の後片付け当番をして、食器を洗って部屋に戻るときユキちゃんと手を繋いでいた。シンジ君が、手と手が繋がれているまさにその部分を、ピシャリと叩いた。思わず二人が手を放した瞬間、シンジ君がユキちゃんのホッペにプチュ。シンジ君の背中に組み付いたがたちまち投げ飛ばされ、すぐさま箒をとって来てシンジ君の背中に一発。ユキちゃんは泣き出したが、指導員が来た時には彼女は部屋に戻っていて、彼らはユキちゃんも関係していることを知らない。ユウくんはもちろんシンジ君も、そこは決して語らない。四日前のことだ。これが真相らしい。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             昨日、チチが園に呼ばれ主任と長時間話した。チチは「もうシンジ君は何もしないから大丈夫だよ」「武器を持って叩くのはよくない」とだけ言ったらしい。黒川はいい父だ。                                                                                                ユウくんは、大きく強そうなシンジ君に立向かい、護るべきものを護ったのだ。それはユキちゃんというよりも、自身の内に棲みつき育んで来た、譲る訳には行かない精神のようなものに違いない。                                                                                                 バスの往き帰りで毎日ユキちゃんといっしょだということも予想通りだった。                                                                    事件のことも、バスのことも「ユウくんと北嶋さん二人だけの秘密や」と約束した。  

連載 61: 『じねん 傘寿の祭り』  六、 ゴーヤ弁当 (7)

六、 ゴーヤ弁当⑦

 シャワーから戻って来ると、黒川が天敵ヒロちゃんと言い合っていた。ヒロちゃんの「中年オヤジ話」らしい。                                                                                                                                           「出したいだけなんでしょ?」                                                                                                                        「何っ?」                                                                                                                                                                             「そう言ってやったんよ」                                                                                                                                                                   「誰に?」                                                                                                                                                                  「そのオヤジ課長にや。手でやって上げようか、って」                                                                                                                                                                「おいおい、ムチャクチャだなあ」                                                                                            「何なら口でやって上げようかとも言うたった。中年男は怯むやろ、そう言われれば」                                                                                「そりゃビックリするだろう。下品なことを言うもんじゃない」                                                                                                                                                                                                                   「そうそう、そいつもそう言うたよ。けど、そうなんよ。何が下品よ! 出したい、欲しい・・・。女はそれを受け容れるか否かなんやと思うてるんや男は・・・、ねぇ、亜希さん。私には、男には在るような、出したい的感情はよう解からん。この女が欲しい、この女とやりたい出したいと疼いても、逆に出されるものを受容れるような感覚、それは無いんでしょ、男には・・・。そこが憎たらしい。ジイさん、どないやのん?」                                                                                                          「もう出ないよ」                                                                                                                                          一同が大笑いした。一緒に笑っていた黒川が表情を変えて大真面目に言った。                                                                                                                                                                                         「男の愛はもっと深いものだ」                                                                                                                                          「深過ぎて、奥さんがここでは泳げませんと出て行ったんよね、ジイさん。」                                                                                                          「失礼なことを言うんじゃない! 君はまだ若い、結論が早過ぎる。だいたい、ひとつの場面だけで男を見限ってはいかん」                                                                                                                                        「私、ひとつの場面で言うてるんやないんです。基本の構えを言うてるの。」                                                                                             「ヒロちゃんが言うこと、わかるような気がする」。亜希がそう言うと黒川は黙った。                                                                                                                                         タオルで髪を拭きながら壁際に座った裕一郎は、亜希と視線が合ってしまって困惑したが、酔っているからか、亜希は「そうでしょ?」と問いかけるような同意を求めるような眼差しを逸らしはしなかった。                                                                                                                             受容れるような感覚を男に求め、ヒロちゃんが言う「構え」を糾す私たちは、同時に打ち「出す」ものも持っていたい。関係は相互的なものですよね。男に求めるだけじゃ何も解決しないと承知してるんです。亜希の視線にはそんな言葉が宿っていた。

 黒川が座卓の陰で、座布団を枕にして起きているのか眠っているのか分からない状態で沈んでいる。なおも呑む亜希とヒロちゃん。                                                                                                                                              目の前で目が座って行く亜希の射るような視線を受けると、その姿に二重写しに、豊かな胸を顕わにした姿などがチラついて来るから困る。それを知ってか知らずか、すかさずヒロちゃんが鋭い目をして言う。                                                                            「北嶋さん、亜希さんのエロい姿をいやらしく想像してるんでしょ?」                                                                              「そんなことないよ。考えすぎや。老人をからかうなよ」                                                                                                                                                                      亜希への恥かしさもあってそう答えたが、ヒロちゃんに指摘されるとそんな画像が浮んだ。払いのけようとしたわけではなくもっと想像していたかったが、程なく消えて行った。我に返って亜希に目をやるとほとんど眠っている。                                                                                                                                                                                                    亜希は限界だと思い「もう遅いから寝なさい」と二人に声をかけた。ヒロちゃんが頷いた。書斎に布団を運び込み、ヒロちゃんが手伝ってくれて二人の寝床を作った。亜希はすでに気絶状態で、ヨレヨレになって歩いて行き、バタン・キュー。                                                                                                                 ヒロちゃんが言う「北嶋さん、亜希さんが気になるんでしょ。まぁ、精一杯やってよ。父親代わりかな」                                                                          「そうやな・・・けど、出来れば恋人になりたい、が本音かな。父親役なんかご免やな」                                                                  寝てしまった黒川を起こし、二階へ上がった。

亜希はある路を自己弁護に塗れることなく通って来たのだ。それは亜希の豊かさを増すことにはなっても、マイナスになどなりはしないよ。やっぱりいい意味でキャリアだよ。                                                                                         「出したいだけなんでしょ」・・・か。その聞かされたこともない表現を耳にして、たじろぎはしたが、何故か不快感なく反芻していた。それは、露骨なのではなくひょっとしたらある関係や構造の核心を突いているように思えてくる。ヒロちゃんのこうした言い回しは、自分たちの時代の男女の蹉跌と歴史が蓄積された成果だろうか、それともそうではないのだろうか・・・。グルリ回る環状の男女路は、横から立体で見れば上って行く形状のらせんの構造をしているのだろうか? 解からない。                                                                                                                                昔、「お前の描写は、脳味噌と下半身が分裂している」と指摘されたことがある。けれど、脳味噌と分裂せず一致した、下半身の疼きはあってしかるべしと思う。隣にヒロや黒川が居なければ、亜希を押し倒さずに居れただろうか・・・? もっとも、倒し合いの体力勝負でも亜希に勝てるとは思わないが。                                                                                                                                                                                                                                                                                       裕一郎は、かなり呑んだのに寝付けなかった。 

連載 60: 『じねん 傘寿の祭り』  六、 ゴーヤ弁当 (6)

六、 ゴーヤ弁当⑥

「いやね、亜希君、君は出会った頃の美枝子に似ているんだ。顔もだが、それより突っ張っているような雰囲気・喋り方・構え・・・」                                                               「私、突っ張ってませんよ。それに妻子ある男を奪う根性もありません」                                                                                黒川は半分笑いながら苦い表情をして                                                                                              「ハッキリ言ってくれるねぇ」                                                                                                                                またヒロちゃんが突っ込む。                                                                                                                  「あれ、亜希さん、妻子ある男やと言うてたよね、バイバイした男・・・。」                                                                               「だから、奪えないと言ってるんよ」                                                                                                                            「男が決断しないとなあ。ぼくだって苦しんだが、突っ走ったよ」黒川が能天気に言う。                                                                                                                                      その自己肯定が気に入らない。走ったことを自賛してみても・・・。裕一郎は会話に入った。                                                               「彼女が言うのは、奪えない、奪うほどのことだろうか?でしょ。そして、妻子というより抱えているものや歴史を棄てられないのだ男は・・・と」                                                                                                                     「裕一郎君とそういうことだったのかい?」                                                                                   「そういう期待はありますが、残念ながらぼくではありません」                                                                                                        亜希が継ぐ。                                                                                              「北嶋さんは今奥さんと離れているけど、きっと戻る。私には分かる。断言してもいい」                                                                                   亜希、君は俺の女房を知らないだろう? どうしてそんなことが言えるのだ?                                                         「黒川さんと美枝子さんはスゴイよね」                                                                                                                                               「亜希くん、皮肉かい?」                                                                                                                                                                                                            「いいえ、ほんとにそう思います。妻子があろうがなかろうが面倒くさいね、男に入れあげるのは。人生が邪魔されるみたいな・・・。自分の暦を自分自身の時間と課題で刻む、それが成らないような・・・。もうそれはいいから、子供だけは産みたい欲しいと思う」

酒は進んでいる。一時を回っていた。黒川が改まって言う。                                                                                                                                         「先日は失礼したね。君の出自の事、ヒロ君に叱られたよね。ぼくが、つい言ったのは、ぼくの実の母らしき人が琉球の人だからなんだ。ぼくの両親は長崎原爆で亡くなっているが、その女性は早くに沖縄に戻り戦後も生きていたはずなんだ」                                                                                        初めて聞く話だった。美枝子が言っていた沖縄の女性からの電話。何か関係があるのだろうか?その電話の主はその母親の縁者だったのだろうか?                                                                                                     「母親のその後の人生を知りたいんだよ」                                                                                                               「そうでしたか・・・。そのお母さん、黒川さんに逢いたかったでしょうね」                                                                                                                                                                     「ぼくに逢いに小学校の運動会へ来たようなんだ。かすかな記憶はあるのだよ。それが最初で最後だ。その時は、料理旅館をしていた実家の女中さんに親戚の小母さんと聞かされそう思っていた。琉球へ帰って、ヤマトの一切を封印したんだろうな・・・。知ったのは、随分後のこと最近なんだ。あれこれ調べているが、どうにも・・・」                                                                                                                                                                                                                    「私の母も、早くに亡くなった父親、私の祖父ですね、や行方不明のその兄や、朝鮮人の縁者のことを口にしていました。私、母の最期の想いは引き継ぎたいと思ってます」                                                                                          貯めていたものが堰を切ったかのように、亜希はガンガン呑み続けている。                                                                            「北嶋さん、私とあの人はドロドロの関係だったと思ってるんでしょ?」                                                                   「いや、全く分からんよ、ぼくには。彼も何も言わないし、ぼくも聞きはしない」                                                                                                                「黒川家の送別会の後、北嶋さんと呑みましたよね。口滑ったけど、確かにそういうことはありました。けど、弾みだと思うことにしてます。」                                                                                                                                                                                                               「弾み?」                                                                                                       「そう。あの時、北嶋さんと話してたら、急に出直そうと思った。私の人生があの人の付録になりそうでヤバイと思った。あの人の人生、今でもまぁ認めてますもん」                                                                                                                   「やれやれ、責任重大やね。そう思わせるような話、したかなぁ~? けど、認めてるなんて、奴も嬉しいやろうな」                                                                                           裕一郎は、亜紀と吉田高志の出来事への興味と、今聞いた黒川の話への心地よい納得が、重なって頭の中を駆け巡り酔いが回った。高志、よくぞこの女性と離れられたな。俺なら、きっと離れられまい。・・・。亜希にも高志にも、次の想いと言葉がまとまらない。                                                                                                                                                                                                                                                                                ただ、黒川に対しての気分は言葉として自分の中でかたち作れた。黒川さん、あなたは沖縄へ来たと言うより還って来たのですね。黒川に備わる吸引力のような奇妙な魅力に、いま聞いたことが関係していると思うと、何故か愛おしく思えるのだった。

連載 59: 『じねん 傘寿の祭り』  六、ゴーヤ弁当 (5)

六、 ゴーヤ弁当⑤

 比嘉がその未完成だがほぼ仕上がったシーサーとユウくんを見てしみじみ言った。                                                                                                沖縄では、ユウくんのような子を「神の子」と言うのじゃ。各共同体では、「そんな子を迫害すればバチがあたるさ、そりゃぁ神の子をいじめているんだから・・・」と教えている。そうやって子供たちの権利を守っているんじゃ。                                                                                                                         「ユウくんにも、他の子と同じく生存の権利がありますもんね」と相槌を打つと、比嘉は言った。                                                                                                  「違うんじゃ、それは前提なんじゃ。ユウくんのような子の権利を守る、当然なんじゃ。ここは、この教えは、迫害する側と迫害される側の両方の子を、そうやって守ろうというのじゃ。解かるか裕一郎。」                                   
「人は誰にも、本来、他者を迫害することなく生きてゆく権利がある。それは義務であるよりは、権利なのだ。そう言っておるのじゃよ。『神の子』が生きてゆける環境を作り、『神の子』の育ってゆける人間関係を保証し、受難を最少限にする条件つまり『神の子』の教育権などの人権をぎりぎり守り、一方で加害に加わってしまいがちな他の子の人権も守ろうと言うのじゃ。」                                                                                                           まだシーサー作りをしていたいというユウくんをなだめ、アトリエを後にした。仕上げをいっしょにしような、と比嘉がユウくんに声を掛けていた。

「沖縄は深いねぇ~」                                                                                                                                                                                       帰りの車中で黒川がポツリと言った。裕一郎も比嘉の言葉を噛み締めていた。他者を迫害することなく生きてゆく権利・・・。                                                                                                                             日が暮れるころ、ギャラリーに立ち寄ると大空に亜希とヤンキー娘ヒロちゃんも加わって作業していた。陳列台下部の収納部分、建具の開閉に難がると、一旦全部外して付け替え微調整している。                                                                                                                                                                                                                                       「精が出るねぇ。君には頭が下がるよ」俺には下がらんのだよな、黒川さん。                                                                                                                 「建具のガタ付き、気になったのよね・・・。あと二枚で終わります」                                                                                             大空は額の汗を拭って微笑んだ。亜希が木屑を掃いている。                                                                                                                                                     残っている照明の件、自宅の家具類の持ち込み、商品の搬入などを打ち合わせ、黒川がオープン日を決めた。二週間後だ。                                                                                                             「もう船はないよね。今夜はどうするのかね?」                                                                                             「今夜、品物を卸している店数件と懇親会があってみんなで行くつもりです。まあ接待ということです。懇親会は店の持ち回りで今年は玉城。宿泊についても用意してくれてます」                                                                                                                 ユウくんが亜希に言った。                                                                                                                                   「アキさんは、うちに泊まるよね。去年、約束したもん」                                                                                                                                           「約束ぅ? そうか、そうだね。じゃあそうしようか。いいですか」                                                                                                                        亜希が大空と黒川に目で問いかけ承認を得て、亜希とヒロちゃんは懇親会のあと黒川宅へ来て泊まることになった。黒川は大喜びを隠そうとして隠せない。鼻がピクピクしていた。                                                                                                      大空は、自分は朝の船で帰るが、君たちは夕方の船で帰ればいいと配慮を示した。                                                                                   

十一時を回ったころ、亜希とヒロちゃんがタクシーでやって来た。相当呑んだようで、アハハアハハと笑い転げ、明らかに酔っている。黒川はすこぶる上機嫌だった。いくつになっても、若い娘には目じりが下がるのだと呆れたが、それは裕一郎とて全く同じなのだ。                                                                                                                     ユウくんはもちろん起きてはいたが、もう目はトロトロで二人の来訪を確認して安心したのか、ダウン寸前。ユウくんを数分かかって二階の寝室へ誘導して降りてくると、酒盛りが始まっていた。応接間は、運び出す商品が積まれていて使えない。三人は黒川の書斎に陣取っている。彼女たちが宴会から持ち帰った料理をアテに泡盛を呑み始めていた。                                                                                          裕一郎が加わって「もいちどカンパーイ」となった。八十歳前と六十歳前の老人二人を前に、安心感に支配され、酔いも手伝って彼女たちの会話は大胆に展開されそうだ。                                                                                       大空の話になっていたらしく黒川が喋っていた。                                                                                「気付いているんだろ」                                                                                                             「知りませんよ。いい人だと思いますけどそんな気はないんです」                                                                           ヒロちゃんも口を挟む。                                                                                                                                                      「たぶん、もう秒読みですね。彼がコクるのは」                                                                                                                                           「だろ? 罪だねぇ」                                                                                                                                                                                              「どうして罪ですか? 私には自分以外の人間の課題をいっしょに思い悩んだりする余裕はないんです。それが罪ですか? 大空さんがそんな気持ちで居るなら明日にでも出て行きますよ。思うんです、男女にはタイミングというものがあって、互いに必要としている時しかそうならないんじゃないか、と・・・。黒川さん、人のことより美枝子さんとのラヴ・ロマンスはどうだったの? すごいことやったって聞いてますよ」                                                                                    美枝子から聞いた三十年前のドラマを暴露してやろうかと思った。タイミングか・・・きっとそうだ。美枝子の話が事実なら、二人で仕切った展示会を終えた翌日、美枝子が松山駅で「もう一日居れば」と声をかけ結ばれ、やがて黒川が妻子を棄て度々松山へ押しかけ一大パフォーマンスを演じたドラマには、確かに両者のタイミングがあったのだ。個人史・私的状況・公的状況・・・その複合、つまり「時代」。それらが、互いの、人柄と総称される、個性・感性・考え・基本スタイルに共通して刺さらないなら、事態は起きはしない。そして、共有する「時代」とは成り難いのだ。それが、人というものにいつまでも棲み付いてしまうその人固有の時代というものだ。

連載 58: 『じねん 傘寿の祭り』  六. ゴーヤ弁当 (4)

六、 ゴーヤ弁当④

 アトリエに着いてギャラリーの進捗状況を報告すると、比嘉は立地・条件とも褒めてくれ喜んでくれた。四人でゴーヤ弁当を食べた。空腹だったのだろう、ユウくんがいつも以上に速く食べる。                                                                 「そうじゃのう、記事にでもしてもらうか・・・。ちょっと待ちなさい」                                                                                                                              比嘉が何処かへ電話している。相手としばらく雑談を続けた後、比嘉が切り出している。                                                                                                                                                                                              「お前さんへの貸しやけどのう、そろそろ返してもらおうと思うてな」に始まって、最後は「間もなくオープン日が決まるから電話するよ。写真も入れてやれや」「そうか、頼むぞ」と終るこの電話会談はこんなことだった。

偶然黒川が比嘉への第一情報伝達者だったという、去年の沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事件の際、琉球弧タイムスが比嘉に原稿依頼した。原稿用紙二十枚以内ということだった。書いておきたいことから言葉を選び、比嘉はやっとのことで二十枚に纏めた。ところが、新聞社はそれを約三分の二程度に圧縮。比嘉は「ならば全文引上げる」と抗議したが、今の電話の主:デスクになだめすかされ「いつかこの借りは返すから」と言われた。幸い何とかガマンできる内容にはなっていたこともあり、中止よりは記事掲載を選んだ。その貸し借りだと言う。                                                                 裕一郎は慌てて申し出た。                                                                                                                                  「そんな大切な貸し借りを、黒川さんのギャラリー・オープンという私的な出来事ごときで使っては申し訳ありません。取り消して下さい」                                                                                                                                                                       「裕一郎! 何を言うとるのじゃ。商売人のくせして甘いのう。そやから失敗するんじゃ。政治の貸しを政治で返してもらおういうのは野暮なんよ。こういう風に処理してやるのがウチナーの心よ。互いの信頼よ。こうしておけば奴はいつかほんまの返済をしよるやろ。ナンクルナイサ。奴はまた必ず記事依頼するさ、それがワシらの貸し借りじゃ。」                                                                                                                                                                                                                         礼を言うべき黒川が黙っている。最後に「そうかい、それは有難いね」だけだ。黒川が、比嘉は俺が大きくしてやったとでも言い出しそうな構えで居る。大富豪・大先生の黒川様だ。                                                                                       比嘉はそれでも表情を変えることなくニコニコして平然としている。ユウくんにあれこれ問いかけ、ユウくんとドロこねを始めた。ユウくんとシーサーを作ると言う。                                                                                                                                                                                           比嘉に備わっているものがユウくんの心と共鳴しているのが分かる。ユウくんは、せっせとドロをこね比嘉が用意したノッペラボウにドロを重ねて行く。やがて、表情を表し始めた大きなシーサーの完成像を、何故か思い描けた。黒川が案内してくれ、ユウくんに似ていて心に留まった、豊見城の路傍のシ-サーだった。                                                                               熱中するユウくんを見ながら比嘉が大阪の夜間高校教員時代の思い出を語り始めた。裕一郎たちが占拠中職場に用意し提供した作業場へ来ていた頃のことだと言う。                                                                                                            

顧問をしている美術部にダウン症の生徒がいて、卒業を控え度々呑みに連れ歩いていた。最初のうちは生徒の自宅最寄駅まで送り、迎えに来ている母親に引き渡していた。が、一ヶ月もすると、自分で駅からの夜道を独りで帰ることになり、酒を間にした交流は貴重なものだったらしい。
ところが、ある夜事件は起きた。今と違い携帯電話などない時代のことだ。                                                          
いつもの駅で生徒と別れ、彼がいつも通り真っ直ぐ帰宅するものと思っていた。自身は又呑み歩いて、深夜帰宅して翌朝学校へ出向くと、緊急職員会議が待っていた。                                                                                                                       未成年の生徒に、しかも障害ある生徒に酒を呑ませるとは何事か!                                                                                                                                                前夜、別れた後、生徒は独りで再び呑んで金を使い果たし二十円しか持っていなかった。タクシーに乗り、当然ながら代金を払えず、咄嗟に走って逃亡。警察に一晩保護されていたらしい。                                                                                                                                   
「事故に遭ったら、どうするのか? アル中にでもなったら、比嘉さんあんた責任取れるのか?!」
「障害者は酒を呑むなと言うのか?! 飲酒権の独占か?」と激しい応酬を繰り返していたら、普段は論争の相手だった教師が、糾弾している連中に言った。
「酒を問題にしているあなた、そして担任のあなた。酒がダメだと言うならじゃあ、コーヒーの一杯でも飲もうとあの子を喫茶店に誘ったことがありますか? 酒という不適切なものであってもそれを媒介にして比嘉君が 築いた、生徒との回路に学ぶべきもありと認めた上で、話そう」と。                                                                     
職員会議はこの一発で様相を変える。比嘉も素直に配慮不足と酒を飲ませたことを詫びた。その教師とは、この件で仲良くなり今も付き合いがあるという。
「ほんとは、ワシが酒呑みたかっただけなんじゃがな」と比嘉は照れて笑った。                                                              
帰ってこない息子を案じ母親が八方尽くして比嘉と連絡をとろうとしたが出来ない。本人は警察に「先生とお酒呑んでた」と自供もしていたらしい。                                                                                                              母親は息子と比嘉との交流の経過を全て知っていて、安心して迎えに行くのを中止してしまった私が悪いと、自らを責めたが、その心労を思えば、「ワシの思い上がりじゃった」と比嘉は結んだ。

比嘉とユウくんの共同制作が進んで行く。どんな風に仕上がるのか楽しみだ。

連載 57: 『じねん 傘寿の祭り』  六、 ゴーヤ弁当 (3) 

六、 ゴーヤ弁当③

 翌日、早速契約した。五月は改装に当て、家賃発生は六月からとしてもらえた。大空のお陰だ。                                                                                                                    材料を調達して三日後から工事を始めた。大空は那覇の友人宅に泊り込み、現場に来て収納庫付きのロー陳列台を器用に作る。既製品家具はもちろん、家具工場で作った整った家具では出せない、手作り感いっぱいの多少不揃いのいい味わいがある。裕一郎はもっぱら大空の助手をした。                                                                                                                                                   昼に近くの路上に出る屋台の弁当屋で買ったゴーヤ弁当を食うと、これが安くて美味い。ゴーヤ・チャンプル以外のおかずが日替わりなので飽きもせず連日ゴーヤ弁当を食った。350円、スープが30円。安い。

 天井は裕一郎がローラー塗装し、クロス屋に壁を貼替えさせ、床は休みを使って応援に来た亜希も加わり三人で木調塩ビタイルを貼った。久しぶりの店作りに心動いたのか、いつぞやの床材料ミスを思い出したのか、亜希ははにかんだような表情を見せて、額に汗していた。六時間後貼り終えたときの、達成感のようなものが、やはりかすかに込み上げた。身に沁み付いた職業病だろうか・・・。                                                                                                      照明配置を大きく変えるのは、器具代以外に配線や天井補修もあって無駄。で、近くの電気屋を呼んで、左右壁前の陳列台から少し離して通路の天井に配線ダクトを取付け、商品を照らすスポットライトを設置することにした。あとは、その照明取付と、店の外部の看板だ。黒川宅にある応接セット・大阪から持って来ている陳列棚を設置すれば完成だ。工事は通常なら一週間で終る内容だ。云わば自前の素人手仕事、それでも約二週間でほぼ終った。大空への手間賃は、黒川が、預けていて売れた商品代金十五万を約束どおり払うと言ったが、大空は一日一万円、計九円万貰います、と六万を返した。黒川はさすがにその六万を「まぁ臨時賞与だな」と言って裕一郎に渡した。                                                                                                                                                                            もしもし、臨時も何も正規の報酬を、まだ一文も貰ってないぞ。どうする気だ?

 在来の看板を再利用しようと、ボディの再塗装・面板の交換・内蔵照明の交換などを看板屋と打合せていた土曜日。打ち合わせが終る頃、黒川がユウくんを連れてやって来た。                                                                                                              比嘉真を訪ねようと提案した。開店に向けた智恵もくれるだろう。ユウくん同行は前回訪問時に比嘉が勧めてくれていたから歓迎されるだろう。土曜日で少ない弁当屋台で、ゴーヤ弁当を買い、比嘉に「弁当持って行きますからね」と伝えると比嘉は上機嫌だった。                                                                                                                                                                               比嘉のアトリエへ向かう車中で、黒川が休園日だが園に呼び出され、ユウくんの「暴力事件」を知らされたと聞いた。決して暴力など振るわないユウくんが、自分より体格の大きなシンジ君とトラブルを起こし投げ飛ばされるや、箒を持ち出し背中を叩いたという。黒川は「ひろしは理由もなくそんなことは絶対しない」と突っ張り、トラブルの原因を問い質したらしい。                                                                                                                              園では、喧嘩両成敗、よくある「喧嘩」の一種だとして、互いが原因について語らないので分からないと言う。ともかく暴力はいけないの一点張り。黒川もユウくんにどうしてトラブルになったのか訊くのだが、ユウくんは「解からない」としか答えないという。                                                                                                          裕一郎も、ユウくんの人柄から暴力など考えられない。またユウくんは、自分の体力的な弱さも充分知っていて、人に対していつも一歩引いていた。そのユウくんが箒を振り上げる・・・、そこにはそうしなけれ崩れてしまう、守ってきた信条の危機があったのではないかと思った。                                                                                                                         黒川は、箒で叩いたことは咎め、原因についてはいつか話してくれるだろうと、しつこく問うことはしなかったそうだ。いい父親だ。

 裕一郎は直感する。往き帰りのバスでいっしょだと裕一郎が想像しているユキちゃん、彼女がこの事件に関係しているのではないか。そう思ったが、黒川には黙っていた。                                                                                        いつか、ユウくんと恋の話をしよう。 

 

 

 

 

連載 56: 『じねん 傘寿の祭り』  六、 ゴーヤ弁当 (2)

六、 ゴーヤ弁当②

交差点の角のビルの二階にある喫茶店に入った。今日の納品は終わっていて時間はたっぷりあるらしい大空は、明日は運送会社支店留めの材料が来る、その引き取りがあるので、今夜は那覇に泊まるという。                                                                                       「ギャラリーじねん」の改装計画を話したが今ひとつ盛り上がらない。大空が何か言いたそうだと感じた。こちらから話を振った。                                                                                                           「松下亜希さんは元気にやってますか?」                                                                                                                        「連休中も大活躍でした。ずっと居て欲しいんだけどねぇ。計画があるみたいでこの夏が終われば辞めたいとは聞いているんですよねぇ」                                                                                                                          「元の仕事に戻るって言うてましたか?」                                                                                                                                 「だと思います。はっきりそう言ったのではないのよねぇ・・・。」

大空も「亜希病」にかかっていると直感した。日に焼けてガッチリした身体の大空が、前かがみで肩をすぼめ、手は空になったコーヒー・カップを動かしている。男が亜希の前で少年になって行く様を見ながらその心情がよく分かるのだった。自分もまた同じなのだから。                                                                                                       大空がカップから手を放して、問うような、報告するような口ぶりで言う。                                                                                             「亜希ちゃんに残って欲しいと思うんですが、彼女の人生プランもあるし、恋愛関係にでもなって居て欲しいと言うのならともかく、残って欲しいではぼくのわがままですよね」                                                                                                                                                       「それがすでに恋心でしょ」                                                                                                                                                                                 「いや~、ちょっと違うんですよ」                                                                                                                「解かる気がします」                                                                                                                        「そう仰ると思ってました。仕事でチーム組んでたんですものね。よくご存知なのよね」                                                                                            亜希の仕事上の思い出話をいくつかした。話すうちに気付いたことがある。                                                                                                         年齢が大きく違う女性への執着は、それ自体失われたもの、過ぎ去った時間、再現不可能な若かった自身への郷愁であり、老いへの自覚であり恐怖なのだ。高志はどうだったのだ。高志の撤退、亜希の行動は何を物語っているのだろう。                                                                               人は生まれて来る時代と社会を選べないのだ。

携帯電話が鳴った。黒川からだ。                                                                                                      「おい、交差点に居るよ」                                                                                              「どちらから来ました?」                                                                                                               「打合せしていた事務所からだよ」                                                                                     「それは分かってます。いまどちらを向いています」                                                                                                                           「もちろん前を向いているよ」。 ん?                                                                                                    東西南北どちらから来たのかと問うているのだが埒があかない。                                                                 「いえ、何が見えます?」                                                                                                        「道路と車とビルが見えるよ」                                                                                         どうにもならない。窓を覗いた大空が黒川を見つけた。                                                                   「居る居る、ほらあそこに」                                                                                                見ると、黒川は北東の角にポツリと立ち喫茶店はそちらだろうと見当を付けてか、飲食店が並ぶ北方向を覗っている。裕一郎たちが居る店は南東角のビルの二階だ。つまり、黒川は交差点を隔てて店に背を向けている状態だ。黒川が振り返り信号を渡ればいい。                                                                                                 「黒川さん、まん前ですよ。こちらから見えますよ。百八十度回って下さい」                                                                     いいよ、と言って黒川は左へ九十度回って、西を向いた。                                                                             「いえいえそれでは九十度です。あと九十度回って下さい。」                                                                                                                                                                           黒川は、今度は百八十度回った。東を向いている。困ったジジイだ。計二百七十度回ったわけだ。                                                                                                                        「えーっと、そうですね・・・右向け右して下さい」                                                                                         黒川は、ようやく裕一郎たちが居るビル方向を向いた。                                                                        「信号の向こうに見える、二階に喫茶があるビルです。見えるでしょ」                                                                                                                                    「ああ見えるよ、目立たないビルだけど。九十度だ百八十度だとややこしいことを言わず、最初から回れ右とか右向け右と言えばいいんだ。君は道案内がすこぶる下手だなあ」                                                                                     「ハイハイ、すみませんね。その横断歩道を渡って下さい」                                                                                        「いま信号は、赤だ! 君はぼくを殺す気なのか。」 ギャフン! 

                                                                                                                                                  

連載 55: 『じねん 傘寿の祭り』  六、 ゴーヤ弁当 (1)

六、 ゴーヤ弁当① 

連休中ひかり園は休みで、ユウくんは昼間も家に居る。-裕一郎は家事にてんてこ舞い。食事のことが頭から離れない。作ることは苦手ではないが、献立を考えるのが面倒くさい。冷蔵庫に有るものをダブって買ったり、ない物をあると思って買いそびれたり・・・、主婦の苦労が分かる。                                                                              連休が明け、大空が配達の途中に物件情報を持ってやって来た。                                                                                                                          大空が見つけてきた物件は、黒川宅から車なら二〇分ほどの場所で、官庁や黒川が拘る国際通りにも近く立地としては合格点だ。十五坪で、ライブもする多国籍料理店の半分だ。元々十五坪のバーだったその店が、隣も借りぶち抜いて拡張し三十坪のライブもする店にしたそうだ。今回、大空の友人である店主の体調不調などから、半分を返し元の規模のバーに戻すらしい。大空と店主の関係、店主と物件オーナーとの信頼関係もあり、保証金を預け置くこととし、つまり保証者と借主が違う形をとり、家賃は十万と格安。工事面でも、拡張した側はほとんど客席なので、改装も安上がりだ。ただ、その店主に幾許かの保証金を預けてやってくれ、本来戻る保証金を預けたままにするのだから、との事だった。理のあるところだ。出る時には全額返還するという。この変則に家主も同意してくれている。黒川もよく知っている地域で、黒川は「これはいい」と手放しで喜んでいた。

黒川は同業者と3月末の陶芸展の精算とやらで出かける予定がある。売上から会場費・備品のレンタル費・チラシなど宣伝費・諸経費を応分に負担し、事務局が各業者に精算額を示し、今日確認し合い、数日中に振込まれる。黒川の予想では、精算額は二十万前後あるという。                                                                                                                              この同業者との共催で臨んだ展示会の入ってくるはずの金について裕一郎は聞いていなかった。出も入りもまるで夢のように流れている。大空に委託し売れた品の十五万にしてもそうだが、黒川は自分に不都合な事柄だけでなく好都合な事柄も失念しているのだ。そこがズサン・チャランポラン・やってられない…の核心だが、憎めないところではある。困ったものだ。                                                                               裕一郎は大空と二人で物件の下見に向かった。                                                                

物件は、小さな公園に面していて周りには本屋・楽器屋などもあり、飲食店街と文教区域が同居するような趣の立地だった。脚の便も悪くはない。中心地の一画には違いない。                                                                                                                                                                             店は半分をもう仕切って閉じていて、続けている方の店に以前のカウンターバーに戻る旨の口上文が貼ってあった。大空に店主を紹介され閉めた側を見せてもらった。椅子もテーブルも撤去されている。床は貼り換えればいいだろう、壁面にある飾り棚はそのまま使い、その左右に収納を兼ねた低い展示台を置くか・・・、照明はスポットライトを増設すればいいか・・・。入口は、現在壁の中に隠れている元々の引戸を復活すればいい。多少古くとも味わいがあって良いのではないか・・・。裕一郎はあれこれと安上がり改装案を考えていた。                                                                                                                         「安く改装できそうやね」                                                                                                                               「ええ、ぼくもそう思うのね。手作り感を出す意味でも陳列什器はぼくらで作りましょうね」                                                                                                                                      「けど、道具は持ってます?」                                                                                                                                       「まぁ一応は持ってます。何とかなりますよ」                                                                                                                         「早速、黒川さんにぼくらはこの物件に賛成だと報告するよ」                                                                        黒川の携帯電話にかけた。展示即売会の精算も思っていた通りだったと上機嫌の黒川に交差点の場所を伝えた。じゃあ見てみるかな一時間で行くから居てくれ近くに着いたら電話するよ、といつもより不自然に平静な黒川の言い回し。                                                                                                                                                                                                               黒川が逸る気持ちを悟られまいと意識して演じた応答なのだとすぐに分かった。

連載 54: 『じねん 傘寿の祭り』  五、 キムパ (10)

五、キムパ⑩

 高速艇の喧しいエンジン音で、他の乗客には聞こえないと踏んだのか、黒川が耳元に大きな声で語りかけて来た。                                                                                                             渡嘉久志の海は美しかったねえ。君も、渡嘉敷島と座間味島での集団自決と呼ばれている強制集団死を知っているよね。慶良間の海は憶えていてもあんなに美しく黙っている。本島にもあったんだが・・・。同じ慶良間諸島でも日本軍が駐留していない島では起きていない。かなり以前、有名な女性作家が軍による強制と言うのは疑わしいという本を出したのも知っているよね。軍の命令があった無かった、名指しされた軍人が命令を発した事実ありや無しやで、証言などをかき集めて言い合っている。                                                                                                                    「ええ、聞きかじってはいます」                                                                                                                    ぼくら海軍少年航空兵の生き残りに言わせれば、その双方の証言よりも、軍命令はなかったと言いたい人々の目的や、その女性作家の心情が気になるね。崇高な尊厳ある殉死だと言っているそうじゃないか。ローマ軍に包囲されたユダヤの城砦の軍民の殉死自決の故事を、度々賛美してるんだってね。沖縄の集団死は軍人じゃないんだ、女性作家は島民に崇高な殉死と言う自分の美学を代行させたいのかね。。                                                                                                                  捕虜になれば惨い目に合わされると教え、お国の為に死ぬのだと教え、民間人が軍の手榴弾を何らかの方法で手に入れる。極限状態で兵士が命令やそれに準ずる発言をするのはよく解かる。ぼくは、十七歳でもちろん志願して少年航空兵になったんだ。兵の心情も、長崎で悲惨な死を遂げた人々の無念もよく理解しているつもりだ。甘いロマンじゃないんだ。終戦時女学生だったその作家の出来なかった殉死を被せる相手は、自分自身か日本軍にしなさいって言いたい。                                                                                                      もっともぼくに言わせりゃ、君らの世代の左翼にも、自分たちがヤマトで果たせない想いを沖縄に代行さようというような心理がないかねと・・・。沖縄へ来たときに言うことすることを、自分の土俵でヤマトでしているのならいいんだが・・・。いずれにしても、沖縄に被せるのは支配者根性だよ。                                                                               ぼくは、彼女より五歳年長だがもう少しは視て来たぞ。ぼくの遺言だと思って聞きなさい。                                                                                                               敗戦直後の先輩らの行動、徹底抗戦を叫んで決起しようとしていた先輩を目の前で見ているんだ。呼びかけに応じて厚木だか岩国だかへ向かうと息巻いていた。ぼくは、長崎が壊滅と聞いていたので、すぐ故郷へ向かったがね・・・。黒川はフェリーが泊に着くまで語り続けた。                                                                                                                                                      タロウの話、千利休の話、正否はともかく倭国誇大史、もうひとつ戦争観、これはまともと言うかしっかりしていて揺らぐことなく明晰だ。奇妙なジジイだ。

オバサンの食堂で食事しているユウくんを迎えに行き、オバサンにキムパを二本差し上げ、三人で手を繋いで坂道を歩いた。                                                                                                                                        「ひろし、お前の言う通りだったよ。あのお姉さんは沖縄に居たよ。渡嘉敷島に居たよ。仕事で豊見城を通ったらしい。園の近くで見たと言ってたのに信じなかったチチが悪い。許してくれ」                                                                                                                              「いいって、いいって。許してあげるよ。あの姉さんの名前は何だったかな」                                                                                  「アキさん」                                                                                                                                                                         「ふ~ん、アキさん・・・か。ぼくは園にユキちゃんという友達がいるよ。北嶋さんはアキさんが好きだから、アキさんが居てよかったね」                                                                                                                             恋している者にだけ、見える世界があるのだ。                                                                                                                                                 「そうやな」と笑って返すと、黒川が「そうら!それが本音だろ。放っておくと大空に取られるぞ」と煽った。                                                                                                                    ユウくんが、今そのユキちゃんが大切なのだと言うことも、行き帰りのバスでいっしょなのだということも想像出来た。たぶん、それで間違いないだろう。俺には今、それが見えるのだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            その夜、裕一郎は少年のような夢を見た。亜希が工房のキッチンでキムパを作っている。港で後ろ姿のエプロンの隙間に垣間見た、焼きついている肌が拡大して浮ぶ。女性の人格や抱える世界への共感と、性的な欲望の境目が、六十を前にしてまだ解からない。                                                                                          ガキのようだな・・・と平静に客観的に己を見つめようと思いながら、眼が覚めても夢は着いて来た。裕一郎はふと、その姿が話に聞いた亜希の母親のようだと思う。すると、久しく会っていない妻のような気がして来るのだった。そう、裕一郎の妻はよく、仲間から教えてもらったと言うチヂミを作ったのだ。

(五章 キムパ 終。 次回より 六章 ゴーヤ弁当 )

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