連載 62: 『じねん 傘寿の祭り』  六、 ゴーヤ弁当 (8)

六、 ゴーヤ弁当⑧ 

重い何かを抱えて歩いていた。青い空、広がる田園風景、心地よい風、中規模の川・・・、その土手を歩いていた。前後を共に歩く人たちは仲間のようだ。みんな口笛を吹いたり鼻歌を歌ったりして、野を渡って来る風を受けて朗らかだ。歩いている一団の中ほどに女性が居た。いつか、黒川が観ていた深夜放送の映画『ここに泉あり』(1956年製作)の一場面だと分かった。すると、一団はあの自主運営交響楽団に違いない。だから、女性は岸恵子なのだが、顔は判然としなかった。一団の後ろを、疫病神のような不審人物が付かず離れず歩いていた。映画と違っていて気になる。                                                                                                                                                           やがて、裕一郎は自分が抱えている重いものがコントラバスだと気付いた。重くて、一団の歩みについて行けなくなり、通りかかった駅でモクモクと煙を吐いて走る蒸気の汽車に飛び乗ってしまう。乗った汽車には、闇物資の運び屋や復員兵士がギューギュー詰めになって乗っていて身動きままならない。映画の時代背景と合わないので奇妙だぞと思っていると、そのドサクサにコントラバスを誰かに奪われてしまう。泣きそうになっていると、席を老女に譲ってこちらにやって来た文士風の男が「おい学生! 次の駅で降りようぜ。美味い屋台があるんだ、ご馳走してやろう」と言う。どういうわけなのか、さっき一団の後ろを歩いていた男だった。空腹だったこともあり、誘われるまま彼の後に従った。                                                                                                                                                                                                                                                                                降りた駅は、写真で見た記憶がある東京郊外の戦後風景の中に立つ木造の駅舎だった。駅裏の屋台で焼き鳥と酒をよばれた。腰掛椅子には奪われた筈のコントラバスが立てかけてある。文士風の男が「大切なものなんだろう? 俺が取り返して来てやったぞ。これで、仲間のところへ戻れるんだ、感謝しろよ。」とうそぶく。変だと思ったが、すぐに、雑誌で読んだ戦後期のあるシーンが再現されているのだと気付いて、目が覚めた。学生だった思想家吉本隆明と流行作家太宰治の生涯一度の出会いのシーンだ。                                                                                                                                                                                                                 裕一郎は、重いコントラバスのつもりなのだろう、枕を抱えていた。                                                                                                                                            時代と場所が混在していて、観た映画と読んだ雑誌記事がミックスされた奇妙な夢だった。

読んだ雑誌記事というのは『東京人』という雑誌に出ていたもので、太宰との生涯一度の出遭いを語る吉本へのインタヴュー記事だった。                                                                                                                                               吉本隆明は戦後間もなくの学生時代、学生芝居で太宰の戯曲『春の枯葉』を上演しようとなり、仲間を代表して三鷹の太宰宅を訪ねる。                                                                                                                                                                                      太宰は不在だったが、幸い太宰家のお手伝いさんから聞き出し、近くの屋台で呑んでいた彼を探し出す。当時の人気作家と無名の貧乏学生、のちの詩人・思想家の出会いだ。そこでの会話だ。                                                                                                        『「おまえ、男の本質はなんだか知ってるか?」と問われ、「いや、わかりません」と答えると、「それは、マザー・シップってことだよ」って。母性性や女性性ということだと思うのですが、男の本質に母性。不意をつかれた。』                                                                                                         出したいだけなんでしょ、受容れるような感覚、相互性、打ち出す、マザー・シップ・・・、いろんなセリフや単語、観た映画や写真、戦後期の三鷹駅近くの屋台、想像の吉本と太宰の出遭いのシーン、昨夜の亜希とヒロちゃんの発言などが交錯したまま、それらが一つになって押し寄せて来る。                                                                                                                                                                裕一郎は、しばらく仮眠状態で起きていたが、やがて再び眠りに落ちた。                                                                                                   

耳元のユウくんの大きな声に起こされた。                                                                                                                    「北嶋さん、ゴーヤ弁当だよ」とユウくんが身体を揺する。                                                                                                                          もう十時を過ぎていた。爆睡したのだ。ユウくんのリクエストで、亜希たちが近くに材料を買出しに行き、今作っているという。ユウくんは、昨日の弁当がよほど気に入ったらしく、連日の同メニュウを求めたようだ。                                                                                                                                                  自分にも記憶がある。気に入ったメニュウを飽きもせず集中的に食べる時期があるものだ。                                                                                                         身体を起こし、着替えながらユウくんに気になっていた件を訊ねた。裕一郎の直感だ。                                                                                                 「シンジ君が、ユキちゃんに何かしたんやろ」                                                                                                                       「うん、ユキちゃんとぼくの手を叩いた」                                                                                                                     内容を掴むのに手間取ったが、ほぼ聞き出せた。昼食の後片付け当番をして、食器を洗って部屋に戻るときユキちゃんと手を繋いでいた。シンジ君が、手と手が繋がれているまさにその部分を、ピシャリと叩いた。思わず二人が手を放した瞬間、シンジ君がユキちゃんのホッペにプチュ。シンジ君の背中に組み付いたがたちまち投げ飛ばされ、すぐさま箒をとって来てシンジ君の背中に一発。ユキちゃんは泣き出したが、指導員が来た時には彼女は部屋に戻っていて、彼らはユキちゃんも関係していることを知らない。ユウくんはもちろんシンジ君も、そこは決して語らない。四日前のことだ。これが真相らしい。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             昨日、チチが園に呼ばれ主任と長時間話した。チチは「もうシンジ君は何もしないから大丈夫だよ」「武器を持って叩くのはよくない」とだけ言ったらしい。黒川はいい父だ。                                                                                                ユウくんは、大きく強そうなシンジ君に立向かい、護るべきものを護ったのだ。それはユキちゃんというよりも、自身の内に棲みつき育んで来た、譲る訳には行かない精神のようなものに違いない。                                                                                                 バスの往き帰りで毎日ユキちゃんといっしょだということも予想通りだった。                                                                    事件のことも、バスのことも「ユウくんと北嶋さん二人だけの秘密や」と約束した。  

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