Archive for the ‘たそがれ映画談義’ Category

たそがれ映画談議:クロサワとミフネ

11月9日(木)、BS朝日の「ザ・ドキュメンタリー」
『黒澤明☓三船敏郎!! 未公開音声が語る2人の真実』を観ました。

65年『赤ひげ』が黒澤・三船のコンビ最後の作品だった。
黒澤は68年『トラ・トラ・トラ!』でハリウッド方式と衝突し事実上解任され、69年初めてのカラー映画『どですかでん』で復権を期すが、興業成績奮わず作品への評価も厳しいものだった。「世界の」クロサワが自傷事件(報道では28ヶ所自傷の自殺未遂)を起こしたのは71年だった。「もう終わりかな?」と誰もが思ったが、黒澤は再起する。ソ連での映画作りだ。
当時世間は、黒澤・三船不仲説を振り撒いていたが、三船は自社スタジオも持つ自身の三船プロの責任者として多数の社員を抱える経営者、映画・TVをこなし八面六臂の孤軍奮闘。黒澤がソ連で制作した『デルス・ウザーラ』(75年)にも出たいと願いながら実際その時間もない状態だったと番組は語る。75年ソ連極北東の撮影現場に黒澤を訪ねる三船の姿があった。
黒澤その後の、80年『影武者』85年『乱』90年『夢』の評価・好嫌は様々だ。

97年12月の三船の葬儀に、体調不調で列席出来なかった黒澤が送った直筆弔辞は、息子黒澤久雄によって代読された。翌98年、追うように黒澤は逝く。
二人の信頼と信義は濃く深い。

 

たそがれ映画談議:『愛を綴る女』

23日(月)から月一度の東京詣に来ている。
今日(25日)業務が半端な時間に終わったので、品川への帰宅途中にある映画館へ。ヒューマントラスト シネマ有楽町。
作品『愛を綴る女』。望外の収穫だった。
監督:ニコール・ガルシア(女性) 主演:マリオン・コティヤール。
作品の出来映えを評価する力はないが、ワシには響いたのだ。
原作とは時代など変えてあるそうだが、フランスがヴェトナムやアルジェリアに介入していた1950年代半ば。
南仏プロヴァンスに家族と共に住むひとりの女性の、女・家・親・結婚・男・夫・愛・自由・死 を巡る根っこの不安と自立を、数奇なストーリーで描いてみせた。50年代という戦後間もない時代空間、戦後ではあってもなお他国に武力介入していたフランス。登場男性に戦前にスペイン市民戦争から越境して来た者、ヴェトナム帰還兵などが配置されているのも頷ける。家庭や社会の建前戦後社会なのに深いところで前時代封建、という屈折に敏感な主人公の、存在の「ねじれ」や「違和」と 彼女が想い描く「愛」との非和解的相克は「病」として表出されるしかない。主人公は、彼女にとっての「愛」を求めて彷徨する。
隣国のかつての内戦、戦後の植民地、それらが人々の生の在処にかかわりをもって重低音で聞こえて来る。内戦から生と死を超え脱出した者の「愛」の在り方に涙した。 『君に、生きて欲しくて…』

ワシらの戦後日本は、近隣国への過去の植民地支配に、隣国の内戦の地獄からの脱出者の身近なはずの生と死に、どのような音を聴いているだろう。それを聴くことは、「愛」のカタチや密度と無関係だろうか?
愛は徹底して個人的なのであり、そして逃れようもなく社会的なのだ!

コール・ガルシア(女性) 主演:マリオン・コティヤール。
作品の出来映えを評価する力はないが、ワシには響いたのだ。
原作とは時代など変えてあるそうだが、フランスがヴェトナムやアルジェリアに介入していた1950年代半ば。
南仏プロヴァンスに家族と共に住むひとりの女性の、女・家・親・結婚・男・夫・愛・自由・死 を巡る根っこの不安と自立を、数奇なストーリーで描いてみせた。50年代という戦後間もない時代空間、戦後ではあってもなお他国に武力介入していたフランス。登場男性に戦前にスペイン市民戦争から越境して来た者、ヴェトナム帰還兵などが配置されているのも頷ける。家庭や社会の建前戦後社会なのに深いところで前時代封建、という屈折に敏感な主人公の、存在の「ねじれ」や「違和」と 彼女が想い描く「愛」との非和解的相克は「病」として表出されるしかない。主人公は、彼女にとっての「愛」を求めて彷徨する。
隣国のかつての内戦、戦後の植民地、それらが人々の生の在処にかかわりをもって重低音で聞こえて来る。内戦から生と死を超え脱出した者の「愛」の在り方に涙した。 『君に、生きて欲しくて…』

ワシらの戦後日本は、近隣国への過去の植民地支配に、隣国の内戦の地獄からの脱出者の身近なはずの生と死に、どのような音を聴いているだろう。それを聴くことは、「愛」のカタチや密度と無関係だろうか?
愛は徹底して個人的なのであり、そして逃れようもなく社会的なのだ!

たそがれ映画談議:「アジール空堀」6月『熊沢誠 映画を語るⅢ』

6月18日(日)「アジール空堀」6月。於:大阪府社会福祉会館、15:00~。
『熊沢誠 映画を語るⅢ』
トランプ時代の《トランボ》鑑賞―アメリカの知識人とポピュリズム
29人のご参加を得た白熱の講演でした。

「赤狩り」「マッカーシズム旋風」の「熱狂」の酷さや実被害の苛酷さと、それが冷めて行く過程に存在した映画界と一般の世論の「広範な」良識・知性・立憲精神の広さ深さを思います。ワイラーやスティーヴンスやキャプラら重鎮が果たした役割も大きい。
荒んだ世が、疲弊した社会が、憎しみを組織する邪道が、恢復するにはその「広範な」が絶対に必要。安倍政権が、安倍亜流政権が続いていい訳はなく、必ず代わらなければならんのだから・・・。

熊沢講演の特性は、労働問題であれ社会的危機に関してであれ、過労死課題であれ、必ず自戒とともに「希望」を語る点にある。事態の根深い理不尽を語り支配の側の無法暴虐を挙げ、受難の側の不備や悲惨を語っても、期待されるそして確保すべき「こちら側」の努力や蓄積の価値を軽んじはしない。
マッカーシズムを支持しただろうアメリカの大衆(市民・民衆・人民 ?)の巨大な山と波を見つめたいとの言は、逆ににもかかわらず「こちら側」はマッカ―シズム受難者を擁護する信念ある山と波も持っていた、という「希望」を際立たせる。明と暗、光と影、自戒と矜持、いつもその往還の中に熊沢語録を聴いている。それが心地よく、明日への力になるのだ。

たそがれ映画談議: チャン・イーモウの日本未公開作品、2011年『金陵十三釵』(1937年日本軍占領下南京)

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【3月18日(土)14:00~『金陵十三釵』(きんりょうじゅうさんさ)上映会 】

張芸謀(チャン・イーモウ)監督の、日本未公開作品『金陵十三釵』(きんりょうじゅうさんさ)の上映会が、同作品上映北摂実行委員会の主催で茨木市福祉文化会館で行われた。

2011年の、中国の年間興行成績第1位の大ヒットということはともかく、1937年日本軍占領下南京が舞台と聞き、チャン・イーモウがこのヘビイな課題をどう描くのかに興味があり参加した。

先月、上映会に先立ってチャン・イーモウ監督のことを少し書いた。

ワシが知っているのは『紅いコーリャン(紅高梁)』(1987)『菊豆(チュイトウ)』(1990)『活きる』(1994)『あの子を探して』(1999)『初恋のきた道』(1999)『至福のとき』(2000)『単騎、千里を走る』(2005)『妻への家路』(2014)だが、日本でヒットした『初恋のきた道』や、高倉健さんが主演した『単騎、千里を走る』は多くの人が観たと思う。

『活きる』『初恋のきた道』『妻への家路』などの社会背景には大躍進時代の、やはり受難だったと言える「民」の在り様や、文化大革命期の下放青年や夫婦のその光と影が見え隠れ(いや、それが主題だ)して心に響いた。

『初恋のきた道』の恋物語から、右派というレッテル貼りに翻弄される青年(主人公の夫)という骨を除いては、観客泣かせのストーリーはストーカー少女の物語となってしまう。そうなら、抜群の映像美も主人公の心理を切り取る工夫されたカメラ・アイも、ちょっと嫌味な乙女心が際立つあざとい手口だとも言えそうだ。物語の社会的背景は重要で肝だが、イーモウが撮りたいのは、激動し移りゆく政治や社会の皮相の下に在って、弱く・強く・したたかに・哀しく・歓びにも活きる「民」の底力と悲哀の歴史性と基層性だ。

今回の上映会には、南京というヘビイな課題にも基本は揺るがないだろチャン・イーモウの作家魂に期待している。

 

 

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【あらすじ】

『舞台は日中戦争下、1937年12月日本軍占領下、南京事件の一部を構成する廃墟と化した市街地の出来事。。南京へ侵攻中の日本軍の暴力を避け教会の建物の中へ逃げ込んだ中国人女子学生ならびに娼婦らを米国人納棺師ジョン(クリスチャン・ベール)が聖職者になり切って匿い救う。日本軍士官は女学生たちを保護する約束をするが、同時に彼女等がパーティーで賛美歌を合唱するよう要求する。それだけで済むはずはないと思われる女子学生たちを助けるために、一緒に避難していた12人の娼婦と1人の少年侍者が女子学生に扮装し身代わりとして日本軍の南京陥落祝賀パーティーに赴く。その隙にジョンは修理された教会のトラックと密かに入手した通行証で女子学生たちを共に南京から救出する。』

作品は期待に違わぬチャン・イーモウの複眼性や俯瞰性に溢れ、「南京」を扱いながら、凡百の「お説教映画」「反日プロカパガンダ」「自国の愛国主義鼓舞」を超える普遍を求めていた。いろいろ書きたいが長くなるので、機会を得てどこかに書きましょう。

ここでは、上映後に解説者の大阪府立大教授:永田善嗣さんから聞いた原作と映画シナリオの違いが、なるほどそここそがチャン・イーモウだ!と思えたので、少し述べる。

①主人公は行き掛り上神父を引受けることになるアメリカ人葬儀屋だが、原作は本物の神父。

②娼婦たちが身代わりとなり、女子学生はニセ神父運転で南京脱出行へ・・・そのトラックの後ろ姿で映画は終わるが、原作では本物神父は娼婦たちを送る場面で日本軍に撃たれ命を落とすらしい(殉教?)。

ワシは、ここに他も含めた作品群に通底する、チャン・イーモウらしさを感じた。

聖と俗=神父とニセ神父、女子学生と娼婦。 暴力受難や悲嘆と「民」の底力=ニセ神父の決断、娼婦たちの「人の為に」という気概。

他にも、戦争に疲れ果て南京の惨状に心を痛めてたところで、何が出来るわけでもない無力感に在るインテリ将校(渡部篤郎)や、日本軍に協力する生業を確保して生きながら危ない橋を渡ってトラック修理の工具部品を調達する女子学生の一父親、などが戦争の重層性を伝える。

けれども、チャン・イーモウのそうした複眼や希いの可能性さえ、圧倒的な暴力でもって踏み潰し殺し尽くした事態こそが南京大虐殺だという事実が、政治的に作られた映画より重く響くから映画はスゴイ。

たしがれ映画談義: マーチン・スコセッシ二作 イエスに関して

K・Tさん帰米されましたか? 過日はマーチン・スコセッシが『沈黙』を映画化したを機に原作:遠藤周作『沈黙』のブックレビューをおおきにでした。 吉本隆明『マチウ書試論』を半端に持ち出したりして、残識の徒が遠藤の真意は「正邪二元論・一神教・原理主義・各相の決定論という西欧思想に対する東洋的異論(アンチ決定論=相対論)だと思う」という主旨を述べました。それこそが「救い」だとも言いました。 キリスト者でないばかりか、キリスト教をよく知りもせず失礼しました。

ところで、マーチン・スコセッシと言えば、全世界で上映阻止運動が巻き起こった『最後の誘惑』(日本公開1989年)をご存知か?  ウイリアム・デフォーが見事なイエス役だった。136236_01[1] ここで、スコセッシは、 今は娼婦に身をやつすマグダラのマリアは、若き日のイエスの恋人だった。かつてイエスは、彼女を振り切って求道の道へ進んだのだ。又、イエスの生業は、同胞ユダヤ人の棺桶・十字架作りであった。この2つがイエスの臓腑の底に棲み付いているとした。

イエスは、弟子たちを従えいよいよエルサレムに入城して、今まさに人々に蜂起を呼びかけるべきその場面で、ヘナヘナと腰くだける。 イエスは既成大教団とローマに、殺されることによって「生き続ける」道を選び、全てを理解するユダがその道への補助をしたのだ。やがて、教祖イエスとユダヤ教団内弱小分派:ナザレ派は永遠の存在となって行く。 という解釈の映画だ。すこぶるスリリングで深い。 今回の『沈黙』に通底しているものがあるなら、それを掴みたいと思っています。マーチンスコセッシ 「棄教しなければ信者たちを処刑する」という権力の方法論の現実性と、己の信仰を捨てまいという個人の固い思想性との格闘で、思い出したのが吉本隆明『マチウ書試論』(1954年)だ。 荒野でのイエスの40日間の断食に登場する悪魔は「お前が神の子なら、この荒野の石ころをパンに変えてみよ」との問いを発するが、これへのイエスの「人間はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きるだろう」との詭弁のような答えなっていない答えに関して、吉本隆明は以下のように述べている。 『人間はパンだけで生きるものではなく、と言ったとき、原始キリスト教は、人間が生きてゆくために欠くことのできない現実的な条件のほかに、より高次な生の意味が存在していることをほのめかしたのではない。実は、逆に人間が生きるためにぜひとも必要な現実的な条件が、奪うことのできないものであることを認めたのである。つまり、悪魔の問いがよって立っている根拠をくつがえしたのではなく、かえって、それがくつがえし得ない強固な条理であることを認めたのである。』 『だが、原始キリスト教の立っている条理は全く別だと、マチウの作者は言っているのだ。』 悪魔の第二問:「神の子であるのなら、この神殿から飛び降りてみよ」VS「汝の神を試みてはならない」も同様の展開だね。飛び降りて、神の力によって助かるとは一言も言ってはいない。 「神の力で奇跡が起きる」と断言返答したところで、石はパンに化けないし、飛び降りればけ助からないので、どう言うかに拘わらず「救い」は無い。 昔「沈黙」を読んだ時、「マチウ書試論」を借用して、遠藤が現実的な条件とは全く別の条理があってそれは譲れないとする信仰の不滅を説いたのであって、それは、正邪二元論・一神教・原理主義・各相の決定論という西欧思想に対する異論の東洋的体系(アンチ決定論=相対論)だと思うことにした。それこそが「救い」だとも思った。極論すれば「拡大する良民の犠牲を止めさせるために{転ぶ}こと」を「神」への背信とは位置づけない「思想」のことだ。 その時代の制約・人心の地平を考慮した厳しい物語ですが、遠藤が今日的に提示したのは、信仰の根本は「現世利益に非ず」といふ厳しい思想であったと、当時思った者の一人です。ひねくれていますか? あの物語は、極論すればあの状況下では「{転び}もアリ」とする、キリスト教倫理への異論だと理解した。そして、それが「救い」だと・・・。こうした状況下と動機での{転び}なら「神」は「赦す」という理解とでもいいましょうか・・・。 正邪二元論・一神教・原理主義・各相の決定論という西欧思想に対する異論だと思っとります。蛇足⇒この想いは西欧マルクス・レーニン主義教条へのワシのスタンスでもあります。ふと、ある少数派団体のその又弱小分派に関与した友の、思い込みと錯誤に塗れた日々を思い起こしました。

映画談義: 2016 今年観た日本映画の秀作たち

今年は日本映画の秀作(公開年度は2014~2016混在)に出会えたな。

【2014年公開】 『百円の恋』(主演:安藤サクラ) 『そこのみにて輝く』(監督:呉美保)、 【2o15年公開】 『駆け込み女と駆出し男』(監督:原田真人) 『さよなら歌舞伎町』(脚本:荒井晴彦、主演:染谷将太) 『恋人たち』(監督:橋口亮輔)、 【2016年公開】 『怒り』(原作:吉田修一、監督:李相日) 『永い言い訳』(監督:西川美和)。

一本だけ選べと言われれば、迷うけれどワシは『さよなら歌舞伎町』を採るね。%e3%81%95%e3%82%88%e3%81%aa%e3%82%89%e6%ad%8c%e8%88%9e%e4%bc%8e%e7%94%ba

歌舞伎町のラブホテルを舞台に繰り広げられる一日の群像劇。様々な事情を抱えた四組の男女のオムニバス仕立ての物語は、見事に2014年の現在ニッポンの断面を切り取り、男女の事情の裏面に、確実に現社会を描き出してくれる。格差社会・若者を取巻く現実・貧困・弱者・少数者・ヘイトスピーチ社会・3,11に包囲される男女の虚実と痛い愛を描き、その交感に「抵抗」への根拠地を探そうとする。

その作者の構えに、ある時代に通底する「匂い」を嗅いだのはワシだけではあるまい。だが、そこは、その時代より数十倍厚い包囲網下なのだ。若者が、理屈やヤル気や努力、理想や誠実が無化されて行く現実を知ってしまっている枯野なのだ。

飲食店で働き資金を作って「国」に店を出すという夢を持つ男は、資金が溜まらぬ現実に「金ある女」相手に男娼として「アルバイト」している。男が付き合っている、「国」でブティックを開業したい恋人は、不法残留から近々帰国予定だが、男に仕事内容を偽り実はデリヘル嬢。二人は韓国から出稼ぎに来ているのだ。互いに相手の裏業を知らない。

男は、疑念から眠っている彼女のバッグを探り、彼女の商売用の名刺を見つける。彼女の最後の出勤日、指名を受けてホテルに「仕事」で入室し、男の客に目隠しをさせられる。浴槽で体を洗われているうち、彼女は男が誰であるのかに気づく。身を震わせ号泣して詫びる女、実は・・・と、自分の裏業を告げる男。 震えて抱き合う男女の向こうに、現在(いま)が詰まっていて哀しくも美しいシーンだった。

観て、おおお~これは・・・と思ったら、脚本:荒井晴彦ではないか。%e8%8d%92%e4%ba%95%e6%99%b4%e5%bd%a6

荒井晴彦。ワシと同じ1947年生まれ。早稲田大学文学部をあの時代に中退(なるほど)。若松プロ出身。「映画芸術」編集長。

【脚本】『赫い髪の女』『遠来』『KT』『ヴァイブレータ』『やわらかい生活』  『大鹿村騒動記』『さよなら歌舞伎町』『この国の空』(監督も)

荒井晴彦が、フジTVが大宣伝を繰り広げ無理筋のヒットをさせた大駄作『踊る大捜査線』に噛み付いた発言を、過日ブログにアップしたものを再録する。脚本家荒井の、あの時代に早稲田を中退し、若松プロに参加した者の矜持がよく現れた発言だ。

先日、「日本映画専門チャンネル」で『 「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたか』なるリレー・トークを観た。10人の「映画通」が語っている。多くは、肯定・映画の敗北・当然の帰結・観客が選んだ結果だ・これも映画だ・・・・、との「現実追認」に終始している。

その中で、雑誌『映画芸術』編集長:荒井晴彦だけが「まとも」なことを言っていた。気になって、各発言の採録である番組と同タイトルの新書(幻冬舎新書、¥800)を購入した。

以下に抜粋する。

『結局はフジテレビのプロモーションの力でしょう』 『テレビが勝ったのではなく、映画がダメになったのです』 『映画自体が乗っ取られた』 『映画館の大きなスクリーンでテレビドラマを映しているのと同じです』 『僕らの年代は』 『なぜこんなものを映画館でやっているんだというような違和感を抱く』 『若い人たちはその違いを知らないから、何のわだかまりも無い』 『「踊る」以降は「映画の監督がつまらん作家性なんか出すより、テレビのスタッフが映画もやったほうがかえって当たる」というわけです』 『「踊る」の亀山プロデューサーは』 『「なぜ彼や彼女は犯罪を起こすに至ったのかを描かなくていい」と言ったそうです』 『「犯人のバックグラウンドを描くな」ということです』 『「踊る」以降の作品に描かれる犯罪は、「たまたま、ただのヘンな人が暴発したからおこったこと」になってしまった』 『犯人が捕まったらそれで終り、それで解決でいいということです』 『よくテレビでは「小学生でもわかるような表現じゃないとダメだなんだ」という言い方をします。でも僕は万人にわからせることだけがすべてではないだろうと思う』 『100人のうち10人がわかればいいという映画があっていいと思う』 『わかるのは二人ぐらいでいいんじゃないかと思うし、さらに言えば、たった一人でもいい。究極的には、作った俺さえいいと思えればいいんだ、とも思います』

『見やすさだけ、わかりやすさだけが最優先されるのは、本当にいいことなんでしょうか』 『もちろん徹頭徹尾そういう作り方ではまずいけれど』 『すべての映画を、黙って座ってボーッと見ていてもわかるものにするのはどうなのか』 『今は、観客の側が勉強して映画を理解する文化がなくなってきている』 『こうなったのは、作り手のほうが、「勉強しなくいいんだよ、考えなくても楽しませてあげるよ」と言ってしまったからです』 『監督や原作の作家が、何を描こうとしていたのかを知ろうとして、その作家の生い立ちなどを別の本で調べたりするうちに、どんどん映画に深くはまっていくこともあった』

『作品に匿名性のようなものが生れて、似通った作品ばかり』 『作品に個性がないから、顔がみえない』 『そもそも映画は「娯楽」と「芸術」という、相反する要素を持ち合わせたもので』 『作り手は、芸術であるとまでは言わないけれど、全くの売り物だとも思っていなかった。「商品」と「作品」の間で行ったり来たりして、悩んでいました』 『今の若い作り手たちは違います。彼らは自分のやりたいことを通すというよりは、お客さんを入れることを第一に考えるようになった』

『僕は昔からお客様は神様だと思ったことは一度もない』 『神様はバカ様になった』

『映画館の闇の中で、僕たちは人生を変えるような、魂を震わせるような何かと出会うことが出来た』

『今の映画は、ヒットすることと引き換えに、そういった陰影や多様性を切り捨ててしまった』 『亀山プロデューサーは』 『勝つにはどうしたらいいかを考えて、その結果勝ったのはすごいことです』 『平野謙という文芸評論家が「畢竟、文学とは我を忘れさすか、身につまされるか、ではないか」と言っているのですが、映画もそうじゃないかと思います』

『我を忘れさせる映画の典型が「踊る」でしょう』 『映画館を出たら、ああ面白かったとその映画も忘れてしまうのではないか』 『僕は、身につまされる映画を作りたい』『人に忘れられない映画を作りたい』

『文学や映画をエンターテインメントこそすべてとその枠に押し込めることで、そこにある生き方・考え方・価値観を揺り動かす力を捨ててしまうのはあまりにも惜しい』

荒井の、いまどきの映画と観客への言い分は、そのまま映画『踊る』への、『踊る』登場人物への異論となっている。それは、現実への視点を欠き(欠かざるを得ない)、現実「回避・逃亡」に終始する、CG満載の近未来絵空事や有り得ないパニックにしかドラマを構成できない米映画作家の今日的立ち位置、その亜流たる日本映画への異論であり、同時に米帝国とグローバリズムへの鋭い文明批評として聞こえて来る。『踊る』の主旋律はこうだ。主人公と彼を取り巻く人物たちの「無自戒」、映画の製作者・監督の「勘違い」、観客たちの反応に見える「軽薄」・・・。とりわけ織田祐二演ずる主人公青島が、柳葉敏郎演ずる同世代キャリア上司:室井に言う下記の科白には反吐が出る思いだ。記憶は曖昧だが、その趣旨は概ね以下のようなことだった。                                                                                       「ぼくら下の者は、上がシッカリしてくれていて努力できるのだ」「だから、上は上でそれを汲み取って出世してもらわないと」                                                                                            一部でキャリア・ノンキャリアの垣根を越えた「解り合い」だとか、働く者の気持ちを「言い当てている」と言われたりしたが、果たしてそうなのか?                                                                  ノンキャリア組の心情がそうした諦念(荒廃?)の中に在るという、今日的職場風土を示す皮肉だと言うのなら頷けもする。 だが・・・、青島君は、明るく元気で、自己と職場を全面肯定しつつ嬉々として、そうした処世感の「確信犯」として立つのだ。

徹底して荒井とは違う立ち位置だ!

 

 

 

 

主題歌談議: 『われに撃つ用意あり』

体調事情で東京滞在を極端に減らしてもらっている(現場撤退)。
月1~2度、日数にして4~5日の東京勤務だ。
昨日約50日ぶりに上京した。夕刻、新宿の用件を済ませ、小一時間歌舞伎町界隈をブラついた。
事務所に戻り、食事+酒+銭湯を終え、雑用を済ませ、11時からさっきまで、ある歌をYouTubeで何度も聴いていた。

1990年 松竹映画『われに撃つ用意あり READY TO SHOOT』主題歌
監督:若松孝二 原作:佐々木譲 主演:原田芳雄・桃井かおり
出演:室田日出男・石橋蓮司・蟹江敬三・麿赤児・佐野史郎・西岡徳馬

『新宿心中』作詞:阿木耀子、作曲:宇崎竜童

この街にはいくつも
思い出が詰まっている
初めて女を知った
裏通りも今はビル
死ぬなら晴れた夜に限ると言ってたお前
瞬く星が看取ってくれると
いいね俺もそう思う
新宿 Moon light 新宿 Stardust-
お前に抱かれて眠りにつく

若かったね俺達
喧嘩ばかりしていた
お前となら最後は
軽く御免で済んでた
一緒に大人になっただからねとお前が泣く
独りで先に逝ってはダメよと
いいさ約束をするよ
新宿 Day and Night 新宿 Night and Day
も一度ブルース歌ってくれ

新宿 Moon light 新宿 Stardust-
お前に抱かれて眠りにつく

https://www.youtube.com/watch?v=_Zm9sUlP58w

 

 

映画談義: 『鞄を持った女』、イタリアン・ネオ・レアリズモの黄昏

映画『鞄を持った女』のチラシ制作。

1964年東京オリムピックの年、ぼくは高校二年生だった。美術の時間に「レコード・ジャケットか映画チラシを作る」という課題があって、授業の直前に公開から数年遅れで名画座(大毎地下)で観た61年公開のある映画のチラシを作っていた。美術の授業は週に一度、二時間続きに行なわれていたと思う。

映画のタイトルは『鞄を持った女』、主演:クラウディア・カルディナ―レ、ジャック・ペラン、監督:ヴァレリオ・ズルリーニ。夫を喪って場末のクラブで働く女性歌手(カルディナーレ)が遊び人の男に棄てられる。男の弟(ペラン)とこの女性との「よくある話」なのだが、この弟に感情移入したぼくはこの映画にエラく入れ揚げていた。出来上がった映画チラシにクラスの女子がヒソヒソ会話をしていたが、その内容は知らない。聞けばよかった、作品を残しておけばよかったなぁ~、と後悔している。briankim_1[1]

この監督が『激しい季節』で世に出た人で、本作の後『家族日誌』 『国境は燃えている』などで有名だと知ったのは、後年のことだ。

主演女優:クラウディア・カルディナーレが『刑事』のラストシーンの「アモーレ、アモーレ、アモーレ、アモーレ・ミオ♪」のメロディーをバックに、逮捕された夫が載る警察車を追い駆け続ける女であることや、『若者のすべて』 『ビアンカ』 『ブーベの恋人』 『山猫』など大物監督の秀作で有名な女優だと知るのもその後の映画三昧の日々からだ。いずれも公開当時、日本でも評価され、彼女はCCの愛称で人気を博した。

ジャック・ペランの名を目にしたのは、コスタ=カヴラス監督の『Z』(69年)『戒厳令』(72年)での製作者としてのクレジットだった。そこで、彼が左翼映画人だと知り、89年には『ニュー・シネマ・パラダイス』の主人公の中年映画監督役で、『鞄を持った女』の弟のその後に再会したような気分に浸ったものだ。まるで、映画監督になった主人公がもう一人の主人公=クラブ歌手の画像を観ているようだった。

『鞄を持った女』 は、戦後イタリア映画(1945~50年代の『靴みがき』 『自転車泥棒』 『戦火のかなた』 『ローマで夜だった』 『にがい米』なども含めたイタリアン・ネオレアリズモ)の系譜の面影を辛うじて保持している最後の映画作品群の一つだったように思う。その系譜は消えて行き、ピンク喜劇・イタリアン史劇・イタリアンホラー・マカロニウェスタンに席巻され、アントニオーニ『情事』『太陽はひとりぼっち』、パゾリーニ『奇跡の丘』『アポロンの地獄』他の「芸術派」が気を吐いたが、イタリア映画産業は斜陽へ向かう。

カルディナーレに限らずヨーロッパの大物女優のハリウッド進出(?)が試みられたが、ヨーロッパ自国での美と刃と輝きとを、ことごとくハリウッド・ナイズによって損なわれ失意に在ったと思う。カルディナ―レも同じ道を辿ったと思う。

『鞄を持った女』 はぼくを映画好きに導いた作品だが、図らずも戦後イタリア映画DNAの名残りが消え去る画期に位置していた。『ニュー・シネマ・パラダイス』の主人公の中年映画監督が、ラスト・シーンで試写室のスクリーンに映し出される、遠い日に教会に検閲カットされたラヴシーン・フィルムの数々を観るが、それは帰っては来ない戦後イタリア映画への切情だったと想う。戦後が、戦後の経済と文化が、間違いなく米主導秩序に差配されて行く時間であったことへの異論であったと想う。

 

☆文中の映画作品

『激しい季節』(59年、ズルリーニ監督、エレオノラ・ロッシドラーゴ)

『鞄を持った女』(61年、ヴァレリオ・ズルリーニ監督、クラウディア・カルディナ―レ、ジャック・ペラン)

『家族日誌』(64年、ズルリーニ監督、マストロヤンニ、ジャック・ペラン)

『国境は燃えている』(66年、ズルリーニ監督、マリー・ラフォレ)

『刑事』(59年、ピエトロ・ジェルミ、カルディナーレ)

『若者のすべて』(60年、ルキノ・ヴィスコンティ監督、アラン・ドロン、カルディナーレ)

『ビアンカ』(63年、マウロ・ボロリーニ監督、ジャン=ポール・ベルモンド、カルディナーレ)

『ブーベの恋人』(63年、ルイジ・コメンチーニ監督、ジョージ・チャキリス、カルディナーレ)

『山猫』(64年、ヴィスコンティ監督、バート・ランカスター、カルディナーレ)

『靴みがき』(46年、ヴィットリオ・デ・シーカ監督)

『自転車泥棒』(48年、デ・シーカ監督)

『戦火のかなた』(46年、ロベルト・ロッセリーニ監督、)

『ローマで夜だった』(60年、ロッセリーニ監督、アンナ・マニャーニ)

『にがい米』(52年、シルヴァーナ・マンガーノ、ラフ・ヴァローネ)

『情事』(60年、ミケランジェロ・アントニオーニ監督、モニカ・ヴィッティ)

『太陽はひとりぼっち』(62年、アントニオーニ監督、マルチェロ・マストロヤンニ、モニカ・ヴィッティ)

『奇跡の丘』(64年、ピエル・バオロ・パゾリーニ監督)

『アポロンの地獄』(67年、パゾリーニ監督、シルヴァーナ・マンガーノ)

『Z』(69年、コスタ=カヴラス監督、イヴ・モンタン、イレーネ・パパス、ジャン・ルイ・トランティニアン)

『戒厳令』(72年、コスタ=カヴラス監督、イヴ・モンタン、レナート・サルヴァトーリ)

『ニュー・シネマ・パラダイス』(89年、ジュセッペ・トルナトーレ、フィリップ・ノワレ、ジャック・ペラン)

映画談義: 下重暁子『家族という病』と、是枝裕和にとっての「家族」

熊沢先生が、ベストセラー下重暁子著『家族という病』に噛み付いた文章(http://kumazawa.main.jp/?p=379「家族という病」の耐えられない軽さ)を読んで思った。
戦後「家族」・現在「家族」への異論は、家族を避けるあるいはそれを「他人事」として扱う視座からは、総論としての異論たりえない。国家へと収斂される「お上」(オールド社会主義の党や国家を含む) 発の家族観からでも、個人主義の側からの「個家族」思考からでもない、ある展望を内包した家族に塗れることを通してしか見えて来ない「真正家族異論」=「家族~社会」への総論を築きたい。それは「病」ではなく「宿業」なのだ。

「病」は予防や治療や特効薬もあるかもしれない。晴らすこともできる。けれど「宿業」はそこに拘り溺れそれを背負いそして超えるしかない。朝鮮語がいう「恨(ハン)」のように。


その辺りの「業」に在って、下重とは違うアングルから「家族」を見つめ拘ったのが是枝裕和ですよね。
「幻の光」95 「誰も知らない」04 「歩いても 歩いても」08 「空気人形」09  「そして父になる」13 「海街diary」15 
「海よりもまだ深く」(この5月21日公開)… 全部そうですね。海よりもまだ深く

http://gaga.ne.jp/umiyorimo/

 

「アジール 空堀」 : 映画上映会 『シャトーブリアンからの手紙』

「アジール 空堀」5月8日(日)、『シャトーブリアンからの手紙』上映会。

(著作権(有)ムヴィオラ様に上映料支払います。海賊上映会ではありません。)参加者32名。

 

シュレンドルフ監督インタヴュー:

彼らは善意を持った人間だった。完全な悪人はいなかった。しかし、それでもなお虐殺は行なわれた。それが重要です。

 

メッセージ性の強い物語は、時に、「劇的構成」・「劇的人物」・「強調を超えた誇張」、つまりは「神話」を必要として迷走する。この映画はそこから隔たっていたいという固い意志に貫かれていた。監督の上記の言葉とこの映画の作風と言うか作法には、いささかの齟齬も無い。観終わって時間が経てば経つほど、その想いが強くなるだろうと思う。

 

パンフにあった言葉を見て、ワシらは隣国を初めとしてアジアの国々との共同作業「アジア近現代史」を定着させる途に着かんとアカンとの想いを強くした。

『ドイツとフランスの和解がなければヨーロッパはない。監督の積年の想いにベルリンの観客は喝采を贈った』

アメリカの大統領候補者(サンダース氏)が「ヘイトクライム」への警鐘と自戒を説いている時代に、ワシらの国は何をしとるのだ!アジール空堀5月8日

 

画像は

上:「アジール空堀」映画科特任助教授:趙博トーク

下:上映会後の食事会。戦前パリの家庭料理をイメージしたメニュウ。

シェフが親戚の元*調教授にも相談して作ったポトフ(?)。もちろん戦時中は肉系などもっと質素だったろうし、シャトーブリアン郡:ショワゼル収容所の食事は想像だに出来ない。

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