映画談義: 2016 今年観た日本映画の秀作たち

今年は日本映画の秀作(公開年度は2014~2016混在)に出会えたな。

【2014年公開】 『百円の恋』(主演:安藤サクラ) 『そこのみにて輝く』(監督:呉美保)、 【2o15年公開】 『駆け込み女と駆出し男』(監督:原田真人) 『さよなら歌舞伎町』(脚本:荒井晴彦、主演:染谷将太) 『恋人たち』(監督:橋口亮輔)、 【2016年公開】 『怒り』(原作:吉田修一、監督:李相日) 『永い言い訳』(監督:西川美和)。

一本だけ選べと言われれば、迷うけれどワシは『さよなら歌舞伎町』を採るね。%e3%81%95%e3%82%88%e3%81%aa%e3%82%89%e6%ad%8c%e8%88%9e%e4%bc%8e%e7%94%ba

歌舞伎町のラブホテルを舞台に繰り広げられる一日の群像劇。様々な事情を抱えた四組の男女のオムニバス仕立ての物語は、見事に2014年の現在ニッポンの断面を切り取り、男女の事情の裏面に、確実に現社会を描き出してくれる。格差社会・若者を取巻く現実・貧困・弱者・少数者・ヘイトスピーチ社会・3,11に包囲される男女の虚実と痛い愛を描き、その交感に「抵抗」への根拠地を探そうとする。

その作者の構えに、ある時代に通底する「匂い」を嗅いだのはワシだけではあるまい。だが、そこは、その時代より数十倍厚い包囲網下なのだ。若者が、理屈やヤル気や努力、理想や誠実が無化されて行く現実を知ってしまっている枯野なのだ。

飲食店で働き資金を作って「国」に店を出すという夢を持つ男は、資金が溜まらぬ現実に「金ある女」相手に男娼として「アルバイト」している。男が付き合っている、「国」でブティックを開業したい恋人は、不法残留から近々帰国予定だが、男に仕事内容を偽り実はデリヘル嬢。二人は韓国から出稼ぎに来ているのだ。互いに相手の裏業を知らない。

男は、疑念から眠っている彼女のバッグを探り、彼女の商売用の名刺を見つける。彼女の最後の出勤日、指名を受けてホテルに「仕事」で入室し、男の客に目隠しをさせられる。浴槽で体を洗われているうち、彼女は男が誰であるのかに気づく。身を震わせ号泣して詫びる女、実は・・・と、自分の裏業を告げる男。 震えて抱き合う男女の向こうに、現在(いま)が詰まっていて哀しくも美しいシーンだった。

観て、おおお~これは・・・と思ったら、脚本:荒井晴彦ではないか。%e8%8d%92%e4%ba%95%e6%99%b4%e5%bd%a6

荒井晴彦。ワシと同じ1947年生まれ。早稲田大学文学部をあの時代に中退(なるほど)。若松プロ出身。「映画芸術」編集長。

【脚本】『赫い髪の女』『遠来』『KT』『ヴァイブレータ』『やわらかい生活』  『大鹿村騒動記』『さよなら歌舞伎町』『この国の空』(監督も)

荒井晴彦が、フジTVが大宣伝を繰り広げ無理筋のヒットをさせた大駄作『踊る大捜査線』に噛み付いた発言を、過日ブログにアップしたものを再録する。脚本家荒井の、あの時代に早稲田を中退し、若松プロに参加した者の矜持がよく現れた発言だ。

先日、「日本映画専門チャンネル」で『 「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたか』なるリレー・トークを観た。10人の「映画通」が語っている。多くは、肯定・映画の敗北・当然の帰結・観客が選んだ結果だ・これも映画だ・・・・、との「現実追認」に終始している。

その中で、雑誌『映画芸術』編集長:荒井晴彦だけが「まとも」なことを言っていた。気になって、各発言の採録である番組と同タイトルの新書(幻冬舎新書、¥800)を購入した。

以下に抜粋する。

『結局はフジテレビのプロモーションの力でしょう』 『テレビが勝ったのではなく、映画がダメになったのです』 『映画自体が乗っ取られた』 『映画館の大きなスクリーンでテレビドラマを映しているのと同じです』 『僕らの年代は』 『なぜこんなものを映画館でやっているんだというような違和感を抱く』 『若い人たちはその違いを知らないから、何のわだかまりも無い』 『「踊る」以降は「映画の監督がつまらん作家性なんか出すより、テレビのスタッフが映画もやったほうがかえって当たる」というわけです』 『「踊る」の亀山プロデューサーは』 『「なぜ彼や彼女は犯罪を起こすに至ったのかを描かなくていい」と言ったそうです』 『「犯人のバックグラウンドを描くな」ということです』 『「踊る」以降の作品に描かれる犯罪は、「たまたま、ただのヘンな人が暴発したからおこったこと」になってしまった』 『犯人が捕まったらそれで終り、それで解決でいいということです』 『よくテレビでは「小学生でもわかるような表現じゃないとダメだなんだ」という言い方をします。でも僕は万人にわからせることだけがすべてではないだろうと思う』 『100人のうち10人がわかればいいという映画があっていいと思う』 『わかるのは二人ぐらいでいいんじゃないかと思うし、さらに言えば、たった一人でもいい。究極的には、作った俺さえいいと思えればいいんだ、とも思います』

『見やすさだけ、わかりやすさだけが最優先されるのは、本当にいいことなんでしょうか』 『もちろん徹頭徹尾そういう作り方ではまずいけれど』 『すべての映画を、黙って座ってボーッと見ていてもわかるものにするのはどうなのか』 『今は、観客の側が勉強して映画を理解する文化がなくなってきている』 『こうなったのは、作り手のほうが、「勉強しなくいいんだよ、考えなくても楽しませてあげるよ」と言ってしまったからです』 『監督や原作の作家が、何を描こうとしていたのかを知ろうとして、その作家の生い立ちなどを別の本で調べたりするうちに、どんどん映画に深くはまっていくこともあった』

『作品に匿名性のようなものが生れて、似通った作品ばかり』 『作品に個性がないから、顔がみえない』 『そもそも映画は「娯楽」と「芸術」という、相反する要素を持ち合わせたもので』 『作り手は、芸術であるとまでは言わないけれど、全くの売り物だとも思っていなかった。「商品」と「作品」の間で行ったり来たりして、悩んでいました』 『今の若い作り手たちは違います。彼らは自分のやりたいことを通すというよりは、お客さんを入れることを第一に考えるようになった』

『僕は昔からお客様は神様だと思ったことは一度もない』 『神様はバカ様になった』

『映画館の闇の中で、僕たちは人生を変えるような、魂を震わせるような何かと出会うことが出来た』

『今の映画は、ヒットすることと引き換えに、そういった陰影や多様性を切り捨ててしまった』 『亀山プロデューサーは』 『勝つにはどうしたらいいかを考えて、その結果勝ったのはすごいことです』 『平野謙という文芸評論家が「畢竟、文学とは我を忘れさすか、身につまされるか、ではないか」と言っているのですが、映画もそうじゃないかと思います』

『我を忘れさせる映画の典型が「踊る」でしょう』 『映画館を出たら、ああ面白かったとその映画も忘れてしまうのではないか』 『僕は、身につまされる映画を作りたい』『人に忘れられない映画を作りたい』

『文学や映画をエンターテインメントこそすべてとその枠に押し込めることで、そこにある生き方・考え方・価値観を揺り動かす力を捨ててしまうのはあまりにも惜しい』

荒井の、いまどきの映画と観客への言い分は、そのまま映画『踊る』への、『踊る』登場人物への異論となっている。それは、現実への視点を欠き(欠かざるを得ない)、現実「回避・逃亡」に終始する、CG満載の近未来絵空事や有り得ないパニックにしかドラマを構成できない米映画作家の今日的立ち位置、その亜流たる日本映画への異論であり、同時に米帝国とグローバリズムへの鋭い文明批評として聞こえて来る。『踊る』の主旋律はこうだ。主人公と彼を取り巻く人物たちの「無自戒」、映画の製作者・監督の「勘違い」、観客たちの反応に見える「軽薄」・・・。とりわけ織田祐二演ずる主人公青島が、柳葉敏郎演ずる同世代キャリア上司:室井に言う下記の科白には反吐が出る思いだ。記憶は曖昧だが、その趣旨は概ね以下のようなことだった。                                                                                       「ぼくら下の者は、上がシッカリしてくれていて努力できるのだ」「だから、上は上でそれを汲み取って出世してもらわないと」                                                                                            一部でキャリア・ノンキャリアの垣根を越えた「解り合い」だとか、働く者の気持ちを「言い当てている」と言われたりしたが、果たしてそうなのか?                                                                  ノンキャリア組の心情がそうした諦念(荒廃?)の中に在るという、今日的職場風土を示す皮肉だと言うのなら頷けもする。 だが・・・、青島君は、明るく元気で、自己と職場を全面肯定しつつ嬉々として、そうした処世感の「確信犯」として立つのだ。

徹底して荒井とは違う立ち位置だ!

 

 

 

 

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