つぶやき 「自由自治元年」

1980年NHK大河ドラマ 『獅子の時代』「自由自治元年」・・・。
「自由自治元年」の旗をなびかせ野山を街を駆ける、在り得べき無数の菅原文太たちのラストシーン。
NHK大河ドラマにも「もうひとつの明治」構想を問うたのがあったんや。と思ったら脚本:山田太一、主演:菅原文太・加藤剛やった。
この150年を1945年を折り目にして、パッタンと折れば、75年前は1870年=明治3年。

その75年は殖産興業・富国強兵・(不)名誉白人のアジア侵略の歴史。
75年後は2020年。その75年は、敗戦からの国体護持・擬制民主主義・親米ファシズム国家への負の道程。
「日本を取り戻す」と叫ぶ人びとよ、取り戻す、いや打ち立てるべきは「自由自治元年」!

アジール空堀 趙博:声体文藝館『水滴』

交遊録:【インター考 :10.21 某発言へのパギ吠えに想う】

 ―歌の命は作者の想いと利用者の思惑を超えて、それを歌う者たちが作って行くのだ―

パギのFB タイムラインで10月21日の円山集会+デモ後の打上の席での出来事が出ていて驚いた。

『円山公園「10.21国際反戦デー集会」打ち上げの席で「もうインターナショナルは歌わないでほしい」と某元大学教授。俺は、即、怒鳴り上げた(怒!)たわけ!俺らは死ぬまでインター歌うんぢゃ、ボケ!こういうリベラル…タチ悪いねん(怒!)(怒!)。何でこんなアホ呼んだんだ?』

ワシはアホな自責事故で肋骨5番6番にヒビが入って激痛(後日、骨折と判明)、当夜は不参加でその場に居なかった。翌日、パギFB頁が浸透する頃、ワシの耳にも教授がどなたなのか伝わって来た。ワシの知る人だ。
ワシの知る限りパギも元教授もその場に居た人も、例えば下のコメント欄に転記させてもらうNさんの映画『残像』(アンジェイ・ワイダ遺作)に関する文章の趣旨と意味を共有できる人々だ。
またその人々は、「インター」を教団歌扱いして崇める者でも、意図してか無自覚かによらず自己の存在証明目的で唄って来た者でも、歌うことで「国際連帯」の輪の中に居ると思いたいようなイカサマ野郎でもない。
パギが「インター」を歌う時に見せた(いまはどうか知らんが)照れに近い表情や、やや軽妙に唄う姿と歌唱の向こうに、ワシは「インター」への愛着とそれを半ば隠すような「心情」を感じ、何やら親近感が湧いたものだ。
パギはどうか知らないがワシの場合その心情は、自己分析するに「インター」への愛着と疎意、つまりは己の政治過程の明暗(明は無いのだが)・光と陰を除外したのでは見えて来ない性格のもののような気がする。
パギに「朝鮮語のハン(恨)にやや近いかもしれない」と教えてもらった、ウチナーグチの「あわり」(ヤマトの「哀れ」とは趣意が違う)のように、その情感が向かう対象から、己自身の怒り・歓び・恨み・絶望・悲しみ・熱狂・後悔・失意・私心・邪心・・・を除外しない心の在り様とでも言おうか・・・。
多くの人が「いいね」やコメントを発し、「歌わないで欲しい」発言への糾弾(「頭大丈夫か?」「叩き出せ!」といった激しい言葉も含め)もあった。歌詞カード無しで二番まで諳んじることができると、身に居着いている「インター」への想いを書いている人も居る(パギFB 10月21日23:40記事参照)。
同じくj二番まで諳んじているワシも感想を書いた(パギFBのコメント欄に在る)のだが、前述した「心情」に基づいている。

その前提で「インターナショナル」の経歴を改めて覗いてみた。
パリ・コミューン(1871年)の直後に参加当事者ウジェーヌ・ポティエによって作詞される。
当初ラ・マルセイエーズの曲に合わせて歌われていた。
1888年に新たな曲(現在のメロディ)が作られた。
20世紀に入ると労働歌・抵抗歌として各国語が付き拡がり各国で歌われた。
1917年ロシア革命が成功すると、翌1918年、国歌に採用される。
1944年に新国歌に代わるまでスターリン世ソ連の国歌であり続けた(これはあまり知られていない)

二番まで諳んじているというコメントにパギは「わしらの世代のサガ(笑)」と返しているが、実に世代というものの意味に気付く。
某教授-ワシ-パギはそれぞれ約10歳差だが、「インター」との出会い、その後の付合い、その各時代の背景が大いに違う。歌は世につれ世は歌につれ、というが「インター」はひとつだ。団塊世代のワシらの世代は前述したワシような「インター」観と、武勇伝野郎や陰無く「インター」を歌い続けたいわゆる「勝組」と、ひと度は歌いはしたが以後全く歌わなかった総懺悔の「負組」、当時も今も元々無関係な御仁など様々だ。10年下の世代の「心ある」後輩が視て感じた風景をワシはよくは解からない。が、
ふと想う。「わしらの世代のサガ」に即して言えば、某教授の世代の「サガ」もありはしないか?
六全協、60安保、大量除名┅の世代、「インター」が個を圧す「正しい」ドグマの一部を構成して迫り在った世代のサガもあるかもしれない。
某元教授は舌っ足らずにして、場と時が不適切やなぁ。よほどインターへの疎意を抱えて来られたのだろう。
けれど、今「インター」を歌ったばかりの人々を前にして、これを言いますか?
別の場面で「康介君、ぼくは想うのだがね」と、インター観及び当時の教条の愚を語って下されば、ワシは聞けたと思う。
『円山公園「10.21国際反戦デー集会」打ち上げの席』とは、ちょっとマズイな。パギが吠えるのも、多くの人が普段使わない言葉を用いて怒るのにも故はあると思う。
寅次郎もビックリの、先生の「学者バカぶり」が哀しい。

先生がどうかは知りませんが、「君が代」を歌えない・歌わない者がいるように、各種の理由で旧ソ連国歌「インター」を歌いたくない者がいることは理解できる。

そして想う。先生の想いと当日会場で歌ったパギを含む者たちのハートは、断じて共同の内に在る、と。

ほろ酔い交遊録:All That Jazz 2018 西成難波屋

【最高の一夜 9月22日(土)】
パギやん&板さん『All That Jazz 2018』 於:西成「難波屋」。
のっけから趙博のオリジナル曲で一番好きな(と、昔、彼に伝えたことがある)『合わせ鏡』だ。聴く度に逝った友・先輩・仲間と、その時間が込み上げ苦し懐かし痛いのだ。けれど、この出だしから今夜がワシの為のライブだと勝手に思えるから不思議。
続いて、
ワォ~、北原ミレイ『石狩挽歌』ジャズ風アレンジにはド肝を抜かれた!
ワシの大好きな歌でして(それがどうした?)、カラオケでよく歌うのだ。
歌詞の「わたしゃ涙で 娘ざかりの 夢を見る」に圧倒され、「今じゃさびれた」「ニシン御殿」のその背景の作詞者なかにし礼さんのご実兄の波乱の生涯が思い出され万感迫るのだ。これが、ジャズに・・・?
どうなるのやらと息を呑んで構えた。果たせるかな、パギ+板橋文夫のジャズ風『石狩挽歌』は圧倒的だった。足元から震えるような曲と歌唱だった。隣で感極まった女性がボロボロ泣いている。こう料理されては、なかにし礼さんも作曲者浜圭介さんも北原ミレイさんも文句はないだろう。
ビリー・ホリデイ「Strange Fruit」、数十以上あるというアリランに関する未完の「アリラン考」を書くぞとの表明をして歌った「アリラン」も秀逸だった。
終盤歌った「ヨイトマケの歌」は、これはもうパギの独自域だと言える。その云わば「当事者性」は、同じく近似の世界を抱える聴衆の胸に刺さり、**さん、++さん、〇〇さん、などが今夜もボロボロ・・・、歌唱と聴衆が一つになっていた。歌の力だ。
板橋文夫さんの「渡良瀬川」は聴くこと二度目だが、川の全体を写術的を超えて力強く繊細に表し、音楽に不案内なワシにも届いた。圧倒されます。

9月初めに鶴橋の焼肉屋に駆けつけてくれ相談に乗ってもらった、来日中のカミ・ニルソン(25年前の不法対滞在10年のイラン人:カームラン・タビビアン)君が、「22日は約束があるから」と「魚+寿司」の店の研修仕事をオフにしたので「何?」と訊くと、「あなた忘れたの?チョーさんだよ」と憶えていて催促され脚を引きずって今夜彼と参加したのだった。
そう言えば、助言をもらったその席でパギが「22日空いてたら来はったらよろしいねん。3年前訪日時に釜に投宿してたんなら西成警察しってまっしゃろ。あの近くですわ」とチラシを渡したのだった。約束だと言うカミ君も誘ったパギも律儀やのう。お陰で最高の夜を満喫したよ。おおきに・・・!
どうしてもPhoto を撮って、と言うカミ君の希望でパチリ、画像右下の一葉。

アジール空堀:『ゆきゆきて 神軍』上映会+原一男監督講演会

【「ゆきゆきて 神軍」上映と、原一男監督講演】9月17日 13:00~
谷六「小劇場 ほっとすてんしょん」参加者:35名

楽しくスリリングな集いでしたね。
昔観た際は、「ゆきゆきてブーム」「奥崎礼賛」の洪水下での「他の観客」への違和感を抱いていた。想えば、思い上がった感情だったか。
齢(70歳です)相応に相対化されてか、講演での原さんの懐の深さに救われてか、その感情が随分薄まったのを自覚できました。
当時の他の観客への思い上がった感情というのは、概ね下記の二点のようなことでした。


「大きな暴力」に対する暴力的抵抗の正当性を力み返って主張している君、
ワシも君とこころを同じくするものだ。ほぼ異存はない。
が、暴力の重量と自己嫌悪を理解することのない軽さの文脈で語って欲しくないのだ。
理不尽な暴虐への、弱者の抵抗権としての反撃の暴力を認めつつ、暴力を超えたいと希うワシです。奥崎氏にもそれを観たのです。
暴力、ワシにとってそれは永遠の未解決事項だ。
軽々しく礼賛されては辛い・・・そんな想いだった。


奥崎氏に糾弾される側の者たちを、卑劣漢・上からの言いなり野郎として自分とは無縁な者たちだと断じて、ハイ終了という視角に違和感があった。
彼らを「戦争の被害者」だとして一斉救済する気などは一切ないのだが、父・叔父つまり自身の肉親であったとしても不思議ではない者たちだ。自分であるかもしれない。
「視た・体験した」事実を伝えるべきだ、と強く想う。それが責任だとも思う。だが、
君は、職場で・部活で・居住域で・組織/団体で・党その他で
上や周りや慣例や空気に抗って人権を巡る自説を通そうと試みたことがあるか?あるいは為したことがあるか?

他者をその属性でステレオタイプに評価し、自身の帰属を求めて彷徨する精神に生き、帰属する組織/団体への属性を決して捨てることなく、指示・命令に抗うことのない時間。
そして奥崎氏の元上官の中に自身を観ることの無い文脈で奥崎氏の上官を語るな!そう想った。

ところでお前はそうして来たか?しているのか?と問われれば、ワシはもちろんその自信はないのだ。
『ゆきゆきて 神軍』はその意味で「しんどい」映画だったが、原監督の講演は、そうしたテエマに立往生するワシらをユーモアを交えて解きほぐしてくれた。そして一夜明けてジワリ迫って来るものの正体から逃げられない。

ほろ酔い交遊録:カミ君続報③

【私事 カミ君その後】

デンマーク人:カミ・ニルソン(元イラン人:カームラン・タビビアン)。
カミ君は神の子か (笑) !? 1990年代に10年間 不法滞在イラン人だった時も驚きの強運で、次々と難題を乗り越え生き延びた(92年我が社{ 施工業の労組自主経営企業の飲食事業部 }にバイトで勤務)が、今回も多くの方のご尽力で魚卸業社が出している店、それも本人の希望通り「魚料理と寿司の店」で見学・研修させてもらうことになった次第。
デンマーク(ホテルの食堂に勤めている)へ帰ったら、将来寿司店をやりたい。日本人の妻が欲しい(?)・・・と永年の夢を語っている。
趙博さん・呉光現さん・川瀬俊二さんやワシの友人、多くの方から助言をいただきました。北摂ユニオンの江坂セントラルホテル争議以来の付合いの河崎さん・茨木で居酒屋「ゆんたく」を経営していた黒肥地さんに店を紹介いだだいたのです。特に黒肥地さんにはご尽力いただきました。彼女は「茨木ゆんたく」閉鎖後、「井上水産」という「魚料理と寿司の店」にパートで入ってます。自身の職場に引き合わせてくれたわけです。店もよく受容れて下さったことです。カミ君がいい加減だったら彼女の信用にかかわるのです。みんな、カミ君の人柄を認めてくれたのでした。
がんばれ、カミ。
井上水産様・黒肥地さん・河崎さん、本当にありがとう!

帰国する月末まで、短期間ですが「井上水産」に居ますので、この間相談に乗って下さった方々や、1990年代の不法滞在イラン人としての彼を知る人も、もし時間あれば是非訪ねてやって下さいね! 23日(日)・28日(金)は確実に居ります。地図付けときます。

【画像】
*上左:黒肥地さん非番の日にお店に依頼してくれたの図
*上右・中左:カミ君勤務風景。
*中右:勤務後数人のお客さんと歓迎会
*下:デンマークの勤務先で職場仲間と

 

ほろ酔い交遊録:カミ・ニルソン大阪滞在記②

9月11日。
デンマーク人:カミ・ニルソン(元イラン人:カームラン・タビビアン)君の
大阪滞在記続編。
市内である集まりがあり、ワシはその会の後カミ君と食事する予定だった。
会が終わり呑み会に参加するに当たり、たまたまその集まりで、難民・国民国家・民族・EU・貧困・外国人労働者・自主管理社会主義などの言葉が出た会だったので、カミ君の同席を申し出たところ了解をもらった。心斎橋から向かったカミ君は、多少迷ったが昔(1990年代)オーバー・ステイ数年のイラン人としてキタもミナミも知る土地勘を活かし程なく到着。(カミ君は、ワシらの労組自主経営企業体で92年から短期1年半バイトをした。長い詳細は先日9月6日投稿済ゆえ割愛)
デンマークでは「言語」「社会常識」のスクールに通い、政府指定の社会奉仕的作業に就けば生活出来る程度の収入と住居が提供される。4年間続ければ「国籍取得」出来る制度がある。カミ君は、あと数か月後晴れて国籍取得だ。いま、そのスクールはシリア人で溢れているという。

ほろ酔い交遊録:【奇妙な寄合い】~国境・民族を超えて~

【奇妙な寄合い】~国境・民族を超えて~
デンマーク人(90年代半ば日本在オーバーステイの元イラン人):カミ・ニルソン51歳。
在日朝鮮人二世(浪速の歌う巨人パギやん):趙博61歳。
「アジール空堀」世話役(25年前、カミの雇用主):橋本康介70歳。
日本人(国籍取得 元イラン人、京大卒、貿易商):ムハンマド・シャジャリ60歳。
*シャジャリ氏とは、清真人氏の紹介で30数年前に知り合った。

1977年スタートしたワシらの労組自主経営事業体が、店舗設計施工という本業以外に1990年代に居酒屋・他の経営にも手を伸ばしていた時期。
93年たまたま知り合ったギリシャ人(当時の自称)を飲食部門のホール係バイトで雇用した。カームラン・タビビアンという。彼はよく働き、上司にも仕事仲間にもお客さんにも好かれ1年強働いた。ギリシャ人の自国呼称:エリニキを知らず、他国の者だとワシにバレた。訊くと、オーバーステイのイラン人。当時20代後半のイケイケ外人。
書き切れない量と事情のいきさつを経て、ワシらの事業体を去って数年後、ワシらの本業と関連事業が破産(98年)したころ、自ら入管へ出頭し自費でイランへ帰国した。
2014年2月、ワシの携帯に彼から電話。何と、デンマークから。デンマーク国籍取得を目指し「語学」「社会常識」のスクールへ通い、政府指定の作業をして住居と給与が与えられる。
2015年に「たこ焼き」「お好み焼き」「焼きそば」のレシピ研究だとかで来日。その時はあと二年で国籍取得だと言っていた。今、デンマークでは国籍取得スクールには圧倒的にシリアの人が多いという。う~ん・・・。
その彼が先月の彼の懇願に応じて発した、ワシの「招請状」「身許保証書」で、またまたやって来た。今回は「寿司を知りたい」だ。あと数か月で国籍取得らしい。どうなることやら・・・。
で、顔の広いパギ、イラン人保護の通訳もしているシャジャリ氏(カミの相談役を押し付けた?)、ワシ、カミの会となった。ミナミのゲストハウスに投宿するカミの支援を話し合った。
趙さん、シャジャリさん、お忙しい中ありがとう!

Ken Luckbook

おー懐かしい!シャジャリさん。彼の兄も一緒に北新地で飲みましたね。シャジャリさんとは数年前まで年賀状を交わしていましたが・・・カミがいた南のバーに行もきましたね。もう20年になりますか・・・?

 

橋本 康介  研ちゃん。

諸事情(言葉の問題、他のバイトとの行き違い、その他)で、ワシらの企業を辞めた後、彼独特の「人懐っこさ」を武器に「支援者」を得てミナミの小さ店舗を「又借り」できて、開店したのが何と「ギリシャ・バー」(笑)。壁にはエーゲ海の碧と海岸崖の白い建物の絵が掛かっていたねぇ。まぁ、インチキと言えばインチキだが「エーゲ海気分」でカクテルでも呑んだ客は別に不快には思っていないだろうから「OK」なのだ。

トマトとルッコラ(かな?)とキノコにチーズがたっぷり入ったギリシャ・オムレツというメニュウもあって、なかなか美味しかった(笑)。

ワシは実のところ、不法滞在だった彼の知恵と工夫を全く怒ってはいない。尻拭いした案件(**関係、ヤバイこともあった)も多少はあったが、むしろ出会いに感謝している。けど、ギリシャに詳しい客が来たらどうすんの?と不安だったなぁ~。

駄エッセイ:『年をとる・・・。それは己が青春を 歳月のなかで組織することだ』

交遊録:川口真由美 サンダルの緒を切らすの巻。クラウデイア・カルディナーレ

ちょっとコーヒー・タイム
【君は C.C. を知っているか?】

『サンダルの鼻緒切らして京三条 裸足が掴む かの浜の熱』

サンダルの緒を切らした川口真由美さんが、履物店を探して裸足でアスファルト路を歩く顛末がFBに投稿されていた。
裸足が似合う女優(1960~70年代のイタリア女優)クラウディア・カルディナーレを思い出し、返信したら「C.C. 知らないんです。調べますね」。そうか、うちの娘と同世代のはず、知らないわけだ。このC.C.さん、川口さんにちょっと似てるとも思うので、調べさせるのも申し訳なく下記にワシがまとめまっさ。
往年のイタリア映画への未練の情ですな。

【C.C.資料】(まとめbyワシ)
1950年代前半デビューのフランス女優ブリジッド・バルドーをB.B. (Brigitte Bardot)と呼んだのに対して、遅れること数年、1959年『刑事』ラストで「アモーレ・アモーレ・ミオ」のテーマ曲が流れる路上、逮捕され警察車で護送される愛人を追い続け走る女の役で、世に認められたイタリア女優クラウディア・カルディナーレをC.C. (Claudia Cardinale)と呼んだ。
(両者の年齢は4歳違いと聞いている)
いずれも戦後女優の枠を超えていた。B.B.が道徳や規範を超えたいフランス現代娘の、奔放さをやや退廃的に都会的に打ち出した女優だとしたら、C.C.は戦後間もない頃のイタリアン・ネオリアリズム映画群(戦後直後の『無防備都市』『戦火のかなた』『自転車泥棒』『揺れる大地』他)が変化を遂げる曲がり角に登場した、それらの映画の主人公たちの云わば「思想的」「階層的」な子弟を映し出す、野生派とか場末派と称された女優だった。
大雑把に言って(大雑把は嫌いなのだが)B.B.が中産階層子女の反逆を体現していたとしたら、C.C.は下層階層・労働者層子女の強(したた)かな庶民的な生命力を体現していた。
画面で素足だったかどうか記憶は曖昧だが、『刑事』のラストシーン、『鞄を持った女』の海辺のシーンは、ワシの中では素足でなければならないのだ(笑)。それほど素足が似合う女優さんだった。

代表作品:
『刑事』(1959年、ピエトロ・ジェルミ監督)
『若者のすべて』(1960年、ルキノ・ヴィスコンティ監督)
『鞄を持った女』(1961年、ワシの青春の一作です)。
『ビアンカ』(1961年、19世紀末フィレンツェの娼婦。相手役はベルモントだった)
『山猫』(1963年、ルキノ・ヴィスコンティ監督。ランカスターの渋さにKO)
『ブーベの恋人』(1963年、ブーベ役はジョージ・チャキリスだったな)

この後、ハリウッドに進出して多くの作品(「ピンクの豹」「サーカスの世界」「プロフェッショナル」「ウエスタン」他、)に出たが、ハリウッドはC.C.を消費され消えて行く女優の一人としてしか見ていなかった。登場人物的にも、役者的にも目ぼしいものはない。彼女にのみ責任が有るのではなく、イタリア映画界自体の斜陽化・衰退が進みイタリアン艶笑劇・ポルノまがい映画・エログロナンセンス物が続いた。イタリア映画よ どこに行った?という時代が続く。ハリウッドはヨーロッパ女優の多くを喰い尽くしたとも言える。
大リーグに進出したが、個性と能力を発揮できない野球選手と似ていなくもない。
ともあれ、戦後ヨーロッパ映画最後の女優さんのひとりだったと思う。
ワシのイチ押しの代表作は『鞄を持った女』。続いて『山猫』。

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