アジール空堀:『ゆきゆきて 神軍』上映会+原一男監督講演会

【「ゆきゆきて 神軍」上映と、原一男監督講演】9月17日 13:00~
谷六「小劇場 ほっとすてんしょん」参加者:35名

楽しくスリリングな集いでしたね。
昔観た際は、「ゆきゆきてブーム」「奥崎礼賛」の洪水下での「他の観客」への違和感を抱いていた。想えば、思い上がった感情だったか。
齢(70歳です)相応に相対化されてか、講演での原さんの懐の深さに救われてか、その感情が随分薄まったのを自覚できました。
当時の他の観客への思い上がった感情というのは、概ね下記の二点のようなことでした。


「大きな暴力」に対する暴力的抵抗の正当性を力み返って主張している君、
ワシも君とこころを同じくするものだ。ほぼ異存はない。
が、暴力の重量と自己嫌悪を理解することのない軽さの文脈で語って欲しくないのだ。
理不尽な暴虐への、弱者の抵抗権としての反撃の暴力を認めつつ、暴力を超えたいと希うワシです。奥崎氏にもそれを観たのです。
暴力、ワシにとってそれは永遠の未解決事項だ。
軽々しく礼賛されては辛い・・・そんな想いだった。


奥崎氏に糾弾される側の者たちを、卑劣漢・上からの言いなり野郎として自分とは無縁な者たちだと断じて、ハイ終了という視角に違和感があった。
彼らを「戦争の被害者」だとして一斉救済する気などは一切ないのだが、父・叔父つまり自身の肉親であったとしても不思議ではない者たちだ。自分であるかもしれない。
「視た・体験した」事実を伝えるべきだ、と強く想う。それが責任だとも思う。だが、
君は、職場で・部活で・居住域で・組織/団体で・党その他で
上や周りや慣例や空気に抗って人権を巡る自説を通そうと試みたことがあるか?あるいは為したことがあるか?

他者をその属性でステレオタイプに評価し、自身の帰属を求めて彷徨する精神に生き、帰属する組織/団体への属性を決して捨てることなく、指示・命令に抗うことのない時間。
そして奥崎氏の元上官の中に自身を観ることの無い文脈で奥崎氏の上官を語るな!そう想った。

ところでお前はそうして来たか?しているのか?と問われれば、ワシはもちろんその自信はないのだ。
『ゆきゆきて 神軍』はその意味で「しんどい」映画だったが、原監督の講演は、そうしたテエマに立往生するワシらをユーモアを交えて解きほぐしてくれた。そして一夜明けてジワリ迫って来るものの正体から逃げられない。

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