連載 29: 『じねん 傘寿の祭り』  三、 タルト (7)

三、タルト ⑦

「ネンちゃん、ほれ尋常小学校四年の運動会憶えとらんね?」とウメさんに言われ記憶を辿った。その運動会の日、母親は夕方からの海軍の着任歓迎の大きな宴会の準備で忙しくて来ることが出来ず、ウメさんが来たのだが、母親が来なかったのはその一度だけだったのでよく憶えていた。従業員が多数居て、母が居なくても回るはずで奇妙なんだが、生憎板さんの一人が体調を崩しててんてこ舞いとのことだった。昼食で家族席へ行くと、知らない綺麗な女性が弁当を持ってやって来ていた。ウメさんは「ネンちゃん、わたしの親戚のオバサンたい。いっしょに食べんね」と持参した弁当を横へやり、その綺麗な女性の弁当を開けて並べた。ウメさんが続けて「ばってん、奥さんが作りなさった弁当ば食べんと叱られるけん、オバサンことも弁当んことも内緒たい。ネンちゃん、約束だで」と言った。三人でいっしょに食べたのだった。実に美味いそして手の込んだ弁当だった。他言しないというその約束は守った。一九三七年・昭和十二年の運動会だ。                                                                                                                                     その女性の美しい笑顔と美味かった弁当を思い出せば、丘の下の路面線路の周りの焼け爛れた街を慌しく往く人々の風景も遠くの廃墟も、自分の心も洗われて行くような不思議な感じがしたと言う。ウメさんが、二つ持っていたおにぎりのうち一つをくれた。ウメさんも母親と幼い弟を亡くしていた。もらったおにぎりを手に坂道を降り路面に出て、父母の死亡に関わる気が重い手続きに役場へ向かったのだが、呆然として歩いたはずの記憶が一部空白だ。廃墟の街を歩いた感触、目にした光景・・・、実家の消失と父母の死を受け容れられず心が崩れたのか、ウメさんと話した運動会の弁当とそれを持ってきた女性の笑顔に飲み込まれたのか、その日のその後約一時間の記憶が空白なのだ。                                                                   記憶の映像と音声は、復旧と治療を取仕切る仮設庁舎の、ごった返す受付の喧騒から再起動する。熱く寒いひと月が始まった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

黒川の話を聴いていると、瓦礫の長崎と黒川の孤絶が迫って来て、もらい泣きしそうになって黒川の背に手をやった。その後ろから声がかかった。                                                                                                                                                                                                                              「黒川さん・・・ではありませんか?」                                                                                           振り返るとと、浅黒くて長身、伸ばした髪の毛を後ろで束ねた美枝子より少し若い感じの男が立っている。雑誌で見覚えのある顔だ。                                                                                                             黒川は豹変して、やあ元気かね?すごい勢いじゃないかと笑顔を振り撒いている。それが陶芸家・知念太陽だった。復帰直後の沖縄から福岡の造形美術大学へ進んだ知念太陽が、三年前大学を中退した際に個展を計画、業界ではただ一人黒川だけが支援したらしい。黒川は、君はやがて必ず、全国にその名が轟く人になると言い、周りの無関心を余所に奮闘したらしい。作品も売れ太陽にとって黒川はこの世界への道案内人なのだ。三年経ち、太陽はいよいよ打って出る気になっていた。「地獄に仏とはこのことね。」                                                                                 太陽はその場で黒川を選任マネージャーに決め、二人は東京行きを中止して大阪へ向かった。大阪駅前にあった太陽も関係するグループの事務所を、太陽の口利きで半分仕切ってギャラリーとして格安で使わせてもらった。最初、知念太陽も扱うには扱ったが細々と旧知の作家との回線を修復して、従来のスタイルで臨んだ。大阪郊外の中堅百貨店の作家展に二ブース確保出来た時には小躍りした。                                                                                             やがて太陽は数年後にはそこそこ名が売れ始め。太陽の作品とパンフを持って日本中駆け回った。楽しかった。年々知名度が上がって行く。                                                                                                                                       「子供は諦めていたのよ。私の年齢もあるし黒川の年齢もある。それが黒川五十八、私が三十八の時八五年、子供を授かった。高齢出産の部類ね」                                                                                                                                                                                  「その頃には、太陽はほんとに全国に名が轟く人になっていた。それが、黒川の人生二度目のバブルかな。以来十数年、実質、太陽で食べたのよ」                                                                                                                        「あなたもご存知の店舗付き住宅へ越して、ひろしが生まれ、遠方会場など黒川の管理運営では心配だったけど、私は外へ出なくなった。」                                                                                                知念太陽で忙しくなる時期は、美枝子が管理できなくなった以降でもあり、個展や共同展で太陽との行き違いが続いた。ほとんどが黒川のミスだ。それが原因なのか、やがてメジャーになった太陽は徐々に黒川から離れて行った。九九年太陽が最後にやって来た時、太陽は裕一郎が持ち込んだ比嘉の作品をじっと見ていたという。  

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

連載 28: 『じねん 傘寿の祭り』  三、 タルト (6)

三、タルト ⑥

黒川はまず美枝子を博多に住まわせた。敷金はちょっと立て替えてくれと言われ、もちろん美枝子が出した。次いで黒川は、美枝子を店員として店に採用し、店を二人の物にしようと画策した。妻から業務の実権を奪おうという魂胆だ。なにしろ、黒川は子供の小遣帳程度の数字でも「頭痛が起きる」と把握できない幼児で、運営の全ては妻の手にあったのだ。美枝子も手が出ない。一時、妻と美枝子が同時に店に居ると言う修羅場だったが、すぐに妻は出て行き、手を打った。反撃だ。経理・財務の一切を仕切っていた妻は百貨店を含む各得意先と、黒川が切り拓いたあちこちの作家に夫の非道を訴えた。唐津の某作家のように「百貨店の女店員をたらし込むとは何ごとか!」と引上げる者もあって、幾つかの回線は妻の思惑通り切断されしてしまった。                                                                                                                                                                                        福岡県美術家協会の大物が調停に乗り出し、これといった資産のない黒川が、店の権利と在庫一切を差し出すことを条件に、離婚は成立した。                                                                           

「店の奥の居間で、私たちを囲んで座っている協会のお歴々を前にして黒川が吐いた決め台詞、カッコよかったのよ。しびれちゃうよ」                                                                              「何て?」                                                                                                「いくら何でも恥ずかしいなぁ」                                                                                                        「ここまで言うた以上、喋らんとぉ」                                                                                     「そうね。言っちゃおうかしら・・・」                                                                                              「はい、言うて下さい」                                                                                                                                                          「言うね。こう言ったのよ。『たとえ世界中を敵に回すことになろうとも、ぼくはこの人を採る』だって、クッフフフッ、あーあヒドイ」                                                                                                                                                               「おっと、そりゃ新派以上や」                                                                              「冷や汗が出るわね。いくつになっても昔とおんなじで、歯の浮くようなスローガンに弱かったのね、私」                                                                                                                                                                       そうなのだ美枝子が浪速大に来たと言う前後の「あの時代」、周りには魂に届いたと思えるスローガンやキャッチ・コピーが咲き乱れていた。「全世界を獲得する為に」「一人一党派」「感性の無限の解放を」「連帯を求めて孤立を恐れず」・・・・それは、つまり八方塞がりの「公」的状況と、個的な行き詰まりの「私」的迷路の袋小路を、瞬時にそして大きく解き放ってくれたのだ。美枝子だけでなくドンピシャの言葉には誰だって弱い。「いくつになっても」? 今、美枝子の和服姿を見ていると、その当時の「三十になっても」が「五十八になっても」と聞こえなくもない。                                                                                                                                                                                                                                      博多の妻との二人の子供は成人しており、姉は嫁ぎ弟は大学生だったが、父親には愛想を尽かしていて、彼らは事態を静観していた。店は大衆工芸品や博多の土産物屋に化けて今も在るはずだという。元妻と娘で運営している。その時の大量の在庫は、その理事たちを含む地元の同業者が上手く買い叩こうとしたが、母子はそれを巧みに小出しして捌き、永年食い繋いだという。七七年秋、美枝子と黒川は博多を離れた。                                                                                                                                                                                                                                                                                      「裸一貫とはあのことね。互いに大きなスーツ・ケースを牽いて、三十と五十一の道行きみたいで、ほんとスリリングで今思い出しても楽しかった」                                                                                         「金も無かったんでしょ」                                                                                                                                                  「うん。私が父から貰ったお金が百五十万残ってた。それが軍資金」                                                                                   東へ向かった。東京へ行こうとなっていた。東京には、話半分だと思うけど、同業の古い友人がいて部長として迎えてくれる手はずになっているという。考えたらあれが新婚旅行だった。広島に立ち寄ろうってことになって、宮島に泊って、翌朝原爆ドームへ行くと、黒川の様子がおかしい。                                                                                                                                                                                            父母・叔父叔母、みんな長崎で亡くしたと聞いていて知ってたけど、広島で込み上げたみたいで・・・。                                                                                                                                                                        黒川は「広島でその威力・被害規模も充分知っていたのに、再び長崎に落としたのはより罪深い。アメリカを許せん。もっと許せんのは、降伏を延ばし、沖縄地上戦・広島・長崎を招いた奴らだ」と震えていた。                                                                                                                                                                                                                  海軍少年航空兵だった黒川は、1945年、昭和二〇年春土浦から小松に転属していた。敗戦後すぐ、小松から苦労して汽車を乗り継いで長崎へ戻り瓦礫の街を歩き、実家に辿り着いた。旅館経営していて羽振りのよかった父、一人っ子の自分にいつも優しかった母、二人に親孝行できなかったことが悔やまれるが、見渡す惨状を見れば諦めるしかなかった、と黒川は言った。ただ、実家横の坂道で、黒川の世話係りだった元女中のウメさんに出会って思い出話も出来たらしい。あれこれ話したが別れ際にした話は、何故か鮮明に覚えているという。黒川は搾り出すように語り始めた。                                                                                                                                                                                                                                                                  

                                                                                                                                     

歌「100語検索」 ⑬ <道>

                                                                                                                                                          -それぞれの道-

                                       いろんな「道」がある。アントニオ猪木先生の格言(?)でも「道」が語られていた。                                                         昔、天地真理さんの『思い出のセレナーデ』の熱狂的なファンが身近に居た。彼によれば「あんなに素晴らしい愛が」の「あ~んなに♪」のところが音楽的に素晴らしいのだそうだ。だが、音楽的にどう素晴らしいのかは聞き逃したままだ。作曲は『青春時代』などで有名な森田公一。                                                                                                                                                                                                   03年と日付のある、天地真理さん出演のバラエティ番組があったので採録する。                                                                                                                                           http://www.youtube.com/watch?v=Yrlh6dZ5Ajk                                                                                                                                              文字通り「坂の道」を越えて来たのだろう天地さんの、観音様のようなお人柄に乾杯。                                                        かの天地真理ファン氏は今病床に在る。                                                   復帰を願う! そして、「あ~んなに♪」のところの「音楽的」解説を聞かせてくれ。

『この道』 http://www.youtube.com/watch?v=mGCqo9bpsYo 唐澤まゆ子                                                           『ここに幸あり』 http://www.youtube.com/watch?v=xff3fxfY9PI&feature=related 大津美子                                                                『冬が来る前に』 http://www.youtube.com/watch?v=MOzjNObizXY 紙ふうせん                                                                                                『勇気ある者』 http://www.youtube.com/watch?v=_XYDOoOj63U 吉永小百合                                                                               『想い出のセレナーデ』 http://www.youtube.com/watch?v=HanNMVtafBs&feature=related 天地真理                                                                                                                    『青春の影』 http://www.youtube.com/watch?v=eHSMj2iow9k&feature=related チューリップ財津和夫                                                                                                              『銀色の道』 http://www.youtube.com/watch?v=rBPTU10K7lE ダーク・ダックス                                                                                                      『銀河鉄道999』 http://www.youtube.com/watch?v=-KIboDS4w8M ゴダイゴ                                                                                                『帰り道は遠かった』 http://www.youtube.com/watch?v=DfWaaFBo4kc ザ・ジェノバ                                                                            『 昴 』 http://www.youtube.com/watch?v=47Q2QyymMD8&feature=related 谷村新司                                                                                                        『俺たちの旅』 http://www.youtube.com/watch?v=ubw82mltDgc 小椋佳・中村雅俊                                                                                                         『恋人よ』 http://www.youtube.com/watch?v=_ZkgtU8UoZE 五輪真弓                                                                                                                                       『道』 http://www.youtube.com/watch?v=64kdUTFhvMY&feature=fvw アントニオ・猪木                                                                                 『途上にて』 http://www.youtube.com/watch?v=57LM5Ci-17g みなみらんぼう                                                                                   『若者たち』 http://www.youtube.com/watch?v=uEjmrP014Sw ザ・ブロードサイド・フォー                                                                                            『これが私の生きる道』 http://www.youtube.com/watch?v=uoT5KzkfJk8 PUFFY                                                                                  『ロード』 http://www.youtube.com/watch?v=mt1BMGlhpuI 虎舞竜                                                                 『迷い道』 http://www.youtube.com/watch?v=Ts4oG5S6qDI&feature=related 渡辺真知子                                                                                                  『さくら』 http://www.youtube.com/watch?v=gD5HER0xRlg 森山直太朗                                                                                    女子高生の卒業式に招かれ唄った、森山直太朗 『さくら』。  う~ん、****してしまって困った。                                                                                                                                                      

                                                                                                                                

連載 27: 『じねん 傘寿の祭り』  三、 タルト (5)

三、タルト ⑤

「与謝野晶子。熱き血潮。黒川は私の血潮に触れたのよ。そう思わされてしまったのよ」                                                                                                                                                                              「ご馳走様。で、黒川さんは道を説いたということですか・・・」                                                                                                          「違うのよ。黒川は、クリスチャン鉄幹とは違うわよ。いい夢を見させて貰ったって言ってるの。あなた、大の大人に、それも憎からず想っている男に『全てを棄ててでも君が欲しい』なんて言われてごらんなさい、女はアウトよ。死ぬの生きるのと、週に一回博多から松山へやって来て必死のパフォーマンスするんだもの。女はみんな、きっとそういう場面を待ってるのよ」                                                                                                                                                                      「博多の家庭は?」                                                                                                                                       「それよ。ふた月後、黒川は言葉通り家庭を棄てた。私は母と叔父に懇々と説教され、ずっと臥せっていた父が、最後に私を睨みつけて小さな声で『出て行ってくれ』って言って、二百万ある私名義の貯金通帳をくれた。何しろ、父に会わせてくれと表で声を張り上げ、三日三晩、家の前に立ってるのよ。恥ずかしくて、顔を上げて道を歩くことも出来やしない。・・・。信じられる?」                                                                                                                                                                  「ドラマみたいですね」                                                                                   「世のドラマたちに悪いでしょ」                                                           

美枝子は、面白おかしく語る口調の向こう側で、結果的に、たぶん正直に白状しているのだ。                                                                                                                   浪速大の彼は裕一郎の記憶に照らすまでもなくリーダーなどではなく、闘争学生ファンのお嬢さんが引っかかりそうなまがいものだということ。客観的には彼に棄てられたのだという事実と失意。そこから出られなかった日々の空虚。黒川の家庭を壊し己の両親と叔父の善意を踏みにじった悔恨。その上で、それでも私は黒川との道を選び取ったのだ、と。                                                                                                                                                                                             裕一郎には、当時の美枝子の自称「血潮」を哂う気など全くない。                                                                                                美枝子さん、貴女の百貨店勤務での悪戦、それを支えた未熟で危うい「血潮」。それと無関係に生きた者たちに、決して哂わせはしない。                                                                                                    

美枝子は何度も「全共闘」と口にしたが、当時吸った空気から育んだ彼女流「血潮」こそが、全共闘から浴びた毒気が遺した「成果」なのだとしたら、そして「もっと、違う何かがあるはずだ」という底なしの欲求なのだとしたら、欲求が充たされ手にするはずの「至福のひと時」への渇望だとしたら、それは糾されなければならない。                                                                                                                        たぶんおそらく、同じ空気を吸った誰もが、どの時点でかその空疎に気付き生き直して来たはずだ。美枝子も黒川との生活で、その受け取るしかない「厖大な請求書」を目の前にしたことだろう。                                                                                                                                                                                                                   裕一郎は想う。「大言壮語」はさすがに恥ずかしく、「夢想小僧」が何かを実現することなどないと知って自重してはいても、「気付き」「生き直す」術を掴めず生きる今日の己は、間違いなく当時の黒川だと。美枝子が百貨店勤務の八年の日常と、業務やプライベートの人間関係によっても揺るがないものを持ち続けたのなら、そしてそれが「あの時代」の空気にその因があるとしたら、美枝子は時代の負の部分を見落として来たのだろうか? いや、見たいものだけを見てきたのだろう。今、去った男の「まがいもの」ぶりよりも、その「いい男」ぶりを言い募るように・・・。                                                         自分もまた同じではないのか? とそう裕一郎は想う。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

                                           

                                                                                      

                                         

                                                                                                                             

                                                                                                             それは、美枝子が浪速大学で見かけたという一場面に象徴される「時代」への、関わりの度合いの濃淡を超えて「良きもの」だけを抱いていたいという甘い郷愁であり、儚い願望なのだ。だが、例えばある友は、あの時代の極北をたぶん見、「良きもの」と「その逆のもの」、その両方を己が人生に刻むスタイルを築こうとして来たと想う。自分には出来なかった。なら、見届けることなく去った者、刻むことなく棲息する者であるという意味において、裕一郎と美枝子、二人は同類なのか。そこから出られないことそのことが、同類者が受けるべき「罰」なのか。                                                                                                                                                                 当時、美枝子より二十歳年長だった黒川は、五十にして「大言壮語」ならぬ「大言恋愛」を敢行し、父母と叔父からキャリア娘を奪い、家庭を棄て「明日に向かって撃」ったのだ。そして、今日なお「厖大な請求書」など知らぬとばかりに、受取を拒否し続けている。それは、ひとつの奇跡の作品だ。                                

☆画像。左:69年浪速大学、マイクを握る高志。  右:新宿駅西口地下広場、いわゆるフォークゲリラ。                                                                                     

                                                                                                               

連載 26: 『じねん 傘寿の祭り』  三、タルト (4)

三、タルト ④

誰かが言った自虐格言にこうある。「社会を変えようとした。何も変わらなかった。時が過ぎ、変わったのは自分だった」、と。                                                                                                                            誰にとっても身に覚えある言葉だとしても、あの時代の若い女の多くが職場という男社会に放り出され、美枝子のような悪戦に耐え踏ん張り、女は少なくとも男よりは何かを変えたのかもしれない。それが、労働市場の要請か、日本的経営の一部を表面的であれ変更する方が得策だとの経営者団体の労務政策上のことか、そこは学者に聞いてみよう。                                                                                                                                               けれど、裕一郎は、それが女自身の係わりもなく、ただ時代から無償で与えられたのだとはとうてい思えないのだ。                                                                                                                     男と伍すこととなる職場で、女は、女性性を棄てるというか「男」になろうとしてもがく道を選ぶのか、それとも男が求める女性性を表面上受け容れてことを進めようとし、結果そのことに縛られて旧来の「おんな」へと沈む道を選ぶのか・・・、そういう二者択一を迫られて来たと思う。                                                                                                                                             だが、その課題に真摯に向き合おうとする女であればあるほど、その「もがく」と「沈む」のいずれの先にも「壊れ」を予感して立ち尽くしたのだ。いずれでもない、女が女のまま男と伍すとでもいうような道・・・、それは至難のことだと想う。女性学者の本にあった通り、それは、女「だけ」があるいは男だけが変わって済むことではなく「関係性」の構造を問うことであり、だから、男との共同作業によってしか果たされないものではないか・・・?。                                                                                                                                                                           だが、自分も、いや周りの女も、自分の仕事や会社や生活で、実はそこのところは今も保留事項なのだ。                                                                                                                                                                 裕一郎には、部外者ゆえに評論家のように想って来たことがある。                                                    ひょっとしたら七〇年代の初め、世間を震撼させ若者たちを闘いから遠ざける結果を招いたと言われる事件の核心は、女性性の主張と受容を自他に開いて行く回路を持てなかった若い男女たち自身の、「もがき」と「沈み」から「壊れ」に至った過程ではなかったか?と。 それらを超えてなお、ある学者があの時代を「68年革命」とプラス評価する最も明らかな現象は、その後の女たちの生き様の中にあるのではないか、と。                                                                                                                                 美枝子は当時、卒業以来の百貨店勤務経験への体感や直感によって、その手前まで来ていたのではないか、七七年「恋に落ち」て黒川に同行してしまうまでは・・・と思った。黒川が、美枝子の抱える「手前」観を共有できたとはとうてい思えないが、我が身を振り返れば人のことは言えない。どのみち、明日には再会出来る・・・。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 裕一郎は、亜希が立っている処と、美枝子たちが来た道を思った。                                                                                                                                                                                                  変わらないものと、変わったものがあるはずだ。                                                                          それは自然現象ではないはずだ。                                                                                                                                            

裕一郎は、時代というものの重さと世代間障壁という業を背負った出逢いだなあと思いながら、黒川と美枝子の年齢差二十よりさらに十多い、三十歳違いの亜希に会いたいと願う己はどう見えるのだろうと思って苦笑った。それを見て美枝子が軽笑いながら言う。                                                                                                            「フフフ、可笑しいでしょ?私たちの出逢い。笑ってやってよ」                                                                                                                  「いえ、ええ出逢いやないですか・・・。そんな中年、カッコええと思いますよ」                                                                                「北嶋さん、あなただから言うけど・・・」                                                                                                                                                 「あなただから、って?」                                                                                                                                                  「北嶋さん、あなた浪速大学でしょ。私、言わなかったけど、何度も浪大へ行ったのよ」                                                                                                             「へぇ~、そうなんですか?いつ?」                                                                                                                                              「私、浪速大学に彼氏が居たのよね。初めての男よ。いい男だった。で、六八年と六九年に何回も浪大に行ってたの」                                                                                                                                                                   「彼って誰?」                                                                                                                    「ナイショ。ヒミツ。あなた方のリーダーだったんじゃない? マイク握って演説してたわ」                                                                                                                                                          リーダーといえば、AかBか高志だろう。Aは失意の内に姿を消し、Bは今関西で地方議員をしていて、昔からよく知っている。いずれも有り得ない。美枝子の思い違いではないか。                                                                                                      「で、その彼とは?」                                                                                                                                                                    「私、七〇年に卒業してさっき言ったここの百貨店に勤めたの。彼は大学に残ったというか党派活動を続けたというか・・・」                                                                                                                                                                           七〇年卒業なら六六年入学か・・・。自分や高志と同じ四七年生まれだ。                                                                                                                                                                「時々やってきてはカンパせびっていたけど、二年も経たないうちに来なくなったのよ」                                                                                                                                   やはりAでもBでも高志でもなかった。                                                                                                                                                                               「いい男過ぎて、モテモテだった。人から聞いた話では、逆玉に乗って、いま音信不通だけど」                                                                                                                       浪速大学のリーダーにその種の「いい男」はいない。断言する。                                                                                                                                                                                                                                                                                                            「考えてみるとまぁその男がずうっと私の中に棲んでいたせいかもね、叔父の誘いにも乗らず、勤めでもここだとは思えずに男も目に入らなかったのは・・・。とにかくその彼の時以来の電気が走ったのよね、晶子の気分だった」                                                                                                                                                                                     「ん、あきこ?」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

 

連載 25: 『じねん 傘寿の祭り』  三、 タルト (3)

三、タルト ③

「七〇年に卒業してすぐ、ほら<いよてつ>の<まつやまし駅>にくっ付いてる百貨店あるでしょ、あそこに勤めたのよ。翌年改築オープンということでもう工事始まってた。その年は総合職を多く取ったのね、もちろん女性もよ。実際、すごい勢いだったのよ。数年後、四国一だと豪語するんだけど事実です。21世紀になって関連会社への貸付総額が年間売上を超えるという異常財務体質から潰れて、全国の店と同様あそこも他の大手百貨店に引き取られたけど・・・」                                                                                                                                                                              百貨店では周りの男性社員は社内派閥に絡め取られ、査定に怯え出世を求めて汲々としている。京都の四年制女子大で、「全共闘」の影響も受けたと何度も口にする美枝子の「もっと、違う何かがあるはずだ」と思い続けた感性に、彼らの言動が響くことはなかった。「勤めびとの勤勉や処世を、どこかで私、せせら笑っていたのね、分かりもせず…。自分だって同じ働き方なのにねぇ」                                                                                                                                                                     

女性社員はお相手を探すことしか考えていない。地元名士の子女が沢山居たけど、彼女たちはさっさと相手を見つけて辞めて行くか、親絡みで元々決まっていた相手と結婚するまでの腰掛から降りては次々と消えて行った。「寿退社という私に言わせりゃ不名誉なネイミングを、本人たちが喜んで使っていた時代よ。今もそうだけど・・・」                                                                                                                                                                                      ここがその場所ではないとしても、探せばきっと仕事の中に自分を表現できる世界があるはずだと思いながら、職場から一歩も出られなかった。性格なのか、与えられた仕事をキチンと果たさないと気がすまなかった。「やっぱり女だな」なんていう陰口を絶対言わせたくなかった。「その分忙しくて、ほんとよく働いたと思うわ」。七七年夏、三十になっていた。勤続八年目の「お局様ね」。私、店の中枢って言うかまあ総合職でしょ、男の「できるもんか」という本音と、女の「いい気になって」という妬みに囲まれて、出口は見えず入口には戻れず焦っていた。男と居たい結婚したいというのではなく、ここで上り詰めてやろうというのでもない。                                                                                                                        「このままでは引き下がれない。そんな感じよ。解かります?」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              「ちょっとは、解かるつもりです」                                                                                                                                                                                           「97年に、東電エリートOL殺人事件というのがあったでしょ、憶えてる? あの女性の心の闇にはいろんな要素があると思うけど、何か解かる気がするんです。変ですか? 昼間の職場の鬱屈を、夜街角に立って客を取り女王様になって晴らすような壊れた心理。そんなのも働いていたような・・・。大企業の、職場の男支配、今はどうなんです?」                                                                         叔父からの勧めに乗ろうかとも考えた。独創的な温泉を作る・・・、そんな空想もした。けれどずるずる返事を延ばしていた。                                                                                                                                                                                                          そして夏の終わり、黒川に逢ってしまった。展示会の準備と開催・後仕舞いをいっしょにしたのよ。黒川には博多に妻子があると最初から知っていた。作品を観て作家名をピタリと当てる。焼物を見て黒川が言う価格はドンピシャリ。部で発行するパンフレットの間違いを正確に指摘する。焼物の贋作を言い当てて、部長が業者に突っ返し会社の被害を食い止めたこともある。だが、飄々としていて自慢しない。若い社員からも好かれ、毎晩誰彼を引き連れて飲み歩いていた。所帯じみていない、年齢から言えば当然なのだが何でもよく知っている、夢を語り「業界の異端児」と呼ばれるだけあって、いわゆる「男気」もある。経済力もたぶんありそうだ。もう眩しかったのよ。普通の男なら誰もが失っているものを持ち続けている、当時の私にはそう見えたのね。「だってそういう男、中々いないわよ」。                                                                                                                        それが、生きるということ、働くということの「自己責任」を放棄した者だけが味わうことのできる、麻薬のように止められない至福のひと時なのだと、今では承知している。その「ひと時」には「厖大な請求書」がやがて廻って来ることも・・・。                                                                                                                                    けれど、その秋、「恋に落ちたのよ」。                                                                                                                              いっしょに汗かいて仕切った展示即売会の成功を、上から褒められ達成感に浸っていたと思う。博多へ帰る黒川を見送るはずの駅で、「祭り」の終わりを受け容れられない子供みたいに、私の方から、黒川の袖口を摘まんで「もう一日いらっしゃれば」と声を掛けてしまった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               

                                                                                                                                                                                                                                                           

連載 24: 『じねん 傘寿の祭り』  三、 タルト (2)

三、タルト ②

「いや、ぼくはギャラリー開設のお手伝いと、少々の集金だと聞いてますが」                                                              「アハハハッ、ハ・・・集金業務? 集金って、売上げも無いのに何が集金なのよ。叩き売りはいつも現金売りですよ、それも小物ばかり。ああ、そうか解った。それって、七つある不良債権だわ。沖縄に五つ、関西に二つ。自業自得よ。売ったのか預けたのか曖昧な大物商品が、タチの悪い連中に拉致されてるわね。その人たち、もう売っ払らかってお金に換えてるかもね。品物を返すのかお金を用意するのかと迫ればいいのに、放ったらかして来たのよ」                                                                                                            「へぇ~、そりゃ大変や。けど何で沖縄が多いんです?」                                                                                                               「あなた、こう見えても大阪では私が居たのよ」                                                                                                                                               「失礼! そうでしたか。そうかそうか、そうやったですね」                                                                                                                                                             「関西二つは大阪に居たときのもので、私も知ってます。一つは芦屋の豪邸の自称資産家のオバサンよ。早くしないと逝っちゃうわよ。あとの一つはほら、私たちの送別会にも来ていた若い教師夫婦よ」                                                                  「へぇ~そうなんですか、あちゃちゃ・・・。あの夜送別会の後、深夜に駅の屋台ラーメンで見かけた人かなあ」                                                                     「そうそう、ラーメン食べに行くって言ってたわ。その夫婦よ」                                                                                                                                                       「いい感じの人じゃないですか」                                                                                                                                                                                                                                                                                                         「知ってる? 陶芸家の知念太陽。彼の立派な箱付き十五万の品を二点、三十万なんだけど、その後どんどん値が上がってね。今、たぶん倍以上でしょうよ。あの夫婦はまだ手許に持ってるでしょう。もっと上がると踏んでるのは『ご自由に!』なんですけど、購入代金は売ってからというのは若い教師らしくもない。まぁ、どっちもどっちなんだけど」                                                                                                                                                                      「難儀ですね。で沖縄の分は?」                                                                                                                                                                                                                               「大阪に居た頃、と言っても三年くらい前からなんだけど、沖縄へは時々行ってたのよね、黒川。大きい展示会してまぁ最初は意外によく売れたのよ。調子に乗って二つが未回収。私が居なくなってからも増えてるらしい。この中には、私が絶対売ってはダメと言っていた大皿二点も含まれてる。あれ、二点で百五十万よ。さらに増えて五件だそうよ。」                                                                                                                                                                                                  美枝子はその情報を黒川と取引を続けている焼物作家の妻から得ていた。その作家自身も預けた作品を第三者に渡され、取り戻すのに苦労したらしい。物の遣り取りがズサン極まりないとのことだった。未回収は関西が計百万、沖縄の分はひょっとしたら計三百万近くあるのではないかという。回収できるのだろうか。なるほど、任務の実態が見えて来る。

 美枝子が黒川に出会ったのは、入社七年目の美枝子二十九歳、黒川四十九歳の七六年秋だ。黒川は、年に二度美枝子が勤める松山の百貨店での展示会を主宰していた。                                                                                                                                                                  博多で店を張る黒川は、博多以外に熊本・鹿児島・広島・大阪そしてこの松山に手を延ばし、作家を抱き込む才に長けていたのか、難攻不落と言われていた陶芸家や画家を引きずり出し業界の異端児的存在だった。老舗百貨店だけを相手にする作戦で、たぶん相当な裏金をばら撒いていたのではないか?                                                                                                                     黒川はもちろんその年の秋にもやって来た。黒川の噂を聞かされてはいたが、異動で外商部から催事・展示会担当になって半年、新しい部署での仕事を覚えることに必死だった時期の美枝子には、絵画・焼物界の裏技師、業界の変り種といった印象しか残らなかった。が、今でこそ「大言壮語」「夢想小僧」と思えるその言動が、「博学多識」「万年青年」と映り、やんちゃな大学教授のように思えたことは否定できない。                                                                                                                  翌七七年春、中学校長をしていた父親が病気退職した。母親から叔父の温泉旅館を手伝わないか?と勧められた。先方には小学生の息子が居るが、将来拡張の予定もあり、それは姉妹館にして美枝子に渡す、だから従兄弟を補佐してくれ。叔父は、百貨店の外商部でバリバリ働いているように見える美枝子に目をつけたのだ。それまで何度もお見合いなど断って来ていたので、「母は母で、そうすることで結婚もついてくるような気がしてたんでしょ」                                                                                                                                                              叔父は、身内から人材を探していた。親から継いだ旅館の共同経営を、よく働き頼もしい姉の娘に、と考えてくれたのだと思う。                                                                                                              老舗にありがちな話だ。                                                                                                                                                                                         

 

 

歌遊泳: 洋モノが嫌いなのではありません

日本の歌謡曲ばかり並べていたら「洋モノが嫌いなの?」と質問が来ました。決してそうではありません!                                                                  歌謡の歌詞を探っていたので、必然的に(日本語しか解からないので)、そうなったまで・・・。                                                                                                  洋モノで、ちょい好きな歌・記憶に残る歌・何度も聴きたい歌・・・、戦後洋モノ曲を挙げてみます。                                                                                                                                                         残念ながら YouTube に欲しいものが少ないのですが・・・。アメリカ過多で困ります。 

『Blue Canary』 http://www.youtube.com/watch?v=REPqry3tBUE Dinah Shore                                                                                                                                                                                  『Tennessee Waltz』 http://www.youtube.com/watch?v=INRljTpsKTM&feature=fvst Patti Page                                                                                                                     『Sinnò me moro』 http://www.youtube.com/watch?v=qYG9kJB5HmY&feature=related Alida Chelli                                                                                      『Love Me Tender』 http://www.youtube.com/watch?v=HZBUb0ElnNY Elvis Presley                                                                              『Moon River』 http://www.youtube.com/watch?v=flm4xcOyiCo&feature=related Andy Williams                                                                                                 『Hey Jude』 http://www.youtube.com/watch?v=GEKgYKpEJ3o&feature=fvst The Beatles                                                        『Imagine』 http://www.youtube.com/watch?v=2xB4dbdNSXY John Lennon                                                                                                                『Raindrops Keep Fallin’on My Head』 http://www.youtube.com/watch?v=hUVpYENQJMg B.J.Thomas                                                                                                                                     『Take Me Home、Country Roads』 http://www.youtube.com/watch?v=C7C9nuLED3o Olivia Newton-John                                                                                                                            『Sailing』 http://www.youtube.com/watch?v=Bpbuqh12oj4 Rod Stewart                                                                    『Casablanca』 http://www.youtube.com/watch?v=Zm-QR-3AdIY Bertie Higgins                                                                                                    

 

 『Hey Jude』                                                                            68年。ワルシャワ条約機構軍 チェコ侵攻。                                                         映画『存在の耐えられない軽さ』(88年、米、監督:フィリップ・カウフマン)。                                                                 http://www.youtube.com/watch?v=KYcrJ7rtWAA                                                                                                           侵攻した機構軍(実質ソ連軍)戦車を包囲する非武装のプラハ市民。                                                                                                                                                              

この歌を唄い、侵攻前の「プラハの春」を象徴する歌に押し上げた立役者、                                                                                                                                                                                                                                                                                      プラハの歌姫:マルタ・クビショバのドキュメントを、20世紀末(?)に観た。                                                                                                                                                                       そのお宝ビデオは、しっかり保管している。                                                                                  映画にもこの歌が繰り返し流れていた。                                                                                         

ぼくには、侵攻軍戦車の重低音と 『Hey Jude』 はセットで記憶されている。

                                                                                                                                                     

                   

                             

連載 23: 『じねん 傘寿の祭り』  三、 タルト (1)

三、タルト ①

 高志が八二年に「散って多くの組合を作ろう」と去った後、残された者たちで続けた会社が順調だった90年代初めバブル期、裕一郎はこの街で全国ファミレス・チェーン店の内装工事を手がけたことがある。施工最終日に大工や設備屋といっしょに坊ちゃんの湯とも呼ばれている「道後温泉本館」へ来たのだ。                                                                                                       いい湯だった。十五年以上になるのか…。                                                                                                                                                                                                                                                           明日那覇へ行く。その前に黒川美枝子に会っておきたかった。美枝子と約束した二時半まで一時間ある。美枝子が指定した喫茶店を探すより先に、その「道後温泉本館」前に立って建物を眺めていた。威厳と庶民性を兼ね備えた堂々として親しみの持てる建物だ。あとで湯浴みしよう・・・。                                                                                                                                            裕一郎は温泉近くの銘菓店で、黒川とユウくんへの土産にと、名物のタルトを買った。いつか思ったことと同じことを思っていた。餡を挟んで巻いたロール・ケーキを何故タルトと呼ぶのだろう、と。                                                                                                                                       同時に、あの親子が浮かんだ。二人は那覇で一体どんな生活をしているのか。ユウくんは甘い物のひとつでも自由に喰っているだろうか・・・。黒川送別会のあと駅前の居酒屋で亜希と呑んだ日に気付いた通り、亜希は高志と道後松山に来たのだ・・・。気になることへのいくつかの感情が混濁して形を全く変えて、女性店員に名前の由来を問い質そうという奇妙な衝動として育っていた。自分でも整理できない、その交じり合った感情の正体がもちろん今は解る。ショウ・ケースまで戻って訊いた。ぎこちなく攻撃的だった。                                                                                                                                                                                         「これ、なんでタルトと言うんです? タルト言うたら、お椀状の硬い焼き菓子にクリームやらフルーツやらが乗ってるあれでしょ? これが、なんでタルト? 教えてくれませんか?」                                                                                                                                 わざわざ戻って来て責めるように訊くという初老オヤジの変則詰問に、店員は一瞬キョトンとしていたが、すぐに返して来た。同じ質問には慣れているのだろう。声が大きかったのか、客の何人かが振り返るのが分かった。                                                                                                                                                                                                          「タルトはフランスのお菓子で確かに仰る通りのものです。一方これは、カステラと同じでポルトガル由来だと言われています。ポルトガルで簡単なスポンジ・ケーキをタルトと呼ぶという説もありますが、餡を入れてロールするこれは全く当地の独創です。まぁスパゲティのナポリタンみたいなことですかね。ジャパニーズ・オリジナル・メニュウ?ですか。ウフフ」                                                                                                                                                        解ったような解らないような話だった。「説[も]あります」程度で、僭称するのか!何が「ウフフ」だ! 裕一郎は苛立っていた。                                                                                                    菓子の名の由来を知ったところで、消えた亜希を巡る謎が解ける訳ではない。                                                                                                                                                                                                                     通りを歩きながら、箱とは別に用意させた一口大に切ったタルトを久し振りに口に運んでみた。袋の中の二箱の内一箱は美枝子に渡そう。これなら、地元だから飽きているわとは言わないだろう。                                                                                                                                             

今日は二時から四時まで休憩のシフト、二時半から三時半過ぎまでならと言っていた美枝子は、約束の十分前に喫茶店にやって来た。仕事着だろう和服姿が板に付いている。半年前に比べやつれたように見える。差し出したタルトを喜んで受取ってくれた。                                                                                                                                                          「これ大好きなんですよ、私。そうだこの箱二本入りだから、一本あっちへも持って行ってやって下さいな」                                                                                                                                                               「いえ、ユウくんの分はここに」と袋を指した。                                                                                                                                                                                  裕一郎は思う。我が那覇行きを了解しているのだ、この人は・・・と。                                                                                                                                                                                                        「ひろしは甘い物好きですから、食べ過ぎないようにしないと・・・。黒川は言われるままに何でも与えてるんだろうなぁ」                                                                                                                                                                      「もしそうでしたら、ぼくが行ったら是正するよう進言しましょう」                                                                                                                                     「出来る? ひろしのことには口出しさせないわよ黒川。母親の私でもいつも邪魔されたんだから・・・。聞き容れることが愛情だと思い込んでるのよ」                                                                                                                                                                                            美枝子は黒川の父親振りを「エゴなのよ」と切り捨てて、続けた。                                                                                                                            「北嶋さん、物好きねぇ。大変よ、黒川の性格、経済状態、家事。プラス黒川が言うビジネスという名の在庫叩き売り、お終いはもう時間の問題なのよ。在庫はもう底だと思う。そこへ、ひろしの生活のこと。結局、あれもこれも背負い込むことになるわよ」 

 

連載 22: 『じねん 傘寿の祭り』  二、ふれんち・とーすと (9)

二、ふれんち・とーすと ⑨

オバサンのおかずは美味かった。焦げ目が付いた揚げが入った特製チャンプルウとでも言うようなものと、ニンジンの細切りを炒めて玉子でとじたものだった。ニラとツナ缶が入っていたように思う。シリシリーというらしい。裕一郎が、冷蔵庫にあった大根を使って味噌汁を加えた。充分だ。                                                              食後、黒川から売掛金の実態を聞いた。美枝子から聞いていた内容とほとんど同じだった。                                                                                                           細川への大皿を含めて、半分近く受領書というものがない。ノートに一覧はあるのだが、特に督促はしていないという。売掛金は、何と総額四百二十五万円に上った。それはあくまでも黒川の側の理解だ。半数は、価格について合意したという客観的証拠が無い。聞けば、永い付き合いでお互い価格で揉めたことはない。同業者同士の信頼だよと言う。受領書があるものが一般客なのか。察するに、業者間で価格に巾を持たせて一時委託する、売れれば売り手が利益を確保した上で残りを支払う。そういう一種の委託販売ではないか? いや委託じゃない売ったのだ、と言い張るので論争は控えた。仕方が無い。まず売掛金を順次、確定して行くしかない。大口の細川の分を回収することに当面集中するか・・・。細川用の未納金支払誓約書を、金額欄を空けて作った。

翌朝、再び「パン食」なのだが、昨夜黒川が買って来たパンで「パン食」を作った。                                                                                                   前夜、風呂上りのユウくんに食べたいメニュウを聞き出していたのだ。冷蔵庫に購入日シールが貼ってある玉子・牛乳、野菜室にキャベツ・ニンジン・未開封のハムなどがあった。何なりとパン・メニュウは出来るだろう。訊くと、ユウくんは意外なものを希望したのだった。                                                                                                                                                               ケーキみたいなパン。熱い甘いやつ。                                                                                                                                                               玉子・牛乳・砂糖、塩少々。前夜から充分に浸したものを焼いた。ユウくんが「熱ちち」と言いながら美味そうに食べている。                                                                                       「これの名前分かる?」                                                                                                                                                                       「う~ん、何だったかなあ」                                                                                                                                                                       「ヒント! ふ が付く名前」                                                                                                                                                                                                                    「ふれんち・とーすと!」                                                                                                                                                                「ピンポン!」                                                                                                                                現物を目の前にして思い出したのだろうか答に辿り着く時間が素早かった。モグモグ食べていたユウくんがしみじみとした表情で言う。                                                                                                                                                               「懐かしいねぇ~」                                                                                                                                                              突然の言葉に何も返せなかった。                                                                                                                                                                                   懐かしい・・・何という響きだろう、何という人間の本源的な感情だろう。骨身と臓腑に居座っているものが、込み上げて来る時の感情だ。                                                                                                        その光景 その香り その場の音 その雰囲気 その時の気分、時と場を共有した人びと・・・、それらが明確にイメージされ、かつその対象との蜜月を生きた日々の己が肯定的に自覚されている。その全体を、今ただ今、想起できるその心の在り様の中にこそ、誰も奪うことの出来ないものとして「懐かしい」は棲んでいる。そのどれが欠けても「懐かしい」は成立しない。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     ユウくんは、かつて食べたフレンチ・トーストが単に美味かったと懐かしいのだと言っているのではない。                                                                                                                                                                                                                それを食べた時間を、その黄金の記憶を「懐かしい」と表現しているのだ。                                                                                                                                                      裕一郎は思うのだ、自分にはどんな「懐かしい」が残っているのだろうか・・・と。                                                                                                                          「美味いか?」そう問うのが精一杯だった。黒川が横から口を挟んで来て言う。                                                                                  「朝から甘いものは、どうなのかねぇ」。全て解っているに違いない。                                                                                                                                                       時にフレンチ・トーストを作ったのだろう人も、今、朝食を摂っているだろうか…。                                 

(二章、ふれんち・とーすと 終) 

                                                                                                                               

Search