連載 29: 『じねん 傘寿の祭り』  三、 タルト (7)

三、タルト ⑦

「ネンちゃん、ほれ尋常小学校四年の運動会憶えとらんね?」とウメさんに言われ記憶を辿った。その運動会の日、母親は夕方からの海軍の着任歓迎の大きな宴会の準備で忙しくて来ることが出来ず、ウメさんが来たのだが、母親が来なかったのはその一度だけだったのでよく憶えていた。従業員が多数居て、母が居なくても回るはずで奇妙なんだが、生憎板さんの一人が体調を崩しててんてこ舞いとのことだった。昼食で家族席へ行くと、知らない綺麗な女性が弁当を持ってやって来ていた。ウメさんは「ネンちゃん、わたしの親戚のオバサンたい。いっしょに食べんね」と持参した弁当を横へやり、その綺麗な女性の弁当を開けて並べた。ウメさんが続けて「ばってん、奥さんが作りなさった弁当ば食べんと叱られるけん、オバサンことも弁当んことも内緒たい。ネンちゃん、約束だで」と言った。三人でいっしょに食べたのだった。実に美味いそして手の込んだ弁当だった。他言しないというその約束は守った。一九三七年・昭和十二年の運動会だ。                                                                                                                                     その女性の美しい笑顔と美味かった弁当を思い出せば、丘の下の路面線路の周りの焼け爛れた街を慌しく往く人々の風景も遠くの廃墟も、自分の心も洗われて行くような不思議な感じがしたと言う。ウメさんが、二つ持っていたおにぎりのうち一つをくれた。ウメさんも母親と幼い弟を亡くしていた。もらったおにぎりを手に坂道を降り路面に出て、父母の死亡に関わる気が重い手続きに役場へ向かったのだが、呆然として歩いたはずの記憶が一部空白だ。廃墟の街を歩いた感触、目にした光景・・・、実家の消失と父母の死を受け容れられず心が崩れたのか、ウメさんと話した運動会の弁当とそれを持ってきた女性の笑顔に飲み込まれたのか、その日のその後約一時間の記憶が空白なのだ。                                                                   記憶の映像と音声は、復旧と治療を取仕切る仮設庁舎の、ごった返す受付の喧騒から再起動する。熱く寒いひと月が始まった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

黒川の話を聴いていると、瓦礫の長崎と黒川の孤絶が迫って来て、もらい泣きしそうになって黒川の背に手をやった。その後ろから声がかかった。                                                                                                                                                                                                                              「黒川さん・・・ではありませんか?」                                                                                           振り返るとと、浅黒くて長身、伸ばした髪の毛を後ろで束ねた美枝子より少し若い感じの男が立っている。雑誌で見覚えのある顔だ。                                                                                                             黒川は豹変して、やあ元気かね?すごい勢いじゃないかと笑顔を振り撒いている。それが陶芸家・知念太陽だった。復帰直後の沖縄から福岡の造形美術大学へ進んだ知念太陽が、三年前大学を中退した際に個展を計画、業界ではただ一人黒川だけが支援したらしい。黒川は、君はやがて必ず、全国にその名が轟く人になると言い、周りの無関心を余所に奮闘したらしい。作品も売れ太陽にとって黒川はこの世界への道案内人なのだ。三年経ち、太陽はいよいよ打って出る気になっていた。「地獄に仏とはこのことね。」                                                                                 太陽はその場で黒川を選任マネージャーに決め、二人は東京行きを中止して大阪へ向かった。大阪駅前にあった太陽も関係するグループの事務所を、太陽の口利きで半分仕切ってギャラリーとして格安で使わせてもらった。最初、知念太陽も扱うには扱ったが細々と旧知の作家との回線を修復して、従来のスタイルで臨んだ。大阪郊外の中堅百貨店の作家展に二ブース確保出来た時には小躍りした。                                                                                             やがて太陽は数年後にはそこそこ名が売れ始め。太陽の作品とパンフを持って日本中駆け回った。楽しかった。年々知名度が上がって行く。                                                                                                                                       「子供は諦めていたのよ。私の年齢もあるし黒川の年齢もある。それが黒川五十八、私が三十八の時八五年、子供を授かった。高齢出産の部類ね」                                                                                                                                                                                  「その頃には、太陽はほんとに全国に名が轟く人になっていた。それが、黒川の人生二度目のバブルかな。以来十数年、実質、太陽で食べたのよ」                                                                                                                        「あなたもご存知の店舗付き住宅へ越して、ひろしが生まれ、遠方会場など黒川の管理運営では心配だったけど、私は外へ出なくなった。」                                                                                                知念太陽で忙しくなる時期は、美枝子が管理できなくなった以降でもあり、個展や共同展で太陽との行き違いが続いた。ほとんどが黒川のミスだ。それが原因なのか、やがてメジャーになった太陽は徐々に黒川から離れて行った。九九年太陽が最後にやって来た時、太陽は裕一郎が持ち込んだ比嘉の作品をじっと見ていたという。  

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

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