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たそがれ映画談義: 東ベルリンから来た女

「東」のお説教・「西」の自賛を蹴飛ばし、働くこと・自尊 の核に出会ったバルバラの闘い

ベルリンの壁崩壊(1989)の9年前、1980年旧東ドイツ。                                                              首都東ベルリンの大病院に勤務していたエリート女医:バルバラは、恋人:ヨルク(デンマーク人?)の住む西側への出国申請を拒否され、たぶん日頃の言動もあってか、「危険分子」と見なされ、ここバルト海沿岸の地方病院へと左遷されて来た。                                                                                              バルバラは、赴任した病院にも同僚にも温厚・誠実で仕事熱心な上司アンドレにも、心を開かず打ち解けようとしない。その日常は、シュタージ=秘密警察の執拗な監視下に置かれているのだ。度々の屈辱的な身体検査を含む「西側との密通」「不法脱国計画」チェックは、バルバラから笑顔を奪い、善意の人:上司アンドレが何かと差し伸べる気遣いさえ、シュタージの差し金か?と疑う心理へと向かわせる。監視社会に生きる者の疑心暗鬼・心の崩壊は、保持し維持しているはずの個人の理性・知性では、時に抗い難くこうして形成されて行くのだ。アンドレがシュタージに通じていたとしても何ら不思議はないのが監視社会・警察国家というものだ。                                                                                                                                                                                                     その監視の眼を掻い潜って、バルバラは恋人ヨルクと交信している。外国人専用ホテルなども利用しているヨルクは、東ドイツとの商取引があるビジネスマンらしい。バルバラが勤務する病院近くの森の決められた場所に、ヨルクが脱出に必要な資金(脱出援護者に渡す金)を隠し・届け、脱出計画を進めている。ヨルクの東ドイツ滞在中にその森で「密会」もする。バルバラにとってヨルクとの関係は、息が詰まる体制からの脱出、人間の「尊厳」を取り戻す「自由」、そこへ向けて開かれた窓口としての意味も持っていた。

脱出への準備が進む一方、勤務病院では、作業所(という名の強制収容矯正施設)から脱走した少女ステラが連行されて来る。髄膜炎で苦しみながら、他の医師や看護士に心を許さない彼女は、バルバラにだけ信頼を寄せるのだ。国家の強制力に圧し潰される境遇に在り、そこからの脱出回路を構想する者同士だけが解りあえる、云わば心情の光通信だ。                                                                                                                                                                                                                                 次いで、自殺未遂の少年マリオが運び込まれる。経過によっては開頭手術が必要かも知れない様態を前に、大病院での知識と技術が求められる。その「医」の心・医学的協働を通じて、上司アンドレとの人間的信頼も確実に育って行く。バルバラの中で、「西」への脱出という現象的・スローガン的行動の底に込めた意味にとって、「西」への窓口であるヨルクとの関係は、取り敢えずの「象徴」としての位置にしかなかったのではないか?                                                                                                                                                                    バルバラがそう思い始めたのは、まもなく脱出決行という時期に、外国人専用ホテルで「密会」した際のヨルクのひと言だった。

西の豊かさや自由な社会の物質的優位を説いたヨルクは、最後にこう言う。西へ来れば「君は働かなくていい。僕の収入で充分暮らして行ける」。                                                                         「働かなくていい」? バルバラは想う。                                                                                                                                            「働かなくていい」などという言葉を得るために、私は働いて来たのか?                                                                                                                                                        私は充分暮らしては行けないからと、やむを得ず厭々女医をしているのか?                                                                                         矯正所の少女ステラに差し出す私の手は、男の庇護が無ければ成り立たない手なのか?                                                                                          開頭手術を前にした少年マリオへの私の医学的知見の動員は、豊かさを求めてのものなのか?                                                                                             西の豊かさ、西の自由、西に在るはずの個人の尊厳は、「働かなくていい」ことの中に実現し存在するのか?                                                                                                    私が「西」ということに込めて来た意味と私との間の架け橋=現実的窓口に、これが居座っているものの正体なのか?                                                                                                  バルバラは、バルト海沿岸の海岸からデンマークへと脱出する予定の、脱出決行当日、人生を左右するある重大な決断をする。                                                                                                         海岸から母船への脱出ゴムボートは、冷たい北国の黒い海を挟んだあちらとこちらの、人間というものの可能性を乗せ闇波の中へ発って往った。

9年後、彼女はベルリンの壁の崩壊をどんな想いで目撃しただろう。                                                                                             翻って、ぼくらの近隣、東アジアの半島の北半分に居るだろう多くのバルバラやアンドレを想うのだ。                                                      個人の尊厳と精神の自由が息も絶え絶え状態の中でなお、彼らによってそれが保持されていると信じてこの映画を観ていた。                                                                                                     この映画は決して、政治性に塗れた「東」批判「西」称揚でも、「西」罵倒「東」礼賛でもない。個人の尊厳、精神の自由、それは制度や教条によっても、物質的豊かさや表面的自由度によっても保障されるものではないのだ。人が、自尊・他尊を生きることの中心に協働があり、そこには、それを損なわせる権力・社会・制度・文化への「抗い」と「闘い」が必ず前提されているはずだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                主演、バルバラ役のニーナ・ホスの、容易には人を受け容れない姿勢、冷たく突き放すような視線、寡黙で笑わない表情には、ある気品と美しさが溢れていた。元来こういう表情の女性は苦手なんだが、BGM皆無、説明台詞の排除、政治性からは語るまいとの作者の意図の潔い鮮やかさ、それらとニーナ・ホスのその気品と美しさに圧倒され、映画から「希望」をもらって帰路についた。ここ数年で間違いなく超一級の作品だと思った。

全国各地で上映中                                                                              http://www.barbara.jp/main.html

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たそがれ映画談義: 年明け後に出会った予告編四作

気になる予告編(コピーは「映画チラシ」現物から転記。) 正月になってから、映画館で目にし、惹き付けられた四つの映画予告編を紹介する。                                                                                               

 

『命をつなぐバイオリン』(2011年、ドイツ映画) http://inochi-violin.com/                                                                                                     1941年春、ウクライナのポルタヴァ。ナチスが台頭した時代に、バイオリンを演奏して、生き残りを賭けたこどもたちがいた。

 

 

 

『東ベルリンから来た女』(2012年、ドイツ映画) http://www.barbara.jp/                                                                                                                                               ベルリンの壁崩壊の9年前――1980年夏、旧東ドイツ。美しい女医が田舎町の病院に赴任して来た。自由と使命。その狭間で揺れる、愛。                                                                                                                                                                        

 

 

『かぞくのくに』(2012年、日本映画)  http://kazokunokuni.com/                                                                                                                                       父が楽園と信じた北朝鮮から、兄ソンホが25年ぶりに帰ってきた・・・。兄が住むあの国、私が住んでいるこの国。近いのに遠いふたつのくに。ヤン・ヨンヒ監督の実体験に基づく衝撃の物語。                                                                                                                                                        

 

 

『 明日の空の向こうに』(2010年、ポーランド映画) http://www.pioniwa.com/ashitanosora/                                                                                                                                                                              ポーランドと国境を接する旧ソ連の貧しい村、鉄道の駅舎で物乞いや盗みをしながら日々を過ごす幼い3人の少年。「国境を越えればきっと幸せが待っている」。                                                                                            女性監督:ドロタ・ケンジェジャフスカ。                                                                                                                                                      

 

 

予告編は、さすがに上手く作ってありますね。どれも観に行きたくさせる。(添付の公式サイトをクリックすると予告編も観ることができます)                                                                                                                                             本編を観ないことには何とも言えないが、直感からは観る価値ありだ。時代に翻弄される人々と社会との関係の「どうしようもなさ」と、そこでなお生を賭けて起とうとする者の「どうにかしたい」意志を描く気概のようなものが、予告編からピリピリ伝わって来る。「私」性や個人性の尊厳をキッパリ主張しながら、普遍性・社会性・全体性に目を閉じることの無い映画が、近頃の日本映画に少なくなってきているなぁ~~~。                                                                                                                                                 テレビ局が視聴率獲得手法で作る「踊る」大映画、AKB現象の中の文化・・・、一方で「過競争」「課罰式統治」「ハシズム」「アベノミクス」・・・、                                                                                                    二つの顕著な傾向の一見無関係に見えて密接な相関力学=共犯関係に潜む『「社会との関係性」の空洞化と「白紙委任」性』。                                                                                                                                                   そのいかがわしく・危うい正体の近似性への視点を万人のものにしなければ勝てないと思う。

たそがれ映画談義: パリ・コミューン序章としての  映画『レ・ミゼラブル』

十九世紀のフランス(に限らずヨーロッパ近代史全般)の歴史に不案内だ。が、半端知識でもパリ・コミューンには格別の思い入れがある。                                                                                                                     72日間という短期間とは言え、パリ・コミューンそれは人類史上初の市民による「自主管理政府」なのだ。                                                                                                                                                                                    映画のポスターに十九世紀パリの街頭バリケードを見ただけで、何やら身の底から無条件にせり上がって来る熱いモノを自覚するのだ。                                                                                                                                       ガキだと哂うてくれても、ビョーキだと思うてくれても結構。映画『レ・ミゼラブル』に関して、誰が何を想い何を言おうが、本来知ったこっちゃない。                                                                                          だが、この映画のテレビCMでは、時代に媚びるを信条とするA元氏が笑顔で推薦の辞を述べている?! お前さんだけには語って欲しくない。                                                                        パリ市民の希望も熱情も無念も、ヴァルジャンの苦難も挑みも、ユーゴーの「理想&失意」も「関与&撤退」も、あんたとは無関係だ。いや真反対だ。                                                                                                                                                                                                                                                   引き続きエセ・サブカルを量産し、AKB騒選挙を演出し、在位*周年祝典賛歌などを作っていなさいよ! 一体どの視点から、推薦してるのだ?                                                                                                                           【1789年人権宣言から1871年パリ・コミューンへ】                                                                 バスティーユ襲撃や「人権宣言」で有名な大革命は1789年?、ナポレオン帝政、ナポレオン退位と復権、1815年ワーテルロー敗戦とナポレオン完全失脚、1830年の七月革命、1848年「二月革命」第二共和政、ナポレオン三世の登場、1870年普仏戦争、1871年パリ・コミューン。王政・共和政・帝政・王政・共和政の入り乱れた繰り返し・・・、ややこしく、ぼくには断片的にしかインプットされていない。                                                            映画パンフレット(「レ・ミゼラブル」全体への受止めが違うからか、知りたい分野が書かれていない)を読み、他の情報・資料で後追いすれば、映画の背景時のフランスとは、1830年の「七月革命」によって、シャルル10世退位、11月からラフィット内閣が「国民王」ルイ・フィリップを戴くという奇妙な「立憲君主制」(明治は立憲君主制やで)の治世だったとわかったし、1871年のパリ・コミューンへの大まかな道筋を知った。                                                                                           映画のクライマックスの市街バリケードはその不安定政情下の18326、親共和派のラマルク将軍の葬送行進を期に共和派が起した、パリのラ・シャンヴルリー通りの短期に鎮圧された暴動(蜂起)のシーンだ。「六月暴動」とも「六月革命」とも呼ばれるそうだが、学生などが中心で広がりに欠け、準備や彼我の力関係分析が不足した、早すぎた(?)、性急な行動だったと言われているらしい。作品と現実をミックスして言うなら、その1832年「六月暴動」の時の子供たちこそが、40年後1871パリ・コミューンの自主管理政府を成したいい年のおじさん達なのだ。二十歳だった青年は60歳を前にしてコミューンを見たか。40年というのがどれくらいの時間かと言うと、1970年前後から今日辺りまでという訳だ。                                                                                                                         映画の時間帯の後、1848年には国王ルイ・フィリップを国外に追放する「二月革命」が成り第二共和政がスタート、男子普通選挙法・国民議会選挙・穏健共和派圧勝・大統領選挙(ルイ・ナポレオン圧勝)。1852年、この大統領ルイ・ナポレオンが「ナポレオン三世」として即位、第二帝政がスタート。  ん?ややこしいのぉ~~                                                                                                                                             1870年7月、プロイセンに宣戦布告。9月ナポレオン三世捕虜に、国防政府成立、年末からプロイセンによるパリ完全包囲、パリ飢餓寸前、71年1月28日フランス降伏、3月18日パリ市民降伏拒否・蜂起、自治政府=パリ・コミューン成立(参照: http://www.yasumaroh.com/?p=15496 )。                                                                                                                              3月26日コミューン議会選挙、28日コミューン宣言、5月21日、国民議会派軍がパリ市内入城。コミューン軍は善戦したが、5月28日の戦闘を最後に力尽きる。パリ市民・コミューン関係者多数が虐殺され(通説:3万人)、セーヌ川の水が赤く染まったと伝えられている。逮捕者4万人、内処刑多数(四桁が通説)。72日間の市民自主管理政府は斃れた。 が、その遺産は現代に引き継がれ生きている。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      パリ・コミューンの遺産=「婦人参政権」「無償義務教育」「児童夜間労働禁止」「政教分離」「主要公職公選制」など 

【行動する知識人:ヴィクトル・ユーゴー】                                                                                       さて、ヴィクトル・ユーゴー自身は、1845年に『レ・ミゼラブル』執筆を開始、1848年「二月革命」後に中断、第二共和政の国会議員になったりして、現実政治にコミットした。選挙で圧勝し大統領だったルイ・ナポレオンが議会に対して起した1851年のクーデター(議会解散、大統領権限拡大)後、逮捕を避けんと印刷工に変装して海外に脱出=亡命。翌52年ルイ・ナポレオンがナポレオン三世となって帝政が始まるや「第二帝政が倒れるまでフランスの地は踏まない」と宣言した。                                                                                                                            51年のクーデターは、ルイ・ナポレオンが、比較的権限が弱かった大統領職の「決められない政治」を嫌い「議会は邪魔だ」として起したもので、「決められる政治」を標榜して「手続」「権限」の変更を叫ぶ、21世紀某国の新興政党の主張とどこか似てません?                                                                                                                                                                                                                                                             で、『レ・ミゼラブル』は1862年に完成した。発売を待つパリ市民は発売当日行列を作って歓迎、「仲間が金を出し合って一冊購入し、クジをして当った者がみんなの回し読みが終わったあと自分のものにするそうです」とパリ在住ユーゴー夫人がユーゴー亡命先へ送った手紙があるそうだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          ちょいと余談だが、高校時代に、天正三年(1575年)本多重次が、長篠の戦の陣中から妻に宛てた手紙「一筆啓上火の用心 お仙泣かすな馬肥やせ」を「日本一短い手紙」と習った(憶えてます?元高校生諸君!)が、その時一緒に国語の教師から「世界一短い手紙」の例として聞かされたのが、売れ行きを心配していたユーゴーが、亡命先から出版社へ送った手紙だった。                                                                                                                                                                                                            その文面は「?」のみ。粋な出版社が、何と「!」のみのシャレた返事を返した。 お見事!!                                     1870年7月、普仏戦争が始まり9月2日、ナポレオン三世がプロイセンの捕虜となり、翌々4日にフランスが共和国宣言をすると、帰国のタイミングを計ってブリュッセルに待機していたユーゴーは、翌5日にはパリへ向かう車中に居た。市民自前の政府を構想する者のバイブルとして『レ・ミゼラブル』を読んで来た大群衆の歓声に迎えられ、パリ北駅に帰還したユーゴーは、出迎えの女性文人(28歳の才媛で、その後には愛人だと・・・。この時ユーゴー68歳。羨ましい{笑})と仮居へ向かう途中、四度にわたり民衆の歓呼に応えバルコニーや四輪馬車の上から街頭演説をし、民衆蜂起を促し鼓舞した。仮居に落ち着くと、早速、普仏両国民に和平・不戦を呼びかける文書や、パリ市民に徹底抗戦を訴える声明などを発したりした。                                                                                                                                                                                                     秋、プロイセンによるパリ包囲が始まり、翌71年1月28日、国防政府は降伏する。2月8日、国民議会総選挙でユーゴーはセーヌ県43名中2位で圧勝当選。ボルドーで開催されていた国民議会で絶対多数の王党派の攻勢を受けて嫌気が差したのか、国民議会に未来なしと見切って違うことを展望したのか、議員辞職。共和派のリーダーが何すんねん?と非難殺到。同13日、長男シャルル死亡。18日パリに遺体を運び埋葬。その3月18日にちょうどコミューンが成立。                                                                                                                                                    3月26日のコミューン議会選挙に立候補したユーゴーは、先日の国民議会議員辞職も影響したのか、ユーゴーの言い分が民衆独裁を目指す多数派に比して「中間派だ」との烙印を押されたのか、コミューンの熱狂の中でともかく落選。やがて、パリ北駅への華々しい凱旋から6ヶ月半、ユーゴーはパリを脱出、ブリュッセルへ。ブリュッセルで、パリ・コミューン72日間の最後5月末の「血の週間」の亡命者を匿うと表明。ベルギー政府の怒りに触れ国外退去命令。                                                                                                                                                          『レ・ミゼラブル』において、1832年6月の蜂起に人々による政府への希望と可能性を描き、1848年の国民議会には自ら国会議員として立ち、その後のナポレオン三世の帝政に抗い亡命生活を続け『レ・ミゼラブル』を執筆し、1862年にその『レ・ミゼラブル』を完成させ、市民喝采の中で出版し、1870年9月対プロイセン戦争敗色濃いパリに大群衆に迎えられ凱旋、翌71年2月国民議会立候補圧倒的票で2位当選、多数派=王政派との攻防の疲労、共和派内の齟齬などから辞任、3月26日コミューン議会選挙で落選。パリ脱出。コミューンの中枢を批判する言論多数。コミューン陥落後、亡命者支援を計画。                                                                                                      以上が、パリ・コミューンとヴィクトル・ユーゴーとの交差の概略である。                                                                              (その後のユーゴーの足跡は 各種研究書に詳しい)                                                                                                                                                                                         

【民衆ではない民衆主義者の隘路】(保守派=王党派と民衆原理主義に挟まれた理想主義者の悲哀)                                                                             ユーゴーはパリ・コミューン全体について、知識人らしい精一杯の関与と違和感と忸怩たる失意とをまとめて、まだコミューンが生きていたさ中に語っている。コミューン選挙での落選という不快事実が影響してか、コミューン推進者(選挙当選者)の大部分に対し「無知・無学」呼ばわりするという、いささか冷静を欠いた批判になっている?                                                                                                                                                  『ヴィクトル・ユゴーの政治意識と教育観』(学習院大学:川口幸宏論文 http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~920061/hugo01.htm )より転載。                                                                                                                                                   『4月28日付書簡でこう言っている。「3月18日以来、パリは、よくないことには、無名の人たちによって、しかも、さらに悪いことには無学の人たちによってリードされています。どちらかと言うと先導的でないついて行くタイプの幾人かのリーダーを除いて、コミューンは無識です。」ユゴーは、フランスは精神でパリは頭脳だとする。「ところが、パリ・コミューンではフランス国民会議多数派(王政主義の多数派)はフランス(精神)を知らず、パリのコミューン議会はパリ(頭脳)を知らない。(ユゴーが落選した)3月26日の選挙で当選した議員は、ごく一部を除いて無名であり無学である。とうてい「頭脳」パリをリードできる能力などない」としている』                                                                                                                   民衆に期待し、民衆の可能性を称えたはずのユーゴーが、民衆への失望によって打ちのめされている。ユーゴーの言い分は、果敢に現実政治にコミットした「行動する知識人」としてのある「重み」を持ったもので、「無知」「無学」は確かにそれ自体が民衆の自治の「敵」だろう。そこに、ユーゴーの『教育論』の核心もあるのだろう。                                                                                                                                           確かに今日、学歴や偏差値や国・産業界からのみ評価される「知」や「学」ではなく、ユーゴーが期待した「知」や「学」、つまり真の意味での「知恵」「識知」「道理」「自尊・他尊」を民衆の側が築かないことには、21世紀にも居る善意の(悪意や仮面はそもそも除外)「知識人」「口先に見えてしまふ評論家」「心ならずも、失意と違和感を抱えて撤退」という、ユーゴー風知識人の言動・対応を云々など出来ないのではないか?                                                                                           民衆の自立という時、民衆を云わば「甘やかす」(語弊があるが)論にはぼくは立てない。だから、山田洋次(実は、大好きなんですよ)的民衆性善説にも、まるでイチャモン・ケチ付けの類の異論を吐いて来た。民衆(好きな言葉ではないが)自身が自らの「無知」「無学」に自省的でないなら、そこにユーゴー批判が生きたものになるはずもなく、民衆による「革命」など空恐ろしいシロモノだぁ~。                                                                                                         そうした、ぼくの言い分は別にして、映画『レ・ミゼラブル』は一級の出来だと認めたい。壮大な、社会変革のユーゴー風基本綱領を人間ドラマでもって描いて見せた。手抜きの無い画面はただ圧倒されるばかりだ。原作(読んでませんが)からの因子だろうアレコレの奇妙になど拘る間もなく畳み掛けられた迫力には、「勧善懲悪」「お説教」を超える原作者の意志を感じた。                                                                                                                            そして、ユーゴーが『レ・ミゼラブル』に示した民衆への期待、作品発表後に遭遇したパリ・コミューンへの肩入れと失望を貫いて在るのは、あの価値観、あの信仰、と言っては不適切なら確信、ではないのか?

【歴史は、一個人に全社会的課題を背負わせること・解決を依頼すること、その危険と無理を示して来た】                                                                                                                  マリウスを肩に担いでパリ下水道を行くジャン・ヴァルジャンは、ゴルゴダの丘へ向かうイエスを連想させ、ヴァルジャンを次々と襲う苦難からは、「原罪」「試練」というキリスト教概念が浮かぶ。その大苦難を越えて行くヴァルジャンは民衆とイエスの中間に位置する超人でもあるのだ。                                                                                     けれども、ぼくは思う。ユーゴーが民衆に期待しながら、パリ・コミューンの人々を無知・無学と罵る(我慢を重ねた挙句だとは思うが、そして無知・無学と呼ぶしかない無理難題に日々まみれたのだとは思うが)のに対して、ヴァルジャン的超人への期待(と言うより信仰)が不変なのは、民衆による社会変革への確信よりも、超人による社会変造を信用しているからだと、言えはしまいか?                                                                                               神格化された政治権力者や、全知全能真理教の教組や、熱狂的に迎えられる新興党の党首に、自らの未来への航路の操舵を委任したりはしないという智恵が、たぶん近代最大の獲得品だと思うのだ(いや、獲得出来ていないのか。映画『エ・ミゼラブル』の同時代1832年から180年、ぼくら現代人は何を学んで来たのだろう)。                                                                              その理路の門前で立ち尽くしたユーゴーこそは、「近代」そのものだと思う。                                                                                   ユーゴーの理想と限界、十九世紀民衆の熱想と21世紀民衆の沈黙、対比されるべき二つの実態が、あの素晴らしい映像の中で衝突していた。ならば、これは、ひとつの挑戦状なのだ。さらに、ユーゴーへの質問状だ。それは、そのまま、ぼく自身への問いでもある。                                                                                                                       『ユーゴーさん、あなたは1832年六月蜂起の若者を支持し、ヴァルジャンをバリケード・シーンに登場させたりしました。一方、現実のパリ・コミューンでは、違和感を持ち失望のうちに去ります。では、パリ・コミューンの序章たる1832年六月蜂起と起った人々への支持・共感を削除訂正や加筆修正しますか?』                                                                                                                            さらに言うと、各登場人物個人の苦難も悲惨も受難も「実は社会的なんだよ」と示しながら、その課題とその乗り越えを超人ヴァルジャン一人に負わせ過ぎなのも、ある価値観ゆえだと目星が付く。それは辛いし困るのだ。ぼくを含め、個人の受難の殆どは社会的な理由に因るのだと考える者の多くは、今では、その解決への方法と答えは、一人の超人でも唯一絶対の教義でも非寛容な教条でもなく、人と社会との・人と人との多様な「関係性」の中にこそ在ると考えている。                                                                                                                                                                                                    

【女優さんのこと】                                                                                                                    

 

最後に役者のことですが、                                                                         ヒュー・ジャックマン、ラッセル・クロウは安定して堂々の二枚看板。                                                                                   女優は、86年『眺めのいい部屋』(今正月再映するらしい)でヒロイン:ルーシーを瑞々しく演じ、一昨年『英国王のスピーチ』でジョージ6世夫人エリザベス(これ素晴らしいのです)を演じたヘレナ・ボナム=カーター。                                                                                                 ファンティーヌ役のアン・ハサウェイはゴールデン・グローブ賞助演女優賞受賞だと。                                                                                             予告編を観て興味を持ち映画館へと出かけた『クロエ』の女優:アマンダ・サイフリッドがコゼットを演じていて、えっ?と驚き。                                                                               エポニーヌ役の女優:サマンサ・バークスはスカーレット・ヨハンソンと争って勝ち取ったそうで、なるほど輝いていた。彼女はええね。

 

                                                                                                                                              リンク映画:                                                                                                                                                                                                              『アデルの恋の物語』(1975年)                                                                       ユーゴーの次女の破滅的恋の物語。                                                                                               ユーゴー亡命中に知り合ったイギリス軍中尉を追って、単身カナダへ、・・・。                                                                                                                                                         監督:フランソファ・トリュフォー 主演:イザベル・アジャーニ。                                                                                                                                   http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id923/ イザベル19歳の鮮烈。                                                                                                              

『眺めのいい部屋』(1986年)                                                             20世紀初め、イギリスの良家の子女がイタリアへ旅行し・・・。                                                                                                                        『日の名残り』のジェイムズ・アイヴォリー監督、ヘレナ・ボナム=カーター主演。                                                                                                                                        どういう訳でか再映: この1月12日からニュー・プリント版で、 テアトル梅田にて                                                                                                      http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD545/index.html

たそがれ映画談義: 『桐島、部活やめるってよ』

 http://www.youtube.com/watch?v=KjjG0WTQ6C4                                                                                                                     

YouTubeへの投稿より一篇転載:                                                                                             痛いです。ものすごく痛々しい。                                                                                                                           最初は「あ~こういう奴いたな」「自分はこっちグループだったな­」なんてにやにやしてました。                                                                                   しかし途中から、キツくて直視したくない逃げ出したいような感覚­になりました。                                                                                あの頃はよかった…なんて美化しがちですが、高校時代って本当は­痛ましくてかっこ悪いことの連続だった気がします。少なくとも自­分自身は。                                                                                               この痛々しさが、切ないくらいに美しく感じられました。すごい映画です。  (20代の若者からだろうか?)*****************************************************************************************************************************************

『桐島、部活やめるってよ』(12年、現在公開中) http://eiga.com/movie/57626/  監督:吉田大八、 聞いた名だと思ったら、                                                                                                                         『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(07年。佐藤江梨子、永作博美)  http://www.phantom-film.jp/library/site/funuke/                                                                      『クヒオ大佐』(09年。堺雅人、松雪泰子、満島ひかり) http://www.youtube.com/watch?v=6NCvrZpazWE                                                                                                                   『パーマネント野ばら』(10年。菅野美穂、池脇千鶴、小池栄子)  http://www.youtube.com/watch?v=GEN8BKixi74 (http://www.yasumaroh.com/?p=6286)と                                                                                                                その全作品を観ていて、しかも結構お気に入りの作品たちだったのだ。今回、四作目を拝見。

素晴らしい映画でした。バレーボール部のエース:桐島が部活をやめるらしい。桐島は所在不明。                                           たぶん作者の分身だろう帰宅部の菊池と映画部の前田を始め、中学時代大学生と付き合っていたと噂される桐島の彼女梨紗、ちょっと大人でクールで冷静という名の処世術を手放さないカスミ、桐島の代役を押し付けられた技量不足の風助に感情移入するバトミントン部の実果(個人的には女子の中で一番気になりましたが、ラスト近くバレーボール部の練習時に風助へのシンパシーを口にする。あれはいけません、黙っていなさい)、帰宅部菊池への不器用な片恋に悩む吹奏楽部部長の亜矢・・・・・・ 不在の桐島(最後まで桐島は登場させない)への距離、今居ないことへの感慨、事態からそれぞれが「自身の部活・非部活・高校生活」を問い始める。二年生。彼らの中を順に視点を移動させながら事態を立体的に描く手法も、実に上手く行っていた。                                                                                                                                                                                             ぼくの高校時代とは違う生徒達の表現の「直截性」や「可視性」に違和を感じながら、時代を経て変わらない彼らの「俗情」「邪心」「シャイ」「秘めた真剣」「ついそうしてしまう茶化し」などなどに安堵したりで、現代高校生の生態と状況を見事に切り取っていると、知りもせず思うのだった。                                                                                      現在(いま)を切り取っているとして、しかし、ここに登場する準エリート(地方の二流以内の公立進学校生)ではない、いわば四流五流校とされる高校・落ちコボレ・引きこもり・逆にアウトローとして街に出る・・・などの貧困(経済的、状況的、精神的に)高校生を描く映画を撮らねばならない義務を、監督:吉田大八は負ってしまった、と思う。そうしてこそ、両側から時代に迫れるのだろう。                                                                         作者は『桐島・・・』に教師や親を登場させないのだが(そこがまた素晴らしい)、そしてまた政治や社会への回路もあえて描きはしない。説教調で浅はかな取って付けた社会性ほど不快なものはない。生徒たちは、狭いムラで「自分たちだけ」の「自己責任(?)」において事態に対処し解決してゆくのだとでも言うように、幼い「大人」なのだ。その「大人」観察眼の自制的な目線は、あるリアルを捕らえる吉田流の作法でもあるようだ。 その先に当然現在(いま)が在り、社会が在る。                                                                                                                                                                                                                                          吉田大八はここで描いたリアルをバネに、前述した底辺(?)校やドロップアウト生の掴み難いリアル、それをたぶん違う方法で掴み描くだろうと思う。だから吉田大八には、自身の地域活動を「世田谷方式」などと高く自己評価(大塚英志から「ファシズムを下支えするモノへの転化」の可能性を皮肉っぽく指摘されてはいるが)して悦に入る(?)宮台真司に感じたような、ハイソエリート主義(?。失礼)への遠疎感は抱きはしなかった。                                                                                                                                                                                                                                                                     続編、期待したい。                                                                                       

それにしても、優れた作品(だとぼくが思っている)を含めて、強圧にも誘導にも譲ることのない固有性と 出来事の背景を抉り出す鋭い社会性と 人々を仮当事者へと叩き込まずにはおかない迫真性と 現在(いま)を射抜く全体性を湛えた「堂々たる」日本映画に久しく出会えていないような気がする。                                                                                                                                                         例えば、ヴィスコンティの『山猫』、ベルトルッチ 『1900年』、内田吐夢『飢餓海峡』、小栗康平『泥の河』なんてね・・・。                                                                                                       何が、微細化し「私」化し俗欲化しているのか? そこは、「美しい」ものたちがいくらでも浸透できる液状化した砂地だというのに。                                                                                                                                                                                                                              

 

                                                                                                                                                                                                                                                                        、

 

たそがれ映画談義: 小百合さん撮影中作品 『北のカナリアたち』 秋公開

 2012年11月3日(土祝)全国東映系ロードショー キャスト|吉永小百合 柴田恭兵 仲村トオル 里見浩太朗 森山未來 満島ひかり 勝地涼 宮﨑あおい 小池栄子 松田龍平 スタッフ|監督:阪本順治/撮影:木村大作/原案:湊かなえ「往復書簡」(幻冬舎刊)/脚本:那須真知子/音楽:川井都子/製作:『北のカナリアたち』製作委員会/協力:ANA/配給:東映

前作『おとうと』にやや失望( http://www.yasumaroh.com/?p=3233 )しただけに、撮影中の本作には期待してます。                                                                                                                   生徒たちの20年後を演じる6人の若手についてもいずれも好きな役者さんなんで、それも楽しみです。                                                                                                      「告白」の湊かなえの著書「往復書簡」を原案に、吉永小百合主演、阪本順治監督で描くヒューマンサスペンス。日本最北の島・礼文島と利尻島で小学校教師をしていた川島はるは、ある事件で夫を失う。それをきっかけに島を出てから20年後、教え子のひとりを事件の重要参考人として追う刑事の訪問がきっかけとなり、はるはかつての生徒たちに会う旅へ出る。再会を果たした恩師を前に生徒たちはそれぞれの思いを口にし、現在と過去が交錯しながら事件の謎が明らかになっていく。

                                                                              http://www.kitanocanaria.jp/                                                                                            

たそがれ映画談義: 女優 L・Aの隠居、ヴィスコンティ不在のイタリア映画

ヴィスコンティ&女優 L・A

ルキノ・ヴィスコンティの作品を最初に観たのは64年高校二年だ。作品は『山猫』だった。                                                                                                           65年:高三になって、確か60年に公開されたというある古い映画を、行ったことの無い名画館で映っているのを見つけ、「ヴィスコンティの前作を観るべし」と理由を付けて出かけた。神戸新開地の「大洋劇場」(記憶不確か)という名の上映館を捜し訪ねた。                                                                                                                       アラン・ドロン、アニー・ジラルド、レナート・サルヴァトーリ、クラウディア・カルディナーレなどが出ていた。『若者のすべて』だ。                                                                                                          その後ヴィスコンティ作品は 『地獄に堕ちた勇者ども』(69年)、『ベニスに死す』(71年)、 『ルードヴィヒ』(72年)、『家族の肖像』(74年)、『イノセント』(75年、日本公開79年)、と観て来た。ヨーロッパの文化や伝統の死に立ち会う者の悲哀と、ヨーロッパへのいささかの(実は根本的で深い)矜持が、アメリカ的・即物的・効率優先のイズムに圧し潰されて行く景色を受容れざるを得ないことへの切情濃厚な70年代の作品には、間違いなく「死」ということへの彼の意識が重なって見えていた。ヴィスコンティは「死」を意識している。凡感なぼくにもそこはビンビン伝わって来た。                                                                                                 遺作となった『イノセント』では、撮影の後半期になってヴィスコンティの病状進行したが、押して現場入りし最後まで車椅子上で演出した。が、封切を見ることなく他界した。76年3月没、満69歳。ヴィスコンティについては、ヨーロッパをそれなりに知っていないことには語れないが、ぼくなりの切り口でいつか語ってみたい。                                                                                                                                                                  彼の死後、「ヨーロッパの擬敗北」と「伝統への矜持」を言内外に語る「堂々たる」ヨーロッパ映画に出会えていないように思う。 

出自はミラノの伯爵家、生涯イタリア共産党員、バイセクシャルであることをオープンにしていた。そのヴィスコンティならではの純粋美的芸術的視点(?)から、彼に「ヴィーナスの体をしている」と言わしめ主人公の妻役に採用させしめた女優を、観ようという俗情に大いに駆られて、労働争議でバリケード占拠していた社屋を抜け出し、遺作『イノセント』を観に行ったのだったと思う。その女優の名を知った。ラウラ・アントネッリと言う。                                                                                                                                                    後年『イノセント』を再度観て、その女優を別の機会に観たことを思い出した。TVで放映されたイタリアン・エロチック・コメディなるジャンル(艶笑劇?)の映画『青い体験』(73年)の女優ではないか。吹き替えの声優が、ヘップバーンや『銀河鉄道999』のメーテルの池田昌子さんだったので、よく記憶していた。                                                                                                                                                                                                                                最近、その女優の経歴やその後を知った。                                                                                                       1941年イタリア領だったクロアチア生まれ、65年映画デヴュー、映画『コニャックの男』で競演したジャン・ポール・ベルモンドと71年ごろから10年近く愛人関係。75年のヴィスコンティ遺作『イノセント』以外にも、エットーラ・スコラ、マウロ・ボロニーニなど大物監督に使われた。『青い体験』と『パッション・ダモーレ』(81年)では、イタリアで権威あると言われる映画記者協会が選出するナストロ・ダルジェント賞主演女優賞も受賞している。

1991年、50歳で出演した『Malizia2000』(『青い体験』の原題が「Malizia」)で、プロデューサーと監督から「しわを隠せ」とコラーゲン注入を勧められ手術を受けて失敗。最後の映画となった。同年、自宅でコカインが押収され禁固刑判決(抗告の後、判決取消)。現在71歳だなぁ~。                                                                             イタリア映画。戦後すぐのデシーカ、フェリーニ、ロッセリーニから、ヴィスコンティ、アントニオーニなどへ続く映画作家たち、『靴みがき』『自転車泥棒』『にがい米』『道』『鉄道員』『刑事』『甘い生活』『ふたりの女』『鞄を持った女』『太陽はひとりぼっち』『ブーベの恋人』『誘惑されて棄てられて』『アポロンの地獄』『ひまわり』『山猫』『地獄に堕ちた勇者ども』『ベニスに死す』『家族の肖像』『イノセント』などの作品群、シルヴァーナ・マンガーノ、シルヴァ・コシナ、ソフィア・ローレン、ジーナ・ロロブリジーダ、ジュリエッタ・マッシーナ、クラウディア・カルディナーレ、ステファニ・サンドレッリ、ラウラ・アントネッリなどの女優さん。ハリウッドがちょっかいを出す、欧州の側も半ば喜んで尾っぽを振る、本来の個性・美点・美学が損なわれる・・・。けれど、女優は、気付き最後に故郷に戻って来る。戦後の、ハリウッドとヨーロッパ映画界との関係の経済版が今日のグローバリズムだと言えなくはない。

映画は、テーマ・パークなんかで再体験することでも、こけおどしのセット見学でもジェットコースター感覚の投機ごっこでもないのだ。                                                                                                     USJになんか、絶対に行くものか!                                                                                                 ハリウッドに席捲され、慌て恐怖し・・・、60年代末70年代の日本映画でのヤクザ映画、ロマン・ポルノのごとく、イタリアではマカロニ・ウエスタン、イタリアン・ホラー、イタリアン・エロチック・コメディという流れとなって行く。                                                                                                   自身もハリウッドに「進出」し、個性をやや歪められた時期(つまりハリウッドばりの「肉食系」体形作りとファッションやヘアスタイル)も持つラウラ・アントネッリの、盛衰変遷・寂しい終わり方にも、ヨーロッパの悲哀が見えてしまう。                                                                                                                              『イノセント』と少しの作品以外は、イタリアン・エロチック・コメディに終始した女優人生だったが、ヴィスコンティの言う「ヴィーナスの体」(母性へと連なる、それこそヴィーナス系のたおやかさ)と醸し出す雰囲気や陰ある表情が、アンチ・ハリウッドやイタリア内亜流(クロアチア)を主張していた。ご苦労様でした。                                                                                                                                                                                     ヴィーナスの体を無修正でご覧になりたいむきへの情報:                                                                                             http://filmscoop.wordpress.com/2009/08/13/laura-antonelli/  http://bigi.umu.cc/antonelli-p.html   

たそがれ映画談義: 「公」務の原圏・・・『オレンジと太陽』

『オレンジと太陽』

マーガレット(主人公)のような公務員を一人も居なくするのが橋下行政だと思う。

連休中に滞在した名古屋で観るつもりが果たせず、帰京してから神保町の「岩波ホール」で観た。 http://oranges-movie.com/                                                                                                                                     チラシのコピーにこうある。『母と引き離され海を渡った13万人の子供たち。英国最大のスキャンダルといわれる“児童移民“の真実を明らかにし、幾千の家族を結び合わせた 一人の女性の感動の実話。』                                                                                            えっ、13万人も? それが永く闇に埋もれていた? しかも「揺りかごから墓場まで」の社会保障大国、あの大英帝国で?                                                                                                                                                                                                                                                                             何と累計13万人(19世紀から1970年代まで)もの孤児や貧困家庭の幼児をふくむ子どもたちが、題名の「オレンジと太陽」の通り「オレンジがたわわに実り陽光が降り注ぐ」国であると教えられたオーストラリアへ、実の親の承諾も本人の同意もなく、政府の認可を得た慈善団体や教会を窓口機関として、強制移民させられていた。                                                                                                                      主人公:公務員マーガレットは、オーストラリアで成人した女性から英国に居るはずの母を捜してと求められたのをきっかけに、政府が関与する大掛かりな強制移住のシステム総体を解き明かす途に就くこととなる。実際それは、いわば「棄民」であり合法的な「処分」、「棄童」だった。彼女は、捨て置けない「事実」の調査と「棄童」された個人の救済(親を探す。出自を明らかにする。出来れば再会を実現する)に乗り出す。ソーシャルワーカーという言葉は、日本では国家資格「社会福祉士および精神保健福祉士」のことだそうだが、彼女の乗り出しがまさにソーシャルなワークだ。

オーストラリアへ何度も脚を運び調査し、証言を得てゆく。強制移住先のオーストラリアでの実態は、頼る者とて親しかない無力な幼児が耐えるには苛酷過ぎる様相だった。教会や孤児院に収容され、建設、労務、下層労働者として酷使された児童労働、暴力や性的虐待の実体も明らかになって行く。                                                                                                 そもそも人間の子は、生誕からして他の哺乳動物(生れたその日に立つ馬・鹿など)に比べ極めて未熟な状態で生れ出るが(脳が肥大した為、産道を通れる間に生れ出なければならない。からだそうだ)、その後も実に無力で乳幼児期を通して母性の情愛と育児努力に包まれ、はじめて人間になって行く。その過程は、一生を左右するほどの力を持っている。そこに欠落や不具合があった場合、人は多くの場合、個人の知恵と努力、社会の援護で克服して来た。が、修復や再構成に至らない例も多くあるところだ。母子の関係は公的なのだ。私的個的であって、その「私」性「個」性を保障する関係性総体が「公」的なのだ。                                                                                                                               オーストラリアの教会や孤児院で成長し、英国から来た日の記憶がある、そうだあの埠頭・・・、母国に母がいるかも知れない。                                                                                                                                                                                      私の母は? 私は誰? そう訴える人々・・・。その心情に触れて心を揺さぶられない観客は居るまい。                                                                                                                                                                                マーガレットの奮闘が始まる。公務員の努力の真髄とはこういうことだよ橋下さん、と、怒りでワナワナとなった。「公」的な努力や、「公」的な意義や意味と言うものは 元々数値化には馴染まないものたちだろうが。                                                                                      

三つのことが頭の中をクルクル巡って、神保町から水道橋へ歩いた。昔(1972)水道橋に事務所を置く会社に勤務していた時、よく食った「天丼屋」に向かった。その店はまだあって、追加トッピングに「きす」を頼んで、当時と同じことをしてみた。 当時と変わらず美味かった。                                                                                                                                               (一)                                                                                                                                                                                                      マーガレット像は、チラシの「***を実現させた一人の女性」から連想される「不屈の女」などではなく、調査対象者の押し寄せる苛酷な過去・心情・心傷に同化して、で我が身がいっぱいいっぱいになってしまうタイプ。泣いたり・めげたりもする。ちょっと特筆しておきたいのが、マーガレットの夫(マーヴ)氏のことだ。凹むマーガレットには、彼女をいつも支える夫が居る。夫は我が事として援護する。仕事柄の係わりなのかもしれないが、保健省との資料公開請求の交渉にも同席して抗議する。彼女の長期オーストラリア行きの間の家事などもこなす。一方が集中して取組んでいる意味ある事柄には他方が援護・助力する・・・。 互いにこの夫婦のようでありたいと希って来たが、どうもねぇ・・・まぁ落第ですが。  この夫婦、好きですなぁ。                                                                                                                                                                        (二)                                                                                                                                                        マーガレットがジックリと腰を据えて調査する必要から、仕事のシフト変更依頼を恐る恐る申し出る場面で、仏頂面の上司が特段の配慮を示すのだが、その場面の上司、良かったね。働いて来た時間の中で、ときにこういう人に出遭ったね。こうした善意と気配りをする人は無愛想だよね。当方、久しく出会ってないが、現場仕事では職人さんから「暖かいもの」をしばしばいただいている。世の職場にはもう無いのかな。大工場の労働組合に、ぼくが現場で職人さんから貰っているものが生きているのだろうか?                                                                                                                                            ここでの本旨は、マーガレットの要請以上の時間と立場を保障する、ことの重大性に気付いた行政当局の対応だ。行政は効率と数値化じゃないんです橋下君。業績を数値化する、損益を企業的にはじき出す、教師は生徒の学業成績の昇降で評価する・・・、そうか? そうなのか?                                                                                                                                     たとえば教師が、マーガレットが直面した難題の 100分の一の課題(例えば超問題家庭)に取組めば(そりゃ、取組むのが本来の「公」務員だろうけど)、時間と体力と精神力を奪われ橋下が言う「成果数値」が下落するのは目に見えているかもしれない。 ハシズム、クソ喰らえ!                                                                                                                                                                                                                                                                                             (三)                                                                                                                                                                       我が母のことを思っていた。乳幼児期を乳母の許で過ごし、三歳児で実家に戻り、実母になつかず実家に馴染まず、結果母子は互いに不幸な関係を続けた。母は現在満92歳で、特養施設に入居している。さすがに体力的には年相応の状態だが、頭脳明晰にして口達者。乳児期の母に対し、溢れる母性を発揮し(実子を喪った直後だった)、我が子のように慈しんで接してくれた乳母、その乳母の記憶が大正・昭和・平成を生きた母の「自分史」の核であり、出発地であり到着地だ。 『八日目の蝉』とこの度の『オレンジと太陽』で母のことを強く思い返した。                                                                                                                                                           http://www.yasumaroh.com/?p=8236

私は誰? そう問う天与の権利が、人間というもの全てに等しく具わっているのだ。                                                                                          どのような権力であれ、団体であれ、それを否定することは出来ない。                                                                    

なお、この映画の撮影中、2009年11月にオーストラリア政府が、2010年2月に英国首相が、初めて公式謝罪を行なったそうです。

 

 

たそがれ映画談義: 浦山桐郎 初期三部作

浦山桐郎初期三部作、山田洋次新作のことなど

年末のブログ、2011年に逝った人を挙げた記事の、脚本家石堂淑朗という名と共にあった映画:「『非行少女』って何でしょう?」と若い人から質問がありましたので、お答えしておきます。                                                                                                                         【『非行少女』:あらすじ→goo映画 http://movie.goo.ne.jp/movies/p21010/story.html 】

彼女によれば、ネット検索しても『非行少女ヨーコ』なる作品にヒットして、監督名と共に入力しても、「画像なし」「ソフトなし」「中古品¥28,000」(ソフトが廃版なんでしょうね)だそうで、「これは成人指定映画?」「よほどのお宝エロ・シーンがあるのですか?」となる。ちなみにぼくはそのビデオを持っているので、お望みならお貸し出来ますが・・・。互いの住所確認などお厭でしょうね。                                                                                                                                                            日活に浦山桐郎という監督が居りました。この人は1930年生まれ、敗戦時に15歳ということになる。1985年に55歳で早逝しています。同世代の映画監督としては、大島渚、山田洋次、篠田正浩、熊井啓、吉田喜重などがいる。50年代~60年代初頭の日活映画を注意深く観ていると「助監督:浦山桐郎」というクレジットに出合う。確か『幕末太陽傳』(監督:川島雄三)や『豚と軍艦』(監督:今村昌平)もそうだった。監督第一作が62年『キューポラのある街』で第二作が63年『非行少女』、第三作が69年『私が棄てた女』。これを、ぼくは「初期浦山三部作」と命名して一文を書いたことがある。浦山は観客動員が見込めない映画ばかり企画しては日活を困らせた問題児で、ゆえに寡作家であった。その後75年・76年に東宝で『青春の門』二作、83年断末魔の日活で『暗室』、85年東映で『夢千代日記』。生涯に全部で9作だった。が、初期三部作以降の作品は、三部作を越えられなかった。                           

ぼくが、『キューポラ』『非行少女』『棄てた女』が三部作だというのは、60年代の「おんな」の悪戦を、主人公に寄り添って描き、同時に自らの「戦後第一期青年性」とその限界を等身大に描いた誠実がそこにあり、間違いなく「時代」を切り取ってみせたと思えたからだ。浦山は、主人公ジュン(キューポラ)、若枝(非行少女)、ミツ(棄てた女)を、60年代を生きる少女~おんなとして、時と境遇の違いを越え、同じものの変容態として提示し、もって「時代」の正体を逆照射して見せたのだ。それは、そのまま自身=男の正体を晒すことでもあった。

『三丁目の夕日・異論』( http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re57.html#57-3 )で書いたが、東京タワーを背に蠢く三丁目の人々が、アッカラカンと置き去りにして行くものども・ことどもにこそ「時代」を視ていた浦山が選んだ主人公三人は、貧困と無知に正面から立向かおうとするジュンであり、そうは出来なかった若枝(注:まわり道をして遅れて挑むラストです)であり、60年安保学生に棄てられる集団就職のミツである。三丁目の六子(堀北真希)のような虚構の「いい子ちゃん」などではない。彼女らは、浦山が捉えた「時代」と「おんな」を、従って「男」を三作を通してようやくおぼろげに示したのだった。                                                                                                                        質問者でも知っていよう『キューポラ』のジュン(吉永小百合)が、貧困・進学無理家庭の、いわばその層内の精神的エリートだとすれば、『非行少女』の若枝(和泉雅子)はノンエリートであり、『棄てた女』のミツ(小林トシエ)とは、彼女らの無垢な努力に共感を覚えながら、「所得倍増」「高度経済成長」に走った元左翼青年のモーレツ勤労者に再び棄てられる存在なのだ。                                                                                      それはそのまま、時代が「選び取り」「選び棄てた」もの全てだと語っていた。                                                                 「お前が棄てたもの」は何なのか?と。                                                                                                                              ところで、良い映画とは確実に「時代」を写してもいるのだが、浦山桐郎と同世代の作家とは、思春期に戦争を体験し、戦後の混乱期と復興期に大学に学んでいる。その奥深い記憶の光景は、戦争・焼跡・闇市から復興・所得倍増・モーレツとバブルに走る狂想曲であるに違いない。彼らが描く世界には、その光景と「今」とが写し取られていた。

山田洋次が「男はつらいよ」のヒットを背景に、盆・正月に「寅さん」を撮ることを交換条件にして、数年に一本自主企画実施を松竹に飲ませ、世に出した作品群は実に時代を写し取っていた。『家族』『故郷』など「民子三部作」、『幸福の黄色いハンカチ』『ダウンタウン・ヒーローズ』『学校』『息子』『母べえ』などがそれだ。そして、寅さんこそ、実に時代を描いていた。                                                                              話は変奏するが、『寅次郎忘れな草』のリリーさん、ええねぇ~! 時代のインチキ提案とは和解すまいとアナーキーに生きる者の「孤独」「不安」「自立」は、地位・家・財との現実的距離感も確立したい模索の中に在った。全48作中、寅さんとぼくが最も惚れた「おんな」なんですねぇ。浅丘ルリ子が100年に一度出会った役として演じていた。リリーさんは難しいことは言わないが、困難な生であり、見事な世紀末の「おんな」振りの可能性を示していた。その先に確実に「時代」が立ちはだかっていた。願わくば、リリーさんは一回こっきりの登場にして欲しかった(スミマセン、ミーハー願望です)。                                                                                                        実際には、その後『寅次郎相合い傘』『ハイビスカスの花』『紅の花』と三作に登場                                                                                                                                                                                                                     最近の日本映画には、何が写し取られているのだろうか・・・?と不安だ。                                                                                                           山田さんが、『東京物語』(小津安二郎)をベースに、いわばその21世紀版らしい、『東京家族』を撮り始めるという。今秋公開か?                                                                                      出演は、菅原文太、妻夫木聡、蒼井優、市原悦子、室井滋、夏川結衣とぼくの好みの役者ばかりだという。楽しみだ。                                                                             

不器用だった浦山桐郎を久し振りに思い出させてくれた通信でした。                                                                  『非行少女』の印象深いシーンも思い出した。                                                                                                          寒い寒い夜、更正施設に入寮している若枝を浜田光夫が訪ねるのだが、廊下の洗面台前の窓越しの会話のシーン。今井正『また逢う日まで』の岡田英二と久我美子の窓ガラス越しのキス・シーンは映画史に残る名場面と言われているが、この和泉・浜田のシーンもなかなか・・・。                                                                                                                                          若枝の旅立ちのラスト・シーン。駅(確か金沢駅)の待合室の場面では、カメラが360度グルリと回りながら二人を撮るという禁じ手で、小説でいえばナレーション・地の文が足許フラフラ、定まらないみたいな論難があったのを記憶している。実際、その浮遊感に驚いた。批判の言い分は織り込み済みだったと浦山は語っている。

さて、後年「あの時代」として次のような括りになることだけは「大阪府民(?)」として避けたいものだ。                                                      『市民や・労働団体・市民運動・政党が官僚に認めさせ培って来た、高コストの施策を、官僚支配打破を謳い文句に、根こそぎ効率主義で斬って棄てようとする知事が選挙の圧倒的勝利を得て大阪に登場。                                                                      大阪府民は、威勢よく歯切れのいい知事を、レーガン・サッチャー・小泉のようにいやそれ以上に支持し喝采を送った。                                                                                     教育と福祉の場に競争と選別を持ち込み、競争に「勝てる子」を作らんとしている。初期に言った「子どもの笑顔が政治の中心」との言は「競争に勝って微笑む子ども」のことだったのだ。一握りの勝者と多くの敗者・・・儲ける自由・勝ち抜く自由・選別する自由・・・、そのことを子どもに排他的競争を通じて「教育」するのか?!!                                                                                                                                                                                     やがて、大阪を震源地とするハシゲ現象は全国を覆い、それがファシズムか否かの論争に明け暮れる知識人・政党を尻目に、21世紀型「ハシズム」として国民運動になった。就労先を探し歩き疲れ果てた「府民」は、己より弱いもの、虐げられし者、障害者、少数者、マイノリティ、在日外国人、女性・・・を排除すれば「俺の雇用は確保出来るのだ!」と、さらに一層「ハシズム」の運動員となって奔走し始めた。                                   2012年とは大阪発のそういう「時代」の始まりであった。』                                                           

そうさせてはならない!

 

 

 

たそがれ映画談義: 人になる契機、その固有性・不可侵性 そして普遍性

空気人形

パソコンを叩いていて、ふと気が付くと夜も遅い。たまたまケーブルTVを点けた。                                                                   日本映画専門チャンネルで『空気人形』という、誰の作品かも知らない怪しげな映画の深夜放送が始まるところだった。ビニール製のダッチ・ワイフが「心」を持ってしまうという物語だ。10分もすると「これはただものではないぞ」と感じて、見入ってしまった。                                                                                      ぼくにとっては予期せざる掘り出し物だった。(知っている人には当然の秀作だろうが)                                                                                                                 似た条件で、つまり知らず・たまたま・・・・という、ぼくにとっての掘り出し物作品に                                                            『虹の女神』 『カフーを待ちわびて』 『深呼吸の必要』 『ハチミツとクローバー』(これはややメジャーだが) などがある。                                                                                                           

『空気人形』2009年、監督:是枝裕和                                                                                            原作:業田良家(小学館:ビックコミック劇画『ゴーダ哲学堂・空気人形』)(業田は、小林よしのり『わしズム』に何度か登場。?!?!?)                                                                                                                                                                                                                                           出演:ペ・ドゥナ、ARATA、板尾創路、余貴美子、富司純子、高橋昌也、オダギリ・ジョー                                                                     http://eiga.com/movie/54423/video/  http://www.kuuki-ningyo.com/index.html                                                                                                                           【紹介サイトから転載】(「映画.COM」より)                                                                                                                                                 女性の「代用品」として作られた空気人形ののぞみに、ある朝「心」が芽生え、持ち主の秀雄が留守の間に街へ繰り出すようになる。                                                                                                                                                そんなある日、レンタルビデオ店で働く青年・純一に出会い、密かに想いを寄せるようになった彼女は、その店でアルバイトとして働くことになるが……。主演は韓国の人気女優ペ・ドゥナ。                                                                                                                                                             人は誰しも空虚な心を抱えていて、誰かに必要とされたい、そして誰かと繋がりたいと願っている──そうした現代に生きる人々の象徴ともいえる空気人形が、逆に、周囲の人々の孤独と空虚さを浮き彫りにしていく……。彼女が見た世界には、なにが満ちていたのか? 空気人形の初恋の行く末を見守ることは、私たちがいかにして他者と交わり、自分を満たしていくのかを探る心の旅でもある。                                                                                                                              後日、ネット上の評にピノキオ寓話・人魚姫症候群の系譜だと書かれているのを見た。

                                                                                                                                                                                                            09年、一昨年9月公開なのだが、見逃した。見逃したと言うより、仕事現場が繁忙だったのか記憶にない。                                                                                                                是枝裕和と言えば、この前年08年の『歩いても歩いても』を観て、人に薦めたりしていたのに、本作の情報が全く記憶されていない。                                                                                         是枝裕和で検索すると、他に『幻の光』(95年、宮本輝原作、江角マキコが表現した存在不安、生と死、素晴らしかった)、                                                                                      『誰も知らない』(04年、柳楽くんがカンヌで主演賞取ったね)、『歩いても歩いても』(08年)、『空気人形』(09年)、『奇跡』(本11年6月公開)、                                                                                                                   という具合に、家族や身近な人との城内という、「そのまま」では赦し合い・舐めあい・もたれ合い・甘えあう閉鎖性や世の「黙契」の出発地でもある場の、その関係性に潜む強固なものと儚いもの、その醜と美を・圧と開を描いて来た。1950~60のアメリカン・ホームドラマ(「パパ大好き」「うちのママは世界一」?)や、60年代の和製家族ドラマ(「七人の孫」他)や最近では「渡る世間・・・」と一緒にせんといて!                                                                                  (家族を描くTVドラマでは向田邦子「阿修羅のごとく」は秀逸です)                                                                                                                                                  人が生きて行く上で大切なものが、逆に醜く惨いものが、そして他者=社会に開かれ晒されて変容して行くものが、君が生きて暮らしているほらそこに在るよと示していても、ホーム・ドラマでも家族物語でもない。家族の再建や再集合を願っているように見えて、手放しの家族礼賛には決して与しない。逆に人が生きて行くヒント、生きて行く力は、家族的なるものを越えたところに開けると言っている。その上で、家族的なるものに、たぶん在る価値を認め活かそうではないか・・・、それはヒントになり力になる、そう聞こえる。金時鐘の言葉で言えば「切れて繋がる」に近い。                                                                                                                                                     この誤解されがちで困難なテーマは、ストーリーやセリフだけでは「議論」「説明」「主張」となりそうで危うい。そこは映画の力だ。風景・間(ま)・音・香り・表情・セリフ未満の短い呟き・・・によって描いて来た。                                                                                                                 例えば、肉体は空っぽで中身が空気だと嘆く主人公にARATA(心を持ったことで惚れてしまった青年)や高橋昌也(河べりのベンチでしばしば遭う老人。元代用教員)に、「同じくぼくも空っぽなんだよ」と呟かせるシーンは成功しています。                                                                                                                  人は誰も「空っぽ」だった。今も「空っぽ」だ。老人高橋昌也にして「空っぽ」なのだ。人が人になる契機、人が人であり続ける根拠を想い、この先、人でありたいと想った。そう思わせたこの映画はまた、カメラアングル・カメラ移動の浮遊感が素晴らしい。生の浮遊性が迫ってくる。                                                                                               是非、見てやって下さい。(撮影監督:ぼくは知らないのですが、リー・ピンビンという台湾の名カメラマンだそうです)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           メイキングフィルムがある。主人公がバイト先のビデオ店で、ビニール製のカラダを棚に引っ掛けて空気が漏れる。ARATAが破れヶ所にセロ・テープを貼って手当てし、空気を栓(へそ)から入れてやるのだ。このシーンで泣くことできない人形ゆえカメラの前ではこらえ、カット!の声の度に、ビニール人形のその哀れ切なさに静かに泣いていた韓国女優ペ・ドゥナ。異邦人として異境にある人々の心情が重なり迫って来るのでした。

たそがれ映画談義: 品川宿から『幕末太陽傳』再公開のお知らせ

『幕末太陽傳』-時代は地続きだァ-

50年以上前:1957年、日活再建10周年作品として当時のオールスター・キャストを動員して世に出された『幕末太陽傳』が、近く日活創設100周年記念として、デジタル修復して再公開される。映画の舞台品川に居残り「品川宿:品川自由塾」塾頭を名乗り、ブログ・タイトルを『たそがれの品川宿』としてしまっているぼくとしては感慨深いところだ。                                                                                                     出演:フランキー堺、南田洋子、左幸子、石原裕次郎、岡田真澄、芦川いづみ、小沢昭一、小林旭、山岡久乃、市村俊幸、殿山泰司、金子信雄、他

古典落語「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起精」「お初徳兵衛」他から取材し、幕末品川という混沌の時代を背景に描くこの映画の世界は、「評論家」で居たのでは『乱世』の現実を生きられない者たち「民」の、時代を相対化し同時に時代の当事者でもあるという、その立ち位置と智恵を主人公:佐平次を通して描いていた。それに成功した正に快作と呼ぶに相応しい映画だ。 

                                                                                                               時代のトップランナー(インテリ・前衛・党幹部?):高杉晋作(石原裕次郎)に佐平次が言い返す舟上場面の台詞は川島の「思想」の核心だろう(ぼくの初観はアレコレ見失いそうな時期だった71年)と想った。                                                                            45歳の若さで早逝した川島雄三のこの作品は、2009年キネマ旬報『オールタイム・ベスト映画遺産200日本映画篇』で、第4位に選ばれたそうだ。                                                                                     ちなみに、ベスト3は、『東京物語』(小津安二郎)、『七人の侍』(黒澤明)、『浮雲』(成瀬巳喜男)だそうだ。                                                                                (資料: http://www.kinejun.jp/special/90alltimebest/index.html )

その後、映画界は衰退し日活は大映と「ダイニチ」という配給会社を作り、製作から退いた。今、「日活」は企画会社としてにみ存続しているか知らない。日本映画の黄金期に衰退を見据えて「時代は本来地続き」「盛衰は、社会事情の反映で変転当然」、むしろ「(わら、えてはなら、えられ)ないもの」を語り・描き・観客と共有することこそ映画の務めだとの川島の言い分を、いま遺影を観て改めて想うのだ。                                              観てない方、この機会に是非ご覧あれ!                                                                    

あんたらは百姓・町人から絞り上げたお上の銭で、                                                  やれ勤皇だ攘夷だと騒いでいるが、                                                           こちとらそうは行かねえんでぃ、                                                               首が飛んでも動いてみせまさぁ!

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