たそがれ映画談義: 東ベルリンから来た女

「東」のお説教・「西」の自賛を蹴飛ばし、働くこと・自尊 の核に出会ったバルバラの闘い

ベルリンの壁崩壊(1989)の9年前、1980年旧東ドイツ。                                                              首都東ベルリンの大病院に勤務していたエリート女医:バルバラは、恋人:ヨルク(デンマーク人?)の住む西側への出国申請を拒否され、たぶん日頃の言動もあってか、「危険分子」と見なされ、ここバルト海沿岸の地方病院へと左遷されて来た。                                                                                              バルバラは、赴任した病院にも同僚にも温厚・誠実で仕事熱心な上司アンドレにも、心を開かず打ち解けようとしない。その日常は、シュタージ=秘密警察の執拗な監視下に置かれているのだ。度々の屈辱的な身体検査を含む「西側との密通」「不法脱国計画」チェックは、バルバラから笑顔を奪い、善意の人:上司アンドレが何かと差し伸べる気遣いさえ、シュタージの差し金か?と疑う心理へと向かわせる。監視社会に生きる者の疑心暗鬼・心の崩壊は、保持し維持しているはずの個人の理性・知性では、時に抗い難くこうして形成されて行くのだ。アンドレがシュタージに通じていたとしても何ら不思議はないのが監視社会・警察国家というものだ。                                                                                                                                                                                                     その監視の眼を掻い潜って、バルバラは恋人ヨルクと交信している。外国人専用ホテルなども利用しているヨルクは、東ドイツとの商取引があるビジネスマンらしい。バルバラが勤務する病院近くの森の決められた場所に、ヨルクが脱出に必要な資金(脱出援護者に渡す金)を隠し・届け、脱出計画を進めている。ヨルクの東ドイツ滞在中にその森で「密会」もする。バルバラにとってヨルクとの関係は、息が詰まる体制からの脱出、人間の「尊厳」を取り戻す「自由」、そこへ向けて開かれた窓口としての意味も持っていた。

脱出への準備が進む一方、勤務病院では、作業所(という名の強制収容矯正施設)から脱走した少女ステラが連行されて来る。髄膜炎で苦しみながら、他の医師や看護士に心を許さない彼女は、バルバラにだけ信頼を寄せるのだ。国家の強制力に圧し潰される境遇に在り、そこからの脱出回路を構想する者同士だけが解りあえる、云わば心情の光通信だ。                                                                                                                                                                                                                                 次いで、自殺未遂の少年マリオが運び込まれる。経過によっては開頭手術が必要かも知れない様態を前に、大病院での知識と技術が求められる。その「医」の心・医学的協働を通じて、上司アンドレとの人間的信頼も確実に育って行く。バルバラの中で、「西」への脱出という現象的・スローガン的行動の底に込めた意味にとって、「西」への窓口であるヨルクとの関係は、取り敢えずの「象徴」としての位置にしかなかったのではないか?                                                                                                                                                                    バルバラがそう思い始めたのは、まもなく脱出決行という時期に、外国人専用ホテルで「密会」した際のヨルクのひと言だった。

西の豊かさや自由な社会の物質的優位を説いたヨルクは、最後にこう言う。西へ来れば「君は働かなくていい。僕の収入で充分暮らして行ける」。                                                                         「働かなくていい」? バルバラは想う。                                                                                                                                            「働かなくていい」などという言葉を得るために、私は働いて来たのか?                                                                                                                                                        私は充分暮らしては行けないからと、やむを得ず厭々女医をしているのか?                                                                                         矯正所の少女ステラに差し出す私の手は、男の庇護が無ければ成り立たない手なのか?                                                                                          開頭手術を前にした少年マリオへの私の医学的知見の動員は、豊かさを求めてのものなのか?                                                                                             西の豊かさ、西の自由、西に在るはずの個人の尊厳は、「働かなくていい」ことの中に実現し存在するのか?                                                                                                    私が「西」ということに込めて来た意味と私との間の架け橋=現実的窓口に、これが居座っているものの正体なのか?                                                                                                  バルバラは、バルト海沿岸の海岸からデンマークへと脱出する予定の、脱出決行当日、人生を左右するある重大な決断をする。                                                                                                         海岸から母船への脱出ゴムボートは、冷たい北国の黒い海を挟んだあちらとこちらの、人間というものの可能性を乗せ闇波の中へ発って往った。

9年後、彼女はベルリンの壁の崩壊をどんな想いで目撃しただろう。                                                                                             翻って、ぼくらの近隣、東アジアの半島の北半分に居るだろう多くのバルバラやアンドレを想うのだ。                                                      個人の尊厳と精神の自由が息も絶え絶え状態の中でなお、彼らによってそれが保持されていると信じてこの映画を観ていた。                                                                                                     この映画は決して、政治性に塗れた「東」批判「西」称揚でも、「西」罵倒「東」礼賛でもない。個人の尊厳、精神の自由、それは制度や教条によっても、物質的豊かさや表面的自由度によっても保障されるものではないのだ。人が、自尊・他尊を生きることの中心に協働があり、そこには、それを損なわせる権力・社会・制度・文化への「抗い」と「闘い」が必ず前提されているはずだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                主演、バルバラ役のニーナ・ホスの、容易には人を受け容れない姿勢、冷たく突き放すような視線、寡黙で笑わない表情には、ある気品と美しさが溢れていた。元来こういう表情の女性は苦手なんだが、BGM皆無、説明台詞の排除、政治性からは語るまいとの作者の意図の潔い鮮やかさ、それらとニーナ・ホスのその気品と美しさに圧倒され、映画から「希望」をもらって帰路についた。ここ数年で間違いなく超一級の作品だと思った。

全国各地で上映中                                                                              http://www.barbara.jp/main.html

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2 Responses to “たそがれ映画談義: 東ベルリンから来た女”

  • 熊沢誠 says:

    23日の会合について早速に温かいお便りを本当にありがとうございました。
    元気に恵まれ、うれしくて、あなたの発信を研究会の会員の方々と共有したくなり、勝手ながらMLに転送させていただきました。
    『東ベルリンから来た女』の評論、私がHPに書いたものよりくわしく深い読みで、この部分もみなさんに転送しました。お許しのほどを。

  • yasumaroh says:

    拙ブログの転送、ありがとうございます。
    ふと、ブログ『東ベルリンから来た女』雑感に書いたことが、『職場の人権』の23日の集いで話されていたことと、わぁ~とリンクしたのです。
    バルバラの闘いの肝は、「生」(生活・労働・思想信条・恋愛など)の自由・自立・自律を求めることの中に在る。                                        そこに、23日の会での働くこと・労働組合の復権を巡る会話が重なるのでした。そんな想いから添付しました。

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