たそがれ映画談義: 人になる契機、その固有性・不可侵性 そして普遍性

空気人形

パソコンを叩いていて、ふと気が付くと夜も遅い。たまたまケーブルTVを点けた。                                                                   日本映画専門チャンネルで『空気人形』という、誰の作品かも知らない怪しげな映画の深夜放送が始まるところだった。ビニール製のダッチ・ワイフが「心」を持ってしまうという物語だ。10分もすると「これはただものではないぞ」と感じて、見入ってしまった。                                                                                      ぼくにとっては予期せざる掘り出し物だった。(知っている人には当然の秀作だろうが)                                                                                                                 似た条件で、つまり知らず・たまたま・・・・という、ぼくにとっての掘り出し物作品に                                                            『虹の女神』 『カフーを待ちわびて』 『深呼吸の必要』 『ハチミツとクローバー』(これはややメジャーだが) などがある。                                                                                                           

『空気人形』2009年、監督:是枝裕和                                                                                            原作:業田良家(小学館:ビックコミック劇画『ゴーダ哲学堂・空気人形』)(業田は、小林よしのり『わしズム』に何度か登場。?!?!?)                                                                                                                                                                                                                                           出演:ペ・ドゥナ、ARATA、板尾創路、余貴美子、富司純子、高橋昌也、オダギリ・ジョー                                                                     http://eiga.com/movie/54423/video/  http://www.kuuki-ningyo.com/index.html                                                                                                                           【紹介サイトから転載】(「映画.COM」より)                                                                                                                                                 女性の「代用品」として作られた空気人形ののぞみに、ある朝「心」が芽生え、持ち主の秀雄が留守の間に街へ繰り出すようになる。                                                                                                                                                そんなある日、レンタルビデオ店で働く青年・純一に出会い、密かに想いを寄せるようになった彼女は、その店でアルバイトとして働くことになるが……。主演は韓国の人気女優ペ・ドゥナ。                                                                                                                                                             人は誰しも空虚な心を抱えていて、誰かに必要とされたい、そして誰かと繋がりたいと願っている──そうした現代に生きる人々の象徴ともいえる空気人形が、逆に、周囲の人々の孤独と空虚さを浮き彫りにしていく……。彼女が見た世界には、なにが満ちていたのか? 空気人形の初恋の行く末を見守ることは、私たちがいかにして他者と交わり、自分を満たしていくのかを探る心の旅でもある。                                                                                                                              後日、ネット上の評にピノキオ寓話・人魚姫症候群の系譜だと書かれているのを見た。

                                                                                                                                                                                                            09年、一昨年9月公開なのだが、見逃した。見逃したと言うより、仕事現場が繁忙だったのか記憶にない。                                                                                                                是枝裕和と言えば、この前年08年の『歩いても歩いても』を観て、人に薦めたりしていたのに、本作の情報が全く記憶されていない。                                                                                         是枝裕和で検索すると、他に『幻の光』(95年、宮本輝原作、江角マキコが表現した存在不安、生と死、素晴らしかった)、                                                                                      『誰も知らない』(04年、柳楽くんがカンヌで主演賞取ったね)、『歩いても歩いても』(08年)、『空気人形』(09年)、『奇跡』(本11年6月公開)、                                                                                                                   という具合に、家族や身近な人との城内という、「そのまま」では赦し合い・舐めあい・もたれ合い・甘えあう閉鎖性や世の「黙契」の出発地でもある場の、その関係性に潜む強固なものと儚いもの、その醜と美を・圧と開を描いて来た。1950~60のアメリカン・ホームドラマ(「パパ大好き」「うちのママは世界一」?)や、60年代の和製家族ドラマ(「七人の孫」他)や最近では「渡る世間・・・」と一緒にせんといて!                                                                                  (家族を描くTVドラマでは向田邦子「阿修羅のごとく」は秀逸です)                                                                                                                                                  人が生きて行く上で大切なものが、逆に醜く惨いものが、そして他者=社会に開かれ晒されて変容して行くものが、君が生きて暮らしているほらそこに在るよと示していても、ホーム・ドラマでも家族物語でもない。家族の再建や再集合を願っているように見えて、手放しの家族礼賛には決して与しない。逆に人が生きて行くヒント、生きて行く力は、家族的なるものを越えたところに開けると言っている。その上で、家族的なるものに、たぶん在る価値を認め活かそうではないか・・・、それはヒントになり力になる、そう聞こえる。金時鐘の言葉で言えば「切れて繋がる」に近い。                                                                                                                                                     この誤解されがちで困難なテーマは、ストーリーやセリフだけでは「議論」「説明」「主張」となりそうで危うい。そこは映画の力だ。風景・間(ま)・音・香り・表情・セリフ未満の短い呟き・・・によって描いて来た。                                                                                                                 例えば、肉体は空っぽで中身が空気だと嘆く主人公にARATA(心を持ったことで惚れてしまった青年)や高橋昌也(河べりのベンチでしばしば遭う老人。元代用教員)に、「同じくぼくも空っぽなんだよ」と呟かせるシーンは成功しています。                                                                                                                  人は誰も「空っぽ」だった。今も「空っぽ」だ。老人高橋昌也にして「空っぽ」なのだ。人が人になる契機、人が人であり続ける根拠を想い、この先、人でありたいと想った。そう思わせたこの映画はまた、カメラアングル・カメラ移動の浮遊感が素晴らしい。生の浮遊性が迫ってくる。                                                                                               是非、見てやって下さい。(撮影監督:ぼくは知らないのですが、リー・ピンビンという台湾の名カメラマンだそうです)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           メイキングフィルムがある。主人公がバイト先のビデオ店で、ビニール製のカラダを棚に引っ掛けて空気が漏れる。ARATAが破れヶ所にセロ・テープを貼って手当てし、空気を栓(へそ)から入れてやるのだ。このシーンで泣くことできない人形ゆえカメラの前ではこらえ、カット!の声の度に、ビニール人形のその哀れ切なさに静かに泣いていた韓国女優ペ・ドゥナ。異邦人として異境にある人々の心情が重なり迫って来るのでした。

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