Archive for the ‘ほろ酔い・交遊 通信録’ Category

ほろ酔い 通信録: 君が嫌がる「二階堂CM集」

I 君へ
 
『夢を持てと励まされ、夢を見るなと笑われる。』 
『逆らいながら、奪われて、流されながら、見失う。』    なんて  
まるで、ぼくや君や****のことを言っているのではないか? えっ、解ってるよって? 
ああ、そうか図星なので嫌がるんやね、了解。
 
 別に二階堂酒造の宣伝マンではありませんし、焼酎は麦ではなく「芋」を愛飲しております。
下記の「二階堂」のCM群は、優秀なコピライターやCM映像作家の腕だと思うが、
郷愁やセンチメンタリズムを上品に昇華させていて憎いところだ。
創り手の「商業ベース」と、見る側のセンチメンタリズム以上のものではないと一刀両断するもよし、
ここに何かの「才」をみるもよし。
まぁ、映像とナレーションを楽しんでも悪くはない。
                                                                       
                                                                                                                 【96年】「シネマグラス」篇
 http://jp.youtube.com/watch?v=k_7EocPWxw4&feature=related
探していた想い出に、人は、どこで追いつけるのだろう?                                                                        人はみな、帰るべき刻(とき)があり、辿りつく夢がある。夢から覚めて、ここにいる。
私は麦100%。大分むぎ焼酎、二階堂。

【98年】「刻の迷路」篇
 http://jp.youtube.com/watch?v=WSuJqxQ0J4E&feature=related
風追い街、誘われ道。置き去りにされた刻(とき)の迷路で、物語は今も続いている。
私の住処(すみか)は、ここにあります。
麦100%。大分むぎ焼酎、二階堂。

【99年】「旅人の車窓」篇
 http://jp.youtube.com/watch?v=AIOTcMFuDGU&feature=related
生まれたばかりの風が、窓から飛び込んでくる。                                                                                                     旅人のほろ苦い後悔は、やがて美味しい溜め息に解きほぐされていく。
私は麦100%。大分むぎ焼酎、二階堂。

【00年】「風の海峡」篇
 http://jp.youtube.com/watch?v=hD158XCnULw&mode=related&search
確かな言葉は、誰も、持っていませんでした。
海 渡る。風 渡る。懐かしさは、不思議な力を持っています。
私は麦100%。大分むぎ焼酎、二階堂。

【01年】「雨宿り」篇
 http://jp.youtube.com/watch?v=W_DSzGD3210&feature=related
刻(とき)の我侭に流されて、私は、記憶の海に辿りつく。                                                                                      ふるさとは、私の中に流れています。
麦100%。大分むぎ焼酎、二階堂。

【02年】「父」篇
 http://jp.youtube.com/watch?v=Fl0XDy_-QW0&feature=related
私の記憶に、いつも後姿で現れる人がいる。
あの頃、あなたが口にしなかったことばに、いつか私は、たどり着くのだろうか…?
ずっと、麦100%。大分むぎ焼酎、二階堂。

【03年】「遠い憬れ」篇
 http://jp.youtube.com/watch?v=QZa5NKq7l6g&feature=related
錆びついていた時計が、再び時を刻みはじめた。
縺(もつ)れた糸はほどけ出し、古びた迷路は、ひとすじの道になる。
麦100%は、私のふるさと。大分むぎ焼酎、二階堂。

【04年】「詩人の島」篇
 http://jp.youtube.com/watch?v=DCSHERDS-7c&feature=related
水平線をひいたのは、空があまりにも空だったから。
夜空に星をまいたのは、地球という星を忘れそうだったから。私は、私のままでここにいる。
そして、麦100%。大分むぎ焼酎、二階堂。

【05年】「砂丘の図書館」篇
 http://jp.youtube.com/watch?v=yftMi9cgGmA&feature=related
「夢を持て」と励まされ、「夢を見るな」と笑われる。
ふくらんで、やぶれて、近づいて、遠ざかって…。今日も、夢の中で目を覚ます。
麦100%。大分むぎ焼酎、二階堂。

【06年】「未知の力」篇
 http://www.youtube.com/watch?v=avKn-Xc9s2Y&feature=related
逆らいながら、奪われて、流されながら、見失う。
誰もが、その戸惑いの中から、学ぶのだ。嗚呼…、本当の私に帰ってゆきます。
麦100%。大分むぎ焼酎、二階堂。

 【07年】「文字のかけら」篇
 http://jp.youtube.com/watch?v=mu3fbyBPkEU
イエスとノー。その二つの間には、何もないのだろうか。                                                                                               筆を走らせたのは、宙ぶらりんの想いでした。想いのかけらは朽ちることなく、ざわざわと心を揺らします。
私はまっすぐ麦100%。大分むぎ焼酎、二階堂。
 
【08年】「消えた足跡」篇
近道は、遠回り。急ぐほどに、足をとられる。
始まりと終わりを直線で結べない道が、この世にはあります。迷った道が、私の道です。
大分むぎ焼酎、二階堂。

交遊通信録: カルメン・マキ ライブ

K・Tさん。 インフル直しなさいよ。お大事に
  
カルメン・マキ ライブ に行きました。
 
カルメン・マキ ライブ。1月9日(土)、外苑前のライブ・ハウス「Z.imajine」。19:00会場、19:30開演。
60年近い付き合い(つまり幼なじみ以来)のデザイナーを誘ったが、新型インフルでダウン中。独りで出かけた。
40席そこそこの席は6割程度の入り。
根強いファンなのか最前列に陣取った数人の会話を、開演までの20分間 聞いていた。
東京近郊だが遠方から来たこと、年食った青年は「画家」であること、東京近辺での
ライブは欠かさず来ていること、OZ以降の詳しい経歴を語っていた。中身の記憶は曖昧なので、
コアなファンがブログで語っているのを拝借する。 
 
『69年に「時には母のない子のように」を大ヒットさせるも、
 アイドルの地位を捨ててロック・ヴォーカリストに転身し、
 一時代を築き上げ、現在ではJAZZや、ピアノをバックに詩の朗読という新たなジャンルにも挑戦され、
 進化し続けている女性スーパーヴォーカリスト<カルメン・マキさん>。
 マキさんのことは80年代のメタルブーム時にジョージ吾妻さん率いる<5X>のヴォーカリストとして
 活躍されていたことしか知らなかったのですが、
 数年前に友人にマキさんの素晴らしさを教えてもらって、
 改めてBlues Creationやマキ&OZ、そして最近のソロアルバム等を聴いて
 すっかりその類まれなる歌唱力に惹かれてしまったんです。
 そして2007年4月にはじめてライブを観にいってめっちゃ感動したんですよね。
 その後何度かライブに足を運んだんですけど、ここのところご無沙汰しておりました。
 そんなときにこのブログ用にBluse Creationのアルバムを聴いて再びマキさんの歌が聴きたくなって、
 近くで行われるライブの機会を待っていました。
 するとたまにおじゃまするJAZZスポットのスケジュール表にマキさんのお名前を見つけて速攻予約。
 当日を楽しみにしていました。』  なるほど・・・・。
 
57歳に相応しい風貌で現れたカルメン・マキは堂々としていた。
のっけからその歌唱力に脱帽。天性のものなのか、ホントに上手い。
声が出ない、声量が足りない、かすれる、はずす、うわずる・・・など全く無い。
奥から響く声は、40年前とは違う身体を得てそこを通って巾と艶とリキがあり、
それこそ人生の喜怒哀楽の味と香りを得て、ゆるぎなく主張しているのだ。何を?
それは、40年唄い続けてきた「おんなカルメン・マキ」のいわば到達点だ。圧倒された。
青年画家とお友達になってマキの「追っかけ」になろうかな・・・・。
購入したCDにも入っている『にぎわい』(曲:かまやつ ひろし、詩:浅川マキ)は覚え易く耳ざわりのよい歌だ。覚えよう。
最後に唄った歌、仲間の若いヴァイオリニスト: きた・なおきさん(?うろ覚え)の作曲だという 『ありがたき不幸せ』、
これが中々の名曲で、ふと、あがた森魚を思い出す。
音階が宙空を不安定に泳いで、ぼくらには唄い辛い曲だと思うが、傑作だと思う。
マキさんの紹介では、この きた・なおき さんは「大の啄木ファン」だそうで 「なるほど・・・」 です。
40年ぶりに再会したマドンナが、期待に違わずオーラを放っていた・・・・・・そんな気分でした。
ミーハーとしては、購入CDにサインをもらいました。お宝にします。         
右は、伝説のロック・バンド 『カルメン・マキ&OZ』(75年前後)当時の彼女。後年、「早すぎたロッカー」とも呼ばれたという。 
OZ時代のライブより  『空へ』:http://www.youtube.com/watch?v=d9JyELDnLNk&feature=related
彼女の中に棲む、ユーラシア大陸の西の果てのその先の島:アイルランド、東の果ての島:ジパング、そして流浪の民:ユダヤ・・・、
予定調和の演歌にも、甘いフォークにも納まり切ることのないカルメン・マキの世界。充たされることなく彷徨しただろうか・・・?                                              自己表現としては、音楽ならロックが一番近いかな・・・そうだったんだろう。          
最近、朗読を始めているというのも分かる気がするのだ。

                                                     

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購入したCD『ペルソナ』(ジパング・プロ)には、
『にぎわい』や朗読とともに、初出から40年後に唄う
『戦争は知らない』が入っていた。
味わい深い。

品川塾誇大史: 100枚限定鏡が500枚出土…? バーゲンか?!!

F・K さん 
 
正月早々、産経新聞(他にも出てるかも)が、「卑弥呼の鏡」と大騒ぎ。読まれました?
決着済みのことですが、「なるほど、邪馬台国はやはり奈良か・・・」と思われても悔しいので、反論しておきます。
 「邪馬台国」(「邪馬壱国」なのだが)を奈良盆地に持って行く為の外堀埋めの一環です。マスコミの煽り・扇情誘導・お上の意向…、                   報道姿勢(大本営発表、イラク戦争、普天間・辺野古、日米信頼関係の危機?報道)は変わりません。
 
 
大量の鏡が出土した桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市)。
出土品には中国の年号「正始元年」(240年)と刻まれた鏡と同じ鋳型製の鏡片も含まれていた。
同年は邪馬台国の女王・卑弥呼が中国皇帝から金印や鏡を受け取ったとされる倭国の“メモリアルイヤー”。                                                          被葬者が卑弥呼から直接譲り受けた可能性もあるという。
『正始元年鏡は卑弥呼が中国から授与された可能性が極めて高い』 と指摘するのは、
福永伸哉・大阪大大学院教授(考古学)。桜井茶臼山古墳を280年代築造とし、
被葬者が正始元年当時に20代で、60~70歳で亡くなったとすれば、
『生前に卑弥呼から鏡を直接もらったとも考えられる。
邪馬台国と大和政権を結びつける重要な史料』 と話す。
卑弥呼が活躍したころの中国は「三国志」で知られる魏、呉、蜀(しょく)が台頭。
卑弥呼が魏に送った使者が日本に戻ったのが正始元年だった。
 
【反論】
もしもし!決着済み事項を繰り返さないで下さい!あのね・・・・、
三国志魏書東夷伝倭人条(通称「魏志倭人伝」)には、こうある。
☆「魏志倭人伝」全文 http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
景初二年、魏の天子が女王国の遣い「難升米」らに
「親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
「紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い」とある。
正始元年には、「太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし」とあり、先方が来倭する。
 
*畿内説学者がそれと特定した、この三角縁神獣鏡は、困ったことに見つかり過ぎて、すでに「500枚以上」発見されている。
*中には、「景初四年」という存在せぬ年号のものまである(改元を知らず製作…つまり国内製)。
*受領した「景初二年」に、帰国時の「正始元年」刻印の鏡を貰ったの?天子の死を先取り?大胆な。そんなこと在り得ません!
*中国にただの一枚も出土せず。鋳型も見つからず。
◎三角縁神獣鏡は「卑弥呼の鏡」に非ず、国内製、渡来工人+列島内工人。として、決着済み。
◎500何十枚目の「100枚限りの鏡」をまたぞろ持ち出すのかマスコミよ! イラク報道と同じ「垂流し」!!
◎古田武彦氏談:難升米が拝受した鏡は・・・?
『三国志』を書いた陳寿と同じ時期に死んだ人が持っていた鏡が発掘されて出てきた。
洛陽の西晋の墓から出てきたのは前漢式鏡もしくは後漢式鏡である。
そうすると卑弥呼の貰った「銅鏡百枚」の鏡は前漢式鏡・後漢式鏡ではないか。
前漢式鏡・後漢式鏡が出てくるのは、今の糸島・博多湾岸、これが基本的に中心です。
 
 
 
 
茨木の在野の研究者:故:藤田友治氏著
『三角縁神獣鏡』(ミネルヴァ書房、\2,800)

交遊通信録・品川塾誇大史 消された「倭国の記憶」

さん。

前頁で言いました予告編です。機会をみて、順次詳細を記述しましょう。「倭」は近畿天皇家ではありえないことが、明らかになると思います。

海峡とは 
人と人、民と民を 断ち・切り・分け・隔てる為の境界ではなく、
人と人、民と民が 出逢い・繋ぎ・結び・交わる為の「場」なのだ。
 
 【たそがれ誇大史:予告編】 最も大規模かつ長期の「記憶の改竄」を糾す 
①9500年前ころ~: 
  鹿児島県国分市「上野原縄文集落」(6300年前、喜界島大爆発で消滅)
  の縄文土器の製法を含め、この集団の出自は?
②4500~3000年前:
  青森県青森市「三内丸山遺跡」の縄文土器・ヒスイ・防腐用コールタール?
③2500年前 前後:
  出雲「国引き神話」に見る、事実の反映、ウラジオストクに隠岐産の黒曜石。
  縄文晩期の苗代式稲栽培=板付遺跡・茨木牟礼遺跡・岡山県総社。
④2100年前 前後:
  出雲「国譲り神話」、誰がどこに譲ったか? アマ原圏=楽浪海中倭人あり(漢書地理誌)
⑤西暦紀元前後:
  アマ勢力、北部九州に本拠地設営。天孫降臨。
  *古事記:「韓国(カラクニ)に向かひて 真木通り(一直線だ)、笠沙の御前にして
     朝日の直刺す国 夕日の日照る国なり、 故 此の地はいと吉き地」 と降臨の地を描写している。
    誰が、無関係な地を特筆するか? カラクニが出自の地だと誇っているのだ! 洛東江両岸、伽耶の地こそ天孫の故地だ。
  *後漢書:「建武中元二年(57年)、倭奴国、奉貢朝賀す。光武、賜うに印綬を以てす。」
    志賀島出土の金印。「漢倭奴国王印」は「カンのワのナ国王の印」(三段読み、例なし)ではない。 
    いえ、「カンのイド国王の印」です。つまり、北部九州王権の王への印。
  *後漢書《倭伝》「倭国は古(いにしえ)の倭奴国なり」
⑥2世紀:
  北部九州王権の一部の東征。ヤマトへ。当時の地形、河内湖、南方(ミナミカタの水路)。記紀説話との一致。
⑦3世紀:
  魏志倭人伝:「その北岸、狗邪韓国に到る」。すなわち、半島最南端部が「倭」の北岸だ!と言っている。伽耶の地だ。
  傍証:魏志韓伝:「南は倭と接す」とある。
  「郡(帯方郡)より女王国に至る万二千里」 魏の尺度:一里=75メートル内外。
  重装備した軍用馬が一日に駆ける距離は75Km=すなわち千里・・・千里馬(チョンリマ)。理屈に合う。
  ゆえに、万二千里は900Km・・・・・・邪馬壱国はどこだ?
   北岸が「狗邪韓国」、南岸が「邪馬壱国」・・・・。海峡国(勢力圏)「倭国」の姿はこれだ!
⑧空白の4世紀:
  百済(ペクチェ)王、倭王旨に七支刀を贈る。390、新羅(シラ)王、子美海を倭へ質と為す。
  高句麗広開土王即位。
⑨5世紀
   美海、倭を脱走。「三国史記」「三国遺事」(半島資料)が描く「臣:堤上の悲話」が語る倭都は海岸に接し、       
   堤上夫人が新羅の嶺に立ち「倭国を望み」慟哭できる地、北部九州の海岸だ。(朴堤上の悲話は壮絶だ)
  倭の五王(讃珍斉興武)はだれだ? その本拠は何処だ? 倭王武が宋(南朝劉宋)に出した上表文。
  東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國
 (東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国)
  この地理観は近畿でありようもない。中国に通用するいくつかの歴史を前提に書かれている。
  「あなた方が知っている漢書に言う楽浪海中の、魏志にある女王国の、あの倭です」と。
  半島では、高句麗の拡大。474百済第一次滅。
⑩6世紀:
  上記⑥以降のヤマト王権、武烈後に政権混乱政治空白(?)。越(福井)のオヲド擁立の怪、楠葉で即位、20年後ヤマトへ。
  オヲド(継体天皇)の側の叛乱=九州侵攻(531筑紫の君磐井の乱と教えられた)。が、オヲドは戦を前に重臣:物部アラカヒに言う、
  「長門より西汝とれ、長門より東朕とらん」 ん? 長門(山口)より東にも、西の別王権の支配地ありと自ら認めている。
⑪7世紀:
  【遣隋使】
  姓をアマと自称するタリシホコなる王(日出る処の天子)が煬帝に国書を送り、やって来た返礼使に自ら面談したという。
  疑問:聖徳太子は「天子」か? 国書に於いて公的位階を詐称するか? 彼は推古天皇の摂政だ。
  後宮に女性600~700人と自慢しているが、推古女帝に後宮? また、「阿蘇山あり。その石、故無くして火起こり天に接す」とある。
  推古・聖徳太子が九州の山を特筆するか!当然、ヤマトの何かを語るだろう? しかもこの一大外交行動、記紀に記載なし!!小野妹子の訪問先は「大唐」だと書いてある。「隋」とは書いてない。それを学者は「書き間違い」だと言ってきた。違うだろう! 607年の誰かの事績を盗んだのだ。                                       しかも、日本書紀は、607年の前600年の隋皇帝:高宗への第一回「遣隋」に触れていない。???
  【近畿王権内 クーデター】
  645大化の改新?「中大兄が母(皇極)の愛人(蘇我入鹿)を斬った事件に後付けがなされた」との説あり。 
  【半島情勢、倭国臨戦態勢】
  新羅、唐と同盟し660第二次百済滅す。倭、百済からの質=皇太子余豊を返す。百済最後の王に。
  大唐から倭防衛の一環としての「百済防衛・再建」へ全列島動員→ヤマトも斉明天皇・中大兄を先頭に
  数万の大軍を派遣。筑紫・朝倉に陣する。倭、五王時代設営の水城の強化、大野城の整備。首都防衛。
  662斉明死去。喪に服すを大義名分にヤマトは半島へ向かわなかったのでは・・・?
   近畿の主だった将軍・重臣に死者・捕虜なし。「万葉集」にもこの一大悲劇が一切採用されていない。奇妙だ。
    一方、半島では、百済再興運動が対唐・新羅のゲリラ戦を展開。  
    663白村江(錦江河口)で 「唐・新羅」VS「百済・倭」の一大海戦。四たび戦い四たびの大敗北。
  「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍」はここだ。近畿天皇家に大海戦の歴史なし。
   倭軍司令官:倭王薩夜麻、逮捕・連行さる。  倭都、国敗れて山河あり。
  671唐から3000人の使節団が誘導役:薩夜麻を伴い、郭務綜を先頭に来倭。
  672「壬申の乱」勃発。その名に「アマ」を持つ「大海人皇子」(後の天武)側の勝利。
⑫【日本の登場】
  701年。唐、列島を代表する王権として大和を認知。呼称を倭から「日本」に改める。
  旧唐書《倭伝》のあとに《日本伝》あり。「或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)す」
【参考】
「倭」の読みは「ワ」ではない。「イ」「ウィ」「ヰ」だ。
「倭」から「日本」は大変化のように見えるが、発音は中国読みなら「イェーベン」朝鮮読みなら「イルボン」・・・、                                    「イ」「ヰ」の音は継続させたようだ。
*******************************************************************
ついでに言うと、
「邪馬薹(台)国」とされている国の記述は中国歴代史書において、
例外なく全て「邪馬壹(壱)国」つまり「邪馬一国」です。
「邪馬」は「匈奴」や「鮮卑」に用いられたような、中国からする
属国・格下国への侮蔑語なので 純国名は「一」であり
その音は「イ」周辺だ。「倭」と同音を踏襲しての命名ではないか?
邪馬「倭」国・・・⇒「邪馬一国」じゃあないでしょうか?

交遊通信録・品川塾誇大史 「近畿天皇家の呪縛」と半島

さん。
 
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 
年末にお薦めのお知らせをいただいた、NHK番組『日本と朝鮮半島 2000年』、
もちろん元日から、拝見しました。
古代東アジア合衆国たるこの列島への半島からの影響力、
国家建設・律令整備などに果たした渡来人の智恵と、
ペクチェ(百済)滅亡に伴って流入した人々の功績・・・。
大いに参考になりました。
列島内王権が自前で執り行ったとされて来た、
文化・マツリゴトが半島の濃い影響の下なされたと、
映像を駆使した説得力ある放送でした。
この列島の覇者は、半島へ三度手を出し、その都度自滅している構図。
白村江の戦(倭国)、文禄・慶長の役【壬辰倭乱】(秀吉政権)、20世紀日韓併合(明治政権~)。
徳川期の朝鮮通信使の彼我の必要性・緊張の中の実施・・・よく解かりました。
 
が、せっかく半島との強い結びつきを言いながら、NHKとヨイショ学者にはうんざりです。
列島内唯一(と海外からも認知される王権)は、
ヤマト以外にあり得ないとする「公認学説」を繰り返されては、
NHKとその監修役の学者の「自説」(「韓国」学会を味方に付けての)
の強要であり、公平を欠いている、というのがぼくの正直な感想です。
ぼくが、言うのは北部九州の王権のことです。その可能性への言及のことです。そこはフェアに案内せんとぉ~。
半島と列島の関係構造を説き明かしたのだからいいじゃないか・・・ではありません。
20~30年前なら半島の強い影響力を正当に認めなかった
古代史学者の多くが、今では半島との関係、半島の強い影響力、
当時の東アジア地政学の中で俯瞰すべき歴史、
中国及び半島がこの列島の云わば「教師」であったという実態・・・、
それらを認めて語っている。
ところが、そこで言う「列島内王権」とは近畿天皇家なのです。
 
逆に言うと、
ある種の学者は、北部九州のある勢力の痕跡(記憶)を抹殺せんがために、
あれほど無視して来た「半島の指導力」を認めたのだ。と ひがみ癖あるぼくは思ってしまう。
仮想:
《  韓国側学者の主流=「日本書紀」重視・影響を与えた対象近畿天皇家なり・・・
の傾向に期待して、近畿天皇家中心史観の補強資料として、その論を活用する・・・。
(韓国学者は、無意識のうちに、日本に最も受容れられるを求め、
近畿天皇家中心書物や史観を前提に述べてしまう。二重の思惑が錯綜する)
ここにある「合意」はまるで、反・北部九州王権説の「日韓連合」の様相を呈している。
それぞれ違う思惑を秘めて・・・。
まるで、反・沖縄独立の「日米連合」のようだ。
辺野古キャンプ・シュワブに軍港を含む基地を作る元々の計画を、普天間返還に絡めて持ち出し、                                             辺野古沖案を平然と出す「詐術」の構造とそっくりだ。
(北部九州王権無視に関する「合意」についてのみの感想。他のことに及ばない。念の為)  》
 
2日放映の「白村江の戦」では、
番組はその後の天智天皇(中大兄皇子)の死去(671)から
すんなりと「やがて天武天皇が即位」などとナレーションで流している。
もしもし! 「壬申の乱」(672)はどこへ行った。
戦勝国:唐からの3000人の使節団来倭を何と見る?
対唐戦争の「戦後」に何故に後継を巡る内戦(壬申の乱)に至ったか?
天智の弟であるはずの天武(大海人皇子)が、何故に天智より年長なのか?
新王権は何故に親唐(戦勝国・唐)政権へと向かったか?
この一大政変をNHKは端折ったのだ。フェアでない!
そもそも中大兄と母(大化の改新時の皇極天皇、白村江時の斉明天皇)は、
白村江戦の主宰者なのか? 近畿天皇家はどこかの要請に応じて、
大軍を筑紫まで派遣しただけではないのか。派遣はアリバイ作りではないのか?
消極的参戦は、「唐・新羅(シラ)」「百済(ペクチェ)・倭」のいずれが勝とうが、
その後の近畿天皇家の安泰を確保せんが為の方法論ではなかったか?
 
長くなるので、詳細は後日として、ぼくの見解はいずれ、「たそがれ誇大史」の頁を作り、
順を追って述べて行きたい。その予告は次頁に示します。
 
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品川宿:「たそがれ自由塾」風景:唯一の自慢は、W=2300のビッグデスク。
何故か カーテン横に「9条改憲阻止」のたすきが・・・。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ほろ酔い通信録: 忙閑さまざま 某・忘年会

忙・閑を越えて集まった「K大校友連絡会」 http://www1.kcn.ne.jp/~ritsu/index.html のみな様:12日夜はどうも・・・

1969年 K大闘争69年関大キャンパス全学集会1969 関大キャンパス

我らの側から「戦後政治の総決算を」と言いたいなぁ

 2007年の初め、                                         拙作(http://www.atworx.co.jp/works/pub/19.html)の        出版記念会でS氏が宣言した。                                      「新自由主義の名の下進む 規制緩和という名の野放し儲け主義・弱肉強食・勝組負組などという選別・排除の小泉構造改革は、安倍内閣の今では『美しい国』という愛国標語までぶら下げて、大手を振って進んでいる。このままでは、1・2年のうちにこの国は大変なところに行き着くだろう。全共闘世代が世代の責任として、自らの全共闘的明暗・新左翼的正負の遺産を見つめ、その上で今こそ異議申し立ての行動を再開したい。近く、結集体を立ち上げるので、参加を呼びかける」と。                                                    S氏・Ⅰ氏を中心に、たぶん前年からの準備を進めていたことと、ぼくは推察している。

 戦後政治の総決算(82年中曽根内閣)・85年の労働者派遣法・86年国鉄分割民営化法案提出・89年総評解散・・・。労働・生活という社会の基本を安定的に維持発展させる「約束事」を「規制」と呼びそれを「緩和」する新自由主義(世界的には79年~のサッチャー、81年~のレーガンが代表格。「サッチャー・レーガン革命」とまで言われた)的改編は労働環境と雇用形態にも進み、2001年小泉登場となり、若者に責を問うようなフリーター・ニート非難世論がありました。07年初頭のS氏の発言の通り、果たせるかな08年暮には日比谷派遣村が登場、派遣労働の深刻な雇い止め・無権利を広く知らしめました。

 09年総選挙は選挙制度の後押しもあり民主党の圧勝でしたが、小泉的構造改革のツケを背負いながらそれと縁を切れるか? また、普天間-辺野古問題から炙り出される「日米軍事同盟」という、この国を覆っているいわば「敗戦時構造」、沖縄の基地・負担・占領を前提に成り立ってきた、「戦後」そのもの・・・。 時あたかも、それへの我が方からの「戦後政治の総決算」を問うべき時期となっている。 来年は60年安保50周年ですが、当時の課題はそのまま(冷戦構造が終わり、世界政治地図も変わっているのに)今の課題だ。民主党政権は、その総決算に一歩でも踏み出さない限り歴代自民党政権の亜流ということになる。 問われているのは「戦後」そのもの総体だ。

戦後政治

 某・忘年会に参集した元K大生は、団塊世代を中心に各世代から、零細企業経営者・医療機関事務職・介護施設職員・自治体労組役員退任者・上場企業永年勤続組・生協職員・単身出稼ぎ労働者など多様だ。 みな、かつての日、・白・のヘルメットを被り、東大安田講堂逮捕組で数年後出てみれば浦島太郎であった者として、あるいは党の凄絶な解体を体験し属すべきモノを喪った者として、70年代以降総評労働運動の盛衰の只中に在り「自説」を通せはしなかった者として、民主党へ移り政権の歴史的任務=ヨーロッパ型二大政党を想い何が出来るか考えない日などない者として、 それぞれの公・私の「総決算」こそが残された時間の仕事か?                                                        まぁ、年寄りらしく気楽に誠実に、しかし思想としてはラディカルに、やって行きまっひょっい。                                                         別のところにこう書いた。『人は「帰属」性の中でではなく、それを取っ払った地点の「孤立」の中で、他者に出逢え己にも出逢える。              実は、そこが「共闘」や「連帯」が始まる契機であり原圏なのだ。 』と。                                                                                                                                         今や、みな、そう思えるだけの辛酸(?)を舐めて生きて来たのかも・・・。   

 冒頭、S氏が言った「K大校友連絡会を立ち上げて3年若。研究会でも学習会でもなく、小さくとも曲りなりに行動体として輪が広がったとしたら幸いです。 痛い記憶を糧として、それでも行動する集まりでありたい」に、全面的な賛意を表します。  ちなみに、最年少はまるで孫のようなK大一年生でした。我が子よりうんと若いのだ。

品川宿より

 

交遊通信録: 詩人A氏へ 「晶子を巡って」 

 「何もかも」「いっしょくたに」・・・
 
【品川宿
先日はありがとうございます。「アカペラ歌謡大会。やってみると意外に楽しいなぁ~」
というのが 感想でした。楽しい時間をおおきに。・・・
晶子の『君死にたまふことなかれ』の歌謡があるとは知りませんでした。

で、晶子について・・・。先年、あまり知らなかったことを読みました。

日露戦争への異議を世に問うたその晶子にして、身内の戦争への関与(四男が海軍大尉)の十五年戦争に際しては                   戦意高揚・戦争賛美に連なる論陣を張った といふことから、
戦争の「何もかも」「いっしょくたに」「動員」されちまう、
その典型・教訓として、取り上げられたりしている。それによれば、
一方に、全てを飲み込んで雪崩れ行く世情がある、
身近では、四男昱(いく)が海軍大尉として加わっている・・・、彼女の非戦論、『血潮』は喘ぎ揺らぐのだ。
国家が人々を巻き込んで行く戦争といふものの、多重的拘束力・肉親の情をさえ鷲づかんで活用する恐ろしさの、                     これが実相だ、という訳です。太平洋戦争が始まって間もなく(1942.5.29)彼女は他界する。

晶子の論説も書いてありました。(晶子は)『日支国民の親和』では
『陸海軍は果たして国民の期待に違わず、上海付近の支那軍を予想以上に早く掃討して、
 内外人を安心させるに至った』 と述べて、
これまた手放しで日本の侵略戦争を支持している。また同じ年に晶子の夫の鉄幹も、
軍歌『爆弾三勇士』や『皇軍凱旋歌』といった軍歌を作って、
国民の戦意昂揚のためにつくしている、 と手厳 しい。  国家・戦争・家族・・・・難しい~~~ことです。                                                      

与謝野晶子

【南丹波
 こんにちは。
晶子についてのコメントありがとうございます。彼女を「反戦平和主義者」のように
美化して言うのはおかしいという説は、まったくそのとおり。
晶子は6男6女、12人の子を産み、出産直後に死んだ2人は別として残り10人を育てながら、
収入不安定な夫を養いはげまし(晶子41歳のときに夫・鉄幹が慶大教授になり小康を得たが)、
声をかけられた仕事はたいがい断らずにやりまくって一家の生計をほとんど一手に引き受けて生ききった、女豪傑ですね。 
意気に感じて身体が動いてしまい、血潮がたぎって言葉がほとばしる。
本来右も左もない、原始、女は太陽であった、というときの「女」でしょう。
 
しかし。
 「君死にたもうことなかれ」を虚心坦懐に読めば、これはひたひたと日本人の胸に「戦をしてはいかん」という気持ちを高ぶらせる、           見事な反戦の詩です。
とくに深い考えもなく「自然に」天皇を崇敬しているような人の胸をもどよもすような、
戦に乗りだす男ども、為政者たちにたいする強烈な反問です。
  
 この詩に作曲した吉田隆子は、晶子が日中戦争時期に入って戦意高揚に加担するような言説を発するようになったことを知っていたでしょう。
吉田隆子自身は、音楽・作曲活動を始めて間もなくプロレタリア文化運動にも参加し、
1933年、35年、37年、40年と繰り返し検束・拘留の目にあっています。
その40年の拘留時には「腹膜炎」で重態になってかろうじて釈放され生きながらえたのですが、
戦意高揚・戦争賛美に「何もかも」「いっしょくたに」「動員」」しちまう大政翼賛の日帝、軍国主義の怖さは骨身に沁みてわかっていたでしょう。
にもかかわらず隆子が敗戦後1949年の時点で晶子の「君死にたまうことなかれ」を取り上げたのはなぜだったか。
あの詩は、いわば、原初のときからの命の滔々たる流れの上に立って、現世の天皇の振る舞いをも糺そうとするような、気迫に満ちている。
そこに親子の情、はらからの熱愛、夫婦・恋人の恋情・希求など、
人としてどんな人間の身体の中にも血潮とともに流れている「何もかも」を「いっしょくたに」「動員」して                                  
命を守れ、生かせ、殺すな、征くな、とひたぶるに迫る力があるのじゃないか。                    
天皇がアメリカ占領軍のおかげで地位を保ち天皇制がみごとに「護持」され、日本全体が米帝の思惑に強引に引きずられて、                      
またもや大勢に押し流され戦へ戦へと向いていきかねない時勢に、あの詩をぶつけること。
それによって日本人を、かつてそのように流されていった晩年の与謝野晶子をも含めて、
諫め、心をどよもして頭を冷やさせる意図があったと思えるのです。
 つまり、ああいう詩を書いた天性の詩人・晶子でさえが戦意高揚・戦争賛美の流れになびいてしまった、
という苦い歴史をかみしめることで、あの歌「君死にたもうことなかれ」は、
いっそう痛烈な反歌としての意味合いを強く響かせる、というのがぼくの解釈ですが、どうでしょう?
 
【品川宿
全く、同感です。「評価」と「美化」は違う、「論評」と決め付けやレッテル貼りは違う・・・ということですな。
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Tさんにお答えします。A氏とは、宋友恵(ソンウヘ)著 『尹東柱(ユン・ドンジュ)評伝 空と風の詩人 』(藤原書店、560頁、¥6825)の翻訳者:A氏です。

交遊通信録:K大校友連絡会御中

K大校友連絡会事務局御中  http://www1.kcn.ne.jp/~ritsu/dai3kaisiminnkouza.doc  を受けて。
 いつも、ご苦労様です。  参加したいテーマでしたが、あいにく仕事で品川宿から出られません。
 会のご盛況と深い論議を願っています。各位によろしく。
 
 
  
                                                                                   
 
さて、本当に、辺野古から世界が見える、「戦後」総体が見える・・・・ですね。
この問題の核心は「戦後」「日米安保体制」「占領」「憲法」だ、との貴論は正に慧眼。
いま民主党政権というより 「戦後」が岐路にあり、 
戦後史総体がズシリと迫って来ます。 
 国会前で、辺野古新基地建設反対!普天間基地即時撤去!嘉手納統合策動粉砕!                                                      と大きく書かれた横断幕の下に座った「9条改憲阻止の会」の親爺さん(たぶん70歳過ぎ)が、次のように語っていた。                                      
12.13 国会前③
 
『「OCCUPIED OKINAWA」。
 ヤマトが 明治政府が そして日米が、沖縄を占領し続けて来たのだ。
 「戦後」というもの総体が、そのことを与件として成り立って来た。
沖縄はその丸ごとの見直しの開始を、求めている。 』 
 
 保守二大政党というものが、この親爺が言う与件を前提とする「合意」によって
成り立つとしたら、保守二大政党ということがすでにして『大連立』なのだと思う。
親爺さんと「大連立」は真反対に居る。  選挙民が選んだのは、保守二大政党でも大連立でもない!
  
 【OCCUPIED】
 沖縄では、牛乳やジュースの1リットル・パックは1000CCではなく、
946CCだそうです。54CCズルかましているのではありませんよと教えられた。
聞くと、946CCとは、ガロン=3785CC の≒4分の1。クウォーター・ガロン。
生活の深層部に居座る米軍政下のなごり、その一例だそうです。
ちなみに、「日本国憲法」が沖縄における最高法規となった日はいつ?
さて、現在沖縄にそもそも「日本国憲法」の効力が及んでいようか?
憲法より日米安保条約が優先されているから、
だからアメリカによる「占領」がなお続いている・・・という議論は一面その通りだ。 が、占領は誰が誰を何時から・・・
 
 筑摩書房『OCCUPIED JAPAN』(半藤一利、保坂正康ら)を読了しました。
占領ということ、他者による統治、GHQ占領期を活写する対談集
ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』の時代、
OCCUPIEDの実感を当時の若者が語っていて
面白かったのですが、OCCUPIED状況を語りながら、
彼らにして、日本の「戦後」を保障してきた前提である沖縄への眼差し・言及が無い。

交遊通信録:趙博+織江 VS 勲章森繁

趙博の「人生幸朗的パギやん日記」11月11日分(下記転載)を読んで、大いに共鳴・・・。彼のホーム・ページ「黄土(ファント)通信」(http://fanto.org/index.html)のパギやん似顔絵が共通の友人の作だという“えにし”もあって、森繁的「胸に勲章」文化に抗おうとする彼の芸の心と志を、そして激しい言葉を吐いた気持ちを、考えた。

(人生幸朗的パギやん日記、11月11日)

So, what?

森繁が死んだ。大衆芸能の分野で文化勲章を初めて貰った大俳優…あははは、大阪を裏切ってのし上がっただけやんけ。藤山寛美の森繁批判を鮮明に覚えている。「大阪の人情をよう演じん人間が、虐げられたユダヤ人を演じられるか。東京は大根役者ほどウケまんねんなぁ…」
市橋が逮捕された…またぞろ馬鹿マスコミが大騒ぎ--ぬるいのぅ。11・8沖縄県民大会は報道しなかったよねぇ…、ねぇ、マスコミ諸君。

 

趙博+織江 VS 勲章森繁

森繁の「社長シリーズ」は、中小企業社長を面白おかしく相対化していて、
観客に「君もやがて社長かも」と、社長業などは手が届く世界なのだよと示し、
サラリーマンと呼ばれた層に「安心」を提供し、支持されたのだと思う。
サラリーマンの悲哀を抱える観客は、加えてもうひとつの「安心」も手に出来たのだ。
20世紀後半、先進国の「都会に出て職に就く」亜インテリ層、企業社会の悲哀(例えば映画なら、『セールスマンの死』『アパートの鍵貸します』『アレンジメント』、日活『私が棄てた女』に見える)・・・
つまり故郷を離れ、貧しくも苦労して高学歴を得、管理的職責に在り、
心ならずもか望んでか、
企業内的上昇志向に染まって成し遂げたささやかな成果と、
否定しようも無くその成果を得んが為に、踏み放ち・打ち棄て・断ち切った「大切なことども」・・・・。
たぶん「社長シリーズ」は、その「事実」を忘れさせてくれたのだ。
自分は、あくせくサラリーマンの処世街道を生きている。けれど、
上り詰めたところで、所詮ほらこの通りのバカ騒ぎの社長様だ・・・。
だから、それは、大東京の、
「大切なことども」を完全には「裏切れなかった」人々、
「のし上がれ(ら)なかった」人々、
そうした勤労サラリーマンにとって絶妙の「カタルシス」なのであった。
そうした観客に媚びた森繁流儀など、
そんなもん認めないぞという趙・寛美の側からの
総てを解った上での「異論」だ。
森繁が「強い」のは、そうした「地べた」からの批判をよく承知していて、
「裏切って」「のし上がった」ワシと、さあどっちが、都会の現代勤労者の心に響く?
と云わば開き直っている点だ。
が、森繁への広範な支持にはやはり、勲章だけではない理由があると思う。
観客は、『完全には「裏切れ(ら)なかった」「のし上がれ(ら)なかった」層』、
『森繁社長の言動に「カタルシス」を見出していたサラリーマン層』なのだ。
己の企業社会人生を振り返り、森繁に赦してもらう「あちら側」
に座る心地悪さといかがわしさを知らぬわけではない。

先般の両国シアター・カイでの声体文藝館『青春の門・筑豊篇』会場に、
「あちらとこちら」の境界からやって来た観客が居たのなら、
タエさんと織江、そして「織江の歌」には、
その観客を「こちら側」に踏み留ませる、あるいは呼び込む力が備わっていた。
その力の蓄積こそが、やがて大御所森繁への「異論」の体系となって行くだろう・・・。

(ダラダラとくどい当コメントは、もちろん趙さんに送信し、真摯な内容の返信をいただきました)

12月16日(水)には、品川宿での初公演。我が庵から徒歩圏内ではないか!

出張を取り止めて行こうと思う。

趙博 品川宿公園

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