ぼやきエッセイ 安倍・プーチン会談 雑感

【クナシリ・メナシの戦い】

5月に、民博(国立民族学博物館):「夷酋列像-蝦夷地イメージを巡る人・物・世界」を覗いて、初めて「アイヌ三大蜂起」を知った程度のワシだ。だから、「領土とは何か?」とか「そもそも蝦夷地は云々」とか、ましてや「北方領土」がロシア(旧ソ連)の統治下になって70年の悲哀だとか、元島民の切情を持ち出す政権の手法に何か言うつもりはない。

【アイヌ三大蜂起】
コシャマインを首領とする函館:志濃里の「コシャマインの戦い」は1457年、応仁の乱の10年前だ。有名な「シャクシャインの戦い」(静内方面)が1669年。それから120年後1789年に起きた「クナシリ・メナシの戦い」はアイヌ民族最後の武装蜂起と言われている。俗にこの三つを「アイヌ三大蜂起」と呼ぶらしい。
「クナシリ・メナシの戦い」(1789年、江戸時代寛政年間)の翌年、松前藩士によって描かれた「夷酋列像」は、松前藩の和解策に最後は協力的に対応した12人の有力者だという。
メナシはアイヌ語で「東方」を意味し、元来は現在の北方領土から知床半島、根室地域 一帯を指した。

慶長9年(1604年)に成立した松前藩は、家臣に北海道各地の漁場の経営権を与えた 。米の取れない蝦夷地では、他藩のように年貢前を家臣に分けることができなかったの だ。漁場の経営権を委ねられた家臣は、次第にその権利を商人にあずけてけてしまう。 こうして漁場の経営権を握った商人を場所請負商人という。
当時、メナシ一帯を支配したのは飛騨屋という商人だった。飛騨屋は、北海道のエゾマツ、トドマツを江戸、大阪に送る商売によって巨万の富を蓄積した。木材商人であった飛騨屋が漁場経営に乗り出したのは、松前藩が飛騨屋への借金返済のために、メナシの漁業権を20年の期限付きで貸し与えたからだった。飛騨屋は漁業に慣れていない上、期限内に利益を上げようとアイヌを酷使・暴力支配した。 そんな折、国後島のアイヌが、倭人から薬代わりにもらった酒を飲んだところ、病状が 急変、まもなく死亡するという事故がおきた。相前後して、倭人からもらった飯を食べてすぐに果てたアイヌの娘がいた。相次ぐ同胞の死に、追いつめられたアイヌたちは、寛政元年(1789年) 5月7日の夜、国後島泊村の運上屋を襲い、ついに決起した。

国後島を制圧したアイヌたちは、対岸のメナシに渡り、同地のアイヌ人およそ130名以上 を集め、次々と和人の陣屋を襲撃した。羅臼町城にはオロマップに番屋があり、8人の 和人が襲われている。ほう起したアイヌ人は、松前藩の反撃を予想して、各地にチャシを構え、戦闘態勢に入った。報告を受けた松前藩もすぐに臨戦態勢をとり、264人の鎮圧 隊をノカマップ(現根室市東部)に上陸させた。
そこに現れたのが厚岸アイヌの長イトコイと国後アイヌの長ツキノエ。二人はほう起軍をなだめ、首謀者の首をさし出すことで、乱を治めた。
倭人を殺した罪で、アイヌ37人が 処刑され、その首は松前の立石野でさらし首になった。
70年前の大義なき占領支配に憤り元住民の切情に涙する心が、227年前民族自決を願い決起した先住者の無念と無縁ならば、その心情はいかがわしいとワシは想う。
歴史は、70年だけではないのだ。%e3%82%a2%e3%82%a4%e3%83%8c%e4%b8%89%e5%a4%a7%e8%9c%82%e8%b5%b7

ついでながら「クナシリ・メナシの戦い」1789年の頃、琉球国では、
「1609年(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)、薩摩藩の島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発し、3月8日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となる。」
薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後、明に代わって中国大陸を統治するようになった満州族の王朝である清にも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。
当時江戸政権は、田沼意次の失脚を受け、松平定信の「寛政の改革」(1787~1893年)という緊縮財政の只中だった。1816年のイギリス艦来琉以降、英仏蘭露米は頻繁に来琉、独立国としての琉球と交渉にあたった。1867年大政奉還、1871年廃藩置県(鹿児島県が琉球を「管理」)。1878年日清間で「琉球分割案」、1879年三分割アメリカ案。1879年沖縄県となる。

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