たわごと書評: 坂の下の曇り空  劇画『「坊ちゃん」の時代』を読む

リ・ダイアリー 09.9.30
【勉強をして来なかった者の、劇画三昧】
> 散逸したという龍馬の「幻の憲法草案」(薩摩に、長州に、幕府に、朝廷に、土佐山内にも配慮して変更した「船中八策」の前の大元素案)には
> 幕府はもちろんだが、天皇も無くして共和制とする旨記載されていたという。(だから暗殺されたという説を支持します)                     
>反幕府藩連合の新幕府ではない、永く実政治に関与しなかった朝廷を担いでの王政でもない。                                                                                              > 藩・幕府・朝廷の力学域から脱した異次元のステージの構想であった。
> 「奉還」先は「やがてあるべき何モノか」(たぶん共和制国民国家)
> であるはずだ、とする考えに至っていただろう。
> それが、龍馬の「公」であろう。来年のNHK大河ドラマ(福山雅治だそうだ)はもちろん、他の龍馬伝からも消されているという。
>
> 劇画『「坊ちゃん」の時代』(文・関川夏央、画・谷口ジロー、全五巻、双葉社)を読んだ。
> 西欧文明を受容しつつ疑い、疑いつつ受容する(関川夏央)。
> 開国の幕末から日も浅い明治人は、圧倒的西欧文明に向き合おうとするとき、
> 国家・国権・国威の拡大と近代的自我の確立とを重ねてしまふ誘惑に駆られた。
> (笑うな!帰属先(教団でも党でも株式会社でもいいのだが)の充実発展の中に、自己の確立を
>  重ねては悦に入っていた御仁を5万と知ってるぞ。「個」が帰属先と未分化なのは、
>  何も前世紀・前々世紀にのみ限った現象ではない。人が属性に依って生きることの傍証だ。)
> 近代化の渦に在って「絶望し」「かく善く生きよう」(関川夏央) と苦闘した
> 鴎外・漱石・二葉亭・・・・啄木・平塚らいてふ・菅野須賀子・幸徳秋水・・・・
> 明治人は、国家・天皇・政府・法・宗教・諸規範を超えてあるはずの
> 「公」を探していたのだ。国民国家はすでに、ヨーロッパにおいて侵略的経済活動単位にして、
> 排他的ナショナリズムの元凶との正体を曝しその幻想は崩壊しつつある。
> 明治政府は、天皇を「公」として盛り立てる策を次々と打ち出し、返す刀で
> そのことに抗う不敬の輩への、天皇の逆鱗や容赦のない課罰力を
> 天下に示す機会を密かに(堂々と)準備していた。「大逆事件」がそれだ。
> 天皇以外の「公」が登場し薩長革命の構図が崩れるを極端に恐怖する、
> 最後の維新革命世代たる山県有朋による、多くの無関係者を含む
> 「この際、根こそぎ」的な、24名に死刑(12名無期に減刑)という
> 容赦のない前代未聞の暴虐であった。
> 「このとき日本の青年期たる「明治」は事実上終焉した。そして昭和20年
>  (1945年)の破局に至るレールの上を走り始めたのである。」(関川夏央)
> (「公」なき日本は、この破局後も江戸瓦解からなお地続きのままを生きる?)
>
> 一方、対ロシア「戦争」に多大な犠牲を強いられた民は
> 西欧の一部には違いないロシアとの戦争勝利に、「西欧と肩を並べたぞ」意識、
> 国威の拡大を自己の確立にダブらせる思想(「気分」)、
> それにすがって自己を支えたのだ。軍国昭和へ走る街道の初期道だ。
> 現実は、戦費総額=国家予算の4倍で戦争継続の余力無き明治政府が、
> アメリカに仲介を依頼、賠償金なき講和を「勝利」と喧伝したに過ぎない。
> 日露戦争後のポーツマス講和会議の結果に人々は「軟弱外交」と抗議し
> 各地で「戦争継続」要求の大衆街頭行動まで繰り広げたという。
>1904~1905年(明治37年~38年):「日露戦争」、
>1910年 (明治43年):「大逆事件」、 
>1910年 (明治43年):「日韓併合」。
> 100年後の今日から見ると、この三つがワンセットだったとハッキリ見える。
> 西欧化を目指し西欧と戦い、天皇制強権国家を完成に向かわせつつ、アジアを奪う・・・。
> 西欧と伍すためにアジアを奪う? 薩長主導の明治新国家の国家目標の核心だと言える。
> 添付画像は『「坊ちゃん」の時代』第三巻 『かの蒼空に』 の表紙、この巻は啄木が主人公。
> 啄木の実生活は一面「とんでも」男なのだが・・・http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/column-2.html 

> 稀代のC調寸借王・生活破綻者・無用の人たる彼にしてようやく見えることもあったのだ。 
> 無用の人、啄木は「大逆事件」「日韓併合」の同時代に在ってこう詠んでいる。
> 『何もかも行末の事見ゆるごときこのかなしみは拭ひあへずも』
> 『秋の風我等明治の青年の危機をかなしむ顔撫でて吹く』
> 『地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く』

 
> 『「坊ちゃん」の時代』(全五巻:双葉社刊)
> 第二巻『秋の舞姫』は鴎外が主人公だ。
> 巨大な先達でもあり、かつ違和の対象=西欧という山脈の前で
> のたうつ彼鴎外は、西欧への劣等感を埋め合わせるかのように、
> 異境に在って薄幸の女=舞姫との関係を持つ。
> (鴎外の深層心理を見透かすように、舞姫は実はユダヤ人だったのだ。
> 「舞姫」一篇は、西欧へのコムプレクス問題と、擬インテリは上昇志向を
> 何を棄てて成就して来たか? といふ二重テーマによって成立している。と聞か された記憶がある)
> 『「坊ちゃん」の時代』第二部によれば、ドイツ滞在時、鴎外はある夜、乃木希典なども同席していた宴席で
> 明治初期日本政府の招きで開成学校で教えたナウマン博士の言に噛みつく。
> 「日本は急速な西欧化を目論んでおる。その意気やよし、知識欲やよし。
>  しかし、残念ながら西欧化近代化の基礎となるべきキリスト教文化を
>  欠いておる。わたしは断言する、 日本が西欧と肩を並べる日はつひに
>  来たらず」というナウマン氏に、   鴎外は
> 「日本には古来、武士道があります。武士道は信と義との結晶です。
>  我々は、数千年心性を鍛えぬき、いま西欧の覇道から身を避けるために
>  たかが数百年の洋智を学んでいるのだ」と、気色ばんで言い返す。
>
> しかし、日本の歴史に明らかなように武士の登場は平安末期であるし、
> 言うところの「武士道」の暦は決して数千年ではない。
> ここで「武士道」と名付けて引っ張り出されたものは、より永い歴史ある
> ものとして、後年「やまと魂」として提出されたものに連なる「虚構」か?
> 誤解を恐れず言えば、数千年を耐え抜き持続されたものなど無いので、
> あえて「武士道」というものを持ち出すしかなかった、と思える。
> 西欧の「神」に代わるものとして「天皇制」を持ち出さなかった苦肉の言説の意味するところは大きい。
> 「天皇」が、世界の光の中に晒されたとき、それは「私」的な存在だと
> 明治知識人は承知していたのだ。
>青年「明治」は、より高次の「公」、揺るがぬ「公理」を探していた。
>
> 明治政府は、「天皇」「官」をもって「公」に代え、それに絶対権力を付与した。
> だがしかし、それは断じて「公」ではないのだ!
> 最終正義を持っている在り方は、それが教義・教祖であろうが
> 「天皇」であろうが、その先が無いのだから一種の思考停止状態を生み、
> 論理や疑義の発展の可能性を閉じてしまう。明治政府が天皇を絶対
> とした瞬間、軍国昭和と1945年が用意されたと言えまいか。
> 幕末と明治は地続きであり、明治が昭和を準備し、昭和は昭和で
> 人間宣言をして焼け跡に舞い降りた裕仁が、戦前と違う言葉を発する以外
> 戦前と戦後は同じであり、つまりは幕末から平成まで
> 時代は天皇の代替わりや、外的な事件によって区切られてなどいないのだ。地続きなのだ。
> 「公」なき、のっぺらぼう日本の時間が過ぎて行く。
> その裏では、しばしば「大逆事件」時の山縣有朋の役割を果たす
> のっぺらではない強面の巨魁が領導する事態が何度も繰り返された。
>
> 今日、この国で最も「公」に近いものは『憲法』だろうか? 
> 敗戦時のまさに「国体」の処置と、天皇の責任の曖昧さが、地続き日本、
> のっぺらぼう日本の、金太郎飴人心の、大きな原因だとぼくは思う。
> それはともかく、新左翼に「公」概念、「公共性」への意識が希薄ではあったとは認めたい。
> 某主義を語り、革命を謳った。党組織論を述べ、国家論を論じた。
> が、それらを越える「公理」「公」など抽象論だとして捨て置いたと思う。
> 多くの悲劇や惨劇が、そのことと無縁だとは思えないのだ。
> 明治の「主義者」には「公」が在ったか・・・?
> 幸徳秋水は日露戦争に際して、こう演説していた。
> 『ロシア平民と、われら日本平民とは同志であり、断じて戦うべき理なし。
> 愛国主義と軍国主義とは、日露平民共通の敵ならずや!』
>
【付録】
[漱石先生の大和魂観]
漱石先生は、こう言っている。
『東郷大将が大和魂を持っている。魚屋の銀さんも大和魂を持っている。
 詐欺師、山師、人殺しも大和魂を持っている。誰もみたものはない。
 誰も遭った者がない。大和魂 それ天狗の類か』 (『吾輩は猫である』)
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駄エッセイ・歌遊泳: カルメン・マキは母になったか?

『戦争は知らない』(作詞:寺山修司、作曲:加藤ヒロシ)
 「戦知らずに」「二十歳になって」「嫁いで」『母になるの』と唄った、69年少女は母になったか?
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68年~70年に世に出た歌で一番好きな曲だと言った(いや白状した)ので、
この歌の歴史を調べてみた。
ユー・チューブで坂本スミ子版に辿り着くと、歌の来歴が書いてあった。
『戦争は知らない』 作詞/寺山修司 作曲/加藤ヒロシ 歌/坂本スミ子  東芝音楽工業 
1967年2月発売。何と坂本スミ子が最初なのだ。
1968年フォーク・クルセダーズがカバーしてヒット。
その後、広 川あけみ、シューベルツ、ザ・リガニーズ、で、その後カルメン・マキ版(69年)が出て、
森山 良子など多数のアーティストがカバー。フォークの名曲として今に 歌い継がれる。・・・だとさ。
カルメン・マキ:1951年生れ。68年、たまたま友人と劇団「天井桟敷」の舞台を見に来て感銘を受け、即入団決意。
それまで、今で言う「不登校」に近い状態だった少女の一大決心だったそうだ。その不登校時代に、話を聞き、
親身になって寄り添いケアしたのが「キューポラのある街」の作者:早船ちよだという。
(これは、早船さんに近い筋と親しい人からの情報。まず、間違いない)
69年 『時には母のない子のように』で 歌手デビュー。
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『戦争は知らない』の各版を採録してみる。
 
カルメン・マキ:http://www.youtube.com/watch?v=FpRowO6AVCs&feature=related                                                                                                                                                              本田路津子:http://www.youtube.com/watch?v=F9e74o5clX0&feature=related
 
ここに出たものは、カルメン・マキ以外はアップ・テンポで、カントリー風に流す反戦フォークですか?
カルメン・マキの歌はゆっくりしていて、ナチュラルで透明感(といってもやや陰りのある)に充ちているが、
ナチュラルというのは「普通の子」や「素直な子」の代名詞なのではない。
媚びたところがない姿勢には、逆に大人や世の中との「非和解」の意志が棲んでいそうで、
どこかそっけなく、かといって投げやりではなく、歌詞やメロディにもしがみつきはしない距離を保っている。
これは、もう、あの時代のアレコレ全てを浴びて生きる少女像(寺山主観の)なのだ。
寺山が気も狂わんばかりに執着(いや全く知りませんが)したとしても不思議ではない。
この少女の持つある「価値」と重なる存在との「交信」を乞い願ったたことはあるか?
捉まえた瞬間から消滅に向かうはかないものを追いかけたことがあるか?(ぼくには記憶が**)
カルメン・マキは、『時には母のない子のように』 『山羊にひかれて』、そしてこの『戦争は知らない』までだけは、
寺山のうっとうしい要望=「幻の69年少女像」を演じてくれという要望に、応えてやったのかもしれない・・・。それ、すでに母の片鱗か?
 
だが、思うに、1935年(昭和10年)青森県弘前生れの寺山を支配する、
41年父出征・親戚家・45年青森大空襲・父戦死の公報・敗戦時10歳…という
「寺山の戦争」からの立ち上がりと、中学期には始めていた俳句・青森高校・早稲田・訛り・
競馬・劇団天井桟敷・・・「戦争の過去と未来」への詩的(そう言うしかない)総括を
仮託された69年少女(いかにも荷が重い)が「お嫁」に行き「母になるの」だから、
そのとき少女は少女ではないという自明を、この歌詞は最初から背負わされている。
つまり、歌詞の「思想世界」と歌う少女の「現実世界」が、
いずれ衝突を起こし、歌唱そのものが不可能になる。 短い歌唱可能時間の緊張の上でこそ、
少女であって母でもある「不可能」を抱え、仮装カルメン・マキの歌はどこまでも輝くのだ。
寺山は、「駒場祭」ポスター:[背に代紋]のお兄さんの「とめてくれるなおっかさん」に応答してか、それと対を為すように「おっかさん」予備軍に「母になるの」と宣言させている。母性への依存と回帰(寺山がそうなのかどうかは知らない)かと嘲笑われそうだが、「戦争」の「知らな」さへの、世代を貫通する悲惨への、歴史としての戦争への、その理解に於いて、後のフォークル『戦争を知らない子供たち』(71年、作詞北山修)の軽薄さとは違い、なるほど寺山なのか・・・と思えた。                                                                                                                              寺山修司:『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
(NHK「あの人に会いたい:寺山修司 」 http://www.youtube.com/watch?v=GAfwMovC0_0&feature=related
 戦争期を知らないフォークル世代の「知らない」位置と、同じく「知らない」少女の「物語」に仮託して自らの戦前~戦後を貫く「戦争」を語ろうとした(無理があるが)寺山の「知っている」位置は、実体験の差であるのは当然としても、それ以上に想像力・構想力・思想力の差だ。                 
「平和の歌を口ずさみながら」や「今の私に残っていろのは♪」のところは、当時からムズムズと居心地悪く、厭だった。                                                                                                  ハッキリ言って『戦争を知らない子供たち』は嫌いなのだ。   
 「父」が国家に至る縦・制度・社会的属性を象徴すればこそ、「戦争」で「死んだ」(それを喪った)「悲しい父さん」を「想えば」、あゝ「荒野」に赤い夕日が沈むのです。 で、今寺山の幻想上の少女は「母になるの」です。                                                            
「見ていて下さい」は、「他」から望まれ・指示され・誘導されて在る存在を止め、自らの意志で「自身の姿」を決める存在になるという宣言だと思う。 それを仮に「母」と呼ぶなら、それは非縦・非制度・非属性であり、ここで昔太宰が青年吉本隆明に語ったという「男の本質」=「マザー・シップ」の意味が浮かび上がる。←つぶやき: 太宰と吉本 生涯一度の出逢い その論旨は、吉本自立論の根幹に通底していると思う。
 
ところで、ハーモニカだけのほとんどアカペラ状態の、この歌唱・この質感はどうだ! 
上手い、実に見事だ。そこらのどんな歌手も歌えまへんで・・・。
 
興味ある方は何らかの方法で、その後のカルメン・マキを調査・検索してみて下さい。
70年にロックに転向。マキの歌唱は高く評価され、
伝説の『カルメン・マキ&OZ』(75年)が当時としては異例の10万枚売上達成・・・・・・とある。
ぼくはロックが分からないのだが、寺山的カルメン・マキ像からも、初期ファン層の期待像からも、
離陸して立っていた、当時の「早すぎたロッカー」カルメン・マキに会いたかったなぁ~。
 
『時には母のない子のように』:http://www.youtube.com/watch?v=6C1YIEJYtu4&feature=related
『戦争は知らない』:http://www.youtube.com/watch?v=FpRowO6AVCs&feature=related                                                               Carmen Maki & OZ 『空へ』:http://www.youtube.com/watch?v=d9JyELDnLNk&feature=related
Carmen Maki & OZ 『閉ざされた街』:http://www.youtube.com/watch?v=j7W_zLuoa48&feature=related
Carmen Maki & OZ 『朝の風景』: http://www.youtube.com/watch?v=Nb6ubnH_cMk&feature=related
押し付けられた少女像を自己埋葬して、彼女は「母にな」ったのだ。
なお、彼女には 日本人とアイルランド人とユダヤ人の血が流れているそうです。
      
ライブ活動も健在、ホーム・ページは → http://www.carmenmaki.com/
一月の神宮前ライブ 行こうかな・・・・・・・・・・

つぶやき: 太宰と吉本 生涯一度の出逢い

リ・ダイアリー 08年11月。
 
東京では、「東京人」という薄い雑誌が、どこの書店にもある。その月は太宰治特集だった。
表紙を見ると「吉本隆明」が何か言ってるようなので購入した。
吉本が無類の太宰ファンであり度々太宰を論じていると知っていた。
電車の中でパラパラ捲ると、吉本の写真付きの記事があった。その老人ぶりに驚いた。
吉本 84歳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉本(現在84歳)は戦後間もなくの学生時代、
学生芝居で太宰の戯曲『春の枯葉』を上演しようとなり、仲間たちを代表して
三鷹の太宰宅を訪ねる。太宰は不在だったが、幸い太宰家のお手伝いさんから
聞き出し、近くの屋台で呑んでいた彼を探す出す。
当時の人気作家と無名の貧乏学生=のちの詩人・思想家の出会いだ。
 
そこで、こう言われたという。
『「おまえ、男の本質はなんだか知ってるか?」 「いや、わかりません」と答えると、
 「それは、マザー・シップってことだよ」って。母性性や女性性ということだと思うのですが、男の本質に母性。不意をつかれた。』
もう一つ。選んだ戯曲『春の枯葉』について語ってくれたという。
『中に、<あなたじゃないのよ、あなたじゃない。 あなたを待っていたのじゃないのよ>
 と流行歌を歌う箇所があるが、 「<あなた> というのはアメリカのことを言ってるんだよ」って教えてくれた』
翌48年、太宰は心中する。
吉本は親友奥野健男と二人だけの追悼会をしたという。
マザー・シップ・・・。ふと、取り上げてきた、石川節子・与謝野晶子・マルメンマキ『戦争は知らない』・『カナリア』のユキ:谷村美月、                           清作の妻、サイドカーのヨーコさん、…   彼女たちを思い浮かべている。
 太宰①
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太宰と吉本の60年余前の、たった一度の出会い。ええですなぁ~。
当時の三鷹駅近くの風景写真も添えられていたが、
この両師の安屋台での出会いのエピソードだけで、
戦後の風景や香り、街行く人の表情、
占領下の天皇・皇国主義者・戦後政権から「解放軍」と規定した日共まで・・・
公民挙げて例外なく浸った、強大なものへの「完全脱帽」(加藤典洋)、
敗戦直後この国に「在り得たはずの」幻の「国のカタチ」その可能性・・・『敗北を抱きしめて』が描く人心・・・・多くのことが浮かび上がる。

歌遊泳: 誰もが、歌より先を走っていると 思って生きていた 68~70年

数年後、早くも『神田川』(73年) 『いちご白書をもう一度』(75年)など
68年~70年を振り返るような歌が登場するが、それらは「私」に終始し、企業社会へ出てゆく者の社会との和解の為の通過儀礼だった、と言えなくはない。
振り返りの自己責任に於いて『みんな夢でありました』森田童子、80年)が群を抜いていて異質だ。和解など説いてはいない。
「私」に沈殿しているように見えて、掴みあぐねた「公」をなお探していた。
センチメンタリズムに彩られていると思われがちな歌詞とメロディは、そうであるよりは
「現実」なるものに抗う者の最後の方法論を秘めたもののようだ。←「歌遊泳」:森田童子の磁力に抗して
  
68年
帰って来たヨッパライ:http://www.youtube.com/watch?v=GHNHACxnU6U

68年東大「駒場祭」ポスター。父不在を見抜きマザコンを嘲り、土着を抱えた左翼小僧の心性を見事に言い当てていた(と今認める)、                                                                                  このコピーの作者は、同世代の東大生=日本古典文学者である橋本治氏(『窯変源氏物語』『桃尻語訳枕草子』の著者)だそうだ。                                                                   どうです、このカッコ悪さをパロるカッコ良さ(?)。画像が読みにくいと思うので、字句を示しておく。                                          『とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く』 です。                                                        世代を相対化できていて、自省的で世代自己分析としてなかなか・・・と言われているが・・・どうだろう?                                   

                                                                                         

 
 
 
 
 
69年
ブルーライト・ヨコハマ:http://www.youtube.com/watch?v=XUAq18FQ3is
風:http://www.youtube.com/watch?v=3rvhjMZj3eI (←書評:ヘルメットをかぶった君に会いたい)クリック                                                                                      フランシーヌの場合:http://www.youtube.com/watch?v=uqSPNZHaZRU
時には母のない子のように:http://www.youtube.com/watch?v=6C1YIEJYtu4
                                                                                                         その頃(この年には、それぞれの個人史があろうが)、キャメラを引いての俯瞰絵と「個」ににじり寄っての接写画、                                                                その両方から自他を見届ける為に、みな生きていたのか?いやそれは無理というものだ。
妙に大人びて「恋愛論」好きの友が、浅丘ルリ子「愛の化石」の語りの部分に心酔(?)して「愛するとは耐えることなの」だ、と真剣に語ったり、                                                                                      バリケード内に『白いサンゴ礁』が流れていたり、哲学好きの先輩が「時には母のない子のように? 吾らは、時にではなく、生れ落ちてより今日まで、ずっと父不在を生かされて来たのだ」と叫んだり・・・、                                                                          そして誰もが流行り歌などなんかより、ずっとずーっと先を走っていると思い上がって生きていた。 
 
70年
あなたならどうする:http://www.youtube.com/watch?v=UVZJVAf3sjg
老人と子供のポルカ:http://www.youtube.com/watch?v=LZZk0tP49H8 
 
この年、銀座・新宿・池袋などで「歩行者天国」が実施された。 一方、車社会が進行し、交通事故死者数は急増中。「歩行者は天国へ」と揶揄された。 12月、沖縄が燃えた。いわゆる「コザ暴動」がそれだhttp://www.youtube.com/watchgl=JP&hl=ja&v=wXjs5MpPRtw      
70年、歌は「やめてけれ!」と 早々に68・69年を過去のものにしようとしていた。が、「運動」の迷宮に立ち尽くす者は、耳元でささやくような「あなたならどうする?」という幻聴に悩まされていたのか? この70年前後に「戦後社会の曲がり角がある」と多くの論者が言う。確かに、「戦後」社会は変貌していた。白モノ家電の9割普及、マスプロ大学的教育の普及、女性の表層的職場進出、山田洋次が『家族』で活写した高度経済成長のピークに差し掛かっていた(←戦後歌謡曲空間「無許可遊泳」:民子さんオホーツクを唄う。) 
そして、新左翼は70年7月7日、「七・七華青闘告発」に晒されていた。 ←華青闘代表発言: http://konansoft.com/zenrin/html/huajingtou77.htm 
 
【追記】 作詞:寺山修司 『戦争は知らない』
この時期数年で一番好きな歌は何かと問われれば、たぶん68年か69年のカルメン・マキ版の『戦争は知らない』だ。                                                         (フォーク・クルセダーズとの競作だが、そのフォークル版ではありません) ←http://www.youtube.com/watch?v=FpRowO6AVCs&feature=related                                                     

60年安保闘争50周年の、来年2010年。各人の「物語」は、時代遅れの衣装と厚化粧をまとってか、脱衣とスッピンに至ってか、グルリ回って    第4楽章に差し掛かっている。 それは、「公」と「私」の両方から、そうなのだ・・・。

「本来、人間は一生一代一仕事だと思うのですが、二つの時代を生きて二つの仕事をやる必要はないのです。」                    『占領下日本-OCCUPIED JAPAN -』(筑摩書房、対談:半藤一利ら)より、保坂正康発言
 
 
 
 
 

歌遊泳: 1915年(大正4年)中山晋平作「ゴンドラの唄」

『ゴンドラの唄』 

写真は大正期道頓堀

‘吳‰æ˜L_[www.kasetsu.com]

  この歌は1915年の作品だそうだ。ぼくは、母が歌っていたのを聞いたのが最初だと思うが、映画『生きる』(黒澤明監督)で、死期近い老公務員:志村喬が公演のブランコに座り 「命~ぃ 短~かし 恋せよ乙女」と歌ったのを聞いて「戦後の唄なのかな」と思ったような気がする。いま思えば、このメロディーは確かに昭和以前ですね・・・。

【ゴンドラの唄】
映画「生きる」予告編より、後半に志村喬歌唱ありhttp://homepage2.nifty.com/tedukuri/ikiru.htm

生きる

ともかく、「戦後歌謡曲」云々の番外編です。

つぶやき: 東京出稼4年目。谷根千(ヤネセン)から品川宿へ…

谷根千(ヤネセン)『「坊ちゃん」の時代』から 品川宿『幕末太陽傳』へ・・・

 先日、某・忘年会で出会った友人に声を掛けられた、「仕事や睡眠を削ってブログ書いてんのか?」 と・・・。 ネタをバラしておく。ブログを立上げて以来、過去に「人の迷惑 顧みず」メールで発信していた「駄文」(といっても自分としてはお気に入りの)を微修正、せっせと「転載」しているだけ。だから、今のところ労力はほぼ皆無。迷惑メールだった人々は、たぶんホッとしていることだろう。迷惑だとサインを送ってくれた人が、案外読んでくれていたのだが・・・。しかし、長文の「強引自説」メールは「迷惑」に違いない。

 某社東京支店立上げで上京したのが06年10月だから、ようやく満3年が過ぎ4年目に入ったところだ。08年7月まで、文京区本郷は東大近くに居た。仕事の先行きに自信も無く、業務は独りで何とかこなした。  東へ坂を下ると根津がある。「谷根千」(やねせん)=谷中・根津・千駄木の街並みは漱石・鴎外・わがまま啄木らの『「坊ちゃん」の時代』(双葉社、文:関川夏央、画:谷口ジロー)の息遣いが感じられ、震災・戦災を超えて昭和ばかりか明治まで見えるような気がした。その気分を『明治~平成 根津権現坂』  http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re69.html#69-2  に書いたりしたのだが、そこから、啄木へ、やがて啄木の妻:節子へと遊泳したのだった。 だから、節子さんに出会えたのは、住居近くの散策のお陰だと言えなくはない。  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/column-2.html 

 08年7月、東京支社はようやく3名態勢となり、南品川に3階建ての事務所兼自宅を借り移転した。ここは東海道品川宿。 街道の街並みは、参勤交代の人馬の響きまでが聞こえて来そうな趣で、なかなか人も街も魅力的なのだ。 

品川宿と言えば、名作:『幕末太陽傳』(57年、日活、監督:川島雄三)の「居残り佐平次」。                    

幕末太陽傳

やがて品川宿散策から、幕末~21世紀の何人もの「居残り佐平次」に出会えるだろうか・・・。 北品川駅近くに「売防法」前の「赤線」があったそうで、ある世代以上のある趣向の人には「北品川カフェ街」=「16軒の特飲街」として知られていた。 品川宿という語には、そうした背景色が湿気を帯びて付着しているらしい。 

 幕末の志士、明治の民権派、西欧コムプレクスと格闘した明治人、大逆事件の人々、関東大震災、軍国昭和、開戦・大空襲・敗戦、東京湾上のミズゥーリー号・進駐軍・マッカーサー~『敗北を抱きしめて』の時代、幻の2・1ゼネスト、砂川闘争~伊達判決、60年安保闘争、67・10・8他の羽田へも近い、・・・・。 江戸の手前、大東京の喉元、品川宿。 

 『幕末太陽傳』佐平次の「幻のラスト・シーン」=【佐平次(フランキー堺)が撮影セットを突き抜け、スタジオの扉から外へ出て、現代(57年)の品川の街並みを[ちょんまげ]頭のまま走り去って行く。映画の登場人物が現代の格好で佇んでいる・・・】 のように時空を突き抜けたいものだ。                                     本来、時代は地続きなのだ。

品川宿独り暮らしの自作モーニング(どう?美味しそうでしょう?)と、事務所兼住居3Fから視た 品川神社・荏原神社合同の天王祭

モーニング (1)

事務所3Fから観る天王祭

たそがれ映画談義: 増村保造の逆説 西欧・近代的自我・明治・土着

『清作の妻』 (1965年、大映)  監督:増村保造  シナリオ:新藤兼人  出演:若尾文子、田村高廣。

清作の妻②清作の妻(縮小)

【DVD紹介コピーより】 舞台は、日露戦争時代の貧しい農村。やっとつかんだ女の幸せを戦場が奪い去ろうとする・・・愛する夫・清作を戦争にやるまいと、妻・お兼は恐ろしい行動に出る・・・。 妻はふるえる手で夫の目を狙った! 戦争という状況の中で、愛する夫のために闘う女の凄まじさと、その凄まじさの中にある美しさを描き出す。

 増村保造(60年『偽大学生』、66年『刺青』、67年『華岡青洲の妻』、76年『大地の子守唄』、78年『曽根崎心中』)のファンは、必ずこの作品を外さない。ぼくは、『曽根崎心中』(78年)のお初(梶芽衣子)にビックリ!確か、梶は各種映画賞を取ったはずだ。 ウィキペディアの増村紹介文はこうだ。「生涯で残した全57本の作品は、強烈な自我を持ち、愛憎のためなら死をも厭わない個人主義=ヨーロッパ的人間観に貫かれている。モダンで大胆な演出により、これまでにない新しい日本映画を創出した。」  なるほど・・・、この映画なんか往年のジャンヌ・モローとジャン・ルイ・トランツィニアン主演で、フランスの田舎町を舞台にして作れば・・・と真剣に思う。

  日本的呪縛からの日本的とされている「おんな」による大胆な脱出の迷路。若い日には、そのヨーロッパ的人間観と言われる増村モダンと、明治日本の土着パッションが交差する逆説的地図が読めなかった。  劇画『「坊ちゃん」の時代』(文:関川夏央、画:谷口ジロー、双葉社)が、ぼくにも解るように描いてくれた「明治人の格闘」に、そこの重なりが少しは見えて来てこの映画のファンになった。

 妻が対峙しているのは、明治の村の目の前の封建・黙契・土着なのだが、作者とヒロインの立ち位置はハッキリ国家・天皇睦仁に真向かっている。

ほろ酔い通信録: 忙閑さまざま 某・忘年会

忙・閑を越えて集まった「K大校友連絡会」 http://www1.kcn.ne.jp/~ritsu/index.html のみな様:12日夜はどうも・・・

1969年 K大闘争69年関大キャンパス全学集会1969 関大キャンパス

我らの側から「戦後政治の総決算を」と言いたいなぁ

 2007年の初め、                                         拙作(http://www.atworx.co.jp/works/pub/19.html)の        出版記念会でS氏が宣言した。                                      「新自由主義の名の下進む 規制緩和という名の野放し儲け主義・弱肉強食・勝組負組などという選別・排除の小泉構造改革は、安倍内閣の今では『美しい国』という愛国標語までぶら下げて、大手を振って進んでいる。このままでは、1・2年のうちにこの国は大変なところに行き着くだろう。全共闘世代が世代の責任として、自らの全共闘的明暗・新左翼的正負の遺産を見つめ、その上で今こそ異議申し立ての行動を再開したい。近く、結集体を立ち上げるので、参加を呼びかける」と。                                                    S氏・Ⅰ氏を中心に、たぶん前年からの準備を進めていたことと、ぼくは推察している。

 戦後政治の総決算(82年中曽根内閣)・85年の労働者派遣法・86年国鉄分割民営化法案提出・89年総評解散・・・。労働・生活という社会の基本を安定的に維持発展させる「約束事」を「規制」と呼びそれを「緩和」する新自由主義(世界的には79年~のサッチャー、81年~のレーガンが代表格。「サッチャー・レーガン革命」とまで言われた)的改編は労働環境と雇用形態にも進み、2001年小泉登場となり、若者に責を問うようなフリーター・ニート非難世論がありました。07年初頭のS氏の発言の通り、果たせるかな08年暮には日比谷派遣村が登場、派遣労働の深刻な雇い止め・無権利を広く知らしめました。

 09年総選挙は選挙制度の後押しもあり民主党の圧勝でしたが、小泉的構造改革のツケを背負いながらそれと縁を切れるか? また、普天間-辺野古問題から炙り出される「日米軍事同盟」という、この国を覆っているいわば「敗戦時構造」、沖縄の基地・負担・占領を前提に成り立ってきた、「戦後」そのもの・・・。 時あたかも、それへの我が方からの「戦後政治の総決算」を問うべき時期となっている。 来年は60年安保50周年ですが、当時の課題はそのまま(冷戦構造が終わり、世界政治地図も変わっているのに)今の課題だ。民主党政権は、その総決算に一歩でも踏み出さない限り歴代自民党政権の亜流ということになる。 問われているのは「戦後」そのもの総体だ。

戦後政治

 某・忘年会に参集した元K大生は、団塊世代を中心に各世代から、零細企業経営者・医療機関事務職・介護施設職員・自治体労組役員退任者・上場企業永年勤続組・生協職員・単身出稼ぎ労働者など多様だ。 みな、かつての日、・白・のヘルメットを被り、東大安田講堂逮捕組で数年後出てみれば浦島太郎であった者として、あるいは党の凄絶な解体を体験し属すべきモノを喪った者として、70年代以降総評労働運動の盛衰の只中に在り「自説」を通せはしなかった者として、民主党へ移り政権の歴史的任務=ヨーロッパ型二大政党を想い何が出来るか考えない日などない者として、 それぞれの公・私の「総決算」こそが残された時間の仕事か?                                                        まぁ、年寄りらしく気楽に誠実に、しかし思想としてはラディカルに、やって行きまっひょっい。                                                         別のところにこう書いた。『人は「帰属」性の中でではなく、それを取っ払った地点の「孤立」の中で、他者に出逢え己にも出逢える。              実は、そこが「共闘」や「連帯」が始まる契機であり原圏なのだ。 』と。                                                                                                                                         今や、みな、そう思えるだけの辛酸(?)を舐めて生きて来たのかも・・・。   

 冒頭、S氏が言った「K大校友連絡会を立ち上げて3年若。研究会でも学習会でもなく、小さくとも曲りなりに行動体として輪が広がったとしたら幸いです。 痛い記憶を糧として、それでも行動する集まりでありたい」に、全面的な賛意を表します。  ちなみに、最年少はまるで孫のようなK大一年生でした。我が子よりうんと若いのだ。

品川宿より

 

交遊通信録: 詩人A氏へ 「晶子を巡って」 

 「何もかも」「いっしょくたに」・・・
 
【品川宿
先日はありがとうございます。「アカペラ歌謡大会。やってみると意外に楽しいなぁ~」
というのが 感想でした。楽しい時間をおおきに。・・・
晶子の『君死にたまふことなかれ』の歌謡があるとは知りませんでした。

で、晶子について・・・。先年、あまり知らなかったことを読みました。

日露戦争への異議を世に問うたその晶子にして、身内の戦争への関与(四男が海軍大尉)の十五年戦争に際しては                   戦意高揚・戦争賛美に連なる論陣を張った といふことから、
戦争の「何もかも」「いっしょくたに」「動員」されちまう、
その典型・教訓として、取り上げられたりしている。それによれば、
一方に、全てを飲み込んで雪崩れ行く世情がある、
身近では、四男昱(いく)が海軍大尉として加わっている・・・、彼女の非戦論、『血潮』は喘ぎ揺らぐのだ。
国家が人々を巻き込んで行く戦争といふものの、多重的拘束力・肉親の情をさえ鷲づかんで活用する恐ろしさの、                     これが実相だ、という訳です。太平洋戦争が始まって間もなく(1942.5.29)彼女は他界する。

晶子の論説も書いてありました。(晶子は)『日支国民の親和』では
『陸海軍は果たして国民の期待に違わず、上海付近の支那軍を予想以上に早く掃討して、
 内外人を安心させるに至った』 と述べて、
これまた手放しで日本の侵略戦争を支持している。また同じ年に晶子の夫の鉄幹も、
軍歌『爆弾三勇士』や『皇軍凱旋歌』といった軍歌を作って、
国民の戦意昂揚のためにつくしている、 と手厳 しい。  国家・戦争・家族・・・・難しい~~~ことです。                                                      

与謝野晶子

【南丹波
 こんにちは。
晶子についてのコメントありがとうございます。彼女を「反戦平和主義者」のように
美化して言うのはおかしいという説は、まったくそのとおり。
晶子は6男6女、12人の子を産み、出産直後に死んだ2人は別として残り10人を育てながら、
収入不安定な夫を養いはげまし(晶子41歳のときに夫・鉄幹が慶大教授になり小康を得たが)、
声をかけられた仕事はたいがい断らずにやりまくって一家の生計をほとんど一手に引き受けて生ききった、女豪傑ですね。 
意気に感じて身体が動いてしまい、血潮がたぎって言葉がほとばしる。
本来右も左もない、原始、女は太陽であった、というときの「女」でしょう。
 
しかし。
 「君死にたもうことなかれ」を虚心坦懐に読めば、これはひたひたと日本人の胸に「戦をしてはいかん」という気持ちを高ぶらせる、           見事な反戦の詩です。
とくに深い考えもなく「自然に」天皇を崇敬しているような人の胸をもどよもすような、
戦に乗りだす男ども、為政者たちにたいする強烈な反問です。
  
 この詩に作曲した吉田隆子は、晶子が日中戦争時期に入って戦意高揚に加担するような言説を発するようになったことを知っていたでしょう。
吉田隆子自身は、音楽・作曲活動を始めて間もなくプロレタリア文化運動にも参加し、
1933年、35年、37年、40年と繰り返し検束・拘留の目にあっています。
その40年の拘留時には「腹膜炎」で重態になってかろうじて釈放され生きながらえたのですが、
戦意高揚・戦争賛美に「何もかも」「いっしょくたに」「動員」」しちまう大政翼賛の日帝、軍国主義の怖さは骨身に沁みてわかっていたでしょう。
にもかかわらず隆子が敗戦後1949年の時点で晶子の「君死にたまうことなかれ」を取り上げたのはなぜだったか。
あの詩は、いわば、原初のときからの命の滔々たる流れの上に立って、現世の天皇の振る舞いをも糺そうとするような、気迫に満ちている。
そこに親子の情、はらからの熱愛、夫婦・恋人の恋情・希求など、
人としてどんな人間の身体の中にも血潮とともに流れている「何もかも」を「いっしょくたに」「動員」して                                  
命を守れ、生かせ、殺すな、征くな、とひたぶるに迫る力があるのじゃないか。                    
天皇がアメリカ占領軍のおかげで地位を保ち天皇制がみごとに「護持」され、日本全体が米帝の思惑に強引に引きずられて、                      
またもや大勢に押し流され戦へ戦へと向いていきかねない時勢に、あの詩をぶつけること。
それによって日本人を、かつてそのように流されていった晩年の与謝野晶子をも含めて、
諫め、心をどよもして頭を冷やさせる意図があったと思えるのです。
 つまり、ああいう詩を書いた天性の詩人・晶子でさえが戦意高揚・戦争賛美の流れになびいてしまった、
という苦い歴史をかみしめることで、あの歌「君死にたもうことなかれ」は、
いっそう痛烈な反歌としての意味合いを強く響かせる、というのがぼくの解釈ですが、どうでしょう?
 
【品川宿
全く、同感です。「評価」と「美化」は違う、「論評」と決め付けやレッテル貼りは違う・・・ということですな。
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Tさんにお答えします。A氏とは、宋友恵(ソンウヘ)著 『尹東柱(ユン・ドンジュ)評伝 空と風の詩人 』(藤原書店、560頁、¥6825)の翻訳者:A氏です。

たそがれ映画談義:シェーンとマッカーシズム

『シェーン』(1953年、アメリカ) 監督:ジョージ・スティーヴンス 
出演:アラン・ラッド、ヴァン・ヘフリン、ジーン・アーサー、ブランドン・デ・ワイルド、ジャック・パランス、エリシャ・クック・JR

「シェーン」の作品背景にあるという「ジョンソン郡戦争」(1892) というのを知った。紀田順一郎『昭和シネマ館』(小学館)によれば、それは、ワイオミング州ジョンソン郡で実際に起きた大事件で、牧畜業者がテキサスの退役軍人など22名のプロを傭兵として雇い、新参入の開拓農民多数を虐殺させた事件だそうだ。アメリカ国内では「ああ、あの事件ね」と誰もが知る有名な事件だそうだ。(マイケル・チミノ『天国の門』はジョンソン郡戦争を描いたもの)ジョージ・スティーヴンスは原作をひとヒネりして黒ずくめ装束の殺し屋(ジャック・パランス)を登場させ、シェーンに「卑しい嘘つきヤンキー野郎」と呼ばせている。原作にない台詞を再々度にわたって登場させるのは、そこに映画作家の「ある事態」への本音があるのだと紀田は言う。                            

 ある事態……
「シェーン」(公開が1953年だから、製作時を含めある事態の同時代性)公開当時のアメリカ映画界に在って、正統派というかアメリカニズム保守派の重鎮のようなスティーヴンスのある事態への見解が、そこに垣間見えて興味深いという。テキサス人の傭兵を「ヤンキー野郎」としたのは、かのマッカーシー議員が北部=ウィスコンシン州出身だからだそうだ。
 スティーヴンスはマッカーシー旋風(’50~’54)を苦々しく見ており、「恥ずべき」事態であり、その旗振り男を「唾棄すべき」存在だと思っていたのだと知り、「なるほど……」というか、丁寧な彼の映画のファンでもあるぼくは、実際「ホッ」とはしたのだ。
シェーン①  
スティーヴンスが「シェーン」で新参開拓農民夫妻(ヴァン・へフリン、ジーン・ア-サー)などに託して示した、アメリカ的正義感や良心、生活感・勤労観やアメリカ観は、いま「シェーン」の時代から100年強を経て、どう変形したのか? イラク戦争を熱狂的に支持する巨大な存在となって猛威を振い、アメリカ中西部のレッド・ゾーン(04年ブッシュ勝利州)=言われるところのもう一つのアメリカ(?)を形成しているのではないか?
 「卑しい嘘」に基づく横暴には決して与しないはずの、スティーヴンスが言う正統派たちには、イラク戦争の虚構を糾す情報を入手する努力や、殺し屋に立ち向かう気力を、元々持たなかったのか? それとも何処かへ回収されてしまっていて見えにくいのか……?
 回収先は、ここが・これが世界だとするアメリカ的世界観と、そうした構造を作り上げることに大きな役割を果たして来た新興宗教(キリスト教原理主義教団が新興宗教でなくて何であろう)に違いない。
 「シェーン」という「よそ者」が去って以降の100年という時間に、「よそ者」ではない者の言葉を選択した結果、スティーヴンスが示した「本来」のアメリカ保守正統派の精神は、皮肉にもその選択によってか、元々の素性ゆえか、解体したのだ。シェーンが「よそ者」であるところに、スティーヴンスのもうひとつの冷めたメッセージがあるのかもしれない。
そもそも本来のアメリカの精神なるものは、フロンティア・スピリットであり、                                                                                                                   「他者」の「場」を強奪して「世界」を拡げる精神の各種変異体なのだが・・・・。
 
【注】 ジョージ・スティーヴンス(1904~1975)
『ママの想い出』1948年、『陽のあたる場所』1951年、『シェーン』1953年、 『ジャイアンツ』1956年、『アンネの日記』1959年、                           
『偉大な生涯の物語』1965年、
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