Archive for the ‘アジール 空堀’ Category

「アジール空堀」 童謡・唱歌に見る児童生徒に刷り込んだ国家意思

【蛍の光】(スコットランド民謡。1881年・明治14年、尋常小学校唱歌)

1.

蛍の光、窓の雪、

書読む月日、重ねつゝ、

何時しか年も、すぎの戸を、

開けてぞ今朝は、別れ行く。

2.

止まるも行くも、限りとて、

互に思ふ、千万の、

心の端を、一言に、

幸くと許り、歌ふなり。

3.

筑紫の極み、陸の奥、

海山遠く、隔つとも、

その真心は、隔て無く、

一つに尽くせ、国の為。

4.

千島の奥も、沖繩も、

八洲の内の、護りなり、

至らん国に、勲しく、

努めよ我が兄、恙無く。

童謡・唱歌

【われは海の子】(1910年・明治43年尋常小学校唱歌」)

一、

我は海の子白浪の

さわぐいそべの松原に

煙たなびくとまやこそ

我がなつかしき住家なれ。

二.

生まれてしほに浴して

浪を子守の歌と聞き

千里寄せくる海の氣を

吸ひてわらべとなりにけり。

三、

高く鼻つくいその香に

不斷の花のかをりあり。

なぎさの松に吹く風を

いみじき樂と我は聞く。

四、

丈餘のろかい操りて

行手定めぬ浪まくら

百尋千尋海の底

遊びなれたる庭廣し。

五、

幾年こゝにきたへたる

鐵より堅きかひなあり。

吹く鹽風に黑みたる

はだは赤銅さながらに。

六、

浪にたゞよう氷山も

来らば来れ恐れんや。

海まき上ぐるたつまきも

起らば起れ驚かじ。

七、

いで大船を乘出して

我は拾はん海の富。

いで軍艦に乘組みて

我は護らん海の國。

【冬の夜】(1912年・明治45年、尋常小学校唱歌)

一、

燈火(ともしび)近く衣(きぬ)縫(ぬ)う母は

春の遊びの、楽しさ語る。

居並(いなら)ぶ子どもは指を折りつつ

日数(ひかず)かぞえて喜び勇む。

囲炉裏火(いろりび)はとろとろ

外は吹雪(ふぶき)。

二、

囲炉裏のはたで縄(なわ)なう父は

過ぎしいくさの手柄(てがら)を語る。

居並ぶ子どもはねむさ忘れて

耳を傾(かたむ)けこぶしを握(にぎ)る。

囲炉裏火はとろとろ

外は吹雪

 

【里の秋】(1941年・昭和16年12月 童謡雑誌掲。戦後1945年川田正子歌唱ラジオ放送で全国放送))

一、

静かな静かな 里の秋

お背戸に木の実の 落ちる夜は

ああ 母さんとただ二人

栗の実 煮てます いろりばた

二、

明るい明るい 星の空

鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は

ああ 父さんのあの笑顔

栗の実 食べては 思い出す

三、

きれいな きれいな 椰子の島

しっかり 護って くださいと

ああ 父さんの ご武運を

今夜も ひとりで 祈ります

四、

大きく大きく なったなら

兵隊さんだよ うれしいな

ねえ 母さんよ 僕だって

必ず お国を 譲ります

 

*川田正子が唄った時点では、三番は下記に変更され、四番は削除された。

さよなら さよなら 椰子の島

お船に ゆられて 帰られる

ああ とうさんよ ご無事でと

今夜も かあさんと 祈ります

「アジール 空堀」 12月15日 『高野陽子 アイルランド&ウチナー ライブ』

12月15日(木)18:00~
『高野陽子 アイルランド&ウチナー ライブ』満席盛況・ご好評を得て、無事終了。

有名な「サリーガーデン」「シューラルーン」などのアイルランド民謡の旋律と響き・高野さんの声質に魅了されました。発声法には全く知識が無いのですが、ナチュラルで飾らない独特の発声だな~と感じます。そして、それは続いての、旋律・リズムの全く違う沖縄の恋歌・哀歌に言い表せない不思議な力で受け継がれ、「てぃんさぐぬ花」「安里屋ユンタ」「十九の春」の高野流歌唱には、全く違和感は無い。
食事後、アイルランド訪問記、スペイン・サンディアゴ巡礼記(その一部100㎞を走破なさったそうだ)のスライド上映とトークは素晴らしく、参加者の多くが「行ってみたい」と呟いていました。
セカンド・ステージでは、会場のリクエストから「スカボロフェア」「花」などもあり、満足の集いでした。

話は飛びますが、オスプレイの墜落事故などの暴虐を見るにつけ、アイデンティティ・排他的なナショナリズムでなはい「自己決定権への想い」が、グローバリズムに対抗できる大きな根拠地ではないか?と思うのです。そう思わせてくれたライブでした。%e9%ab%98%e9%87%8e%e9%99%bd%e5%ad%90%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%96%ef%bc%92

アイルランド、スコットランド、カタルーニャ、バスクなどのヨーロッパの独立運動、太平洋ではグアム、パラオ、ツバル、ニューカレドニアなどの独立や独立運動、その文脈から台湾先住民族・沖縄(琉球)や東アジアを見るとき、そこに生まれ永い民族の歴史と文化に育ち、住み暮らす者の「第一義」的大義が、いわゆる「プロレタリア国際主義」や「革命」にあるのではなく、それは「結果」なのだと思えるのだ。現地からの発言が「独立」「自己決定権確立」に終始するかに見えるのは、先進国・宗主国に生きる者の思考・信条・感性に欠落(個人の責任ではなく、文字通り《意識は状況によって決定される》というドグマの通りに)している視座ゆえかもしれない。

逆に、被支配少数者、独立・自己決定権確立を希う者は問うだろう、「では聞く!貴方の社会変革論の、あるいは左翼政党の、どの頁に、我らの《自己決定権確立》が主要なテエマとして記載されていると言うのだ?」と。それは、すぐれて当事者たる我らの課題だ。「イデオロギーよりもアイデンティティ」と言うのは、まさにそこなのだ、と。革命によって変革されることは全体の「部分」なのだ、と。ニワトリが先か?玉子が先か?、ではなく、元々ニワトリ・玉子の体系・文脈では及ばない人間社会に巣食う「業」なのだ、と。

 

「アジール 空堀」 11月13日『道浦母都子&趙博 ふたり会』

11月13日(日) 『道浦母都子&趙博 ふたり会』

道浦母都子さん、趙博さん、今野和代さん(司会及び幕題字揮毫)。

ありがとうございました。

都はるみ歌唱、道浦母都子作詞になる『邪宗門』『枯木灘 残照』を、作詞者の横で歌い上げる趙博さん。

まるで弟を見守る姉のように、目を閉じてパギの歌唱に聴き入る道浦母都子さん。映画的に言うなら「う~ん、いい画(え)だ!」。

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「どうしても選べと言われ選ぶなら、どの歌ですか?」との会場からの問いに、即座に挙げられたのが

ひとのよろこびわがよろこびとするこころ郁子(むべ)の花咲く頃に戻り来 
だった。

次いで聴衆へのサービス精神だろうか本音だろうか、その質問以前に会場からの質疑感想に出ていた二首を挙げられた道浦さん。

その一つ、父にまつわる歌というのは、

釈放されて帰りしわれの頬を打つ父よあなたこそ起たねばならぬ
振るわるる楯より深くわれを打つ父の怒りのこぶしに耐える
打たれたるわれより深く傷つきて父がどこかに出かけて行きぬ

のいずれかだろうか? 聞き逃したが、

おまえたちにわかるものかという時代父よ知りたきその青春を

ではないかと想像する。

というのは、会の前段の父上一家と朝鮮との関係を語られたお話で、

朝鮮に居た父上一家が、敗戦直後南へ逃げる際、混乱と暗闇の中、朝鮮人の男性に匿われ道案内を得て生き延びる。その男性は、「以前北海道の炭鉱で働き、帰る際に日本人が心を籠めて送別会をしてくれた。今度は私が返す番だ」と語る。帰国した一家に1947年、母都子さんは生まれた。この男性が居なければ、わたくしはこの世に存在できていないのです、と述懐された。

幼い日から、父にこの朝鮮脱出記を繰り返し聞かされて来た道浦さんだった。

会場の「父に打たれた側の道浦さんの、父への想いを聞かせて欲しい」への返答が「父よ知りたきその青春を」のこの歌だろうとワシは想う。

もう一つは、ワシがこの短歌に触れて以来、臓に居座っていて身から出て行かない

明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし だ。

80年代当時、幾人かの人が「決戦主義だ」「敗北主義だ」「情緒的に過ぎる」と論難していた。そうだろうか? これは、風雨に晒され雪に打たれても、ボロボロの旗となっても立ちつくしていようという、云わば「立ち方」を問う永遠の覚悟だ。

できてはいないが、そうでありたいとワシは想いたい。痩せた旗ではなく、肥満・腰痛・現場仕事撤退のワシ。学生期「極左」付和雷同期・そこからの脱走期・労組期・争議から破産法下20年の労組自主管理経営期、その破綻から東京単身赴任半ば日雇いの今。 客観的には団塊ジジイの敗走遠吠え以上のものではない。

ワシらは、すでに父であり、多くは孫までいる。会場は53歳が最年少というジジババ世代だったが、であらばこそ、きわめて今日的な短歌ではないだろうか?会場からの「戦後、左翼の数々の敗北史でも、もっとも拭いがたい悲惨を刻んでしまった、60年代末から70年代初頭」という全くその通りの指摘に、ワシらはそれぞれの方法論で答えて行くしかない、旗となるまで・・・。

 

趙博が言いかけたのは、

今だれしも俯(うつむ)くひとりひとりなれ  われらがわれに変わりゆく秋 だった。

聞き取れなかったが、趙博は「そうやって辿り着いた『われ』からこそ、今『われら』の復権を目指そうぞ。『われら』と『われ』との往還に居たい」と言った(ように思う)。

趙博がきわめて遠慮がちに語った「芸人・歌い手としての自分、運動実践家としての自分、舞台役者・劇作家としての自分、在日知識人・社会科学者としての自分・・・、その云わば『二兎を追う』身の苦悩は、ある意味痛々しい。

けれどパギ、二兎も三兎も追え。これまで通り「河原乞食」の矜持を余すところなく示せ。そこにウサギではない虎を射止める、独自の、どこにもない立ち方が必ず現れる。と非当事者のジジイは気楽に言ってしまいよる(失礼!)。

苦悩するパギに、ここで一句差し上げる。甲南大学退任(2006年)を間近にされていた熊沢先生の2001年の年賀状に沿えらた句で、作者の気概に圧倒されたんです。パギも好きな加藤楸邨の句だ。熊沢先生が、その後、大著『働きすぎに斃れて──過労死・過労自殺の語る労働史』(2010年、岩波書店)をものされたことはワシらが知るところです。

チンドン屋 枯野といへど 足をどる

追記:『道浦母都子&趙博ふたり会』報告FB投稿に、熊沢先生から一昨日、「熊沢誠:ああ参加したかった!」とコメントいただいたことお伝えします。

 

「アジール 空堀」10月  『古地図で辿る 真田丸~空堀 スローツアー』

%e7%9c%9f%e7%94%b0%e4%b8%b8%e6%83%b3%e5%83%8f%e5%9b%b3%ef%bc%9220161002「アジール空堀」10月1日(土) 

『古地図で辿る 真田丸~空堀 スローツアー』

 

雨天予報もあったからか多少キャンセルありましたが、当日参加もありガイドの西俣稔氏(「毎日新聞」木曜,『わが町にも歴史あり』連載中)が言うところの「ちょうどいい規模」(14名)の一行となりました。

JR玉造駅北改札集合~砲兵工廠側線跡~旧玉造村(商店街映画館全盛期街並み跡)~三光神社~伝承の真田抜け穴~真田山軍人墓地~真田丸跡~熊野街道~瓦屋:寺島藤右衛門「請地」(徳川拝領地)~瓦屋町「用水路」跡~「ギャロ」 全行程12,000歩かな。1800%e5%b9%b4%e5%a4%a7%e5%9d%82%e5%9c%b0%e5%9b%b3%e3%81%a8%e7%8f%be%e4%bb%a3%e5%9b%b320161002

 

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現代大阪に埋もれた秀吉期~江戸期~明治大正昭和を古地図で辿り、大坂から大阪への変遷、幾重にも折り重なる「戦い」、直近の戦争・・・、西俣さんのガイドは、ときにジョーク(ネタバレになるのでここには記さない)を交えながら、その悲惨と「浪速の民」との対比に貫かれている。「真田丸」は、その大きな物語の一断面ひとコマに過ぎない。脚に難のあるワシに合わせて歩いてもらい、16:30に瓦屋町「ビストロ ギャロ」に着いた。空堀商店街・谷町六丁目・瓦屋町一帯は、偶然にも先の大戦での「空襲」を免れた。現在、町屋がカフェや雑貨店などに再生され、若者や女性で賑わっている。「ギャロ」もその界隈の「瓦屋町」に在るのだ。

 

瓦屋町とは、大坂陣の時、紀州出身の瓦職人「寺島藤右衛門」が大坂城築城に携わり、徳川優勢」の中、城内の情報を徳川に提供、見返りに4万6千坪の土地を拝領し続けた。明治の初めまで大坂中の瓦を生産し続けた。古地図に「瓦屋:寺島藤右衛門請地」とある。

古地図(1800年ころ)によれば(見にくいがよく視ると解かる)、「ビストロ ギャロ」はその「請地」に沿って「畑」と通じる農業用水路(or排水路)の石垣際に立っていたのだ。%e3%80%8c%e3%82%ae%e3%83%a3%e3%83%ad%e3%80%8d%e6%a8%aa-%e6%b0%b4%e8%b7%af

その石垣は、あるいは後年積み替えられたかもしれないが、「水路沿いだったのなら納得」という位置に奇妙に遺っている。もちろん水路は埋められ現在は無い。

今、気付いたのだが、「ギャロ」所在地は瓦の積込み場ではなかっただろうか?重い荷=瓦は即舟積みが好都合。この水路を西へ進むとすぐ横堀川、横堀川を北進すると大動脈:「大川」だ。この☆印の地は現在、瓦屋町1-1-1だ。故あるのだろうか・・・?

「アジール空堀」9月: 趙博『 歌うキネマ「NUTS」 』

「アジール空堀」9月、趙博『歌うキネマNUTS ナッツ』公演。
於:谷六、空堀通入口15M南「舞道ダンスシアター」。

北海道江別から帰還のパギ・げんさんの「NATS」公演だ。
コアな参加者の「あっ、8月KCC会館での公演から、アソコとココが変化している」とのご指摘があったが、ひとり映画に没入しているコチトラは気付きもしない。なるほど、パギ「歌うキネマ」は生きものだ。そうやって、揉まれ・熟され・進化して行くのか・・・。KCC公演4・江別公演2だから、本日7回目か・・・。「NUTS」は一層進化するのだろう。その「生きもの」の成育をこの先味わうのが楽しみだなぁ~。
バーブラ・ストライサンド(クローディア)、リチャード・ドレイファス(レヴィンスキー)の力演と、マーチン・リット監督の映画文法から、パギの手で90分のひとり映画に仕上がった妙全体を味わいたいと思っていると、もうどこににないビデオ(DVDは無いのだ)を入手しているMさんが貸してくれた。『飢餓海峡』がそうであったように、ある面「映画を超えている」かも・・・。%ef%bd%8e%ef%bd%95%ef%bd%94%ef%bd%93

一人の高級娼婦、損なわれた青春・蔑まれ忌み嫌われ排除された者が、殺人事件の予審(裁判を受ける能力ありや無しやを審議する予審)を通して、人間の復権を遂げて往く「法廷劇」には、映画の製作者でもあるストライサンドの並々ならぬ怒りと愛を想った。久し振り(?)の新作にこの作品を選んだ趙博の意志に、『飢餓海峡』で杉戸八重への想い入れを前面に打ち出した「思想」や、相模原事件を巡るパギのいくつかの文章と同じものを想うのはワシだけか?
(画像提供:二階堂裕之さん、新野貴子さん)

「アジール 空堀」: ユーラシア 西の果ての島 東端の列島

高野陽子さんアイルランド歌謡

昨夜、天神橋5丁目『浮世小路』(天神橋筋に面している)で、高野陽子さんのライアー(竪琴)と澄み切った高音美声の、アイルランド歌曲を聞かせてもらった。エンヤの楽曲が世界的に聴かれたのをついこの間のことのように思い出す。

高野陽子さんを初めて聴いたのだが、『サリーガーデン』(アイルランド民謡)『スカボロ・フェア』(スコットランド民謡)・・・・、何故かユーラシア大陸の西の果ての大陸からは離れた島:アイルランドがス~っと入って来る。こっちは、東の果ての離れた列島だ。

ケルトは、古代に中央アジアからヨーロッパに渡来した、インド・ヨーロッパ語族の中のケルト語派の民族で、広くヨーロッパ全域に居住したが、ゲルマン・ローマ・アングロサクソンなどの覇権種族の被支配層として生きた。支配強度の比較的弱い環アイルランド・スコットランド・ウェールズなどに民族的にはケルトが残っている。が、その言語=アイルランド語(ゲール語)、スコットランド・ゲール語、ウェールズ語、マン島語、ブリトン語(ブリテン島在住のケルト人の言語)の話者は減少傾向にあるそうだ。

FB用

高野さんが用意されたスライイド映像の、痩せて荒れたアイルランドの狭い農地を囲む石垣に、ふと目的は違う沖縄の石垣風景を想い起し、その歴史と現在、そして「歌」が浮かぶ。

すると図らずも、何と、高野陽子さんが、休憩を挟んだ後半に三線の弾き語りを始めるではないか!

「てぃんさぐぬ花」「安里屋ユンタ」「花」・・・・。

歌は正直だ。少数者の哀史と矜持を、暖かさと優しさと強い意志を、真っ直ぐに伝えている。高野さん、是非「アジール空堀」に来てアイリッシュ魂歌のライアー演奏歌唱、沖縄歌謡の弾き語り・・・やって下さい。

http://takanoyoko.com/

 

 

 

 

 

「アジール 空堀」  紙芝居おじさん 鈴木常勝さん実演

 昨夜(6月23日・木)、「アジール空堀」集い『街頭紙芝居の奥は深いぞ』 紙芝居実演と、お話「紙芝居の底力とその哀史」。鈴木常勝さん。参加24名。紙芝居おじさん

子どもたちに夢を与え・想像力を育てもした紙芝居。かの時代に国・軍と一体化して進められた戦争への総動員は、命令・強制・戦闘参加要請でありながら、直接的には家族の絆・郷土への情愛の美談として登場する。敵や悪者の強調も姿を潜め善人ばかりの登場で充たされている。台詞と語りを全て入れ替えれば、一篇の「お涙頂戴」の「家族もの」「郷愁もの」として十分通用する出来栄えだ。 国に・国の意志に取り込むに当たって、紙芝居もまた家族や郷土や友情を拝借する道を歩む。それは明治の唱歌・童謡の道と同じだ。 「戦争はいつも美談仕立て」でやって来る。

童謡「われは海の子」は、一番は「煙たなびく苫屋こそ 我がなつかしき住家なれ」二番は「千里寄せくる海の気を 吸いてわらべとなりにけり」と終るが、四・五・六番では国策芬々と進み、七番では 「いで大船を乗出して 我は拾わん海の富。いで軍艦に乗組みて 我は護らん海の国」となる。苫で葺かれた家に生まれ、海の気を吸い育ったわらべ=「海の子」は、「海の国」の「軍の子」に成長する訳だ。 別れの切情を語り、卒業式などで唄われる日本版「蛍の光」(旧友との変わらぬ友情を謳い上げる内容のスコットランド民謡。スコットランドが独立すれば、これこそが国歌だと言われている)は、「開けてぞ今朝は 別れ行く♪」と神妙に唄われたものだ。が、この曲の三番四番を知れば、1881年(明治14年)日本版作詞者たちの意志がハッキリ見えて苦しい。
『筑紫のきわみ 陸の奥 海山遠く隔つとも   その真心は 隔てなく ひとえに尽くせ 国のため』
『千島の奥も 沖縄も  八洲のうちの まもりなり  いたらん国に いさおしく  つとめよわが兄(せ) つつがなく』
憲法を変えたい人々の集まりで、しばしば「家族」が強調され、家族と郷土への情愛を国家へと収斂したい言説が飛び交っている。身近には、小説『永遠のゼロ』は紛れもない「反戦・反軍の小説だ」と言って下がらない友が居る。「家族という病」とも言いたくはなる。 紙芝居師=鈴木常勝氏が実演してくれた『さるむこ』『チョコレートと兵隊』は、 家・家族・家業・男・娘などのKEYワードから視えて来るぼくらの「生きるかたち」「暮らすかたち」「リスク回避行動と差別意識」の深層を抉って興味深い。鈴木常勝さん 『さるむこ』: 一人で畑仕事で忙しい百姓の父は、ある日親切な「さる」に手伝ってもらった。つい「お前さんのような働き者がうちの3人の娘の誰かの婿で来てくれりゃ有難いがのう」と言ってしまう。「さる」は「ムラ」の者ではなく、「ソト」の者だ。 が、言葉を真に受けた「さる」はそれから足繁く父の一家へ通い手伝い、姉2人の断られたものの、3人の中の一番の器量よしの末娘の婿になると申し出る。末娘は断らず受ける。 経済的安定を望んだのか、父孝行なのか、「ソト」者の報復を過剰に意識したのか・・・。 が、婚姻直後「さる」は過重労働・偽装事故で怪死する。その死をニタリと見送る末娘。何ともシュール(?)でクール(?)な結末で紙芝居は終わる。ああこわぁ~! 『チョコレートと兵隊』 お父さんはよく働き優しくて頼りになるいいいお父さん。兄と妹の模範の父だ。 その父さんが、召集でお国のために中国戦線に行きました。やがて、戦地の父さんから手紙が来る。死と背中合わせの戦地でも、忙しい中「チョコレートの包紙」をせっせと集めて送ってくれるのだ。その包紙の内側に点数が刻印されていて100点でチョコレート一枚と交換してもらえる。父さんは5点・10点・20点と戦友からも貰って千数百点にして送って来た。添書きに「何も送れるものが無いので、これを送ります。製造会社に届けてチョコレートと交換して下さい。」兄妹は大喜び。 直後、役所から通知が来る。父さんは、戦地で果てた。 紙芝居師:鈴木常勝氏は言う。「センチメンタリズム基調のファミリズム漂う、チョコレートの包紙を集めている以外の時間の、中年にはキツイ軍務の・戦闘の・殺し合いの リアリズムは、どこかに隠され、気丈な妻は今後も銃後の母を演じ兄妹は強く生きていく覚悟を語る。菓子メーカーは「お父さんの所属部隊を知りたい」慰問の品を送るから・・・と言う。戦争は善人と美談の総動員に溢れている」と。 お話と街頭紙芝居実演を終えて、二つのことを想っていた。
① 過日(6月5日・日)「アジール空堀」の集いで、金時鐘さんが夫婦別姓への改憲派の言動に触れられ『改憲論者が、夫婦別姓に反対し家族のをことさら強調することの意味を考えたい。』と語らえたこと。
② 本日が、『蛍の光』が「八洲のうちの まもりなり」と言うその沖縄の組織的戦闘が終結したとされる1945年6月23日に因んだ「沖縄慰霊の日」であること。 鈴木さんの、さすがプロの話芸と説得力に脱帽!

「アジール空堀」 11月13日予告FB 道浦母都子さん講演

われらがわれに還りゆくとき

 

◆調べより疲れ重たく戻る真夜

   怒りのごとく生理はじまる   道浦母都子

 一九六八年十月二十一日。ベトナム戦争反対を訴える国際反戦デーのこの日、東京・新宿駅は角材を持ち、ヘルメットをかぶって押し寄せた学生で、混乱を極めていた。
 学生側の大義名分は、ベトナム爆撃に使われる燃料を積んだ貨物車の輸送阻止。投石や放火をする者もいて、交通機能はまひした。全学連(全日本学生自治会総連合)の一角を占めていた中核派のシンパで、早稲田大文学部の学生だった歌人・道浦母都子(みちうらもとこ)(68)もその渦中にいた。
 御茶ノ水駅から総武線に乗り、リーダーの指示で、代々木駅付近で止まった電車から線路に飛び降りる。そこから新宿駅に突入したが、待ち受ける機動隊のクモの巣に次々とからめ捕られ、捕まってゆく。道浦は西口へと逃げ、塀を乗り越えて脱出した。
 世に言う新宿騒乱事件。警視庁は関わった学生らに刑法の騒乱罪を適用することを決め、拘束した学生たちを勾留した。その数、七百人余。
 「私、たぶん捕まる」。十二月初め、大阪の実家に帰った道浦は、母親にこう告げると、東京にとんぼ返りした。翌朝六時ごろ、部屋に公安の刑事がやってきた。五人ほどが部屋に踏み込み、室内を捜索する。下着までぶちまけても、何も出てこない。黙ったままの道浦に一人が逮捕状を示し、「来てもらうしか仕方ないね」と言った。
 近くの警察署を経て、女子房のある板橋署に移された。名前を呼ばれても返事をしない。本人であることすら認めない完全黙秘。代わりに「板橋二十号」の名がついた。
 取り調べは過酷だった。刑事が入れ代わり立ち代わりやってきては、朝から晩までののしる。かと思えば、次の日はやさしくする。「丸椅子をけとばされてこけたり、『いいおっぱいしてるな』と言って胸をもまれたりしたこともありました」。心の中で一から十まで指を折り、何も耳に入らないようにした。「しゃべったら一生後悔する」。固くそう信じていた。
 二十日間の勾留の終盤、調べから戻ると、生理が始まった。「こうして頑張っている時に、女性であることをむざむざと知らされる。恨みました」。あいにく当番の看守は男性だった。入浴時に別の独房の年配女性に相談すると、代わりに伝えてくれた。
 年末になり、釈放された。実家に帰ると、母は「お嫁に行けない」と騒いだ。父に頬を張られたが「あなたこそ間違っている」と思った。
 いたたまれず、ひとり東京に戻った。近所の電柱の張り紙で、町工場の職を見つけ、油まみれで働きながら仲間たちの支援にあたった。
 学生組織の全共闘(全学共闘会議)が占拠していた東京大安田講堂が「落城」した六九年一月十九日、道浦も現場に向かうが、近づけない。下宿に帰ると、敗北感とともに歌が込み上げてきた。炎あげ
 <炎あげ地に舞い落ちる赤旗にわが青春の落日を見る
 ほどなくして胆のうの病気で入院。母に連れられて実家に戻った。大学は休学(後にリポートを出して卒業)し、保育所で働いた。歌誌『未来』を主宰する近藤芳美(一九一三~二〇〇六年)の知遇を得て、本格的に歌づくりを始めるのもこのころだ。
 大学教員の男性に見初められ、結婚。松江や広島で暮らしながら歌を作り、激動の時代をひとり見つめ直した。
 七五年に『未来』の仲間と合同歌集『翔』を出し、八〇年には単独で歌集『無援の抒情(じょじょう)』をまとめた。この間、道浦が正しいと信じていた運動は閉塞(へいそく)していった。多くの学生は何もなかったかのように卒業し、就職した。一方で内ゲバが繰り返され、ついには十四人もの仲間を殺害し、長野・あさま山荘に立てこもった連合赤軍事件に至った。
 <明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし>
  <死ぬなかれ撲(う)つことなかれただ叫ぶ今かの群れに遠く生きつつ>
 悲惨さを増す光景を遠くで見つめながら、自らの感情をたどってゆく。道浦はそうして歌を作るほかなかった。歌集では、学生時代を振り返る作品を「われらがわれに還(かえ)りゆくとき」と題している。
 「結局、人間はひとりなんです。だけど、あるとき『われら』の幻想を抱いた。つかの間の幻想でした。全共闘って何か、わからない。一生わからないと思います」
 二度の結婚、離婚を経て歌人、作家として活躍する道浦は今、かたくなだった当時の自分を「『ねばならない』とか『すべし』に取りつかれていた」と振り返る。「『ほどほど』とか、『適当』も人生には必要なんですよ」。もし時をさかのぼれるなら、そう声をかけてやりたい。「でもイノシシですから。直りませんね」 (敬称略)

橋本 康介
橋本 康介 『今だれしも俯(うつむ)くひとりひとりなれ  われらがわれに変わりゆく秋』(道浦母都子)                         
2010年6月、拙ブログより:日本語には、英語の「We」に当る「語」がない。「我々」「我ら」は訳せば「We」だろうが、「We」という独立した関係性そのものではないように思う。 「We shall over come」 「We are the world」的な「ぼくら」の歌はほとんど無い(海外は不知)。                                
モノマネよろしく揶揄を込めて演じられたりする、ぼくらの時代の若者の「我々は~」という語り口調は、「我ら」欠乏を嗅ぎ取った若者の直感が、それを埋め合わせようと言わせたものだったように思うが、それが、イデオロギーによる過剰な「我々」だった不幸(?)を認めない訳には行かない。                                                 「We」が成立する条件は、その社会の共同の目標や公的受難の歴史性だ。昨日今日「頭で考えた」だけの促成「我ら」にはその条件が不充分ではなかったか。同時にその「我ら」は、「我」の「何処へも転嫁できない」己ひとりの「自己責任」を霧散させ「回収」してくれる、都合のいい装置でさえあったと認めたい。同世代の歌人:道浦母都子さんの初期の歌集『無縁の抒情』に、自己免責装置にしてイデオロギー過剰な「我ら」との自戒的訣別を詠んだ 『今だれしも俯(うつむ)くひとりひとりなれわれらがわれに変わりゆく秋』 がある。 章の標題は 『われらがわれに還りゆくとき』であった。

熊沢 誠
熊沢 誠 ああ、いい短歌を、いい文章を読ませていただいた。ありがとう。

橋本 康介
橋本 康介 恐縮です。そう言っていただけたなら、調子に乗って文章の続きを・・・。
もうひとつの側面として、仕事・労働の歌が無い。大衆歌謡が普及した社会の初期にはあった協働社会は姿を変え、労働現場や地域社会での「共助」は解体して行く。その反映だろうか、抵抗・祭典・共同創作・労働(直接表現は白々しいが)での「我ら」を匂わせてくれる歌もほとんどない。                               どうやら、個人は二人称とは強い絆で結ばれてはいるが、その先は飛躍して「国家」(さすがに歌には直接は登場しないが)に直結し、その間にあるのは「企業」や「食扶ちを稼ぐ労働」「意識せざる個利(個人ではない)主義」であって、Sociaty・Community・社会ではない。「友」や「仲間」との共同体験・共通苦難が、辛うじて「我ら」への道筋だが、それも労働現場では、「労働組合」が「まとも」である場合以外は、企業が用意した「我と乖離した」「我ら」が大手を振って来た。共同体・協働性・共助を支えるものとしての、「我と我」ではないひとつの「We」なる別もの、その欠落。それは、その社会の正直な表現だと言って差支えないのではないか。であればこそ、『我らなき我と切れゆくとき』をあえて意識していたい。

「アジール空堀」  2016年6月5日 『詩人:金時鐘に出会う午後』

会場「ビストロ ギャロ」古民家は、築95年だ。つまり「戦災」に遭っていない。空堀の一角は空襲を免れたのだ。戦前と繋がる時空、都市部の裏路地のその空間で聞く1945年・・・。
アメリカはもう日本に反撃はもちろん国家維持の余力もないと・降伏前夜だと、そう知りながら、壮大な実験=市街地への原爆投下を強行した、二度までも。オバマはヒロシマ演説で「空から死が降ってきて、世界は変わった」と誰が投下したかという主語を欠いた言葉を発し、原爆をまるで自然現象のように表現して、ことの重大性・原爆被害への当事者性をひた隠しにした。
一方、日本と日本人はどうか? 原爆という事態を前に一挙に被害者へと横滑り、自国の戦死者300万人強、アジア各地の死者2000万人強、加えて膨大な負傷者・罹災者への責任を忘却した、自国の指導層を民自らの責任で指弾することも(うちの国もそれに近いが)・・・。
オバマ演説は多くのことを教えてくれる。金時鐘講演会

『・・・詩は好もうと好むまいと現実認識における革命なのです。・・・見過ごされ、打ち過ごされてることに目がいき、馴れ合っていることが気になってならない人。私にはそのような人が詩人なのですが、その詩人が満遍なく点在している国、路地の長屋や、村里や、学校や職場に、それとなく点在している国こそ、私には一番美しい国です。』
(06年12月、朝日新聞。安倍の「美しい国」発言に抗して)6月5日集合写真

*今日6月5日という日は、67年前1949年済州島を脱出した金時鐘青年が
兵庫県須磨の海岸にたどり着いた日だそうです。

「アジール 空堀」 : 映画上映会 『シャトーブリアンからの手紙』

「アジール 空堀」5月8日(日)、『シャトーブリアンからの手紙』上映会。

(著作権(有)ムヴィオラ様に上映料支払います。海賊上映会ではありません。)参加者32名。

 

シュレンドルフ監督インタヴュー:

彼らは善意を持った人間だった。完全な悪人はいなかった。しかし、それでもなお虐殺は行なわれた。それが重要です。

 

メッセージ性の強い物語は、時に、「劇的構成」・「劇的人物」・「強調を超えた誇張」、つまりは「神話」を必要として迷走する。この映画はそこから隔たっていたいという固い意志に貫かれていた。監督の上記の言葉とこの映画の作風と言うか作法には、いささかの齟齬も無い。観終わって時間が経てば経つほど、その想いが強くなるだろうと思う。

 

パンフにあった言葉を見て、ワシらは隣国を初めとしてアジアの国々との共同作業「アジア近現代史」を定着させる途に着かんとアカンとの想いを強くした。

『ドイツとフランスの和解がなければヨーロッパはない。監督の積年の想いにベルリンの観客は喝采を贈った』

アメリカの大統領候補者(サンダース氏)が「ヘイトクライム」への警鐘と自戒を説いている時代に、ワシらの国は何をしとるのだ!アジール空堀5月8日

 

画像は

上:「アジール空堀」映画科特任助教授:趙博トーク

下:上映会後の食事会。戦前パリの家庭料理をイメージしたメニュウ。

シェフが親戚の元*調教授にも相談して作ったポトフ(?)。もちろん戦時中は肉系などもっと質素だったろうし、シャトーブリアン郡:ショワゼル収容所の食事は想像だに出来ない。

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