たそがれ映画談議:『万引き家族』ー是枝の家族考

【「万引き家族」-是枝の家族考】

生きることの共同性・社会性

地域社会・労働社会の疲弊・解体がもたらす各々の場での共同性の衰弱・喪失に、それに抗するにしても、より強固に国家社会の単位としての在り様を打ち固めるにしても、そのシンボル旗を求めて家族という「絆」(?)に過剰なそして恣意的な期待を寄せ「復権」を叫ぶ危うさには辟易して来た。

「日本を取り戻す」という文脈に近いところから「家族を取り戻」されては堪らないし、逆に市民的抵抗の拠点や国家主義・軍国政策への反撃基地として「家族」を謳い上げる論にも嫌悪感があった。

家族(血縁・親子・血と共に居た時間による制圧域)という形態には、人権・人格・創意を容認せず逆にそれらを制圧する重い任務が宿っている。 自我・自立・社会性を閉じ込める容器ではないのか?

一方、にも拘らず「家族」に具わる正負の等身大の価値について語れば、「家族」派か?と疑われるのだが、疑われずに「家族」の正負・明暗を明日に向けて語るのは難しい。

 

「家族」という共同幻想への是枝の視座

さて、是枝裕和の「万引き家族」だ。

ぼくは、是枝作品を全て観ている訳ではないので「是枝の『家族』」はこうだ!などと語れはしない。観た作品は「幻の光」(1995年)「歩いても 歩いても」(2008年)「空気人形」(2009年)「そして父になる」(2013年)「海街diary」(2015年)「海よりもまだ深く」(2016年)「万引き家族」(2018年)以上だ。いくつか見逃している。「ワンダフルライフ」(1999年)「誰も知らない」(2004年)は近々観る予定にしている。観た作品は「家族」というもの・「家族」ということ、への問いという点でほぼ一貫してる。

「万引き家族」。ストーリーは割愛するので未見の人は観て欲しい。これまでの作品の中間まとめのような位置に在るのだろうか?「家族」の正体を探しあぐねる人間というか「家族」研究の院生のような作風は、戦後社会・21世紀日本・独居高齢者・年金生活者・常に失業の淵に在るパート労働・日雇労働・貧困・性風俗店・非就学児童・DV夫・不倫・幼児虐待・育児放棄・離婚後の前夫の家族・など現代社会の断面を散りばめ、初枝(樹木希林)と治(リリー・フランキー)以外は全員他人という設定から、この家族の「金」(希林バアさんの年金)と「万引き」(頻繁に繰り返すが仕事もしている)という「秘密の共有」以外の、かつ「血と共に居た時間ではない」「絆」の正体を探っている。是枝はメイキング・フィルムで「これまでの作品のいろんな要素をアレもコレもぶち込んだ」と言っているが、見方によってはごった煮かもしれないが、故あることと想う。

治が信代(安藤サクラ、『百円の恋』は最高でした)をパートナーにした理由・パチンコ屋駐車場に放置された祥太君を「棄てられたものを拾った」(信代の言)理由・バアさん初枝(樹木希林)が離婚しその後再婚した前夫の孫亜季(松岡茉優)を同居させている理由・幼児虐待下に居たユリちゃんを住まわす理由、それらは「金」でも万引きという「秘密の共有」でも「血と時間」でもない別のものだ。その別のものが、取り敢えず辿り着いた是枝流「(疑似)家族」という「共同幻想」を成立させる条件だと言っているようだ。

それは、他者を受け容れること・他者への優しさや労り・他者への強制の回避・{他者}受け容れの練達とでも要約される困難な関係のことか。この家族は不思議に内部で諍いを起さない、大声を張り上げ罵倒しない、暴力を振るわない、それらは「万引き」という「秘密の共有」という「縛り」だけに起因するのではないと、是枝は言っているようだ。

 

マザー・シップについて

ふと気付いたのが、治(リリー・フランキー)に棲む母性のことだ。

何度も引用しているので気が引けるが、再度「太宰・吉本の出会いの会話」(雑誌「東京人」2008年12月増刊号)を引く。

【太宰のマザー・シップ】

故吉本隆明(2012年没 享年88歳)は戦後間もなくの学生時代、学生芝居で太宰の戯曲『春の枯葉』を上演しようとなり、仲間たちを代表して三鷹の太宰宅を訪ねたそうだ。

太宰は不在だったが、幸い太宰家のお手伝いさんから。聞き出し、近くの屋台で呑んでいた彼を探す出す。

当時の人気作家と無名の貧乏学生=のちの詩人・思想家の出会いだ。

吉本の独白。

『「おまえ、男の本質はなんだか知ってるか?」

「いや、わかりません」と答えると、

「それは、マザー・シップってことだよ」って。

母性性や女性性ということだと思うのですが、男の本質に母性。不意をつかれた。』

再び三度この逸話を持ち出したのにはもう一つ理由がある。子を産んでいない信代(安藤サクラ)のユリちゃんへの接し方やラストの涙のシーンだ。信代の涙に照らし出される想いこそは、産む産まない・暮らした時間の長短を超えたマザーシップの発露であり、是枝「家族」への一本の筋だ。  『八日目の蝉』(角田光代)の主人公に出会った時に似た感情に襲われた。

(是枝はメイキング・フィルムで、あのシーンは本番直前に変更追加の台本を渡し、驚きと混乱の中、安藤が役者の肉感で出せるものを見たいと思い「すごいものに立ち会えた」と語っている。安藤はマザー・シップの片鱗を刻印したのだ。『百円の恋』の際にも思ったが、いやースゴイ役者だなぁ)

 

シップの語源

またまた、複数回目の引用をさせてもらう。日大アメフト部傷害事件に触発されスポーツマン・シップの「シップ」、上記太宰が言うマザー・シップの「シップ」って何?と思い調べてみた。フレンド・シップ、リーダー・シップ、パートナー・シップ、スポーツマン・シップなどと使われている。

『「切る」「割る」を表すヨーロッパ祖語では舟を作る作業・工程=木を切り・割り・くり抜く、文字通りカタチ無き状態から「作り出す」ことに、舟=shipの語源があるそうだ。 「名詞+シップ」は、その名詞が表す状態になるため、そういう状態を維持するのに必要な構え・在り方・技量・精神・知性・気概 等を表す。』だそうだ。

ただそこに在るだけの名詞が指し示す単なる物ではなく、その名詞を意味ある存在にして行く工程を経て、物と人との関係性に照らし出されて再登場する「生き物」としての名詞。

舟の語源と「名詞+シップ」の語源が、カタチの無い状態から「作り出す」という意味の共通語源からの言葉だと知った。

 

信代に具わっているマザー・シップ、治が無意識に発揮するマザー・シップ・・・。彼ら二人を含む「万引き家族」の全員を受け止め受容れる初枝(樹木希林)が真のマザーかも知れない。英語マザー・シップとは「母船」でもある。

シップとは何かを考えていて、リリー・フランキーが千石イエス氏に似ていると気付いた。

千石の教団運営は、「おっちゃん」と慕われた千石の反集権・反強制・反統制に貫かれていたと聞いた。そう言えば、教団の名は偶然「イエスの方」だった。あれれシップだ。

治の「万引き」という無意識の強制・統制が、祥太君の「舟」からの離脱決意を招くのだが「万引き家族」も「家族」という共同幻想の呪縛から自由ではなかった。

けれども、是枝が探しあぐねる家族シップのその核心が、血・金・時間・共犯関係の秘密の共有、などでは決してないことだけは確かだが、家族の構成員が構成員シップを打ち立てないと「家族」は維持できはしないのだと思う。

大小の共同体や社会的単位=企業団体・運動組織・党・他に疑似「家族」を求めてしまうぼくらの在り様は、「家族」のエセ「意味と価値」を振り撒くか、逆にそれから遠ざかるばかりだ。

 

このテエマに終わりはない

映画作りに関わったこともないし、最近は観る本数も激減した。だから、この映画に対して作品への評は語れない。是枝が言おうとしたことをおぼろに掴み、ぼくの日頃の問題意識と交差する部分を切り取って語るだけだ。

だが、役者に目を見張り、子役の見応えに舌を巻き、「世相の散りばめ」だと言われるその短いシークエンスに吸い込まれた。

性風俗店で働く亜季(松岡茉優)は、親には海外に留学中であるはずなのだが、如何なるゆえか店に通い続けるたぶん場を喪って閉じこもって生きているらしい客のひとり、無言の青年(池松壮亮) を抱きしめるシーンがある。是枝が見事なのか役者が上手いのか、こちらが単純なのか? 多くの人同様、身につまされてしまった。他にも池脇千鶴・柄本明・高良健吾など気になる役者が登場していて、その面でも見応えがあった。

『万引き家族』は終れない映画だろう。時代に付着する世相も含め是枝さんは作り続けるしかないテエマですな。

メイキング・フィルムで出演者は口々に語っていた。「この映画作り、是枝組こそが「家族」だった」と。共通の目的を持った短期の単位集団にひと時可能かもしれない「家族」が、実は困難な現代社会にぼくらが生きていることだけは確かだ。是枝が再び「アレもコレもぶち込んだ」「家族」を扱えば、ぼくは付き合い観に行くと思う。

その「家族」探しの彷徨を超えてなどいないのだから。

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