ぼやき: ジュードウ・競泳と 国際ルール

ジュードウへの異論も、競泳メドレー・リレー銀への賛辞も                                                                                           別にナショナリズムの発露なんかじゃないよ!                                                                                                                                                            あえて言うなら『アンチ・偏欧米スタンダード』論なんじゃよ。

ロンドン・オリムピックはあと一日で終わる。                                                                                          競泳男子メドレーリレー・男女各競泳・女子バレーボール・男女サッカー・体操・女子レスリング・・・など、驚きの活躍が続いた。                                                                                                                                                        8月初旬から帰阪しての盆休暇。連日の「ニッポン」組の頑張りについつい深夜の実況を見てしまうのは事実だ。

オリムピック半ばの先日、さる席で競泳陣の頑張りなどを称えたところ、                                          予想通り、「隠し切れないナショナリズムが顔を出したか?」と「左翼(?)」独特の聞き飽きた皮肉が返って来た。                                                                                                               どう思われようが構わないが、「反欧米気分」や「Pan-アジアニズム」が身の何処かに潜んでいることを自覚しているので、そこは黙っていた。                                                                                                          ナショナリズムじゃないんだよ。ちゃんと言うから聞いてくれ!                                                                           世界を覆う「インチキ公平、偏欧米偽フェア」に基づくルール作りへの異論なんです。

球技が苦手なぼくは、高校時代のごく短期間柔道部に居たのだが、「国際化」と引換えに点取り競技と化したとも言いたいジュードウは、柔道ではないのだとの想いを強くして来た。無理にでも数値化することが「公平」「フェア」だとする、他の競技にも見られる原型変容は、実はスポーツに限られた現象ではない。文化のみならず思想や哲学にさえ及ぶ、固有の地域が培って来たオリジナルな「文化文明」総体の価値観・価値論が「国際化」の過程で辿る変容は、つまりある種の転向でもあるのだ。                                                                                                                         問題は、一見「公平」「フェア」に見えもする評価点数を競い合う為に取って付けた数値化が、そのスポーツならスポーツの本来持っていた価値や美学を損わないかどうか、そこだと思う。                                                                                                          元々、数値化には馴染まない事柄や出来事や方法(スポーツなら技など)、つまりは価値が、強引に数値化・評価点数の競い合いへと変質させられているとしたら、やはりそれは元始の原形とは「違うもの」、国際化・公平・フェアという衣装をまとった加工品=「虚構」だと言えるのではないか?                                                                                                                                                                                          しかも、公平・フェアを標榜する者たちは、その公平・フェアの基準や運用ルールを、しばしば「国際化」の推進を言い出した側の私的な都合で自在に変更さえして来た。

1956年メルボルンオリムピックで、競泳平泳ぎで潜水泳法の古川が金メダルを取ると『常に水上に頭が出ていなければならない』と新ルールが作られた。日本泳法が30年に亘り苦しんで来たのは有名だ。ルール策定者は上半身を水上に大きく出すウェーヴ泳法の確立の見通しを得た87年、1ストロークごとに1回水上に出れば良いと改正。1988年ソウル背泳で鈴木大地が金メダルを取るとバサロスタート(潜水泳法、サブマリン泳法とも呼ばれる)を10M以内に規制した(現在は15M以内)。公平に潜り、フェアにスタート後長く潜水することのどこがアンフェアなのだ?                                                                                                                                                                                 1964年東京オリムピック・女子バレーでアジア人:日本が金を取ると、「ネットの高さを上げる」というアジア人に不利なルール変更を行なった。「公平」に、共通の高過ぎない(?)ネットで競技することの何処が不都合なのか?                                                                                                                                                                                                                       あまり知られていないかもしれないが、冬季スポーツにも奇妙なルール変更がある。ジャンプでは、ノルディック複合で荻原潰しを目的とした「ジャンプ得点比率の低減」を強行した。さらに長野オリムピック・ジャンプで、ノーマルヒル銀(船木)、ラージヒル金・銅(船木・原田)、ラージヒル団体金(原田・岡部・斎藤・船木)とアジア人が活躍すると「スキー板の長さは身長に比例とする」とルール変更。背の低いアジア人は、小さなスキー板で勝負せよ!という訳だ。何が「公平」なのか? そんな公平・フェアが通るのなら、「砲丸投げの鉄球重量は体重に比例」とか、「ラグビーのチーム員の体重合計は***kg以内とする」(ラグビーはオリムピックに無いが)とかになる訳かい?                                                                                              そもそもジュードウの体重別制も、身長も体重も小さなアジア人に投げ飛ばされる「耐え難い絵柄」を衆人に見られたくないという邪心に拠っていたと、柔道部の先輩が言っていた。同じ体重クラスなら衆人に見せも出来るという訳だ。                                                                                                            そうした柔道ではないジュードウに何とか合わせて努力して来た日本ジュードウが、煮え湯を飲まされたのがシドニー・『世紀の誤審』だ。                                                                                                                                                        2000年シドニーオリムピックの100㎏超級の篠原・ドイエ戦の『世紀の誤審』については、今さら解説も不要だろう。動かぬ証拠(YouTube画像 http://video.search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%8B%E3%83%BC%E7%AF%A0%E5%8E%9F%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%82%A8%E6%88%A6+%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E8%AA%A4%E5%AF%A9&tid=6c4429eb067a9be79b9d663dd4630bdf&ei=UTF-8&rkf=2 )を添付して、ぼくの断じてナショナリズムではない「アンチ・偏欧米スタンダード」の根拠の一端としておく。                                                                                                                                                                                ちなみに、ドイエ自身は篠原の技の直後、呆然として「一本取られた」という表情で事実を認めていた。                                                                                                                        

選手たちの頑張りに、勝手に生来の「アンチ*****」を仮託してのオリムピック観戦だった。まぁ、いかがわしいルールやその背景でも、それを乗り越える者が出てきたりするし、スポーツはスポーツだ。影響は限られていよう。しかし、社会的営みに関するルールは人間の生存の全領域に及ぶのだ。言えることは、中小零細企業も、狭い農地で生産する農家も、市井の民も、北島康介たちのようには「恣意的なフェア」による「スタンダード」を跳ね返す、度外れた能力など持たないということだ。スポーツに於いてさえこのようなアンフェア「フェア」を押し進める者たちは、経済・貿易・製造・農業・医療・保険・他で、例えばTPPにどんな「公平」を準備しているのか・・・?                                                                                                                                                    

翻って想うに、この国の・この社会の「当たり前」「与件(の一部)」とされているルールの多くは、理不尽で恣意的で身勝手な人員構成や手順で決定され、かつ日々ご都合主義的な変更を繰り返してはいまいか。そして、ぼくならぼくは、そのルールを作る側に居るのではないか? そうでなくとも、「ネットを上げる」「スキー板を身長比例とする」などに、かつては即座に「それはおかしい!」と思えた思惟力・感性・嗅覚を喪っていはしまいか?                                                                                  例えば、                                                                                                                                                                                                                                                                       

条約により米軍に基地を提供し、その過半(3/4)を沖縄に置く。返還されるはずの、世界一危険な市街地の基地に欠陥機オスプレイを配備する。                                                                                                                          原発は過疎県海岸地域に建設し、使用済み核燃料の処理方法や廃炉方法はこれから考える。                                                                                                         今後のエネルギー政策の如何によらず、「日米原子力協定」に基づき、日米の原子力共同研究・協力は続け原発輸出は続ける。                                                                                                                                                           福島原発事故に関して、民主党政権を問い東電を責めるが、米の設計・メーカーに欠陥や不備を問わない。                                                                                   年金のダブル・スタンダードいやトリプル・スタンダードは、勤労者各個人の職場選択の結果であり自己責任である。                                                                                                                                      企業たるもの、任意の数の正社員で運営し、他は有期雇用・派遣社員・下請など非正規雇用者で賄うべきである。競争に勝ち抜く為に、法や制度を最大限活用して、その非正規雇用者への企業責任から免れる研究・努力に励まねばならない。                                                                                                                                                                        労働組合の使命は、正規雇用労働者が所属企業の発展や賃金の上昇などを実現することであって、下請・臨時・パート・季節・派遣労働者の雇用形態や権利問題などに関わる言動を行うことではない。                                                                                                                                       公務員は、所属機関の政策批判をしてはならないし、政治的言動をしてはならない。                                                                                                                                            

ともあれ、残された時間を、構造的「アンフェア」を推進したりそれに手を貸すことに使いたくはない。                                                                                                                出来れば、どんなに微力でもその構造に抗う「生」を立てたいと思ってはいるのだが・・・。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

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