連載 53: 『じねん 傘寿の祭り』  五、 キムパ (9)

五、キムパ⑨

「亜希さん、いいかね、ぼくのギャラリーのオープンは見届けるんですよ。配達で近くへ来たらうちに立ち寄りなさい。歓迎するよ。裕一郎君とも積もる話をしなさい。ひろしにも会ってやってくれたまえ」                                                                                                        「別に積もってませんよ。そうだ、忘れるところでした。これ、ユウくんに」                                                                                                                                                                                                                                             亜希はポリ容器に入れたキムパを差し出した。深底容器に入ったスープも付いている。                                                                                                                                           「車を運転しているところを私だと分かるってスゴイ、感激です。近いうちに行くからねとお伝え下さい」                                                                                                                                                                裕一郎は桟橋へ歩きながら訊いてみた。                                                                                                                           「松下さん、この先もここに居るの?」                                                                                                                     「ふらりとこの島に来て、唐突にあそこに入ったんですよ。この連休と夏は越えないことには悪いと思ってます」                                                                                                                                                    「今も前職に戻りたいと?・・・」                                                                                                                                                                                    「安くて良いものだと評判の日本の衣料品直売メーカーが、私が関わっていた国で縫製工場を間もなく大規模に稼動させると、元同僚から聞きました。タイ・ヴェトナム・インドネシアなどから、とうとう最貧国と言われたあの国にシフトです。賃金コストが安上がりなんでしょ。都市部では、旧来の「海外協力」では通用しない現実が始まっています。そこへ「日本的」生産方式が入って行くことに、少年少女のあの澄んだ瞳を思い浮かべて、あそこだけは昔見たあの国でずっと居て欲しいというのは傲慢だとも思います。下手をすれば、第三世界は第三世界のままでいなさい、と言っている様なことですし。発展し、豊かになり、女性は<家>や家事労働から解放されるべきだと思います。先進国並に豊かになる権利は等しくあるはずです。こう言うとグローバリズム推進派みたいに聞こえるでしょ? それと反対のことを言ってるんですけど・・・」                                                                                                                                                 「ぼくもそう思う。グローバリズムこそが、永遠の第三世界を必要としている」                                                                                                            「あの国では、いや日本もですけど、結局は労働問題だと思います。日本の生産工場自体か、そうでなくてもその下請の素材工場では女工哀史だと思います」                                                                                                                                                        「大空さんは、どう言ってるの?」                                                                                                                                    「えっ、何が?」                                                                                                                                         「いや、夏以降に去るだろうという君の方針」                                                                                                                                                                    「卸し用の品物を充分作ってくれたし、うちのことは気にしなくていいとは言ってくれてますけど」                                                                                                  聞き耳を立てていたに違いない黒川が後ろから茶化した。                                                                                           「亜希さん、ずっと沖縄に居たらいいよ。そうだ、大空と結婚しちゃえよ」                                                                                                          亜希が振り返って返した。                                                                                                                                                                     「黒川さん、何処に居るのか、結婚するかしないか、それが一番の問題なのではない、というのが黒川じねん八十年の結論じゃないんですか? すみません、大先輩に失礼なこと言いました」                                                                                     「いいんだよ。その通りだ」                                                                                                                                 「結婚。祖母・母、周りの先輩・・・、うーん結婚かあ・・・」                                                                                                                       「ガハハハ、君はシャープだねえ。さすが裕一郎君が沖縄まで追い掛けてきた女性だ」                                                                                                         「違いますって」二人が同時に言った。                                                                                                           桟橋の改札が見えて来た。「今日は私が見送りですね」と亜希が微笑んだ。秋の終電の改札口で酔った亜希が冗談で言ったセリフが蘇える。「北嶋さんにしといたらよかった」・・・。                                                                                                        作業着に作業エプロンのままの亜希が眩しい。                                                                                                                                                    「松下さん、会社の部下たち宛に出した絵葉書見せてもろうたよ」                                                                                                               「ええーっ、困るなあ。あれは辞めてすぐの時期の弾みです」                                                                                                                        「なら、現在の心境をまた違う歌からパロって聞かせてや」                                                                                               「出来ませんよ、感情と精神が突っ込んでないと・・・。今は、あの替歌のところで立ち止まっているけど冷静な凪状態というか、私にはけっこうジンワリと味わい深い日々ですよ」                                                                                                                                                                                                                             出航まで数分あったのだが、改札の手前でじゃあここでと言って、亜希は車へ戻って行った。                                                                                   「黒川さんの家に遊びに来いよ」と背中に声を掛けた。亜希は振り返らずに手を振っていた。裕一郎は、決して予期せざるとは言いがたい衝動が込み上げるのを自覚してその後姿を見つめた。その背中の作業エプロンのボタンが外れて僅かに覗いている亜希の肌が、刺すように鮮烈に迫って来る 。「欲しい」・・・、そう思ったことも否定しはしない。                                                                                                                                          高速艇の座席に座ると黒川が肩を叩いた。                                                                                           「なかなかいい娘だ。あの娘はともかく、大空は惚れてるね。そう思わんかね」                                                                  「どうですかね・・・」                                                                                                                                               『身捨つるほどの恋路はありや』・・・。裕一郎は、あの替え歌を思い浮かべていた。

 

  

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