つぶやき: -ブログ再開-  原発に戦争を思う  

震災・原発に戦争を見る。

少しブログが滞り、心配した数人の方からメールをもらった。有難いことです。当方「たそがれ」の「ろくでなし」、今後もこうしたことは度々あると思います。前回のコメントが3月14日なので、約40日間の投稿ストップ状態。いくつか理由はあるがいずれも些細な私事雑事。                                                                                                                                                   ストックを載せれば維持できるがそれさえおぼつかぬ精神状態。実は、・・・                                                                         パソコンのデスクトップがチラついて正視できない(遠近両用眼鏡はパソコンの半端な距離には不適。中近両用眼鏡も購入することにした)。                                                                                                 ある雑念(煩悩)にさいなまれパニック(我ながら「我を失う」に近い事態であったが、所詮は一人相撲)。                                                                                    震災・原発崩壊に言葉を失う(全てを喪って、なお生きる人々への畏敬と、翻ってそれができないだろう自己への嫌悪)(原発事変に戦争を見る)。                                                                                                                                                    阪神淡路大震災(95年)を遠因として坂を転げ落ちるように破産(98年)に向かった自己体験(どの企業もそれを克服して企業維持したのだ!)の、毎月末の恐怖の資金繰りと断末魔期約二年間の精神状態が蘇えって来ての落ち込み。                                                                                                                  震災に関連して、都内オフィス軽改修工事で繁忙(まぁ、超多忙だった)                                                                                         -これらから、ブログ更新ができない有り様。情けない。軽い「病い」だったのだろうか(苦笑)?-                            

福島の事態から、ぼくは戦争を想起していた。                                                                                                     それを推進した者の手前勝手な理屈と楽観論、「だろう」の積み重ね。その為の総動員態勢。反対し阻止しようとした者の無力感。報道・政財官学挙げた推進論。事故を機に掌を返す見苦しい論説。                                                                                                                                                     余りにも甚大な被災・被害状況に、責任論・「何故なのか」「元々の無理」を問う声はかき消されがちだ。                                                                                                                       ジャーナリズムの、「政権批判」によって自己の「翼賛体質」を覆い隠す体質。例えば、朝日は「本紙の調査により、各原発は震災等により8時間程度の送電不可への対応はあるが、今回のように数週間送電停止には対処できないことが判明した」と自画自賛していても、これまでそうした報道をして来なかったことへの「自責」の論などない。がそんなことは原発反対派は早くから指摘している。地震に関しても、広瀬隆氏などが、ここ10年が地震激発期に来ている、と大型地震の予告とそれへの原発の無防備を早くから訴え、ちょうど一年前の本にして発表していた。共産党の吉井議員は、福島に関して、地震・津波を想定した全く同じ事態を国会質問していた。                                                                                       想定外などではないのだ! マグチュードを恣意的にアップして想定外を演出しても、実は全て想定出来ていたのだ。原発は、核燃料の最終処理方法、廃炉問題、どの観点からもダメ。新たには作らない、順次廃炉する、エネルギー政策の転換を宣言するしかない。民主党政権、どうする。

被災地の、自治体職員・消防・医師・教員・自衛隊・・・、よくやっておられる。この国の教員や公務員の本質的「質」の高さを垣間見る日々です。                                                                                         これらの「誠意」と「善意」と「無私の勤勉」が、どうか「戦争」へと動員されることのないようにと祈り、そして行動したい。ぼくが40日なにも出来なかった類のひ弱な精神では、戦争を繰り返すことになるのだろう。                                                                                                                                                                                             被災地の人々の惨状と立ち上がる気力を見て、「ワシや、これではいかん」とつぶやいた40日でした。                                                                                                                                                        帰阪していて参加した4月10日の広瀬隆氏の講演会は追加開催・それでも立ち見満席となり、中ノ島反原発集会には(4月16日)に3000人が集まった。帰京していて参加できた、芝公選(今日24日)には4500人が結集した。力をもらった。デモは、まずは何よりも己への呼びかけなのだ。                                                                                  おりしも、最高裁では大江岩波裁判に最終結論(4月21日、原告敗訴の「上告棄却」)が出た。己と世を公理・道理に向かわせたい。向かっていると信じたい。                                                                                                                それにしても、今に始まったことではないが大労組よ何をしている。企業が原発を含む「いま在る」体制・諸枠組みの中に在り、その変更が少なからず自身の「基盤」を危うくするその場面に、何も出来ないことを「しがらみ」などと片付けて、容認するなら、一体何の為の労働運動か?                                                                                                             人々にとって大切なこと重要な課題とは、そしてそれへの異論発信・意義申立て・行動とは、元々己が「基盤」を危うくしてしまう要素にも充ちているのだ。安保・沖縄・雇用形態・・・、どれもみな。そうした意味で原発は「戦争のように」準備され・扇動され・実施され・報道され・行き渡り・経済と生産を支配し・大労組企業の存在前提となり・人々の「基盤」に絡み着いている。日本の大企業労働組合は戦争を推進するに違いない、と思うのだ。                

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