歌遊泳(歌詞研究): 演歌の向こう側と「切れて」「繋がる」ために ③/5

大衆的抒情の一義的「在処」

阿久悠歌詞を、日本の大衆的抒情と「切れた(い)」とか、それとの「訣別」と、容易く書いてしまったぼくの舌っ足らずかも・・・。                                                          あの文章(http://www.yasumaroh.com/?p=5779)が、「文学論」「サブ・カルチャー論」に届くとは思っていないが、結語に書いた                                                     『阿久悠は、「終焉」の前の「喘ぎ」を演じた(作詞した)のだろうか。』 『日本の歌謡にへばりつく大衆的抒情と「訣別」することを通してしか、出来はしないと考えたのだろうか。そして、それに成功しただろうか? そこは各自の評価だ。』 辺りの言い回しで、ぼくの水準からは「精一杯」の阿久悠の挑みへのエールとご理解願いたい。もちろん、阿久悠・ジュリー歌も次の三つの阿久悠:代表曲と同様に、基本的には「演歌」ではある。                                                                                                                          『ジョニーへの伝言』(74年) http://www.youtube.com/watch?v=b5z94O4-ZgA                                                                                             『津軽海峡・冬景色』(77年) http://www.youtube.com/watch?v=38on-Pw7MRo&feature=related                                                                                                                                                                『雨の慕情』(80年) http://www.youtube.com/watch?v=P0I3moSIU4M  

                                                                                                                               ところで、その「日本の歌謡にへばり付く」「大衆的抒情」とは、いかなるものなのか?                                                            吉本隆明は古い論考『日本のナショナリズム』(64年)の中で、                                                                                            『冬の夜』(ともしび近く衣縫う母は 春の遊びの楽しさ語る)、『赤とんぼ』(お里の便りも 絶え果てた)、『青葉の笛』(一の谷のいくさ破れ 討たれし平家の公達あわれ)、『七里ヶ浜の哀歌』(真白き富士の根 緑の江ノ島)、『故郷』(兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川)、などを取上げた後、                                                                                   『ある種の愚者たちは』『日本の大衆にのみ固有なものであるとかんがえている。かれらは、ロシアやアメリカには大衆のセンチメンタリズムが存在しないものと錯覚しているらしい。』『大衆のセンチメンタリズムは、そのナショナルな核にしたがって質がちがっているというにすぎないのを知らないのである。』『ボートが沈んだとき中学生たちは、いかにもがき苦しみ、われ先にと生きのびようと努めたか、という大衆の「ナショナリズム」の裏面に付着したリアリズムを忘却するように書かれている。』『わたしたちが大衆の「ナショナリズム」としてかんがえているものは、この表面と裏面の総体(生活思想)を意味するもので』あって、『その表現にすくいあげられている一面性を意味しているのではない。』 と述べている。                                 確かに、『故郷を離るる歌』(ドイツ民謡」)とか、『埴生の宿』(イングランド民謡)とか、『ともしび』(戦地に赴く若者とその恋人=1942年作、ソ連時代の歌)などたくさん思い付く。 これらは、大衆的抒情が「そのままでは」国家意志に回収される危うさの中を浮遊していることの論証になるだろう。

ぼくも、社会的(あるいは政治的)な主題の喪失・忘却・放棄や土着のロマンチシズムが覆う歌謡は、作り手と聞き手の往還の中で増幅・再生産されて行ったと思うし、それは今も変わらないと思う。ぼくが求めているのは、吉本の言葉を借りれば「表面と裏面の総体」を掴む歌謡だ。決して、無味乾燥な政治性や思想性過剰な「思想歌」「プロパガンダ歌」「メッセージ歌」ではない。そんなものに、生活総体を射る「力」などない。大衆的叙情・センチメンタリズムというものの一面性同様、ぼくらが持つ政治的・社会的な怒り・不満・目標・理想を並べ立てたところで、それもまた一面性なのだ。                                                                                                                                                                                                   

次々回(⑤/5)、初期中島みゆき歌詞を取り上げる。そこに、前回書いた 『自身に棲む「大衆的抒情」「センチメンタリズム」「土着的浪漫」との「訣別」と、それらへの回帰ではない「復権」。「切れて」「繋がる」。』 が、潜んでいるかも・・・。                                                                                                                                                                                                                                                                                                  「復権」。 それは、国家意志・地域社会の黙契・企業の没我要請・宗派の排他的教義・党の独善と非複数主義、「個」が見えない政治性、                                                                                     などから影響・誘導・支配を受けないものとして、それらへと回収されることのないものとして、                                                                                                                                                                                                        かならずや社会性・普遍性に繋がっている個的世界を確保しようとする、「個」の内側に宿る固い意志によってのみ可能なのだ。                                                                                              そのことを共有できるような「演歌」が、心に届くのだと思う。                                                                                                           それは、熊沢誠が各個人の個的体験(とされてしまった過労死)の葬列を、あえて「くどい」ほど書き綴ることによって、                                                                                                「個」のかけがえのない「生」(夫婦・家族・労働・希/夢・人並みの欲・趣味・こだわり事)の重量覚知から、                                                                                            つまり情理によって導かれた個別性への拘泥から、全体性(社会性・普遍性)を描き出した作業に、ちょっと似てはいないか?                                                                                           ☆熊沢誠:著『働きすぎに斃れて』(2010年、岩波書店)← http://www.yasumaroh.com/?p=5251                                                 

                                                                                                                             

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