たそがれ映画談議【原一男作品「ニッポン国VS泉南石綿村】

 

上映期限残り二日、やっと観てきました。
チラシ裏面に永田浩三さんのコメントがあった。「泉南アスベスト国賠償裁判に関わる、圧倒的な人間ドラマ。政府を相手に闘うとはどういうことかが初めてわかる。アスベスト被害と朝鮮半島とのつながりも目から鱗だった。原監督は、やっぱり原監督なのだった。」と・・・、同感だ。
最後に語られる柚岡氏の未達成感・未消化感は、たとえ最高裁判決の欠落=被災時期と被災場所ゆえの一部排除がなく、全原告の救済が充たされていたとしても、埋まりはしない種類のものだったと思う。「違和感」に近い感情……。

その「ふたつの要素」。

ひとつは、議会制や現司法を柱に在る法治主義と、究極テロルに至る理路との狭間に在る、大げさに言えば「抗いのふるさと」=「言葉とおこなひとを分ちがたき」「テロリストのかなしき心」への郷愁と回帰という原点。

もつひとつは、殖産興業・富国強兵の明治の国家社会モデルから植民地・昭和軍国・戦後「国体護持と偽装民主主義」体制・高度経済成長期・オイルショックからバブル崩壊・福島・安保法制に至る現代日本の社会モデルとは違う、オルタナティブなモデルが在り得たか否かという本源的には左右いずれもが示せていないテエマだ。「もうひとつの明治」から、思想的に歴史的に本気で構想する、その視角のことだ。

ワシはそこに至る柚岡氏の云わば永遠の「違和感」を共有するものでありたい。成長神話や効率・利便性が産み落とす個々の不具合や悲惨は、実は遡っての保障・謝罪と制度や法の変更で事後対処(それも高ハードルの国家的妨害・不作為によって稀にしか行われない)しただけで、成長神話や効率・利便性追求という価値観そのものは疑われることなく生き続けているのだ。原発しかり(原発は効率・利便からもアウトだが)。
第一陣高裁判決(だったか)は、「産業は時に健康被害等をもたらすが、技術発展・成長という目的の前では已むを得ない」というようなことを述べていた。

その論拠に根本的なノンを提示しない限り、向こうの言い分の方が強固なのかもしれない。原一男監督もまた、柚岡氏の永遠の「違和感」の前で戸惑いを隠さない。
それは、どんな法学者や理論家でも立ち尽くす、先に述べた「ふたつの要素」が持つ意味への謙虚だろう。その「ふたつの要素」など超えているんだと嘯(うそぶ)く自称左翼・左翼政党・労働組合・運動団体がもしあるなら、それは自戒欠如かつ傲慢と言うものだ。
映画を観る限り、この運動この訴訟が、政党・労働組合・運動団体に倚ってはいないことも原一男のメッセージだと観た。
原一男にとっても、「ふたつの要素」の圧力は「違和感」であり「撃つ」用意を持って戸惑う事柄であるに違いない。

「党ならざる者たちによる、叛乱と自治」という、友がある時期以降強く語る精神的スローガンが、頭の中を駆け巡っている。
表現者などを追ったこれまでと違い、集団というか個人ではないものを追った今回作品。
ワシにはその意味と価値を語る実践も想域もない。利潤を求めた悪戦に明け暮れた、零細企業のワンマン親父であったのは事実だ。石綿で食った時間を振り返り沈黙する道理なき自責強迫から解放されるのは、その事実の相対化を成し遂げることと同義だ。その先にオルタナティブな近代が見えるかもしれない。

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