駄エッセイ: 「蛍の光」と沖縄

「蛍の光」と沖縄

先日、友人が「蛍の光の歌詞、最近3番4番を知ったんやけど、ありゃヒドイね。作詞時(明治10年代初頭)の国策のままで、領土拡張・富国強兵・国威高揚・排外主義・覇者の施し・銃後の少国民の覚悟を謳っているんやで。」「歌詞を変えろ」と怒っていた。
知ってる?と訊かれ頷いたが、記憶は曖昧。ちょっと、確認してみた。


蛍の光 窓の雪
書読む月日 重ねつつ
いつしか年も すぎの戸を(杉と過ぎるを掛けている?)
開けてぞ今朝は 別れゆく

止まるも行くも 限りとて
互みに思ふ 千万の(かたみに{互いに}おもふ、ちよろずの)
心の端を 一言に(想いの端々を一言にまとめ)
幸くと許り 歌うなり(さきくとばかり、「無事で」と歌うなり)

筑紫の極み 陸の奥(建国神話さながらに、九州の果ても東北の奥地も
海山遠く 隔つとも(帝国の津々浦々は、隔たった地であっても)
その真心は 隔て無く(拡張して得た地も含め大御心に隔てなく)
一つに尽くせ 国の為(汝ら一つになって国に尽くせ)

千島の奥も 沖縄も(異族の地・地と海の果てたる千島列島も琉球も)
八洲の内の 護りなり(皇国大八洲の内、防衛壁なんだ)
至らん国に 勲しく(いさおしく)(日本の支配が及ばない地域には勇敢に)
努めよ我が兄 恙無く(つとめよわがせ、つつがなく)

「ニッポンを取り戻す」派の人々が泣いて歓ぶ歌詞であるが、言外に、その真心に「分け隔て」や邪心が在ること、国の成立ちの古からの強奪の史実、文物歴史の剽窃、さらなる発展は「国を挙げて突き進め」と鼓舞し続けねば維持できないと、ゲロっているのだ。

原曲の地(スコットランド)の人、エリーさんが泣いているぞ!

Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and days of auld lang syne?

CHORUS:
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we’ll tak a cup o’ kindness yet,
for auld lang syne.

And surely ye’ll be your pint-stoup !
And surely I’ll be mine !
And we’ll tak a cup o’ kindness yet,
for auld lang syne.
(CHORUS)

We twa hae run about the braes,
and pou’d the gowans fine ;
But we’ve wander’d mony a weary fit,
sin’ auld lang syne.
(CHORUS)

We twa hae paidl’d in the burn,
frae morning sun till dine ;
But seas between us braid hae roar’d
sin’ auld lang syne.
(CHORUS)

And there’s a hand my trusty fiere !
And gies a hand o’ thine !
And we’ll tak a right gude-willie waught,
for auld lang syne.
(CHORUS)

旧友は忘れていくものなのだろうか、
古き昔も心から消え果てるものなのだろうか。

コーラス:
友よ、古き昔のために、
親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。

我らは互いに杯を手にし、いままさに、
古き昔のため、親愛のこの一杯を飲まんとしている。
(コーラス)
我ら二人は丘を駈け、可憐な雛菊を折ったものだ。
だが古き昔より時は去り、我らはよろめくばかりの
距離を隔て彷徨っていた。

(コーラス)

我ら二人は日がら瀬に遊んだものだ。
だが古き昔より二人を隔てた荒海は広かった。
(コーラス)

いまここに、我が親友の手がある。
いまここに、我らは手をとる。
いま我らは、良き友情の杯を飲み干すのだ。
古き昔のために。
(コーラス)

天皇家のデッチ上げ

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