通信録: 10.8山崎博昭プロジェクト 大阪講演会

【10.8山崎博昭プロジェクト 大阪集会】 11月7日   南御堂南館

 

山本義隆氏講演『理工系にとっての戦争』(下記は拝聴記)

 

山本義隆氏の「学」に向かう風格と言うか本源性はどうだ。

全共闘は自覚せずして、このような人物・学の徒を代表に選んでいたのだなぁ~、と改めてその「故」と「必然」を想う。

 

アヘン戦争の顛末への危機感と恐怖感は、幕末~初期明治「日本」を西欧猛追へと走らせた。科学(アカデミズム)面でも技術(産業革命以来の)面でも、国家にも学の府にも民間にももちろん近代の蓄積などなく、ここに日本型近代化の特殊構造が生まれる。

科学と技術の一体同時進行・国家が推進母体である・軍事最優先いや軍事の為の、総構造だ。産学協同・軍学協同は「科学技術」の成立史の根本DNAだ。それは日本に於いては元々、国家によって一括りに進められたものだ。

戦後、文学や芸術や映画作家の戦争責任が問われたが、理工系学者技術者の責任が問われた例をほとんど知らない。理工系こそ戦争に直接かかわっているのに、である。ここには、科学や技術の超思想性・中立性という幻想を悪用した国家イニシアティブによる「思想性」と、「学」の側の「科学技術の発展はプラス・マイナスを超えた絶対値的価値なのだ」という科学技術「信仰」が在る。ここを崩さない限り、「科学技術」根本DNAへの異論たり得ない。

実はそれに気付きながら、研究費や待遇の上乗せなどに絡め取られて黙して来た民主的(?)学たちの思想的貧困がそれをさらに補強している。

 

財界と安倍の兵器産業立国への舵切りは、その市場での競争原理から当然「常に最先端」でなければならず、不断に新たな智恵と技術が求められ、当然、国・防衛省では力足らず、大学の全面関与が始まろうとしている。

明治期の殖産興業・富国強兵のままだ。

理工系学問の歴史的・構造的存在様式を根本から洗い直し問い直す道の、在りや無しや?

10,8山崎プロジェクト集会

 

白井総氏講演『ネオリベラリズムと反知性主義』(下記は受講メモより)

 

ネオリベラリズム:

公正という仮面の下の「競争原理至上主義」、国家と資本の結託による国家の乗っ取り、利潤飽和の果ての「何でも」利に…例えば「水」資源。

学・世論を含め人々の感性・意識の「何になる?」「知らねえよ」の背景にあるのは何か? 必要で実利あるモノだけ買うという「お買いもの感覚」「消費主義」ではないか? その核芯は「ニヒリズム」だ。

(実利と銭だけは確保して手放さない処世は「ニヒリズム」でななく、

云うなら「疑似ニヒリズム」「21世紀式実利ニヒリズム」であって、本来の「ニヒリズム」=「虚無主義」に申し訳ないで…康)

 

例えば精神医学:

精神分析の、何故そうなっているか?その根本原因の探求の放棄。即効性・有効性・効率性への傾斜。投薬偏重など症状の物理的抑止への雪崩現象。

根本に、「否定的なものに耐えられない」という「学」の衰弱があり、「否定的なもの」を無かったことにしたい欲望がある。

社会の動向、学の世界、人々の感性・意識とダブる。

 

戦争こそが最も効率的に技術を発展させ得る、という命題から脱する道筋や如何? 「ニヒリズムの克服」

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