交遊録: ある「偲ぶ会」

ある「偲ぶ会」 。

某大学「全共闘」のAさんが逝って約1年。(享年67)
濃い仲間、やや濃い仲間が集まり、生前の彼を偲び、その出会いや触れ合いを語り合った。ご遺族には初めての逸話ばかり、ビックリの連続だったと思うが、ご遺族がそれを肯定的に受け止められ、いい会となった。
小企業の経営者として、労働運動や市民運動には収まり切らない、社会システムの改変を模索していた彼の「これから…」だっただろう構想、その実践への途半ばで逝った無念を想った。

偲ぶ会3

ぼくの追悼文:

寡黙にしてシャイ、冷静にして勇猛、人が語る**さん像だ。

誰だってそうだが、**さんの友人・知人たちが語る**さん像は10人10様だ。

回り道をした挙句、1968年遅れて関西大学に来たぼくは、学年では二年先輩の**さんとの学生期の交点はあまりない。69年の学内某案件(写真参照)では、**さんは運転免許を持つ数少ない学生だったばかりに準武器運搬などヤバイ任務に駆り出され、それを断ることなく受け大いに活躍したと聞いている。だから、付和雷同組のぼくは会うことも少なく、実際よくは知らないということになる。

1975年、大阪の旧東区の中小企業で労組を結成しようともがいていた時期に「**氏が労組に詳しい」という噂を聞いて、ぼくは大正区の**さんの事務所を訪ねた。午後の忙しい時間帯を割いて、約二時間あれこれ参考意見を語ってくれた。当時、大阪の労働運動世界に全く無知だったぼくに、何故こんなに詳しいのだろうと思わせるほどの知識と情報で驚いた。今思えば、立場や行動を超えた、労働運動への尽きない共感や関心の持続の中に生きていたのだろうと思う。結果、**さんの紹介で東区の労働運動界の「猛者」と出会い、その後今日まで続くクサレ縁となる人物に出会うことになる。労働争議とそれに続く会社破産への対抗としての職場バリケード占拠闘争と、その後20年に及ぶ労組による自主経営のキッカケを**さんに作って貰ったと言えそうだ。

 

2007年、1969年の関大会館バリケード封鎖40周年を2年後(2009年)にひかえ、当時の仲間がそれぞれに生きてきた時間と現在と未来を考え、行動を考え始めたり・活動場所を新たに設定したり・駄小説を発表したりと動き始めていた。第一次安倍内閣が打ち出す「軍国路線」と「美しい国」に危機感を覚えた者どもが、出来ることをしようと秋に『関大校友連絡会』を結成する。

**さんとはそこでの諸取組でしばしば会うようになるのだが、実は**さんとはその数年前からお互い意外だろうところで何度か会っている。女房と「誰にも会わんやろな~」と出かけた各種講演会・上映会・絵画展・市民派(?)の催しなどだ。なにやら一種の恥かしさを押し殺すような表情で、互いに照れて「やあ」「おう」と言葉少なに過ごしたと思う。

最後は、2012年9月の趙博さん作の芝居、新宿梁山泊公演『百年 風の仲間たち』伊丹アイホールだった。いつも、長く会話を交わしはしない様に業を煮やした女房の勧めで、ホール横の喫茶ルームで「お茶」した。ご家族のことなどを含め、たぶん初めて色々聞かせてもらった。

「小企業の経営者という制約と、学生期から持続する信条、その交点を探すような人生だが、最近、貴君と出会うような場所に自分の考えていることの答えを求めて来てるのかなぁ~」と語られ、「労組が基になっているとはいえ、零細企業の社長もして来たぼく、そこはよ~く解かりまっせ」と返した。

その日の会話をきっかけに、高校の家庭科の教員をしているお嬢さんと、某生協に関わっている女房が、お会いすることになったのだったと思う。「食育」を巡って盛上り、いつか何かに一緒に取り組めたらいいのにね…と話し合ったと聞いている。

 

**氏が考え求めたイメージと思考が、これからカタチに結ばれるはずだったと思う。

そのプランを抱えたまま逝った無念と、寡黙にしてシャイな人柄が関大校友連絡会のひとりびとりの胸にいつまでも宿っているに違いないと思うのだ。 2015年3月31日、合掌。

 

余談ですが、数十年に亘り右翼暴力支配に連戦連敗(実際、エグイ裏話や精神的後遺で大学を去った学生も多数いた)だった左派学生が下の写真の攻防では、某大学史上初めて物理的にも勝ったのです。左派を暴力学生と非難する教授陣の中に、数少ないが我ら左派を支持なさった複数の教官が居たことを特筆したい。その後冷や飯を喰いながら「学」の孤塁を守られた。実に敬愛の念を禁じ得ない。今日「学」が瀕死の状況だ。「学」する者の矜持を発揮してもらいたい。断言する、「知性」は揺るがない。「反知性主義」、糞喰らえ!

右翼との攻防
  • と、まぁ暴力支配に対する已むに已まれぬ防衛的実力行使が、やがて制御できない事態を呼び、ある「荒廃」へと至ったこともワシらは痛切に認めなければならないし、糾されなければならない。欠けていたのは言葉の本源的意味における「自治」なのだ。「自治」・・・、「自」らを「治」める。 
    叛乱と自治。

Leave a Reply

Search