映画談義: 活劇・美談と [技術力への昭和の努力]賞賛で戦争を語るのか?

『永遠のゼロ』に対して、「こんな戦争なら悪かない」という類の感想が出回っている。何故こうなるだろう?                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            ぼくが危惧していた通りで「ん~ん?」だ。過日、うまく言えないまどろっこしさを発信した。作者や作品に、その因がありはしないか? と。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      若い人(40代後半、誠実で公平な人です)から『そこまで著者が責任を取らねばならんというのはちと酷では・・・』との遠慮がちな気を遣った感想をもらった。確かにそうかもしれない。日本国憲法と同じ年齢のぼくには、そうじゃないと言いたいDNAが沁みついている。

昔、アメリカ西部劇(60年代までかな)では「インデアン」は、平気で文明人(白人)の婦女子を殺戮する邪悪で野蛮な悪役として描かれ、西部男の「正義」と勇猛果敢な行動を側面から証明する役割を担って配置されていた。                                                                                                                                                                                      1970年の二つの映画                                                                                                                                     『ソルジャー・ブルー』 http://www.youtube.com/watch?v=DV0aphU3l28 (監督:あの『野のユリ』のラルフ・ネルソン、主演:キャンディス・バーゲン)と、                                                                                                                                                            『小さな巨人』 http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=14379 (監督:あの『俺たちに明日はない』のアーサー・ペン、主演:ダスティン・ホフマン、フェイ・ダナウェイ )の登場によって、                                                                                                                                                                    ようやくハリウッドは、略奪を開拓と言い換える詐術や一方的見解(西欧中心史観)だけから、ネイティブ・アメリカンを描くことの不当に気付き以降緩やかに変化して行った。                                                                                                                              それには、裏面でヴェトナム戦争体験が大きく作用してのことだと言われている。ソンミ村の虐殺と言うのがあって、それが氷山の一角であることが、ヴェトナム帰還兵などから証言されていた。ハリウッド映画が変わることにすら、世界は膨大な惨禍・歴史的事実を差し出さなければならなかったとも言えるだろう。sblue[1]

一方、20世紀の戦争を扱うハリウッド映画には、ぼくらも血沸き肉踊らせた『ナバロンの要塞』などに見られるように、主人公やその同伴者の行動の美談を成立させる為の「お約束」が必要だった。個々の人物の美談にケチ付けする気はないし、彼らの人柄や考え方に時に共感を持ちもした。が、戦争への総論が無いのだ。そこへ足を踏み入れたら、狙いの戦争「活劇」が台無しだ。だから、「お約束」(水戸黄門の「印籠」のような威力の)によって、戦争に於けるアメリカの国威を称えその正義だけは主張しなければならない。戦争を考えることより、戦争「活劇」を楽しんでもらうべきなのだと考えて来たのだと思う。                                                                                                                                             楽しむ? 活劇? やめてくれ!コトは戦争だぜ。                                                                                                                                                  「お約束」、それはナチスだ。絶対悪ナチスという構図の中で、戦争事態への懐疑を封印し、今画面で展開されている行動も、映画途中で起こった非人間的な悲惨も、すべてナチスと言う巨悪に原因があるのだという訳だ。反ナチ行動は全て善しと言う訳なのだ。そうやって、アメリカの正義の戦争と軍を賛美する映画が量産されて来た。                                                                                                                                                                                                                                                                         これも、ヴェトナム戦争~アフガン戦争・イラク戦争への多様な見解が市民権を得、かつてのような「お約束」を動員して戦争を描くことに、いかがわしい思惑が透けて見えると作家たちは気付き、これまたゆっくりと変化した。                                                                                                                                   (昨今、再びアメリカの戦争をひたすら肯定する、CG満載、ヴァーチャル戦場の好戦映画も多い。                                                                                                                                                                          そこではナチスに代わって「テロ」支援国家や「大量破壊兵器」保有国家などが「お約束」役を果たしている)

さて、盆暮の日本の戦争映画はどうだろうか?                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               ここにも「お約束」があって、一つは「悪いのは一部の軍上層部だ」、二つは「天皇は平和を願い、模索していたのだ」というお題目だ。ここに触らない範囲で「反戦」と「平和希求」を語っておれば、それでよしとする風潮だ。その意味では、『ゼロ』は、東宝の作品:1970年『激動の昭和史・軍閥』、東映の作品:1985年『プライド・運命』などと同じ系譜に入る作品だと思う。                                                                                                                                     ジブリの『風立ちぬ』ですら、宮崎さんが補足発言(?)でようやく「観る」ことが出来るが、いささか苦しい。大先輩に失礼だが、宮崎さん、「ゼロ戦大好き、戦争大嫌い」に立ってしまふ己の自己解放に歩を進めるしかないのではないですか。菜穂子さんという人物キャラの中に、その矛盾一切を封印した宮崎さんの苦渋も読み取れるのだが・・・。

近年の戦争を扱った映画で、ぼくを底から揺さぶったのは、                                                                        『さよなら子供たち』1988年仏映画。監督:ルイ・マル。http://movie.walkerplus.com/mv11862/ )                                                                                                                 『やがて来たる者へ』(2009年伊映画。監督:ジョルジョ・ディリッティ。http://eiga.com/movie/55431/ ) だろうか・・・。img_543431_67082679_0[1]                                                                                                                                                                                                                          そもそも、戦闘機・空軍をメインにすればどうしても空の上、ヤバイよ。活劇・美談・超人・昭和技術力賛美などを散りばめては、よほどの明確な反戦・反軍・反強権の貫かれていない限り、結果として戦争賛美に与することになってしまふ。それは、やはり著者の責任の範囲だとぼくは思う。

戦争は、地べたで、泥土の上で、沼地の果てで、戦友の血を浴びて・・・、猛火の下で、爆風に逃げ惑う市井の民の群れの中で、疲労・空腹・栄養失調の中で、排外主義満開の世情に在って、親しかった移民の友の収容所送りを黙して見送るしかなかった痛切の中で、女性・児童への制度としての蹂躙を見せつけられる世で、推進されたのだ。

戦争を活劇とすることこそ死者への冒涜だ。戦争は「悪かない」ものなど無い事態なのだと、子や孫に伝えたい。

余談                                                                                                                                                                                               自伝的作品『さよなら子供たち』の監督:故ルイ・マルの奥さんは、『ソルジャー・ブルー』の女優:キャンディス・バーゲンです(1981~95死別)。                                                                                                                                                                                           それがどうした?ですが、映画ファンのぼくには「なるほど」なんです。                                                                                                                                                                   2013年8月15日(68回目の敗戦の日に)

 

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