映画談義: 『永遠のゼロ』と映画『風立ちぬ』を巡って ―ゼロという地雷―

猛暑の中、宮崎駿の新作『風立ちぬ』を観てきた。平日しかも都心ではない街にもかかわらず、映画館はそこそこの入りだった。                                                                                                                  宮崎・ジブリの作品は『風の谷のナウシカ』『紅の豚』など大好きだし、そのメイントーンに違和感は持って来なかった。最近、「改憲策動」や「従軍慰安婦問題」への宮崎氏の言動に触れ「フムフム」と強く同意したところでもある。永遠のゼロと風立ちぬ

『憲法を変えることについては、反対に決まっています。選挙をやれば得票率も投票率も低い、そういう政府がどさくさに紛れて、思いつきのような方法で憲法を変えようなんて、もってのほかです。本当にそう思います。法的には96条の条項を変えて、その後にどうこうするというのでも成り立つのかもしれないけれど、それは詐欺です。やってはいけないことです。国の将来を決定していくことですから、できるだけ多数の人間たちの意見を反映したものにしなきゃいけない。多数であれば正しいなんてことは全然思っていないけれど、変えるためにはちゃんとした論議をしなければいけない。( http://blogos.com/article/67026/ スタジオ・ジブリ小冊子「熱風」7月号)

『韓国・聯合ニュースによると、宮崎駿監督は26日、東京で韓国人記者の取材を受け、「日本は早く従軍慰安婦問題に対処し中韓に謝罪するべきだ」と発言した。宮崎監督は二次大戦当時の日本政府は自国民すらも大事にしておらず、当然他国の人も大事にできなかったと発言した。』                                                                                            ( http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130727-00000011-rcdc-cn 7月27日)

これらの発言により宮崎は、アニメオタクであり、ジブリファンでもあったかもしれない(そんなことないか)「ネトウヨ」からの、下品で・無反省で・不勉強な総攻撃に晒されている。連日書き込まれるコメントと「ベストアンサー」なる「悪宣伝」は目を覆いたくなる惨状だ。

映画を見に行ったもう一つの興味は、同じく「ゼロ戦」を扱った百田尚樹の小説『永遠のゼロ』の映画化(年末公開)以降拡大する賞賛の嵐との対比だ。百田の真意がどの辺りに在るのかについてはぼくなりの感想があるが、各界各層の賛辞は「昭和の技術努力への無条件賛美」「昭和の戦争肯定」という時流に乗った「総右傾化」下のものであるとの疑いを禁じ得ない。( http://www.yasumaroh.com/?p=12781 )                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   同じ「ゼロ戦」(映画の主人公:堀越二郎の「九試単戦」こそ、「ゼロ戦」の原型だとされている)をめぐる二つの作品から何を読み取るか、どこに作者の志を観るかは、読者・観客の側に任せられている、ということにしておこう。

ところで、「ゼロ」を扱うことに潜む危うさを「地雷性」と言ったのは、「ネトウヨ」からの浅はかな賞賛や逆に攻撃を呼び起こす可能性のことだけではない。「ゼロ戦」に象徴される、戦前日本の「欧米何するものぞの気概に支えられた技術力アップ」と「カタチに見える成果」への努力と自負が、軍事とないまぜになって進むしかなかった事実を、世界史・アジア史・日本史の中で、世界地図の中で、俯瞰して観ることの困難のことだ。身に沁みついた無垢な「心情」が、軍国日本という全体の中での営みに組み込まれ、自身もその全体からは免れ得ず、グルリと回って自身に帰って来る「迷路」のことだ。その迷路に足を踏み入れたら、自身の本来の無垢な「心情」さえ引き裂かれそうな危機状況を「地雷」と言ったのだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            採掘や土木工事・鉄道敷設などに大いに役立つ「ダイナマイト」を、それが軍事・爆薬と共に進化したことをあげつらい、否定する者などいないだろう。(ノーベル賞は、ダイナマイト作者ノーベル(遺族や財団)の贖罪行為だとも言われている。                                                                                                                                                                                   エコ発電の機材を運ぶトラックが通るトンネルは、かつてダイナマイトで開けられたものだ。古来、人類の主要な発明は、火薬・羅針盤・石油エンジン・航空機・ロケット・通信技術・カメラ・気象学・レーダー等々、軍事と無縁に進んだものなど珍しい。だから、堀越二郎氏の努力、鯖の骨の美しく理にかなったカーブに魅了される感性を、切り捨てるような原理主義というか教条的な言い分には同意出来ない。                                                                                                                                                                                                                                                                             私事だが、ぼくの身近には1960年代に、欧米の工業製品を日本に売る外資系企業に就職し、「そうではなく日本の工業製品を、国内と海外に売る業務に就きたい」という戦中生まれらしいDNAに苦しみ(?)、願う有名企業へ転身し、努力してそれなりの「出世」をし、先年定年退職した者が居る。その経緯に違和感はない。この日本の勤労者に広く備わっていよう精神を、「反欧米愛国」や「ナショナリズム」の変形だとは全く思わない。                                                                                                                                                                                                   ぼく自身には、「欧米スタンダード」世界への抜きがたい不信が巣食っていて、「ネトウヨ」のアジア蔑視には眉を顰めながら、反欧米言辞には幼い反応をしてしまうことがある。                                                                                                                                                                                              問題は、そうした「軍事とは無縁に在りたい努力」「自前の製品を…」「独自の技術文化を」という感性や努力が、国家・軍事・為政者に掠め取られて来たという構造だ。そしてまた、その努力の結果に対する立ち位置だ。                                                              堀越氏の戦後の経歴に、新三菱重工参与・東大宇宙航空研究所などを経て防衛大教授とあるが、そのスタンスが今日の「改憲勢力」のような「集団的自衛権行使」「敵基地攻撃可能へ」などという「行け行けドンドン」ではなかったと信じたい。

押井守(『うる星やつら』など)はこう言っている。                                                                                            「少年や豚や(中年男)を主役として描き続けてきた監督が、青年を主人公に据えるということは、これは実は大変な決断を要することであって」 「豚や少年と違って、{人間の青年}には逃げ道がありません。宮さん、大丈夫かしら――と他人事ながら心配しつつ幕が開きました」                                                                                                                                                                                                その通りで、映画『風立ちぬ』の主人公:堀越二郎は生身の人物としては、いささか存在感希薄な透明性ある人物だが、病身の妻:菜穂子はもっと生身心を見せない存在だ。「生きねば」というキャッチ・コピーも『もののけ姫』の「生きろ!」からの発展型(?)なのかも知らないが、宙に浮いてしまっている、とは言い過ぎか?

映画公開前後の宮崎氏の発言は、作品のメイントーンが「戦前日本の技術開発努力一般」の中へ吸い込まれてしまうことを危惧したのか、ぼくが言う「地雷性」の整理か、その補足として在ったのだというのは邪推だろうとは思う。思うが、二郎と菜穂子が身を寄せた上司黒川宅で、その妻(声が大竹しのぶというだけで説得力があった)が言うセリフ「菜穂子さんは美しいところだけを見せて去りたいのでしょ」を引いて、「ぼくらは宮崎さんからゼロ戦生産過程での美しい努力だけを見せられたのだ」という某ブログにはやや頷きもした。観客は「風立ちぬ、いざ生きめやも」と想えたろうか? 決して「美しいものだけを」観客に見せたいのではない、と言いたい宮崎・ジブリが、もし作品の外で補足発言しているのだとしたら、今回の作品は「?」かもしれない。まぁ、それほど危ういテーマなのだ。「飛行機大好き、戦争大嫌い」(宮崎)に付着する「地雷」、そこからの脱出を、補足発言も作品内政治的大声も無く描くことは苦く困難なことだろう。まして、『ゼロ戦大好き、戦争大嫌い』では苦し過ぎる。                                                                                                                                                                                                ゼロ戦はやはり殺戮の道具だし、性能(機動性、燃費、速度など)が優れていたのは、軽く、材質・燃料重量などを軽くしたから、つまり人命(兵士の)軽視が性能アップに寄与したからだと聞いた。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           もちろん作品は、取り敢えず作者も観客も「地雷」の地に立っているのだよ、と語る「誠実」を示したと思う。そこに、『永遠の0』と『風立ちぬ』の間の大きな違いがある、とだけは言っておきたい。

今日のグローバル経済システム下の、実質先行改憲社会での、ぼくらの抵抗線の困難は、当時の勤労者や技術者の、労働や研究や生活が国家意志・軍事と切れては成り立ち得なかった困難な状況よりは、何らかの可能性の中に在ると信じたい。                                                                                                                                             だが、地雷は各所に敷設されたままなのだ。                                                                                                                                        橋下発言を容認する世論、麻生発言を恥じない面々、集団的自衛権(他国の戦争への参加)行使へ向けた準備(内閣法制局長官に、異例の外務省出身の「集団的自衛権行使」容認派を抜擢)、解雇自由、勤労者の団結権否認、米ブロックの核戦略と独自の核構想を棄てられないからこそ手放さない「原発推進」……。                                                                                                       では、改憲先取り状況下に「地雷」を超えて抗う回路は有りや無しや・・・。ぼくらが問われている。

【追記】                                                                                                                               「ゼロ」絶賛が続くネット上に、危惧していた内容の若者からの投稿記事を見た。曰く『こんな戦争なら、悪かない』                                                                                                                                                                           感想は本来読者の責任だろう、それはそうだ。だが、この作品のトーンと世情が、若者にそう言わせたのではないと誰が言えよう?

 

 

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