誇大史:   ①倭人のアイデンティティに学ぶ

尖閣・竹島、東アジアの海洋・・・・・・                                                                                                                            「魏志倭人伝」等に登場する倭人の 「海峡を跨ぐアイデンティティ」に学ぶ。

これを語ると、たいていの人は「現代に古代史を持ち込まないでくれるか!」とか、「悪名高い日韓同祖論か?」と返して来るのだ。                                                                                            これ、とは「魏志倭人伝」にも描かれた「邪馬壱国」を含む領域「倭」のことである。                                                                                                                  同祖論?朝鮮族にあらず、後代の「日本国」に非ず、すなわち「日朝」いずれでもなく、かつ海峡両岸(半島の最南部と、列島九州島の北部)にも居住した倭人、それは海の民だった。 では、倭人とは誰のことか?

朝鮮史によれば、現在の遼東半島青島(チンタオ)辺りを始祖の地として、朝鮮民族は形成された。これを古朝鮮(コチョソン)という。古朝鮮が南下して行き朝鮮族の地を拡大して行ったという。南下拡大という限り、半島の南の方には古朝鮮ではない種族が居たか、無人の地であったかなのだが、南には5000年前とされる古朝鮮の誕生より遥かに古い「人類生存」の痕跡たる遺物が当然大量に発掘されてもいるので、古朝鮮が古朝鮮ではない人々が居た南に進出して行ったということになる。一世紀には、半島に、朝鮮族の古代準国家(馬韓・辰韓・弁韓)が形成されて行く。                                                                                                         やがて四世紀~七世紀にかけては「三国時代」と呼ばれる古代国家、高句麗(コグリョ)・新羅(シルラ)・百済(ペクチェ)の時代となる。新羅が統一(676)するまで大国中国の半島支配策も絡み抗争は続いた。

一方、中国の史書に拠れば、朝鮮半島のさらに先に朝鮮族ではない倭人が居り、その倭人の本拠地は三世紀の魏志倭人伝まで判然としていないが、中国歴代王朝の史書には古くから倭人が登場している。古いものから順に挙げると、                                                                                                                 『論衡』 *周:BC1046~BC256                                                                                                    「周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず」                                                                                                   (周代は列島の弥生時代前期に当る。暢草は酒に浸す薬草。倭人がそれを献上して来ていたと言うのだ)

『漢書地理志』 *前漢:BC:206~BC8                                                                                                        「夫れ、楽浪海中、倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時をもって来たり献見すと云ふ」                                                                                                                                             (楽浪郡は、前漢の武帝がBC108年に衛氏朝鮮に設置した四郡の一つ。郡都は現在のピョンヤン付近。その眼前の海を越えた処に倭人は居るという訳である)

『後漢書東夷傳』 *後漢:AD25~220                                                                   「建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。」                                                                                              「安帝、永初二年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う」 *生口=奴隷                                                                                                                               (大夫が居る倭奴国は「倭」の南の果てに在ると言っている。江戸時代に博多湾:志賀島で発掘された「漢委奴國王」の金印を受けたのは、倭人が九州島北部に{天孫降臨}して構えた本拠地の主であり、金印の読みは教科書が教えるところの「漢の倭の奴の國王」ではなく、従って「奴国」という「倭国」の一分国の王ではなく{本社が支社を通り越して一営業所所長に支社章を授けるがごとき、冊封制度の先の分国に金印を授ける事例無し。}{漢が冊封制度下の国に対して「漢の****」と三段表記した例は無い}「漢の倭奴(イド)国王」であり、その地は中国が認識する「倭」域の正に極南界だと言っているのだ。)                                                                                                                                                                 また、「倭国」「倭奴国」については、後代の史書にこう記述して混乱防止策も講じている。                                                                                                                                  【 『随書』:「安帝の時(106~125)、又遣使が朝貢、これを倭奴国という」 『旧唐書』:「倭国とは、古の倭奴国なり」 】                                                                                                                                                                                                         (たそがれ自由塾説:倭の固有名詞は「イ(ae)」「ヱ」「井」であり、「奴」は「匈奴」などにも見られる卑字蔑称。ちなみに、属国への蔑称は、例えば「匈奴」は=「凶悪な野蛮人」、「鮮卑」=「鮮やかなまでに卑しい」、「女真」=「女しかいない(男尊女卑観に基づいて)」などがある。「倭奴国」の固有名詞の部分は「倭」であり、それは発音ともども引き継がれて行く。「邪馬(これまた蔑称)壱国」なら「壱(一)」、「日本」の「日」、いずれも「倭」の音を継いでいる。今日、中国語「イーベン」、韓国語「イルボン」)

『魏志倭人伝』 *正しくは『三国志:魏書巻三〇「烏丸鮮卑東夷傳、倭人の条」』 *魏:220~265                                                                                                                                   「倭人は帯方郡東南の大海の中に在り、山島に依り国邑を為す。もと百余国。漢の時、朝見する者有り、今、使役通ずる所、三十国。」と始まる。                                                                                                                                 (以下、方角・位置関係、距離、行程が述べられ、経済生活や日常習俗《黥面文身=魔除けの刺青、海女漁法など》の観察記述があり、最後に外交や政治が論じられている。それは夫余高句麗東沃沮挹婁馬韓辰韓弁辰・倭人の九条からなる東夷傳全体にほぼ共通する手順だそうだ。最後に倭の中枢たる「邪馬壱国」に到るのだが、その所在地は日本古代史の大論争点でもあり九州説・大和説入り乱れての混迷にある。)                                                                                           (239年景初三年、卑弥呼、難升米らを魏に派遣。親魏倭王の印・銅鏡100枚など拝受。240年、魏の使者、倭国を訪問。卑弥呼が受けた鏡とされた三角縁神獣鏡は、すでに500枚出るという奇怪。存在せぬ年号=景初四年の刻印のものさえある。???倭国内製だろう・・・) 

言えることは、古代中国が史書に記述した「倭」理解は、一貫して同じものを指しておりそれは動いてはいない。魏志以降の史書でもそれは変わらない。途中で、違うものを指すなら但し書きが要る。ノン注、すなわち但し書き無しならば、「読者諸君が御承知の、あの楽浪海中の、あの極南界の、あの帯方郡東南の大海の中の、あの「倭」が・・・」、と表しているのだ。                                                                                                               例えば、有名な「倭の五王(讃珍斎興武)」の倭王武の上表文が登場する「宋書」だけが、違う「倭」を言っているなどということはない。そこで言う「倭」が近畿大和天皇家なら、遡って「漢書地理志」に言う「楽浪海中」も、「後漢書東夷傳」に言う「極南界」も、「近畿大和」でなければならない。正史とはそういうものだ。但し書きなき継続した呼称の指し示すものは一貫して同じでなければ読み下らない。

【参照】                                                                                                              *「倭の五王」を巡って、『宋書倭国伝』  * 「遣隋使の謎」「日出づる処の天子」を巡って、『隋書俀国伝』                                                            http://www.yasumaroh.com/?p=7619 http://www.yasumaroh.com/?p=7646 http://www.yasumaroh.com/?p=7655                                                                                             さて、「邪馬壱国」の謎解きについては、「朝まで生誇大史」をしたいところだが、                                                                                                   ここでは通称『魏志倭人伝』に登場する、「倭」の場所を示す重要かつ目からウロコの二つの文言を示しておきたい。                                                                                                                        一つは、「倭人の条」の前条は「韓の条」(馬韓・辰韓・弁辰)なのだが、その冒頭にある文だ。                                                                                                                                『は帯方の南にあり、東西は海を以って限りとなし、南は倭と接し、方四千里ばかり。』                                                                                  「接し」・・・、つまり韓と倭は、接している・地続きだ、と言っている。東夷伝には海を隔てている場合の表現は「渡る」などと何度も出て来るので、「接し」は地続き状態を言っていることがよく解かる。                                                                                                  「倭」地は、韓と接していたのだ。これが、一つ目。                                                                   二つは、倭人の条の冒頭導入部の「・・今、使役通ずる所、三十国。」に続いて登場する、帯方郡から倭に向かう行程を述べる文の最初の行だ。                                                                                                                                                                『郡より倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、韓国を歴(ふ)るに、乍(たちま)ち南し、乍(たちま)ち東し、其の北岸、狗邪韓国に到る、七千里。』                                                                                                                                               上記「其の」は、倭に至るには、を受けての文脈から「倭の」としか読めないのだが、さすれば「倭の北岸、狗邪韓国」という地平が立ち現れるのだ。倭の一部分たる地「狗邪韓国」に到る・・・、そこは倭の北岸に当るのだ、しかる後に「始めて一海を度(わた)る」と(通称)魏志倭人伝は云っているのである。

最早疑う余地は無い。倭とは、黥面文身・没水捕魚の海洋の民=倭人が棲息する領域であり、海峡の両岸を縦横に行き来し、                                                                                                         「北岸:狗邪韓国」=伽耶の洛東江流域と「南岸:九州島北部」を陸のダブル本拠としていた海洋種族だ。                                                               半島内情勢に締め出されてか、ある時(紀元前後か?)「南岸:九州島北部」を本拠と定め大移動(古事記に言う{天孫降臨})、                                                                                                                                                   やがて三世紀の「邪馬壱国」から宋や隋と外交・交易する「倭国」となって行く。                                                                                        半島内「倭」は早期に消滅、朝鮮半島は高句麗・新羅・百済の永い時間の抗争・割拠を経て、唐による冊封下、百済「白村江の戦」敗北、再度の滅亡、新羅による統一(676)へ至る。                                                                                                                                                                                           九州島「倭」は、七世紀東アジア大戦争=唐・新羅連合VS百済・倭連合の「白村江の戦」(663)大敗北をきっかけに滅亡。                                                                                                                                                   近畿大和王権は「壬申の乱」(672)を経て「親唐王権」=大海人皇子(天武朝)から701年「日本国」へと進む。                                                                                                                                                   その王権は故あって「倭」の歴史・伝承・文物・古の大移動(「古事記」にいう天孫降臨)・古代国内平定譚・外交史・戦史など、そっくり頂戴した。                                                                                                                                                           人々の記憶・各地に残る伝承・外国の史書などとの整合性の「つくろい」に腐心し、年月を費やした(諸説あるが、681年天武による編纂事業開始勅命、720年・養老四年・舎人親王らの撰により完成とされる。何と39年を要したことになる)事業である正史「日本書紀」は精度高く、「倭」「倭国」の実像を隠し遂し、近畿大和王権像を確立した、 かに見えた。 が、実は次々と綻び始めているのだ。

例えば、『隋書』にある600年の「倭」からの遣使事績の記事が何故か日本書紀には無い、日本書紀が小野妹子らを派遣したと言う607年の遣使記事はというと、有名な国書について記載されていない。                                                                                                     しかも派遣先を「唐」618年からは唐なのだ)と記載してある。日本書紀:推古紀:推古15年(607)『七月、大礼小野妹子を大唐に遣わす。』                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 『隋書』に拠れば、その国書の文言『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや』(何故か学校ではここまでしか教えられないが)の後にはこうあるのだ。阿蘇山有り。其の石、故なくして火起こり、天に接する者、俗以て異と為し、因って祷祭を行なう。』・・・・・・。                                                                        この王者の統治域がどこであるかは明らかだろう。                                                                                                              そもそも「日出づる処の天子」は実在が疑わしいとされる聖徳太子(らしい)と教えているが、彼は推古天皇の摂政であって天子(王)ではない。                                                                                                                                                                          国書において地位を僭称するか! 無理に無理を重ねる正史解説なのだ。                                                                                                                   常套句「中国使節が嘘を付いた」「南と東を取り違えた」「編者のケアレスミスだ」「誤字・誤記」「斯く斯くの事情で伏せた」・・・・・・、                                                                                                                                      原子力ムラならぬアカデミズム世界の古代史ムラが、とにもかくにも「近畿大和王権史観、記紀中心史観」に合うように自由自在・なんでもありの説明を繰り返して築き挙げたムラは強大だ。ムラに「真史」を語る若き学究の徒が現れるのは何時のことか? 永久に無理かもしれない。                                                                                                                            『たそがれ自由塾』を閉められない所以だ。

元始、境界とは無縁の 輝く海があった。                                                                                                                                         そこは海峡を跨ぐ海の民:倭人の棲むところであった。

次回予告:尖閣・竹島を考える ②                                                                                                                                                  明治・平成 二人の国民作家(漱石・春樹)に見る「朝・中」への眼差し

Leave a Reply

Search