たそがれ映画談義: 『桐島、部活やめるってよ』

 http://www.youtube.com/watch?v=KjjG0WTQ6C4                                                                                                                     

YouTubeへの投稿より一篇転載:                                                                                             痛いです。ものすごく痛々しい。                                                                                                                           最初は「あ~こういう奴いたな」「自分はこっちグループだったな­」なんてにやにやしてました。                                                                                   しかし途中から、キツくて直視したくない逃げ出したいような感覚­になりました。                                                                                あの頃はよかった…なんて美化しがちですが、高校時代って本当は­痛ましくてかっこ悪いことの連続だった気がします。少なくとも自­分自身は。                                                                                               この痛々しさが、切ないくらいに美しく感じられました。すごい映画です。  (20代の若者からだろうか?)*****************************************************************************************************************************************

『桐島、部活やめるってよ』(12年、現在公開中) http://eiga.com/movie/57626/  監督:吉田大八、 聞いた名だと思ったら、                                                                                                                         『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(07年。佐藤江梨子、永作博美)  http://www.phantom-film.jp/library/site/funuke/                                                                      『クヒオ大佐』(09年。堺雅人、松雪泰子、満島ひかり) http://www.youtube.com/watch?v=6NCvrZpazWE                                                                                                                   『パーマネント野ばら』(10年。菅野美穂、池脇千鶴、小池栄子)  http://www.youtube.com/watch?v=GEN8BKixi74 (http://www.yasumaroh.com/?p=6286)と                                                                                                                その全作品を観ていて、しかも結構お気に入りの作品たちだったのだ。今回、四作目を拝見。

素晴らしい映画でした。バレーボール部のエース:桐島が部活をやめるらしい。桐島は所在不明。                                           たぶん作者の分身だろう帰宅部の菊池と映画部の前田を始め、中学時代大学生と付き合っていたと噂される桐島の彼女梨紗、ちょっと大人でクールで冷静という名の処世術を手放さないカスミ、桐島の代役を押し付けられた技量不足の風助に感情移入するバトミントン部の実果(個人的には女子の中で一番気になりましたが、ラスト近くバレーボール部の練習時に風助へのシンパシーを口にする。あれはいけません、黙っていなさい)、帰宅部菊池への不器用な片恋に悩む吹奏楽部部長の亜矢・・・・・・ 不在の桐島(最後まで桐島は登場させない)への距離、今居ないことへの感慨、事態からそれぞれが「自身の部活・非部活・高校生活」を問い始める。二年生。彼らの中を順に視点を移動させながら事態を立体的に描く手法も、実に上手く行っていた。                                                                                                                                                                                             ぼくの高校時代とは違う生徒達の表現の「直截性」や「可視性」に違和を感じながら、時代を経て変わらない彼らの「俗情」「邪心」「シャイ」「秘めた真剣」「ついそうしてしまう茶化し」などなどに安堵したりで、現代高校生の生態と状況を見事に切り取っていると、知りもせず思うのだった。                                                                                      現在(いま)を切り取っているとして、しかし、ここに登場する準エリート(地方の二流以内の公立進学校生)ではない、いわば四流五流校とされる高校・落ちコボレ・引きこもり・逆にアウトローとして街に出る・・・などの貧困(経済的、状況的、精神的に)高校生を描く映画を撮らねばならない義務を、監督:吉田大八は負ってしまった、と思う。そうしてこそ、両側から時代に迫れるのだろう。                                                                         作者は『桐島・・・』に教師や親を登場させないのだが(そこがまた素晴らしい)、そしてまた政治や社会への回路もあえて描きはしない。説教調で浅はかな取って付けた社会性ほど不快なものはない。生徒たちは、狭いムラで「自分たちだけ」の「自己責任(?)」において事態に対処し解決してゆくのだとでも言うように、幼い「大人」なのだ。その「大人」観察眼の自制的な目線は、あるリアルを捕らえる吉田流の作法でもあるようだ。 その先に当然現在(いま)が在り、社会が在る。                                                                                                                                                                                                                                          吉田大八はここで描いたリアルをバネに、前述した底辺(?)校やドロップアウト生の掴み難いリアル、それをたぶん違う方法で掴み描くだろうと思う。だから吉田大八には、自身の地域活動を「世田谷方式」などと高く自己評価(大塚英志から「ファシズムを下支えするモノへの転化」の可能性を皮肉っぽく指摘されてはいるが)して悦に入る(?)宮台真司に感じたような、ハイソエリート主義(?。失礼)への遠疎感は抱きはしなかった。                                                                                                                                                                                                                                                                     続編、期待したい。                                                                                       

それにしても、優れた作品(だとぼくが思っている)を含めて、強圧にも誘導にも譲ることのない固有性と 出来事の背景を抉り出す鋭い社会性と 人々を仮当事者へと叩き込まずにはおかない迫真性と 現在(いま)を射抜く全体性を湛えた「堂々たる」日本映画に久しく出会えていないような気がする。                                                                                                                                                         例えば、ヴィスコンティの『山猫』、ベルトルッチ 『1900年』、内田吐夢『飢餓海峡』、小栗康平『泥の河』なんてね・・・。                                                                                                       何が、微細化し「私」化し俗欲化しているのか? そこは、「美しい」ものたちがいくらでも浸透できる液状化した砂地だというのに。                                                                                                                                                                                                                              

 

                                                                                                                                                                                                                                                                        、

 

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