読書: 『「一九〇五年」の彼ら』   -①日露戦から100年強

『「一九〇五年」の彼ら -「現代」の発端を生きた十二人の文学者- 』 (関川夏央著、NHK出版、¥780)

読書とほぼ無縁の学生期を過ごした身ゆえ、その後の労働や生活、社会的闘いや個人的表現願望・・・などで否応なく出遭わざるを得ない、先達のあれこれの考え(思想)や書物が、一般の人にとっては遠い学生時代に読み込んだものだったりする。こっちは後追いで斜め読みなどして半端なことだ。

そんなぼくでも、漱石・啄木・晶子・光太郎は多少知っていて、明治期文人の格闘の意味を歳を重ねるに従って考えるようになっていた。                                                                          格闘=西欧を追いつつその模倣ではない独自のものを求めた精神の彷徨、日本独自(それ以上に己独自の)の立脚地点を求めながらも、国際的には「脱亜入欧」ではなく、内的な拠り所は大和魂・武士道・国家神道・天皇・軍国でもない「別のもの」を探しあぐねた格闘。その格闘を考えることが今日的に有意義だろうことは、その格闘が西欧対日本という座標軸と、近代的自我対国民国家あるいは「公」対「公僭称体」という座標軸の複合重層の連立方程に在り、明治近代国家完成から100年強を経てなお堂々巡りを繰り返しており、我と我が身がそこに棲む「公」なき我と社会だからに違いない。                                                                                                                   60年代以前の若者が、マルクス・レーニン主義を「公」と見定めそこへ傾斜したのは理のあるところだった。しかし、誤解を恐れながら言うが、それは本メモ末尾でぼくが言う「私」の確保の為の「公」ではなく、公による「私」の統治論でしかなかったのではないか? 冷戦終了・東西ドイツ統一、ますます「公」が見えない中、後年「オウム」教団に医師などのインテリ層が大量に帰依したことも、元々は「公」の希求だったと言われている。人は誠実であればこそ、混迷に在ってオウム的で ある場合がある。                                                                                                                                 

以前、関川夏央著・谷口ジロー画になる劇画『「坊ちゃん」の時代』全五巻を読んで、劇画で明治のダイジェスト摘み食いみたいで反則技っぽくもあったが、なんのなんの、その構成力と説得力・臨場感は見事で魅せられたものだった。そこからいくつかの読書に及んだ。劇画恐るべし、いや昔国語や社会の教師たちはその先への魅力を、この劇画のように伝えるべきだったのに・・・、などと考えたものだ。青年期明治には、人間の青年と同じようにその後100年の全ての要素が、瑞々しく毒々しく背伸びであったり矛盾の「外化」であったりして、いっぱい詰まっている。劇画はそれを見事に描いていた。  http://www.yasumaroh.com/?p=1738                                                                                   最近同著者の『「一九〇五年」の彼ら』を読んだ。1905年、日露戦の戦勝に沸き立つ世論と新聞、この国威発揚の時間に明治は国民国家としてのピークを迎えていた、との明治観・国民国家観・その後の軍国への道筋観・・・、読むべしと直感して購入した。                                                                      青年明治が、壮年へと向かう。アジア・西欧との関係、国内の諸案件、近代国家としての軋みと軍事国家への傾斜、1910年「大逆事件」・韓国併合・・・。内外の社会状況は近代的個人に有無を言わせず迫って来る。                                                                                ここで取上げられた十二人は、それぞれ自己アイデンティティをどう確立したか。                                                                           関川は、十二人を「現代」の発端を生きた人々として、1905年という国民国家のピークから現代へと連続する社会の中の個人という文脈と、この100年と今以降の先を貫いて在るはずの「国民国家と近代的自我との相克」という文脈から、「公」へのヒントを探ろうとしている。                                                                                                ぼくにとっては初耳エピソード(平塚らいてふ・森田草平の事件と、漱石・三四郎・里見美禰子)なども多数あり、十二人の模索はスリリングである。                                                                                   関川による十二人の取上げ方の紹介は、それこそ孫孫引きなのでここでは遠慮するが、ぼくの場合何人かについて「ああ、これを読んでみるか」と思わせてもくれた。それぞれの読者にそう思わせてくれるだろう本だ。                                                                                   それにしても、読むべき時期を何も読まずに過ぎ来たったものよなあ。

 

 

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