悪酔い交遊録: 団塊野郎に ヤスマロ君切れる

ヤスマロ君切れる 物理力行使一歩手前

6月11日、東日本大震災・福島原発事故から3ヶ月目のこの日、『6・11 脱原発100万人アクション』が全国で取組まれた。

東京でもいくつかの集会・デモがあり、ヤスマロは新宿中央公園多目的運動広場に馳せ参じ、小熊英二氏(そもそも単一民族説は戦後生まれだ。戦前は植民地を前提に「複数民族が共有する日本」と嘯いていたぞ!との説=『単一民族神話の起源――<日本人>の自画像の系譜』に共鳴)のいささかハイテンションの演説を聞いた。原発推進=米・中・ロ、脱原発=日・独・伊、解かります?第二次大戦戦勝国VS敗戦国なのです・・・と小熊氏。これにはビックリ。                                                                                                その後『九条改憲阻止の会』の新宿一周デモの最後尾に合流。アルタ前に到着とはあいなった。                                                                                         

【「九条改憲阻止の会」ニュースより】                                                                                                              ●菅総理は5月31日開かれた全国知事会議に出席し、停止要請した中部電力浜岡原発以外の原発について「安全性が確認されているもの、今後確認されるものについては、稼働して電力供給にあたってもらうという基本的な態度で臨みたい」と述べ、さらには政府の国家戦略室がまとめた「革新的エネルギー・環境戦略」素案が6月4日判明し、重要戦略の1つに原子力を明記し、「世界最高水準の原子力安全を目指す」などと原発の事実上の推進路線を続けることを明らかにしています。                                                                  総辞職をまぬがれた菅内閣は原子力政策の大幅修整に踏み込む意志がまるで無いことも改めて判明しつつあります。菅直人の不実な態度そのものです。

はてさて、夜も更けた8時過ぎ、若い人の鳴り物(中々見事だった)を聞きながら帰ろうとしたところ、同世代の通行人が若い人に食って掛かっている。                                                                                                                                                     聞くと、発言趣旨は以下のようなことだった。                                                                                                                                                                                                                                        『ここであった「新宿騒乱事件」を知っているか? 俺たちはその実行者だ。闘いは遊びじゃないんだ。おれは、半端でお気楽な闘いごっこが嫌いなんだよ。何だ、あのドンチャンは! 君らは、原発廃止に向け努力してきたのか?電気はふんだんに使い放題、事故があれば突然脱原発を言う。俺は、電気代一ヶ月8千円で生活している。いまそこで騒いでいる者の全部とは言わないが、七割は雰囲気に付和雷同する一種のファッションなのだ!』                                                                                                                                            これが、ヤスマロの何かに触った。                                                                                                                      『おい、オッサン待ったらんかい! 何の実行者やと? 100歩いや万歩譲って、お前が言うようにこの中の七割が付和雷同の輩だとしよう。では一体、お前は、残りの三割の人とどう関係する気や? 新宿騒乱? 今それが有効だとは思わないが、やりたいのなら提起してせんかい! さあ、やらんかい。この傍観者! お前は、そうやって他者の取組に難癖を付けては何もしない自分、何の当事者にもならない・なれない・なりたくない自身を防衛してきたのだ。お前が新宿某事件の実行者なら、どこの誰か言うてみい。ハッキリ白黒着けたろか!? 表へ出ぇ(あっ、ここは表か)』                                                                                                     掴み掛かろうとするヤスマロは若者に抱えられ、オッサンは黙って退散した。(若者が止めてくれるとの計算は、もちろんあったのだが・・・)

40数年かけても腹の虫が治まらない風評がある。死ぬまでに何らかの決着を付けたいという衝動に4~5年に一度襲われる。 こういうことだ。                                                                                            昔、学生期に、何が理由のどういう訳でか、気分の悪いことを言われたことがる。                                                                                         『S君、T君、A君は本気でやっているが、ヤスマロ君はどこかファッション的でおぼっちゃん的だ、と誰々さんが言うてた』                                                                                                     (当時、まだパフォーマンスという言葉は使われていなかったが、それを言いたかったようだ)                                                                                                          『ヤスマロ君は警察の回し者ではないかと某教授が言うてた』                                                                                                         (当時の学生としては高額の収入を確保していたので、やっかみ半分に面白おかしくそう言われたのか?)                                                                                  誰々さん、某教授というのがミソでそんな存在は架空なのだ。言っているのはこの作り話をぼくに伝えた当人だと分かってはいたが、煮え繰り返る腹を隠して聞き流した。                                                                                                                     実際、本気というのが何のことやら分からなかったし、自分の辞書に照らせば「本気」かどうか怪しいものだし、何より話の伝達者がぼくが親しくしていた友の友人だと聞いていたのでその関係を壊しては悪いと思っていた。                                                                                                           人にそう評されてしまう雰囲気がぼくに在るのなら、それは甘んじて聞かねばならない、と感じてもいた。                                                                                       その後、労働現場での労働組合結成、破産争議や労組自主経営、他の場所での様々な関わり事項で掴んだことがある。                                                                                                          ある事柄に関わる関わらない、にはそれぞれ理由と根拠があって、それはその人固有の譲れない理路なのだ。自分はかくかくしかじかの訳でこうする。それでいいのだ。そう選択したという「当事者」たる責任において、そうするのだ。それでいい。 そう在ることの「当事者」性は断じて「在る」のだ! と確信できたぼくの個人史だ。                                                                                                                                     どのような「当事者」にもならない処世を(時には早くに学生期から)掴んでいる御仁は、よく見ていると、よく聞いていると、己といま課題として登場している事柄とのダイレクトな関係=云わば直接性、己とそのこととの関係を語らない・語れない・語りたくない、のだ。                                                                                                                              結果、あいつがどうだ、奴がどうした、等等といった本論とは無関係な事柄をグタグタと述べるのだった。                                                                          まぁ、もういいのだが・・・。 『仲間』からの評ではない以上、聞き捨てるのが思索者の道だ。苦楽を共有した者がこの種の嫌味を言うはずもない。                                                                                                                                    新宿でチョッカイ団塊野郎に、思い出したくも無い学生期の苦い記憶が蘇えって切れたのだった。

ところで、ぼくには言うところの「本気」なんぞ ありません! 放っといてくれ!                                                         「本気」なるものの定義に惑い、自身の「本気」度に疑問符を持ち続ける・・・そういう日々ではあった。誰だってそうだと思うのだが・・・。

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