たそがれ映画談義:  予想外の収穫 『マイ・バック・ページ』

『マイ・バック・ページ』が語る                                                                                                                                                         - 本物と紛い物の境界、根拠なきコムプレクスの無効、当事者ではない位置固有の「当事者」性は築き得る…、そのことに無自覚だった主人公。 にも拘らず在り得た誠実 -

帰阪した際、しばしば「ええ映画ある? 行こうか?」と女房にせがまれては出かける(女房の理解では、ぼくの方が「せがんでいる」らしいが)。                                                                                                                                                                                今回は、原作発売時に深く感じ、TV版も欠かさず観て期待していた『八日目の蝉』を観ようか…となって、複数スクリーンのあるシネマへ出かけた。今回は(も)入場料は女房が出した。                                                                                                                                  早めに着いて書店やショッピングで時間を潰すつもりで出かけたが、天与の上映スケジュールの関係で、先にもう一本観れるなぁ~…となって、『マイ・バック・ページ』も観た。『八日目』については原作とTV版の際、あれこれ述べたこともあり、たまたま観て感じ入ったこの作品の方を取上げたい(一日二本は数十年ぶりか…)。                                                                                                                                                                                   その作品が、70年前後を扱った作品にしばしば見受けられる、「過剰な自己肯定」とその逆の「投げやりの全否定」、「空疎な自負」とその逆の「悪意に満ちた揶揄」、のいずれからも「離陸」しようとする誠実な精神を、言い換えると事態と己を相対化・思想化しようとする困難な坂道での営みを、そこに垣間見ることが出来る作品だったからだ。

『マイ・バック・ペ-ジ』(公開中、原作:川本三郎、監督:山下敦弘、脚本:向井康介。出演:妻夫木聡、松山ケンイチ、山内圭哉、あがた森魚)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   川本三郎の原作は読んでいないのだが、作品の実歴史:「1971年8月、朝霞駐屯地自衛官殺害事件」「主犯:菊井某のいかがわしさ」「彼のいかがわしい供述から全国指名手配され、潜行を余儀なくされた滝田修氏」について、当時誰もが事件に違和感を持って来たので、その点での興味もあった。滝田修氏に関してはぼくの周りにも強烈なシンパが居たので、何故か近いところの出来事のように思えた。                                                                                                                                                                                    当時、東大出にして「朝日ジャーナル」の新進記者だった川本は、菊井某に度々会い、計画を聞き、独占会見をゲットし、事件後彼から実行犯の証拠たる「警衛腕章」を受け取っており、犯人蔵匿・証拠隠滅で逮捕され、朝日を懲戒解雇された。報道者の課題・誠実・限界…。ぼくは、そこを切開する川本の真摯な営みをこの作品に見ることが出来たように感じている。                                                                                                        【事件のあらましは、ネット検索でいくつか引けるので参照されたい。朝霞自衛官殺害事件、菊井良治、川本三郎、滝田修などのキー・ワードを入力のこと】(例: http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/sekieigun.htm など)

                                                                                                                  菊井某の大言壮語・虚言癖・背伸び・ハッタリ・紛い物性は、関係者の証言や事件の概要からほぼ明らかだし、滝田氏関与はこじつけに等しい(後年判決でも謀議は否定された)。                                                                                                                                                 68年・69年が「あること」のピークだとし、71年菊井某は「遅れて来た男」であり、44年生まれで69年には25歳だった川本は「早すぎた男」だとして、そこから来る全共闘「ど真ん中」世代への二通りの「コンプレクス」の奇妙な「親和」関係が、二人を結びつけたのだとの、サブカル学者の言い分は多少当ってもいよう。                                                                                                                                                                                                                                                     けれども、そうした時代の「ど真ん中性」最優先の把握では、当時川本が陥った空回った「誠実」の「落とし穴」からは一歩も出られはしまい。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           そうではなく、人はあらゆる事柄に関して「ど真ん中性」を確保することなど出来はしないという自明に在って、共感の誠実・思想の歴史性・一見傍観者の当事者性とは、その「ど真ん中性」の欠如の中で、どういう回路でいかによく事態に「迫」り得るか?という方法論のことではないのか? 川本が、それを探す真摯な後半生を生きたと信じたい。

この作品は問うている。                                                                                                                                         菊井は客観資料から紛い物だとして、では一体、紛い物ではないとされるあなたや君やぼくが関与したり影響を受けたことどもには、一片の紛い物性もなかったのか? いや、そもそもお前自身が「紛い物」ではないのか?                                                                                                                                                                                                                                         あるいは、当事者ではない者が、そのこと固有の当事者性を獲得する回路は有り得ないのか?                                                                                                                                川本でなくとも、当時の社会情勢、「過激派」情勢、闘う者の実際を識る者ならば、簡単に菊井某の実相を掴めたと思うが、精神的「シンパシー」や「当事者」ではないことへの「後ろめたさ」という甘ちゃんの曖昧軽薄と、スクープをモノしたいという心理に支配されて動いた川本の幼邪心・・・。が彼をを断罪してこと足るのか? と。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             自身の側に何も無いとき、人は他者を「かたち」の上でだけ受容れてしまふ。実は、自身の側に何かを築き得たとき、受容れ難い論説・行動・対象であっても、その他者を「理解」はできるはずなのだ。その緊張に耐えられないとき、人は「受容れた」「ふり」をしてその場を切り抜けたりする。                                                                                                                                                                                                                        顧みれば、仕事・交友・男女・闘争・…、多くの場面でそうして生きてしまった。                                                                                                                                                                        ぼくならぼくがそう自身に問い返すように迫ることを、自身の「慙愧」の記憶から語ったのだろうこの作品を、ぼくは認めたい。

ラストで、妻夫木聡が演じた川本(作中名:沢田)が、かつて一ヶ月間同道して取材したチンピラに彼が営む焼き鳥屋で再会するシーンがある。「潜入」ルポを書いたのだ。                                                                                                                                                       その取材も、根無し草チンピラを装い、もちろん「当事者」ではなく取材したのだ。妻夫木がチンピラの焼き鳥屋としての実「生活」を前に嗚咽するのだ。一級のシーンだ。 『悪人』から本作への転移、妻夫木は当代若手第一級の役者だと思う。

                                                                                                                                                                        ぼくらは、この先も自身に即した当事者性の中を生き、他者への想像力と共感を維持する「方法論」を通して、事態と歴史に関わろう。                                                                                                                     違う当事者になるという無理を生きることはないのだ。その無理こそが、ぼくらが嫌ったはずの保身に基づく「解かったふり」の連鎖となり、根っからの傍観として成育するのだ。

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