交遊通信録: ぼくにとっての金時鐘ー2

【長くなるが、別の処に書いた、金時鐘に関する拙文から抜粋転載】                                                                                                 (03年4月、清真人主宰:『共同探求通信21号』より)
-(中略)-
『街に万歳(マンセー)!の歓喜の声渦巻く、1945年8月15日・十六才の夏、日本の敗戦と故国の解放を、虚脱の中「皇国少年」の自己解体として迎え、突然「与えられた」祖国にとまどいながらもやがて学生として光州で南労党と出会い、十九才の時殺戮の済州島を脱出、49年6月兵庫県須磨に密航した元・南労党予備党員のあの詩人。「日帝統治」「分断」「在日」の、その幾重もの痛切を一身に刻み込んで「在日」を生きる詩人、金時鐘(キム・シジョン)その人だ。                                                                             「クレメンタインの歌」こそは、母国語を棄てた少年期の彼と朝鮮語とを繋ぐ歌であった。日本敗戦のあと「海行かば」や「児島高徳の歌」を歌っては何日も涙を流したという彼…。やがて、ひとりでに口を衝いて出た歌、かつて父が口ずさんでいた歌によって「かようにも完成をみていた皇国臣民の私が、朝鮮人に立ち返るきっかけを持ったのはたったひと筋の歌からであった」という。
それがこの「クレメンタインの歌」なのだった。                                                                           『ネサランア ネサランア(おお愛よ、愛よ)
ナエサラン クレメンタイン(わがいとしのクレメンタインよ)
ヌルグンエビ ホンジャトゴ(老いた父ひとりにして)
ヨンヨン アジョ カッヌニャ(おまえは本当に去ったのか)』                                                                     『釣り糸を垂れる父の膝で、小さいときから父とともに唄って覚えた朝鮮の歌だった。父も母も、つかえた言葉で、振る舞いで、歌に託した心の声で、私に残す生理の言葉を与えてくれていたのだ。ようやく分かりだした父の悲しみが、溢れるように私を洗って行った。言葉には、抱えたままの伝達があることも、このときようやく知ったのだ。乾上がった土に沁む慈雨のように、言葉は私に朝鮮を蘇らせた。
・・・中略・・・ひとりっ子の安全を、恨み多い日本に託さねばならなかった父の思いこそ、在日する私の祈りの核だ。』                                                                                           『後ほどアメリカの民謡だということを知って、少々がっかりしました』『誰が唄いだして、誰がこの歌詞を書いて私にまで伝わって来た歌なのかはしりませんが・・・』                                                                                                                                       『どうであろうとこれは私の“朝鮮”の歌だ。父が私にくれた歌であり、私が父に返す祈りの歌なのだ。私の歌。私の言葉。この抱えきれない愛憎のリフレイン―――――』(金時鐘「クレメンタインの歌」1979)                                          
                                                                                                             ☆ 日帝支配末期、使ってはならない「朝鮮語」だけの生活を貫き通し、民族服禁止に従わず悠然と町を出歩き、そのくせ「朝日」「毎日」を黙って読み、ぎっしり日本の本のつまっている部屋を持ち、無職の釣り人を通した父。解放されるまでついぞ日本語を使わなかった父。その父が「四・三事件」で彼が追われるようになると、あるだけのコネと、なけなしの財をはたいて日本へ密航させる。「ひとりっ子の安全を、恨み多い日本に託さねばならなかった」父に、金時鐘は当然その後会っていない。永く反共軍事独裁国家であった父の住む地に戻ることは死を意味した。「金大中が大統領になったおかげで数年前、韓国を訪れることができ、親の墓を死後四十年数年ぶりで探すことができた。全くの特別配慮であり、朝鮮籍のままでは来年からは難しいかもしれない。せめて年一回ぐらいの草刈と墓参りは続けたいが・・・」(02対談)                                                                                                                                                 -(中略)-
『在日を射抜く覚悟のないどのような言説も、日本人に届くことはないのだと彼は語る。「正義の渦中に在って、抑圧される者の安逸さをむさぼって来た者の、わたしはひとりなのです」「日本人の非をさらし、日本人の原罪をうちつける側にだけ在日朝鮮人をすえようという思いにかられての認知は、糾されねばならない」』
「『在日』のはざまで」収録の各小論より)                                                                            -(中略)-                                                                                                                             

朝鮮人と日本人の誰もが込み上げるものを押し殺していて、満席の会場は静まり返っていた。後ろの席で年長者がすすりあげている。
金時鐘のひと言ひと言は、人々の、ぼくの、一体何を揺さぶっているのだろう? 何に届いていたのだろう。
ぼくの浅はかな年月が、「闘い」の自称「蹉跌」が、僅かばかりの自負のこころが彼の日本語の、誠実な・か細い・老いた・ハガネのような精神の腕に、わしづかみにされていた。その日本語は、植民地朝鮮で無垢な少年期に彼が無防備に受け入れ進んでそれを用い、原初の思考・心底の自我形成に動員した言葉であり、それはまた、幼い日に奪われ棄てた朝鮮語への、彼の愛と負い目と渇望を逆説的に白状する言葉であり、彼の全身に宿り人生にへばりつきぶらさがる「恨(ハン)」である。
 金時鐘はこう言っている、「わたしの日本語は、私を培ってきた私の日本語への報復でもある」と。

-中略ー                                                                                                 吹田事件の精神を語り、彼の記念講演は後半にさしかかった。粗末なバラック建ての民族学校建設の労苦など、自身の当時の取り組みを語り、話は「吹田・枚方事件」直前の時期に及んでいた。
金時鐘は嗚咽していた。73年の間、この詩人とともに世を生きた肩と背が、小刻みに震えている。ときに言葉を途切らせながら、それでも聴衆に正対して威をただし、語られた中身は「吹田事件」に関わった人々を讃える言葉でも、その闘いの理念を歌い上げる類の言葉でもなかった。語られたのは、生野の在日の街工場の「忘れられない」叫びと視線のことだった。
軍需列車を一時間遅らせば、同胞千人の命が助かる・・・そう言って朝鮮戦争二周年の「吹田闘争」は闘われた訳だが、生野の鉱工業在日街工場はその末端まで「軍需」にさらされていた。泥と悪臭の、汚染された河をさらって得た銅は、街工場に持ち込まれ「銅ざらい」の人々の今日明日の糧となる。銅は加工され[何かの部品]になって行く。加工工場のそうしたささやかな工賃収入は、工場主一家と従業員の生活を支えることになる。工場は小松製作所の孫請けなのだ。日本陸軍の砲弾70%を製造していた枚方工廠あとを払い下げ受けた民間、あの小松製作所だ。小松製作所は朝鮮戦争に使用される爆弾の国内生産の過半を製造していた。街工場で作る[何かの部品]とはネジピンなのだ。後年ヴェトナム戦争でナパーム弾として名を馳せるものの原型たる親子爆弾の、その信管のささえのネジピンであった。
嗚咽を押し殺し、絞り出して語られる、金時鐘の講演は「街工場の忘れられない叫びと視線」について語り始めていた。
街工場へは、まず説得活動を何度か試みる。当然の説得不調のあとに待っているのは、祖国防衛隊による生産手段の破壊だ。破壊されてしまった粗末な機器を背に、彼を見据えていた工場主の視線が「いまも私を見据えている」のだ。
「息もたえだえなモーターにのたうつベルトにさいなまれる真鍮棒の金切り声を押し殺すように、私は最後の説得に牙をむいていた。・・・中略・・・『金がなんだ! 同胞殺戮に手を貸して何のお前が朝鮮人だ!』・・・中略・・・単なる一個の、変哲もないネジであって、それが親子爆弾の、信管のささえとは信じようがなくて、追われるように数をこなして、見つめる者のかすんだ視力に、それは一個のパンである。・・・中略・・・朝鮮戦争は今を盛りの、二周年記念が明日だった。私は首を横に振り、レポは走り去った。間もなく血祭りが始まる。青年行動隊の荒々しい怒りが爆発する。・・・中略・・・老母は『殺せえ!殺せえ!』と叫んだ。放心した彼は、割られたメガネを拾いもせず、『俺はヤメヤ、ヤメヤ、おっかあー! チョウセンやめやああー・・・・・』よたよたと母のへたっている地面にくずおれた。」(「欠落の埴輪」1971
 朝鮮の為の正しかるべき行動が「殺せえ!殺せえ!」にたじろいでいる。朝鮮人の確立への半歩が「チョウセンやめやあー」に足止めを食らっている。だが、目の前では、同胞殺戮を阻止する「正義」が行われているのだ。工場主と母の、その叫び、その視線、その光景がいまも「私をさいなむ」のだ。
 金日成神格化への疑問、政治や組織運営にとどまらず全領域に亘って食い違う「流儀と作法」、日本語詩作をめぐる応酬(金時鐘も梁石日も「母国語を使うべし」とした組織と対立した)等々があり、70年に総連を離れる。
「私をさいなむ」のは、「一時期、北共和国に民族の正義をみた時期があった。その不明」と、しでかした行動の本来の決済元を脱藩したこととが重なって迫って来るからだ。繰返し襲って来る、かの行動を「さいなむ」精神は、云わば宙ぶらりんのまま、自身に戻ってくる。金時鐘はしかし、講演のメインに「吹田・枚方」の決意や熱情ではなくこの話を据え、寒風吹きすさぶ「崖」の途中におのれをさらして立ちつくす。そこが「在日を生きる」孤高の詩人のハガネの精神の「在処」ゆえに。

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『・・・詩は好もうと好むまいと現実認識における革命なのです。・・・見過ごされ、打ち過ごされてることに目がいき、馴れ合っていることが気になってならない人。私にはそのような人が詩人なのですが、その詩人が満遍なく点在している国、路地の長屋や、村里や、学校や職場に、それとなく点在している国こそ、私には一番美しい国です。』
(06年12月、朝日新聞。安倍の「美しい国」発言に抗して)                       

                                                                                                            

                                              

                                                                     

                                                 

                                                        左: 9月4日、懇親会で中年婦人(オッと、これはわが女房では?)から著書にサインをねだられ、丁寧にも言葉を添える金時鐘氏。                                                                                       中: 同日、三次会で・・・。ユーモアを交え若い人を励ます金時鐘氏。                                                                         右: 07年2月、拙作『祭りの海峡』出版時の集いで・・・。 因縁浅からぬ大阪城(梁石日著『夜を賭けて』参照)を背にし、つい感極まる金時鐘氏。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

                              

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