品川塾誇大史: 「日出処の天子」は観世音寺の鐘声を聴いたか? ②/3

<『都督府』遥かなり> 

 都督は各小国に一人、都督府は一ヶ所。 (古田武彦説を基礎に)

中国「冊封制度」(コスト高の進駐しての直接完全統治ではなく、朝貢し恭順の意を示せば、その地の覇者を大中国の役職者に仕立て、属国として大中国の末席と見なす。小国の覇者の側も地域支配権を保障されるメリットを求めた。倭人伝登場の「邪馬壱国」女王卑弥呼の朝貢もこの制度下の事跡。)に基づき、倭国の王は外交を進めて来た。「倭の五王」の時代には、その役職名は「都督」であり、上表文はまず「使持節都督**倭王*」と名乗り、次いで本文に入って行く。「都督」は東アジアに広く知られる有名な語であった。常識か。                                                                                  宋:順帝へ出された有名な「倭王武」の上表文(478)は、高句麗非道を訴え高句麗侵攻のお墨付きを求めることが主眼なので、同盟国「百済」、敵対「新羅」を我が支配下と書き「渡りて海北を平らぐること九十五国」といささか背伸びしているが、半島南部の覇権空白を言いたかったのだろう(全くの絵空事というわけではない)。だが、やはり常套肩書「・・・都督・・・倭王」を自称して、次いで言う。                                                『自昔祖禰躬[*環]甲冑 跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國』                                                                                           「昔より祖先自ら甲冑をつらぬきて、山川を跋渉し寧處にいとまあらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十五国、渡りて海北を平らぐること九十五国」                                                                              これは、三つの側面から「倭の五王」が決してヤマトの王ではないことの証明でもある。                                                                                                           1.                                                                                                                                                  中国天子の歴史認識・倭の所在地理解と矛盾しないこと。歴代中国王朝の「倭」認識の延長上で把握されている事実。つまり「楽浪海中倭人あり」(漢書地理志)、 「建武中元二年(57年)、倭奴国 奉貢朝賀す。使人自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす」(後漢書倭伝)【「倭」の極南界との表記。注目】、 「魏志倭人伝」等々の、あの、「倭人」「倭奴(イド)国」「邪馬壱国」の国であるとの双方の共通認識を前提として成立した上表文である。 「都督」は大中国の一地域統治者の一役職との大義名分であるから、任命者がその居所を知らぬでは、制度の根幹が揺らぐ。中国天子は、当然倭都=都督府の所在地を知っていた。                                                                                                                2.                                                                                                                                                           天智紀に、他所にもあるかのごとく「筑紫の都督府」とあり、「都督」は市民権を得た語と言うか、注釈なく通る語だった。かつ、大宰府以外を都督府として指すことは無い。現代で言えば「首相官邸」を「東京の首相官邸」と言うがごとき表現だ。「大阪の首相官邸」など無いのだから。言いたいのは、ヤマトも「九州に都督府あり」「都督府は一ヶ所」と知っていた、という蓋然性。                                                                                                             3.                                                                                                                                     何よりも、倭王武が示す自国の自称拡張史だ。この地理観、自身の場と列島・半島との位置取りは、ヤマトではあり得ない。北へ海を渡るって、海は遠いぞ、どうしろと言うのか? 

その「倭の五王」の直接の系統か別系統かは別にして、「倭王武の上表文」から約半世紀後の530年前後(531らしい)には倭王磐井(倭武など倭王の名から類推するに「倭・ワイ」ではないか)への近畿王権オヲド(継体天皇)の反乱(*1)があり、約130年後の607年には、倭王=「日出処の天子」=多利思北孤=タリシホコは、隋の煬帝に『日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや云々』で有名な国書を送る。                                                                     学校では何故か上記迄しか教えないのだが、その後段には『阿蘇山あり、その石故なくして火起こり』と自慢げに書かれている。阿蘇山を特筆する者の心情・自国把握・地理観や如何?(*2)                                                                             もはや、疑いようもない。九州、大宰府こそは、「倭国」の都、都督府、「遠之朝廷」だ。                                                              海峡人・倭人・伽耶人 が福岡県前原:日向峠近くのクシフル岳下の平野部(前原市:吉武高木遺跡、糸島郡:三雲遺跡、春日市:玖珠岡本遺跡。九州北部の出土物は、紀元前一世紀ころにガラリと一変する。金属器・金属祭器武器・鏡の多出土)に「降臨」し、やがて「邪馬壱国」を経て大宰府に倭国を建設した。その流れは、系統の連続性は別にして、5世紀「倭の五王」、6世紀「磐井」、7世紀「多利思北孤」へと継がれた。

その「倭国」の崩壊と近畿天皇家の列島覇権掌握に至るドラマは、「白村江の戦663」の大敗北が因である。                                                                                                                 当時の「倭国」がその攻撃性・拡張性ゆえに持っていたに違いない、重防衛の都市建設はどうだったのか?                                                                                                   御笠山(現:宝満山)を水源とする御笠川は、大宰府の平地を流れ、東:「大野城」の麓と、西:春日の丘陵に挟まれた狭い地峡を抜けて博多湾へ向かう。この地峡の、大宰府市と大野城市が交雑する市街地を、旧国鉄・国道3号線・西鉄・九州自動車道などが南北に走り抜けている。それらを横断して堤(土塁)が東西に伸びている。21世紀筑紫大宰府に姿を留める堤(土塁)の、巾80M・高さ10M・地峡の端から端までの延長1.2キロの偉容は、今日でもハッキリと確認できる。(次頁写真参照)  『水城(みずき)』だ。                                                                                                                                                                                「水城」は、664年、前年663年8月「白村江の戦」敗北から、唐・新羅の追撃に備え、中大兄皇子が指揮して百済からの亡命技術者の支援で造営したことになっている。近畿天皇家の皇位継承者(この時点は斉明崩御661の後の混乱?で即位せず)が、近江大津に遷都して即位(667)するまでの間に行なった事績ということになっている。                                                                                                                                          ヤマトの都は、近江への遷都前は「飛鳥」だが、次期天皇が己が都ではなく「都ではない一地方都市」防衛の土木事業に邁進…?。                                                                         列島の覇者なら地元九州に命じなさいよ。あるいは、己が都の防衛策を講じなさいや。逆に「倭都」の主に命じられたのなら分かる。                                                                                                               元々、倭の要請で出陣し 永く筑紫:朝倉に陣し、斉明崩御での「喪」を理由についに半島へは行かなかったのだから…。                                                                              一方「倭国」は、戦場で倭王=薩夜麻=サチヤマを奪われ(唐の捕虜となる)、多数の死者を出し、大混乱だっただろう。671年には、唐から数千人の使節団(?)が来倭。敗戦処理の交渉などでの苦い時間だったか。文字通り「国敗れて山河あり」の有り様ではなかったか・・・?                                                                               天智亡き(672)後、どういう勢力と勢力の攻防だったかは百説あるが、天智の皇子:大友皇子勢と、アマの音を持つ大海人皇子勢の「内乱」=「壬申の乱672」が勃発。大海人皇子側の勝利、天武天皇へ。この内乱が親唐又は唐に敵対しない政権の誕生だったとの傍証はある、との説もある。

*********************************************************************************************************************

 *1                                                                                                                           奇妙な即位(仁徳五世の孫、越の豪族、507樟葉で即位、19年間ヤマト入りしないなど)(ヤマトの政治空白・混乱を示していると思うが如何?)をしたオヲド王(継体天皇)は、筑紫の君磐井との戦い(531)を前に、重臣トップの、物部アラカヒに向かって言う。(この戦に勝ったら)「長門より西汝制(と)れ、長門より東朕制らむ」(日本書紀・継体紀)ん? ん?                                                                                          長門(山口県)より西が磐井の支配地域なのは当然だろう。だが、よく読むと「長門より東」(安芸辺りまでだろうか・・・)にも磐井の勢力圏があると告白している。この時期「倭国」は百済と結んで新羅との戦闘状態だったが、その間隙を縫ってヤマトが攻めたようだ。                                                                                                        *2                                                                                              中国には活火山知識無いだろうと知っていた(?)か。どうであれ、ヤマトの王者が阿蘇を誇るのは不自然極まる!                                                                              聖徳太子は天子ではない。彼は女帝:推古の「摂政」である。国書において地位・肩書を偽称・僭称するか?あまりにも不自然だろう!                                                                                     また、「後宮」に女官数百人と自慢しているが、推古女帝に後宮?

-以上06年稿を加筆修正-

Leave a Reply

Search