駄エッセイ・歌遊泳: カルメン・マキは母になったか?

『戦争は知らない』(作詞:寺山修司、作曲:加藤ヒロシ)
 「戦知らずに」「二十歳になって」「嫁いで」『母になるの』と唄った、69年少女は母になったか?
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68年~70年に世に出た歌で一番好きな曲だと言った(いや白状した)ので、
この歌の歴史を調べてみた。
ユー・チューブで坂本スミ子版に辿り着くと、歌の来歴が書いてあった。
『戦争は知らない』 作詞/寺山修司 作曲/加藤ヒロシ 歌/坂本スミ子  東芝音楽工業 
1967年2月発売。何と坂本スミ子が最初なのだ。
1968年フォーク・クルセダーズがカバーしてヒット。
その後、広 川あけみ、シューベルツ、ザ・リガニーズ、で、その後カルメン・マキ版(69年)が出て、
森山 良子など多数のアーティストがカバー。フォークの名曲として今に 歌い継がれる。・・・だとさ。
カルメン・マキ:1951年生れ。68年、たまたま友人と劇団「天井桟敷」の舞台を見に来て感銘を受け、即入団決意。
それまで、今で言う「不登校」に近い状態だった少女の一大決心だったそうだ。その不登校時代に、話を聞き、
親身になって寄り添いケアしたのが「キューポラのある街」の作者:早船ちよだという。
(これは、早船さんに近い筋と親しい人からの情報。まず、間違いない)
69年 『時には母のない子のように』で 歌手デビュー。
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『戦争は知らない』の各版を採録してみる。
 
カルメン・マキ:http://www.youtube.com/watch?v=FpRowO6AVCs&feature=related                                                                                                                                                              本田路津子:http://www.youtube.com/watch?v=F9e74o5clX0&feature=related
 
ここに出たものは、カルメン・マキ以外はアップ・テンポで、カントリー風に流す反戦フォークですか?
カルメン・マキの歌はゆっくりしていて、ナチュラルで透明感(といってもやや陰りのある)に充ちているが、
ナチュラルというのは「普通の子」や「素直な子」の代名詞なのではない。
媚びたところがない姿勢には、逆に大人や世の中との「非和解」の意志が棲んでいそうで、
どこかそっけなく、かといって投げやりではなく、歌詞やメロディにもしがみつきはしない距離を保っている。
これは、もう、あの時代のアレコレ全てを浴びて生きる少女像(寺山主観の)なのだ。
寺山が気も狂わんばかりに執着(いや全く知りませんが)したとしても不思議ではない。
この少女の持つある「価値」と重なる存在との「交信」を乞い願ったたことはあるか?
捉まえた瞬間から消滅に向かうはかないものを追いかけたことがあるか?(ぼくには記憶が**)
カルメン・マキは、『時には母のない子のように』 『山羊にひかれて』、そしてこの『戦争は知らない』までだけは、
寺山のうっとうしい要望=「幻の69年少女像」を演じてくれという要望に、応えてやったのかもしれない・・・。それ、すでに母の片鱗か?
 
だが、思うに、1935年(昭和10年)青森県弘前生れの寺山を支配する、
41年父出征・親戚家・45年青森大空襲・父戦死の公報・敗戦時10歳…という
「寺山の戦争」からの立ち上がりと、中学期には始めていた俳句・青森高校・早稲田・訛り・
競馬・劇団天井桟敷・・・「戦争の過去と未来」への詩的(そう言うしかない)総括を
仮託された69年少女(いかにも荷が重い)が「お嫁」に行き「母になるの」だから、
そのとき少女は少女ではないという自明を、この歌詞は最初から背負わされている。
つまり、歌詞の「思想世界」と歌う少女の「現実世界」が、
いずれ衝突を起こし、歌唱そのものが不可能になる。 短い歌唱可能時間の緊張の上でこそ、
少女であって母でもある「不可能」を抱え、仮装カルメン・マキの歌はどこまでも輝くのだ。
寺山は、「駒場祭」ポスター:[背に代紋]のお兄さんの「とめてくれるなおっかさん」に応答してか、それと対を為すように「おっかさん」予備軍に「母になるの」と宣言させている。母性への依存と回帰(寺山がそうなのかどうかは知らない)かと嘲笑われそうだが、「戦争」の「知らな」さへの、世代を貫通する悲惨への、歴史としての戦争への、その理解に於いて、後のフォークル『戦争を知らない子供たち』(71年、作詞北山修)の軽薄さとは違い、なるほど寺山なのか・・・と思えた。                                                                                                                              寺山修司:『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
(NHK「あの人に会いたい:寺山修司 」 http://www.youtube.com/watch?v=GAfwMovC0_0&feature=related
 戦争期を知らないフォークル世代の「知らない」位置と、同じく「知らない」少女の「物語」に仮託して自らの戦前~戦後を貫く「戦争」を語ろうとした(無理があるが)寺山の「知っている」位置は、実体験の差であるのは当然としても、それ以上に想像力・構想力・思想力の差だ。                 
「平和の歌を口ずさみながら」や「今の私に残っていろのは♪」のところは、当時からムズムズと居心地悪く、厭だった。                                                                                                  ハッキリ言って『戦争を知らない子供たち』は嫌いなのだ。   
 「父」が国家に至る縦・制度・社会的属性を象徴すればこそ、「戦争」で「死んだ」(それを喪った)「悲しい父さん」を「想えば」、あゝ「荒野」に赤い夕日が沈むのです。 で、今寺山の幻想上の少女は「母になるの」です。                                                            
「見ていて下さい」は、「他」から望まれ・指示され・誘導されて在る存在を止め、自らの意志で「自身の姿」を決める存在になるという宣言だと思う。 それを仮に「母」と呼ぶなら、それは非縦・非制度・非属性であり、ここで昔太宰が青年吉本隆明に語ったという「男の本質」=「マザー・シップ」の意味が浮かび上がる。←つぶやき: 太宰と吉本 生涯一度の出逢い その論旨は、吉本自立論の根幹に通底していると思う。
 
ところで、ハーモニカだけのほとんどアカペラ状態の、この歌唱・この質感はどうだ! 
上手い、実に見事だ。そこらのどんな歌手も歌えまへんで・・・。
 
興味ある方は何らかの方法で、その後のカルメン・マキを調査・検索してみて下さい。
70年にロックに転向。マキの歌唱は高く評価され、
伝説の『カルメン・マキ&OZ』(75年)が当時としては異例の10万枚売上達成・・・・・・とある。
ぼくはロックが分からないのだが、寺山的カルメン・マキ像からも、初期ファン層の期待像からも、
離陸して立っていた、当時の「早すぎたロッカー」カルメン・マキに会いたかったなぁ~。
 
『時には母のない子のように』:http://www.youtube.com/watch?v=6C1YIEJYtu4&feature=related
『戦争は知らない』:http://www.youtube.com/watch?v=FpRowO6AVCs&feature=related                                                               Carmen Maki & OZ 『空へ』:http://www.youtube.com/watch?v=d9JyELDnLNk&feature=related
Carmen Maki & OZ 『閉ざされた街』:http://www.youtube.com/watch?v=j7W_zLuoa48&feature=related
Carmen Maki & OZ 『朝の風景』: http://www.youtube.com/watch?v=Nb6ubnH_cMk&feature=related
押し付けられた少女像を自己埋葬して、彼女は「母にな」ったのだ。
なお、彼女には 日本人とアイルランド人とユダヤ人の血が流れているそうです。
      
ライブ活動も健在、ホーム・ページは → http://www.carmenmaki.com/
一月の神宮前ライブ 行こうかな・・・・・・・・・・

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