たそがれ映画談義: 『カナリア』

『カナリア』  2004年、監督:塩田明彦 出演:石田法嗣、谷村美月、西島秀俊
 
カナリアは、ガスに敏感な鳥として有名だ。
上九一色村「第7サティアン」でも、突入する機動隊を先導していた。
そう、これはオーム真理教をモデルにした映画だ。

「教団の崩壊」による「信者の虚脱」という事態から、
「絶対真理を持つと主張する宗派と構成員」
「人間の共同性と全き個人性の相克」といふ永遠の課題が迫り、
物神崇拝へと至る呪縛から主体的に免れることの隘路と困難、
「個人の復権」への苦闘が痛かった。
「皇国少年の自己解体」と、彼らの戦後の自己再生や、
各種「正義」「教義」と宗派(あるいは党的集団)解体(あるいは脱退)後の
座標軸喪失症候群、あるいは総撤退・総封印(一切放棄)の「病」を想った。
人は「帰属」性の中でではなく、それを取っ払った地点の「孤立」の中で、他者に出逢え己にも出逢える。
実は、そこが「共闘」や「連帯」が始まる契機であり原圏なのだ。
                     
       
ぼくはそう思う。永い時間と人並みに痛手を負ってようやくそう考えている。
若い元信者:伊沢(西島秀俊)の、少年:コウイチ(石田法嗣)への問いかけ
『教団もまた我々が生きているこの醜悪な世界の現実そっくりの、もうひとつの現実だった』
『お前は、お前が何者であるのかを、お前自身で決めなくてはならない』は、13歳コウイチにはあまりにも酷で、難しい。・・・痛々しい限りだ。      社会性を抜きには生きられない存在たるぼくら大人が抱える課題なのだから・・・。

逃亡信者として警察に追われるコウイチに、偶然同行することとなった少女:ユキ(谷村美月)の、
「家庭状況」や早くから発揮する「闘う慈愛」(=母性)、逃避行の中で目を見張る変貌を遂げ 
どんどん成長して行くゆく姿に、
かたくなな狂信少年信者主人公:コウイチに「殺人又は自死」を断念させること、
彼を「再生し生きて」ゆかせること、その『偉業』は
この少女(の母性)にして初めて可能だったと思えるのだった

 谷村美月。 2007年『檸檬のころ』では、素晴らしい若手女優さんに成長していた。

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