訃報: 吉本隆明逝く
吉本さんが亡くなった。
吉本さんには、人類が辿り着いた科学(原発を含む)への残念なスタンスを見せ付けられ失望(http://www.yasumaroh.com/?p=12371) したが、氏が切り拓いた思考の構えへの提言の数々・・・その真価は失せはしない。思索する人間・生活する人間・独り起とうとする人間、その思想的拠点を指し示してくれた。 40数年前に著作に出遭って以来、幾多の領域で「追っかけ」をして来た。87歳という。考えてみれば、我々もすぐそこなのだ。 改めてすごい人だと想う。死ぬまでにもう少し理解は進むだろうか・・・。
【毎日新聞転載】
<吉本隆明さん死去>晩年まで独自の思考を重ねる
毎日新聞 3月16日(金)12時28分配信
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書斎で仕事をする吉本隆明さん=東京都文京区で松田嘉徳撮影 |
戦後最大の思想家、吉本隆明さんが亡くなった。晩年まで衰えることなく独自の思考を重ね、筆を執り、日本と世界の状況に鋭いまなざしを向け続けた。思想界の「巨星」にふさわしい87歳での大往生は、「戦後」と呼ばれた時代の完全な終わりを告げるものといえる。【大井浩一】
終戦時、20歳だった吉本さんは文字通り青春を戦争の中で送った「戦中派」だ。自分がかつて皇国青年だったことを、戦後も一貫して公言していた。文学活動は詩作を通じ、生きる意味を徹底して問うところから始まるが、背景には敗戦に伴う深い喪失感と、一転して民主化を掲げた周囲への違和感があった。
「時代のイデオローグ」と見なされるようになったのは、1960年代の学生運動を通じてだった。60年の安保反対闘争では反日共系の全学連主流派と行動をともにした。運動の挫折体験を通じ、「自立」「単独者」と表現される隔絶した思想的立場を固めた。60年代末の大学紛争では、全共闘の学生たちの間で「教祖」的な絶大な影響力を持った。
吉本思想の特徴は、日本のアカデミズムにありがちな西欧からの“借り物”の学問と異なる点にある。そして、常に「現在」の問題を取り上げ続けた。70年代以降、批評の対象は心理学や宗教、古典など幅広い領域へ拡張を続けたが、民衆の立場に寄り添う「大衆の原像」という思考の立脚点は揺るがなかった。
ソ連・東欧崩壊のはるか前に社会主義体制の行き詰まりを喝破する一方、消費中心への資本主義の変質にも早くから注目し、先鋭な分析を加えた。豊かな文学性と生活感情からくみ出された批判の情熱と詩的な論理は、若い世代を含む広範な読者を魅了し続けた。
晩年は糖尿病による視力の衰えに悩まされたが、年に数冊の本を出し続け、思考の健在を示していた。2011年12月には石川啄木没後100年をめぐる毎日新聞の取材に応じたが、その後、体調を崩した。12年1月刊行の「吉本隆明が語る親鸞」が事実上の最後の著作となった。
◇評伝=誠実で穏やか 庶民的な雰囲気
記者が吉本隆明さんに初めて会ったのは1997年。既に70代だったから、晩年と言っていい。以来、2度の聞き書き連載などで度々話を聞いたが、偉そうなところはまるでなく、不思議なくらい肩の凝らない人だった。
語尾に「ぜ」や「さ」が付く東京の下町言葉で、話し出すと止まらなかった。誰が相手でも、誠実で穏やかな熱を帯びた話しぶりは変わらない。初対面の人は決まって「これが、あのヨシモトリュウメイなのか」と驚き、庶民的な雰囲気にひかれた。ある世代の人々にカリスマ的な影響力を持った秘密は人柄にもあったに違いない。
突き放した言い方になるが、世代を超えた「吉本人気」は、意外と自身の提供する話題性にも支えられていたのではないか。新進批評家として戦後論壇に登場した最初、当時はインテリ層の間で権威の高かった日本共産党や、花田清輝らの論客を相手に、舌鋒(ぜっぽう)鋭く論争を挑んだ。60年安保で学生とともに行動し、警官隊に追われ飛び込んだ先が首相官邸で、逮捕されたという話も有名だ。
サブカルチャーの分析を通じ消費社会の意味を論じた80年代には、盟友だった作家の埴谷雄高とも論争した。ブランドファッションを身に着けた吉本さんが女性誌「アンアン」に出たのを、埴谷から「資本主義擁護」と非難されたが、逆に倫理主義的なインテリの視線そのものに批判を加えた。96年には海水浴に訪れた伊豆の海岸でおぼれ、辛うじて一命を取り留めるという事故も報じられた。
熱烈に支持する読者の存在から“吉本教”などとも呼ばれたが、本人は組織の束縛を嫌い、あらゆる権威主義に反骨を通した。安保闘争の敗北後、谷川雁らと同人誌「試行」を刊行し(61~97年。途中から吉本さんが単独で編集)、主要な発表の場としたのもその表れだろう。
2011年の原発事故後も「反原発」批判の持論を変えなかった。「大衆の原像」に寄り添い、独自の道を歩んだ吉本さんの生涯は、独立した知識人の生きざまとして人々の注目を浴び続けるものだった。【大井浩一】
◇吉本隆明さんの主な著作◇
「固有時との対話」(詩集)1952年▽「転位のための十篇」(同)53年▽「マチウ書試論」54年▽「文学者の戦争責任」(武井昭夫と共著)56年▽「高村光太郎」57年▽「転向論」58年▽「芸術的抵抗と挫折」59年▽「擬制の終焉(しゅうえん)」62年▽「丸山眞男論」63年▽「日本のナショナリズム」64年▽「言語にとって美とはなにか」65年▽「自立の思想的拠点」66年▽「共同幻想論」68年▽「心的現象論序説」71年▽「書物の解体学」75年▽「最後の親鸞」76年▽「初期歌謡論」77年▽「戦後詩史論」78年▽「悲劇の解読」79年▽「世界認識の方法」80年▽「空虚としての主題」82年▽「『反核』異論」82年▽「マス・イメージ論」84年▽「重層的な非決定へ」85年▽「記号の森の伝説歌」(詩集)86年▽「宮沢賢治」89年▽「ハイ・イメージ論1・2・3」89、90、94年▽「母型論」95年▽「アフリカ的段階について」98年▽「日本近代文学の名作」2001年▽「夏目漱石を読む」02年▽「現代日本の詩歌」03年▽「吉本隆明全詩集」03年▽「詩学叙説」06年
通信録: 鳩、某歌手
白い鳩、某歌手の肉声
ガラス多数の搬入は、ビルに入居する企業への通勤者の邪魔にならぬよう早朝にするというのが基本だ。千代田区の施工現場、朝7時に搬入開始して、通勤ラッシュ8時半前にもちろん無事終了した。と、元請の担当者がガラス施工を見たくてやって来た。何でも、ガラスを工夫したエントランス・プランがコンペを勝ち抜いた主な要因だそうで、そのちょっと難しい施工を是非とも見たいという訳だ。 施工にかかる前に、荷上げを終えての一服というわけで、屋上の喫煙コーナーでガラス施工職人さんなどと談笑していた。路を挟んだ向かいのビルのベランダに二つの白いものが動く。その元請の担当者が言う。
『品川さん、ほらあそこに・・・。まっ白な鳩ですよ。あれは夫婦でしょうねえ』 『親子かもしれんし、ひょっとしたらフリンかも・・・。』 『何を言ってるんです。鳩は一夫一妻です』 『へえー、そうなんですか』 『鳩は、ピジョンミルクというミルクを分泌して雛を育てるのですが、何と雌だけじゃあなく雄もそのミルクを分泌するんですよ。人間の父たちは乳を出しませんよね。春は一番の繁殖期です。あのカップルのように二羽だけで行動する場合が多いのです』
夜8時までかかってガラスの基本設置を終えた。明日、コーキングをして完成だ。 その帰途、元請会社の担当社員と半蔵門の駅前の居酒屋に立ち寄った。 現場の修正可能な不具合や上出来な箇所を反省会と称して語り合っていると、その若い社員が顎でぼくの後方を指している。後ろの席に誰か居るようだ。 それとなく振り返ると、かの有名歌手(又はそのそっくりさん)が業界人間と話し合っているではないか。しばらくして声を掛けた。 以下は、その有名人(又はそのそっくりさん)の言。 氏名公表と画像公開は、今のところご遠慮願いたいとのことなので、画像は黒ライン入りとします。
『大阪の「維新の会」の言い分はファシズムである』 『国旗国歌への起立斉唱を強制する者に、文化・芸術を語る資格は無い』 『公務員は不足している。都会は知らないが我が故郷ではそうだ。冬に来てみろ』 『我が政治上の盟友S氏は、反****ですよ』
爺バカ通信: 高校受験
高校受験・中学卒業のシーズンだ。
今、中学校の教師をしていて三年生の担任をしている息子は、きっと生徒の受験・進路に悩まされ、特に秋以降は頭を抱えることもあったのではないだろうか?と想う。
十年程前、某大学を出て外食産業に勤務した息子は、店長として転勤を繰り返し四年程勤務した後、中学時代のラグビー部顧問であった恩師の強い勧めもあって、教師を目指して退職した。我が家に一年間居候し、不足する教職単位取得に専念。教員採用試験に臨んだ。 家族からは「ラグビー部の顧問になりたいだけやろう?」などと茶化されたりもしていたが、翌春、無事中学校の国語教師になった。
自身が育った同じ市の公立中学に赴任したが、ラグビー部は無く一から創設。年々力を付け、昨秋は大阪府大会で準決勝に進出、有名私学に当たり予想を覆す善戦(ぼくも観戦した)だったが、惜しくも敗退した。 観戦していた件の恩師や応援の母親たちの話では「主要メンバー数人の怪我欠場さえなければ勝っていた」そうで、実際僅差スコアの実力伯仲のゲームだった。 その有名私学は決勝にも勝って優勝した。
勝敗はともかく、部員たちが流した涙にもらい泣きして、彼の中学時代を思い出しもした。
添付画像は、彼が受験を控えた中学三年生だった20年前の正月、ぼく以上の親バカに違いない、彼の母親が作った年賀状だが、今度は彼が生徒たちに何かを伝えているだろう、と親バカ夫婦は想いたい。 他との比較ではなく、排他的でなく、地位や財にまつわる私欲に基づかない限り、 親バカは伝播していいのだ。
【余談】 どういう訳か、彼の妻が、昨年OLを辞め、某自治体教員採用試験を受け合格、今春には小学校教員新任だそうだ。 このご時世、心配の種は尽きないが、陰ながら精神的応援を送るしかない。
ほろよい通信: 閏(うるう)年、そして『天地明察』
2月29日、『天地明察』を想う
昨日は2月29日。今年は閏年なのだ。
ところが、誰かが勘違いして、我が事務所の白板の業務予定カレンダーが28日までとなっていて、数日前に書き直したところ「一日得したようだ」「損したようだ」と若い者がアーだコーだ・・・・。工程を正確に内外に徹底しなければならない業務の社としては何たるズサン。まぁ、それぞれの現場の工程は各自キチンと掌握しており、白板の間違いは皆が知っていながら放置していた次第。
閏年の仕組みを調べてみた(誰でも知っているらしいが、ぼくはあやふやでした)。http://e-eyenet.ne.jp/amusement/column/200702.html より
『 一年は365日、つまり地球の公転は365日で1周するといわれています。しかし厳密には365.2422日で1周しており、4年でだいたい1日分の余りが発生することになります。
この暦と実際の季節の移り変わりを2月に1日増やして補正しましょうというのが閏年(うるうどし)なのです。 地球の公転が365.25日で1周する場合は、4年に1回366日にすればピッタリなのですが、上述のとおり精確には365.2422日なので、僅かな誤差が生じてしまいます。紀元前45年1月1日からユリウス暦が使われてきた16世紀後半のヨーロッパでは、実際の暦と10日以上のズレが生じていました。 そこで改訂されたのがグレゴリオ暦で、世界各国でも採用されるようになりました。
以下のルールに従い、グレゴリオ暦では400年に(100回でも96回でもなく)97回の閏年が設定されます。
- 西暦が4で割り切れる年は閏年
- 西暦が4で割り切れる年のうち、100で割り切れる年は平年
- 西暦が100で割り切れる年のうち、400で割り切れる年は閏年。つまり、閏年を中止するのを中止するという訳です。
2000年は3番目のルールに当てはまる閏年でしたが、誤って2番目までのルールで閏年を算出して平年としているプログラムがあり、郵便貯金ATMが停止するなど”2000年問題”のひとつの要因にもなりました。 』
『天地明察』の主人公:二世安井算哲(渋川春海)なら、もちろん地球公転時間を承知していた。何せ、次の日食日を江戸「和算」を駆使して解き示そうとしていたのですから。![200907000044[1]](http://www.yasumaroh.com/wp-content/uploads/2012/03/2009070000441.jpg)
『天地明察』(冲方丁 うぶかた とう、 角川書店、¥1,890 ) http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E6%98%8E%E5%AF%9F-%E5%86%B2%E6%96%B9-%E4%B8%81/dp/404874013X
歌「100語検索」35、 <去>
去
「去」は、場所的意味だけを言っているのかもしれない。肉体は去っても、何かは残して行くような、戻ってくるような・・・・・。 だから、「去」の前後に言葉を添えて、「去」のカタチと「去」に至った理由と覚悟を念を押して言ってしまふ。 去り行く・過ぎ去り・置き去り・立ち去り・連れ去り・忘れ去り・・・・、 消え去る、奪い去る、捨て去る、崩れ去る、拭い去る、溶け去る・・・・・。 ところが、そう添えてもなお「去」には、現在への・関係への・他者への・事象への・自己への、限りない愛惜・執着が色濃く漂ふ。 「去」った者・こととの応答は可能なのだ。逢うことはもちろん、手紙・電話・メールさえもが断たれていても、対象の生存が不確かでも、 歌の主人公はその存在へ発信を止めはしないし、その存在からのメッセージを受信し続けている。 そんな彼・彼女を嘲笑う気にはなれない。
『さくら貝の歌』 http://www.youtube.com/watch?v=oq-k9jwfyfk 鮫島有美子 『君恋し』 http://www.youtube.com/watch?v=BAROgRoNIUE フランク永井 『北帰行』 http://www.youtube.com/watch?v=WY45dJ_t9CQ 小林旭 『無情の夢』 http://www.youtube.com/watch?v=poaLmdamE1U 中村美津子 『からたち日記』 http://www.youtube.com/watch?v=CJ_Z5W91fU8 島倉千代子 『早春賦』 http://www.youtube.com/watch?v=MxJ69ZQ3uzA 坂本明佳 『君といつまでも』 http://www.youtube.com/watch?v=g5bknB4PplI 加山雄三 『今はもう秋』 http://www.youtube.com/watch?v=IgGS9OyrQks トワ・エ・モア 『夢去りし街角』 http://www.youtube.com/watch?v=wdGHVH0U_Ek アリス 『贈る言葉』 http://www.youtube.com/watch?v=S0LbBb6ObcA 海援隊 『耳をすましてごらん』 http://www.youtube.com/watch?v=xtEklmV_Sg0 本田路津子 『わかれうた』 http://www.youtube.com/watch?v=HQdBergsNZk&feature=fvst 研ナオコで 『異邦人』 http://www.youtube.com/watch?v=4mkBeoN44Og 久保田早紀(現在某教会の聖歌隊の指導者だそうです) 『さらば青春』 http://www.youtube.com/watch?v=z8ok2RXA_PM&feature=fvst 小椋佳
『愚か者よ』 http://www.youtube.com/watch?v=M9xAimsVYg0 萩原健一 『いい日旅立ち』 http://www.youtube.com/watch?v=kFlpqqA3zEo 山口百恵 『人生を語らず』 http://www.youtube.com/watch?v=rpyFkX01mZI 吉田拓郎
通信録: 孫に教えられ
知育・体育・食育・感育 プラス働育ですね。
当方相も変らぬ高齢者「現場管理」で、周りをヒヤヒヤさせております。 百貨店などでは62歳以上は「実質お断り」の「KY(危険予知)」の項目内で、 その特別講習を潜っての現場管理・・・、実に「迷惑(?)」的存在です。
ところで、 数年前、ある集まりでのメイン発言者の、世に出る前に基礎的な「人間力」教育や基礎的な「労働観」の確立教育が是非とも必要だという論に(それはニートや、労働忌避症候群を巡る研究会だったのですが)、 「労働者の権利意識」(労基法・労組法・団結権など)をどう伝えるのか?・・・とか、「人間力」ってつまりは「奴らへの協調性」のことか?・・・、と会場から質疑がありましたね。 玉子とニワトリのごとく、どちらが先かではなく、共に必要な要素に違いないと思うのです。 「協調性」や「従順」だけを要請し、それを「人間力」(当日語られていた「人間力」は断じてこれではありません。会話力・他者理解力・協働感覚などです)だとする側に対して、働く者の「基礎的」権利意識の確立がまず在るべきだ、その応酬では、それこそハシズムなどにつけ込まれると思います。 結果・目的・成果・役割・何の為という「労働」の社会的側面ではない、「労働」そのものが持つ意味とでもいうべきモノ、かと言って地位・収入・名誉などの俗情と無縁では在り難いいわゆる勤勉・努力・自負心とはまた「別のモノ」である、個人が「働くこと」の中に是非とも確立したいと願う、自己と労働との一体感を希求する人間の本来性を想ったところです。 左翼や労働組合は「世の為人の為」や「清く正しい労働」などを語る癖があるが、その「別のモノ」を軽んじて来た、あるいはその位置づけを怠って来たのではなかったでしょうか? だからハシズムが闊歩したり、攻撃が有効だったりするのだと思います。 「人間力」「人権感覚」・・・、それは共に必要なのことのはずです。
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息子の妻が 孫を「キッザニア甲子園」なる施設に連れて行ったと写真付きで報告をくれました。 幼児に「仕事体験」をさせる施設だそうで、消防士、クロネコヤマトの配送業務、 パイロット、新生児室のナース、新幹線運転手、パン屋さんの職人さんなどを周りの人と工夫して協力して体験するのです(写真添付)。 報酬(施設内有効の金券)もあって、「働くこと」の意味と「共働」を教えています。 「キッザニア」の運営主体(伊藤忠など)の思惑や商魂は別にして(いや別にと言う前に、こうした取組さえもが奴らが先行していると言うべきか?)、なるほどと思いました。 知育・体育・食育・感育があるのなら、働育が要りますよね。 「働」は一人では出来ない。しかも生きていくことの柱だ。
働くことへの立ち位置や距離感がとりわけ団塊世代には希薄で、「食い扶ちを稼ぐこと」程度にして捨て置き、天下国家を大声で論じていたなぁ~、と。何せある種の左翼に於いては、「社会論」よりも「国家論」「権力論」なんですから・・・。 孫が活き活き(母親の職業でもあるからか)ナースごっこしている絵柄に、ハッとあることを教えられたのでした。 上手くまとめられませんが、 小中の公教育には、国や企業からの要請に応える回路からではなく、働く者の側から、「労働」の意味を伝える工夫が是非とも必要なんだと強く想ったところです。 実に遅い気付きではあります。
通信録: 橋下違法アンケート事件 朝日の記事
元弁護士橋下の人権感覚・憲法理解を問う!
『 大阪市の職員アンケート、一時凍結 救済申し立て受け
大阪市が全職員を対象に労働組合や選挙活動への関与を問うアンケートをしている問題で、調査を担当する市特別顧問の野村修也弁護士が17日、市役所で会見し、回収したアンケートの開封や集計作業を一時凍結すると発表した。調査に反発していた職員労働組合からは「凍結は当然。市長は謝罪を」との声が出ている。![OSK201202180005[1]](http://www.yasumaroh.com/wp-content/uploads/2012/02/OSK20120218000511-185x300.jpg)
調査を指示した橋下徹市長は、アンケート実施にあたって職員向けに出した説明文書で、回答を業務命令とし、回答しない職員は処分対象になり得ると通知。これに対し、市労働組合連合会(市労連)は13日、「アンケートは不当労働行為」として大阪府労働委員会に救済を申し立てた。 野村氏は凍結の理由について「法定の手続きが開始された以上、推移を見守るのが穏当」と述べ、作業再開の時期は「未定」とした。 橋下氏は17日、報道陣に対し「何ら問題ないと思っているが、野村氏に判断を委ねている」と述べた。 』
橋下! 君はどんな弁護活動をしてきたのか? 君の人権感覚とは?
通信録: 橋下君の出身組織(日弁連)の見解
大阪市のアンケート調査の中止を求める会長声明
大阪市は、本年2月9日、市職員に対する政治活動・組合活動等についてアンケート実施を各所属長に依頼した。
本アンケートは、組合活動や政治活動に参加した経験があるか、それが自己の意思によるのか、職場で選挙のことが話題になったか否か等について業務命令により実名で回答を求めるとともに、組合活動や政治活動への参加を勧誘した者の氏名について無記名での通報を勧奨している。また、本アンケートは外部の「特別チーム」だけが見るとされているが、アンケート内容により回答者に対し処分を行うとされている以上、結局は市当局がアンケート内容を知ることに変わりはない。
このようなアンケートは、労働基本権を侵害するのみならず、表現の自由や思想良心の自由といった憲法上の重要な権利を侵すものである。
まず、本アンケートが職員に組合活動の参加歴等の回答を求めていることは、労働組合活動を妨害する不当労働行為(支配介入)に該当し、労働者の団結権を侵害するものであり、職員に労働基本権の行使を躊躇させる効果をもたらすことは明らかである。
また、政治活動への参加歴や職場で選挙のことが話題にされることを一律に問題視して回答を求めることは、公務員においても政治活動や政治的意見表明の自由が憲法21条により保障されていることに照らせば、明らかに必要性、相当性を超えた過度な制約である。そもそも地方公務員は、公職選挙法においてその地位を利用した選挙運動が禁止されるほかは、非現業の地方公務員について地方公務員法36条により政党その他の政治団体の結成に関与し役員に就任することなどの限定的な政治的行為が禁止されるにすぎず、その意味でも本アンケートは不当なものである。
ところで、本アンケートには、①任意の調査ではなく市長の業務命令として全職員に真実を正確に回答することを求めること、②正確な回答がなされない場合には処分の対象になること、③自らの違法行為について真実を報告した場合は懲戒処分の標準的な量定を軽減することが、橋下徹市長からのメッセージとして添付されているが、これも大きな問題である。
すなわち、アンケートの該当事項が「違法行為」であるかのごとき前提で、懲戒処分の威迫をもって職員の思想信条に関わる事項の回答を強制することは、いわば職員に対する「踏み絵」であり、憲法19条が保障する思想良心の自由を侵害するものである。![utsunomiya-full[1]](http://www.yasumaroh.com/wp-content/uploads/2012/02/utsunomiya-full1.jpg)
以上のように、本アンケートは当該公務員の憲法上の権利に重大な侵害を与えるものであり、到底容認できない。
当連合会は、大阪市に対し、このような重大な人権侵害を伴うアンケート調査を、直ちに中止することを求めるものである。
2012年(平成24年)2月16日 日本弁護士連合会 会長 宇都宮 健児
通信録: 年寄りの冷や風
寒風の木更津
有名ブランド品がアウトレット価格で購入できるメーカー・ブランド直営のアウトレット・モールが全国各地にある。チェルシージャパンが業界一位、三井不動産が運営する三井アウトレット・パークが二位だそうだ チェルシーの御殿場・りんくう・神戸三田、三井の横浜ベイサイド・幕張・マリンピア神戸などが有名だそうで、甲子園球場の十ン倍の敷地に百数十店を擁し、フードコートや遊戯施設や憩いの庭園を配し、それこそ一日中楽しめる一大ショッピングモールを形成している。ブランド品志向の人々が押し寄せているそうな。
千葉県木更津に4月13日のグランド・オープンを目指して、「三井アウトレットパーク木更津」の工事が急ピッチだ。 その中の一店の内装工事を品川ヤスマロが籍を置く会社が孫請けしている。春先の繁忙期、人員配置の限界から、ヤスマロは本来の管理者が到着するまでの5日間だけ現場管理の「代行」で現場へ向かった。アウトレット・モールを見たことも行ったこともない時代遅れのヤスマロは、その敷地のデカさにビックリ。
普段、街なかの商業施設やオフィスの施工をしている身には巨大な施設の景観は未来都市のように無機質で、やたら広い駐車場スペースは宇宙遊覧旅行の順番待ちに並ぶ空飛ぶ自家用車の待機場所のように見える。 他のアウトレット・モール同様、車での来客が前提で、かなり辺鄙な場所にあって、付近には飲食店はもちろんコンビニもない。おそらく農地だったのだろう・・・。 海から直撃の敷地を吹き抜ける寒風が放つ音は、農地の解体という出来事に象徴される「波」「流れ」に抗しきれないその地の空気の喘ぎ声のように聞こえた。
ヤスマロは近年ますますトイレが近い。頻繁に現場の仮設トイレに向かうにも、ぬかるんだ未舗装のドロ路をグルリと歩くのだが、「どろ路にふみ迷ふ」(西脇順三郎「旅人かへらず」)などとつぶやいて、ギリギリのセーフを繰り返してヘトヘト。 現場管理の諸手続きに慣れない者には結構煩雑(慣れれば簡単なことなんですが)で、初日・二日目と続けてミスをした。提出時刻の勘違いと、作業員(その日は8名)の一人が緊急連絡先を未記入。各工事区画の現場管理者全員が参加する定例会で、お叱りを受けてショボンとしていると、昼食時、この昼食は朝9時半までに申し込み配達されてくる給食屋の弁当なのだが、その昼食時に、大きな声で叱責した当の若い全体管理の「監督」が近寄って来た。 「先ほどは失礼しました。貴方は見かけないから最近入場なさったのでしょうが、何度言っても同じ間違いを繰り返す人が多いんですよ。その人たちへの警鐘を込めて言い易そうな貴方に言わせてもらいました。すみません。」 「いえいえ、当然です。こちらが悪いんです。しかし、ぼくは言い易い顔してます? 逆に言いにくい怖い顔だと言われていますが・・・」
「失礼ですがおいくつですか?」 「実は、現場規定では高齢者でもある**歳です」 「そうですか。私のオヤジよりご年配だ。人生の先輩に失礼しました。貴方のお顔はオヤジに似てるんです」 施工区画へ弁当を抱えて戻る途中、寒風に晒されて目に異物が入ったわけではないのに、込み上げるものを感じて、ヘルメットの庇を下げて顔を人に見られないようにしていた。
5日目に本来の現場管理者と交代したのだが、早朝7時からの朝礼・寒さと広さと安全対策と諸手続などから解放されてホッとする反面、もう少しこの現場に居たい様な奇妙な気分で、東京湾アクアライン高速バスで都内の事務所に戻った。 近未来に、この若い「監督」のような感性、気遣い、働く優しさは通用し続けるだろうか・・・? 近未来をハシズム派に委任してはならない!
異論: 教育の舟は誰が編む
公立小学校選択制・教師相対評価・教育目標知事決定 で教育の舟は編めない
-三浦しをん『舟を編む』を読んでハシズムを想う-
大阪方面の知事いや元知事・現市長が、次期衆院選に向け候補者を大規模に立てると新聞記事にあった。弱点を補うべく都市部・地方でくまなく集票するため、新興ひらかな政党や某宗教政党や某知事と連携して一説では候補者300人以上を擁立するという。
官僚批判を、公務員一般バッシングにスリ代え、選挙民から喝采を浴び、ムダ・非効率・利権だ・時代遅れだと、「公」の事業と要員を攻撃して、つまりは「社会民主主義的・的」要素が多少なりともある施策を葬って、競争と選別を軸とする「選民」による「効率」の行政を打ち立て、統制と新自由主義的競争のハシズム「社会」を作るのだそうだ。 公務員の給与や労働条件を、民間並みにすると言っては、あたかも「公務員が給与面でも労働条件面でも不当に恵まれている」との誤情報を刷り込まれ、「不当に買い叩かれ、不当に労働条件を下げられ、不当に雇用形態を改悪され」続けている選挙民に支持されたのだ。 民は、己に被さる「不当」な、労働・雇用・生活を巡るこの10年の実質低下への異論と抗議を、「公務員叩き」へと誘導する「独善的指導者」に同意したかに見える。
しかし、 ◎ 新市長は、選挙結果を「民意」だと大声で叫んでいるが、誰も個々のイシューについてフリーハンドの委任などしてはいない。官僚批判・ムダ排除・利権排除は当然だが、例えば教員への五段階相対評価と最下級評価(5%)連続二年で解雇などの強権統治はどうだ? どないもならん教師は確かにいるだろう。けれども、評価者(校長や保護者や生徒が想定されている)は、あらかじめ設定された5%を作り出さねばならない。不当だ。しかも教員という勤労者の生殺与奪の権能を、はたして保護者という学校教育現場に不案内この上なく、かつ俗情に塗れた者に委ねてよしとするのか? 私は反対だ。 この「保護者」なる存在のいかがわしさを語る論者に、新市長は「民主主義の否定だ」「民主主義を語りながら、選挙民すなわち市民をバカにしている」とご都合主義民主主義言辞で答えていた。教員によらず「公」的業務・職種に就く者の、カッコつきであれ公共性・中立性・不偏不党性の確保や、質や意欲の確保は、まどろっこしく非効率に見えて可能な限り権力の恣意性や、民の熱狂と俗情に影響されないシステムによってのみその可能性を構想できると思う。それでも可能性であって、もちろん不備満載だ。非効率は、効率が持つ危険性や独断や専横に比べれば、人間社会の歴史に晒された知恵だと私は思っている。この効率万能・まどろっこしさなき制度とは、つまるところ某国の独裁政治制度に行き着く外ないのではないか? 自称『左翼』こそ、今一度「プロレタリア独裁」「正しい党による一党制度」「選挙の否定」「政権から自立した労働運動や市民運動」の意味を噛み締めねばならない。 ◎ 教育目標は知事が決める・・・?。曰く「選挙という民意に晒されない教育委員会など、ノンリスクで無責任。決定権能は選挙の洗礼を受ける者の手にあるべきだ」果たしてそうか?少年の頃、アメリカ西部劇のヒーロー:保安官が選挙によって信任される構図をみて「これはヤバイ」と直感的に思ったものだが、治安を担う者が選挙に晒されて在ることの非中立を思って『OK牧場の決闘』などを相対化して観ることが出来た。選挙という流動的な事態によって「教育目標」や教員の「処遇」が数年でコロコロ変わることの何処が民主的なのか私には理解できない。 知事に権能を・・・はヤバイが、選挙・民意と本気で言うなら(戦後の民主的諸改革によって公選制だった教育委員は、1956年首長による任命制に変えられたのだが) 教育委員そのものを公選制に戻すと主張しなさいよ。それなら分かる。複数委員の合議は一人の首長の独断のような一方的な言い分の支配とはなるまい。 ◎ 公務員は「不当に恵まれている」のか? そもそも人口当たりの公務員の数はどうなのか?(公務員が担う分野に差はあるが)人口千人当たりの公務員数の統計(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5190.html) を観れば欧米に比して日本は韓国などとともに著しく少ないことが明らかだ(約80人対約40人)。この30年、保育・清掃・介護・道路・公園管理・学校給食などを民間委託し続けいわゆる先進国の約半分という状況だ。この上「ムダだ」「効率」云々で給与カット・人員削減と来れば、質の低下・人員の離反・意欲の低下・そして「非効率」の先の「行政機能麻痺」と、残った公務員への超人的労務過多が待っている。 このことには言いたいことがある。「民営化」の野放しが招いた事態は、「非効率是正(?)」への賛辞ではなく、残った人員への更なる「虚像の高給与叩き」と「非効率批判」であったという事実だ。民営化は誰が支えているか? 効率とコスト圧縮目的は、当然ながら請けた民間企業の「無権利労働」「低賃金」「材料変更」「過重労働」によって支えられ、かつその民間企業のパート・派遣によって支えられている。民営化のツケは、民間下請け業者の野放し無権利と公務員自身に跳ね返っている。これ以上の民営化を阻止し、民営化には厳しい条件を義務付けることが肝要だ。 ◎ 小中学校選択制については、選択制を採用した自治体で「元々あった格差を固定拡大した」「元々在る地域偏見は拡大している」「少数の勝組校(人気集中校)と、不人気校を作っただけ」「地域で子供を育てるという地域の教育力(ただでさえ風前の灯火だが)が解体風化する」などと再検討されている。そもそも、なぜそれほど公立校間「競争」を推し進めなければならないのか? 教育が困難なのは、学校だけではない。家庭・地域社会・労働現場・他、いずれも社会の縮図に違いない。とりわけ小中公教育が攻撃されるのは、教育への不満・不安に「これこれが悪いのだ。そこを正せばいいのだ」と「悪者」を作り出し、単純明快な論調で「選挙民」の支持を得る。その支持を持続するためには、不断に「悪者」を作り出し続けねばならない。日教組・評価最下級の教師・非選択校区制・・・次々と悪者を作り出し、声高に喧伝する。競争と言うなら、世界規模学力テストで何年間か首位・高順位を続けるフィンランドの義務教育は、学校選択制だろうか?(当方、高成績至上主義者ではありませんが) 調べてみたいが、公権力の非介入、教科の工夫(社会と理科と算数の同時進行授業とか)、学校への大幅な裁量権付与、教師による教科書選定などなどは記憶している。公立小中校の選択制・競争が学力の一点に於いて成果(?)があるにせよ(ないと思うが)、その競争は学校内競争を生み、ますます物言わぬ教師を作り、教員間競争を生み、「競争に勝ち抜く」少数の子と、圧倒的多数のよき意味での競い合いさえ忌避する子を生むだろう。いいことは何も無い。勝組に留まることだけを家訓にしている新自由主義社会を是認し推し進めたい親子だけが「これはいい」と叫ぶのだろう。学校そのものが、学校間競争に汲々とし、ランクアップを最大課題とするような風土下で、「他者を労わる心」「共働の意味」「選別よりも助け合い」「競争よりも共走」といった民主主義の基本を、子供たちは、どこで学ぶのだろう。学校はそれらの総否定=選択制・選別・競争=の只中にいるのだから。
ハシズム派の人々に、『舟を編む』から一文をお贈りして、今日はここまでにします。 『言葉とは、言葉を扱う辞書とは、個人と権力、内的自由と公的支配の狭間という、常に危うい場所に存在するんですね』 『言葉は、言葉を生み出す心は、権威や権力とはまったく無縁な、自由なものです。自由な航海をするすべてのひとのために編まれた舟』 ところが、『舟を編む』を読んで人に勧めたりしている若者がハシズム支持だったりするから話はややこしい。職探しに汲々としている若者が、「変えてくれそう」「実行力ありそう」「楽して恵まれてる奴(公務員もそうなんだ)の不当な利権を剥してくれそう」とそのハシズム攻撃的言辞に期待したりしている。ハシズム現象の何たるかを掴む「理解力」「読解力」を持つこと、その「人間力」を育むことこそ、教育本来の仕事だ。その回路は競争になどない。そんな意味では、本書は格好の書物だ。
教育の舟は誰が編むのか? 現状がそもそも、教科書検定制度や職員会議からの意思決定機能剥奪、日の丸・君が代の強制、他、文科省+どこかが編んでいる。その強化変更の舟を、選挙に晒されるような、私的な存在に編ませてはならない。